夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

風光る中、ぐうだらな私でも、今年初めての庭の草むしりに挑戦・・。

2012-04-18 08:53:00 | 小庭の情景を眺めながら
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の67歳の身であるが、
この時節は、常緑樹は新芽を伸ばし、落葉樹は芽吹きが終わり、幼葉を広げはじめ、
みずみずしい新緑の情景となっている。
ときおり、微風が吹くと、新緑の葉は揺らいで、心身心地よく、
私は心の中でスキップしながら、付近の遊歩道、公園をほぼ毎日のように歩き廻ったりしている。

我が家の小庭も大きな莟〈つぼみ〉の紫木蓮(し・モクレン)は満開となり、
陽当たりの少ない所にある藪椿(ヤブ・ツバキ)の朱紅色、紅色、濃い紅色の花びらが、
彩(いろど)っている。

私の住む地域は節分を迎えた2月は平年より寒い日が続いた為に、
3月中旬に遅ればせながら白梅、紅梅は満開となる中、純白の日本水仙も咲いたりしていた。
そして茶花のひとつとして愛されている白玉椿(シラタマ・ツバキ)も咲き始め、
私は春到来ねぇ、と喜びをかみしめたりしてきた。

そして5本ばかりのモミジ、花梨(カリン)、無花果(イチジク)などの雑木は芽吹きを迎え、
やがて日増しごとに成長し、幼き葉から葉を広げ、新た若葉となっている。
この間、常緑樹の金木犀(キンモクセイ)の新芽も伸びだし、
垣根がわりのアカネモチは、朱紅色の新芽が勢いよく伸び、
その後は眩(まぱゆ)く朱紅色の若葉に変貌し、彩(いろど)りとなっている。

こうした中、日本水仙は終わりを告げると、黄色と純白のラッパ水仙が咲き、
可憐な純白した花びらの鈴蘭水仙(ススラン・スイセン)が、主庭、玄関庭に数多く咲き始めている。
そして稲穂のような小判草(コバンソウ)が地表から芽をだいして、
日増し毎に成長し、今や20センチばかりとなっている。

このような情景となっているが、黒土には草が所々生え、中には5センチぐらいが伸び、
ぐうだらな私は、眺めてきた。


今朝、まばゆい朝の陽射しを受け、庭の草むしりを日中の10時頃から、
体力の続く限り、挑戦しょうと決意している。

我家は原則として、庭の手入れは私の責務の範疇であり、
ときおり草むしりをしているが、落葉樹が圧倒的に多いので、樹木の剪定(せんてい)は、
春、入梅の合間、初秋、晩秋、年末の近く、樹木の剪定(せんてい)を行っている。

そして年に数回ぐらい家内の支援があるが、
家内は陽焼け、そして夏の時節は蚊(か)が発生するので苦手となり、
年末の近くは年末年始の準備に忙しく、対象外となっているのが実情である。

今朝、朝の6時は8度、昼下がりは19度前後、そして夜の始めの6時は15度前後が予測され、
日中はこの時節に相応しく陽春の快晴と報じられているので、
今後の一週間は晴れマークがなく曇りの日が多くなっている。

私は風光る中、庭の草むしに絶好日と思いながら、
樹木の下に生えている草を抜いたりするので、泥まみれになったり、
或いは陽射しを受けながら、汗まみれになったりして、孤軍奮闘する予定である。

そして私は、時折かぼそい声で
♪菜の花畠(ばたけ)に、入り日薄れ
 見わたす山の端(は)、霞(かすみ)ふかし
 春風そよふく、空を見れば
 夕月(ゆうづき)かかりて、におい淡(あわ)し
【『朧(おぼろ)月夜』 作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一/文部省唱歌 】
唄うと思われる。

この思いは、昨日近くの野川の遊歩道を歩いていた時、
川沿いに菜の花が黄色い帯のように長く続いていた情景に見惚れていたので、
私の心に残影しているので、単細胞の私は唄うと思われる。

そして草をむしりながら、過ぎ去った日々を思い出したりして愛惜を感じたり、
或いはこれからめぐる日々のことに思いめぐらしながら、
働くことなく、のんびりと草むしりをできることは年金生活の特権のひとつかしら、
と思い、定年退職後の日々を過ごしたりしてきた。

ときには、ぐうだな私は汗まみれ、泥まみれとなり、
小奇麗になるかどうかは、私の労働の成果にかかっているよなぁ、と微苦笑したりしている。

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映画『七人の侍』の侍たち、あえて我が身に照らしだせば、年代と共に変貌して・・。

2012-04-17 09:16:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨夜、映画棚から黒澤明監督の『七人の侍』(1954年)のヒデオテープを取り出して、
居間で視聴した。

もとよりこの名作は少なくとも私は30数回は観ているのが、
過ぎ去りし2週間の中で、映画の脚本家の橋本 忍・著の『複眼の映像 私と黒澤明』(文春文庫)、
そして村井淳志・著の『脚本家・橋本 忍の世界』(集英社新書)を再読したりしてきたので、
改めて視聴したのである。

こうしたことを踏まえた上で、脚本の橋本忍、黒澤明、そして小国英雄の3氏に寄る共同脚本で、
改めて構成はもとより、多くのが出演されたセリフのひと言でも無駄はなく、
とぎすまれた展開に改めて感心させられたのである。

この名画は、それぞれの七人の個性があふれたことが魅了される要因であり、
ユル・ブリンナーがこの『七人の侍』に感銘を受け、
やがて脚本を買い取り、製作した『荒野の七人』(1960年)もあることも周知の事実である。

私は観賞し終わった後、七人の侍のそれぞれの私の好みが、
遅ればせながら1964(昭和39)年に初めて映画館の名画座で初めて観た時から、
私の年代と共に変貌していたことに気付かされたのである。

七人の侍のそれぞれの特徴は、
フリー百科事典として名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』の解説文をお借りすると、

《・・
☆島田勘兵衛(志村喬)

そろそろ五拾に手が届く歴戦の武士だが、敗戦ばかりで今は浪人。
白髪が目立つ風貌で若い頃の夢も情熱も枯れかかって、どこかしら静かに生活がしたいと望んでいる。
豪農の子供を盗人から救ったことで利吉達に助けて欲しいと頼まれる。
当初は乗る気にならなかったが、百姓達の苦痛を負け引き受けることを決意する
40騎の野武士と戦うなら少なくとも七人は侍が必要と判断する。
戦略家で冷静なリーダー。
上泉伊勢守信綱がモデルになっている。


☆片山五郎兵衛(稲葉義男)

勘兵衛の右腕的存在。
いつでも静かでおだやかだが、その物柔らかさの下に何か人をなだめるような力がある。
軍学は相当でき経験豊富な浪人。
茫漠たる風貌。
塚原卜伝をモデルにしている


☆七郎次(加東大介)

勘兵衛の最も忠実なる家臣。
何時もその影のように付き添って戦ってきた。勘兵衛いわく「古女房」。
勘兵衛の顔付きだけで、その求むるところを知り、ただちにそれに従って動く。
落ち武者となって竹槍で追われた経験があり その憎しみは強い。
一番大きな特徴は無私という事である。


☆林田平八(千秋実)

苦境の中でも深刻にならない、愛想の良い浪人。 
若く明るく柔軟で生まれつき人懐っこく、その性質が好かれてすくすくと伸びてきた。
ふざけやで、冗談ばかり言っており道化が大好きなように見え、菊千代をよくからかっている。
神経が細かく、全てによく気がついているが リーダーになって何かやるのは不得意である。
武士としての腕は少し心もとない(五郎兵衛は「腕は中の下」と評する)。
「戦に何か高く翻げるものがないと寂しい」とトレードマークとなる旗を作る。


☆久蔵(宮口精二)

修業の旅を続ける凄腕の剣客。無口-傲慢-冷酷、兵法の鬼。
自分自身を、非人間的な戒律で縛っているためストイックである。
世の中で頼りになるのは自分の腕だけだと思っており、
勘兵衛は「己をたたき上げる、ただそれだけに凝り固まった男」と評する。
しかしそれは必死の彼の努力であり、本当は優しい男である。
宮本武蔵がモデルである。


☆岡本勝四郎(木村功)

育ちがいい裕福な郷士の末っ子で半人前の浪人。
浪人になりたいと親に頼んでも許さないので家を飛び出して旅をしている。
勘兵衛の姿にあこがれて付いて行こうとするが勘兵衛に浪人の辛い現実を教えられ一時動揺している。
総てが新しい経験ばかりで総ての事件を若々しい敏感な感情で受け取っている。
勘兵衛達からは「まだ子供だ~」とよく言われている。
森の中で百姓の娘の志乃と出会い互いに惹かれ合う。


☆菊千代(三船敏郎)

勘兵衛の強さに惹かれ勝手についてきた山犬のような男。
長大な刀を肩に担いで浪人のように振舞っているが勘兵衛にすぐに「貴様、侍か?」と元々は武士ではないと見破られる。
酒癖が悪く勘兵衛達の前で酒乱状態になるが平八に見事にハメられてからかわれる。
「菊千代」という名前は勘兵衛に自分が侍だと思われたいがために他人の家系図を勝手に盗んで名乗った名前(すぐにバレる)で、
後に仲間として受け入れられた時にそのまま定着してしまう(本名は不明)。
百姓のことに関して知識が非常に多いが実は元々は百姓の出で、戦災孤児だった。
型破りで特別に血がたぎった熱い男で、百姓と侍を結びつける仲介役。
獰猛な男だが、戦うときは勇敢に戦う。(ただし戦いは喧嘩のように荒々しい)
久蔵をライバル視している。
・・》
注)原文にあえて改行などを多くした。

このように侍の特徴を明記され、それぞれの個性を発露されながら、
奮闘してお互いに補完しあう展開しなっている。


私は遅ればせながら25歳より民間会社に中途入社し、
中小業の為か何か時代に翻弄され苦楽の多いサラリーマン生活を35年間ばかり勤めて、
定年退職をした拙(つたない)い身である。

こうした体験が影響したと思われるが、
若き頃の血気盛んな時は、圧倒的に菊千代(三船敏郎)に魅了されたのである。

もとより島田勘兵衛(志村喬)のような戦略家で冷静なリーダーになれず、
ときおり久蔵(宮口精二)のような存在になりたいと憧(あこが)れたりした。

そして片山五郎兵衛(稲葉義男)のような軍学は相当でき経験豊富な人、
七郎次(加東大介)のように影のように付き添って戦ってきた人には、
私の性格からして遥か遠い存在なのである。
その上、岡本勝四郎(木村功)のような人には、私としては論外であった。

昨今、私の人生のこれまでの歩みは、何かしら林田平八(千秋実)のような存在だったのかしら、
と微苦笑を重ねたりしている。
人それぞれ、ご自分が何よりも愛(いと)しく、私にとっては林田平八(千秋実)は合わせ鏡、
とも思え苦笑したりしている。


尚、この『七人の侍』の出演された中で、七人の侍を除外した時、何よりも魅了されたのは
《意気地が無く、すぐに泣きべそをかく百姓。かなりのドジ。浪人探しに町へ出る。菊千代とは名コンビ》
と称せられた与平(左卜全)の存在である。
左卜全は数多くの映画に好演技をされたお方であるが、この一作でも映画史の残る存在感を示した、
と強く私は感じたりしている。

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コニー・フランシス、洋楽に苦手な私でも、懐かしき我が青春の一時期に秘かに・・。

2012-04-16 10:52:11 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨日の昼下がりのひととき、居間でほんやりとしていたら、
何気なしに1000枚ぐらいあるカセット、CD、DVDの音楽棚に近寄り、
CDの並んだ背文字を見たりし、少しはみ出しているようなブック形式のCD4枚組を取りだした。

コニー・フランシスのアルバムであったが、懐かしいねぇ、と思いながら、
確か聴くのは、定年後は一年に一回ぐらいだょねぇ、
と思いながら、CDラジカセにセットした・・。
そしてコニー・フランシスの唄声と聴くと共に、私が初めて聴いた頃を思い馳せたりした。

私が都心の高校に入学したのは1960〈昭和35〉年の4月であり、
あの当時は小学4年の頃から映画館に独りで観たりした映画少年で、
相変わらず映画を観たりしてきたが、洋画中心になっていた。

そして小・中学生は劣等生だった私が遅ればせながら高校に入学してまもなく、
突然に読書に目覚めた・・。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力であった。

この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読すると同時に、
授業を学ぶ楽しさも初めて体験し、成績も向上した。

こうした中で、音楽も聴き始め、
ポピュラーとして、真っ先に浮かんだのは、コニー・フランシスであった。

私がコニー・フランシスを初めて意識的に聴いたのは、
確か高校2年前後の1962年の頃であったと思う。

ラジオから甘くせつない声がながれてきた。
この頃、実家の居間にはテレビがあったが、自分の個室はラジオぐらいで、
ラジオは殆ど付けっぱなしであった。

中学時代は、テレビでザ・ピーナッツを視聴したりしていたが、
コニー・フランシスの何となく甘くせつなく、色合いのある声が聴こえ、
『マイ・ハピネス』、『カロリーナの月』、『泣かせないでね』等であったと思う。
レコードまでは買えなかったけれど、良くラジオから流れた・・。

その後、『可愛いベイビー』の日本語も流れ、日本の歌手では中尾ミエが歌うようになった。


私が50代になった時、業務の忙しい中、
休日の時、急にコニー・フランシスの唄声が聴きたくなった。

そして私は、CDアルバムを7枚ばかり購入して、聴き入っていた。
その後、たまたま私はあるレコード会社に勤めていたので、
社内の洋楽畑の人から、私がコニー・フランシスのファンであること知り、
セット物のCDを頂いた。

アメリカ市場の流行のブック形式で、豪華な解説書ある直輸入の商品であった。
日本の発売に併せ、豪華な日本語の解説書が加わった、CD4枚組であった。

私はアメリカの本国で曲の編成に興味もあったが、
何よりあの当時のコニー・フランシスはどのように評価を受けていたのか、
と解説書を精読した。

《・・
・・彼女は、ナンシー・シナトラ、ペトゥラ・クラーク、ディォンヌ・ワーウィック、
そしてブレンダ・リーなどといった競合するライバルを遥かにしのぐレコード売上げで、
1960年代最も成功した女性ヴォーカリスト・・
・・》
と綴られていた。

私はコニー・フランシスを聴くたびに、ときには甘くせつなく、色合いのある唄声に魅了されるが、
やはり私の中学、高校時代の想いでも重なるので、
人一倍、その一曲、一曲は心にしみて聴こえてくる・・。
そして、『トゥルー・ラブ』を繰り返して、聴いたりすることもある。


私はアメリカで編成されたコニー・フランシスの4枚組のCD、
全118曲を聴いてたりした後、
私は中学2年頃に『マイ・ハピネス』、そして『カラーに口紅』を確かに聴いていた、
と教えられたりした。

この当時の私としては、《カラーに口紅》という意味合いから連想して、
少年心に、口紅を付ける素敵なお姉さん・・ワンピースを着た人・・
と勝手な思いで想像していた14歳の男の子であった。


コニー・フランシスの『渚のデート』、『大人になりたい』、『ヴァケイション』、
『ボーイ・ハント』等を聴いていると、
まぎれなく、甘くせつない色合いの唄声は、
あの中学校の頃の大衆文化の移り変りの早かった時代である中、
思春期の私は、アメリカの文化の香り、豊かな経済力、と共に夢に酔い、
そしてコニー・フランシスのような素敵なお姉さんにあこがれていた、と思われる。

私はワンピース、ツー・ピースを着た女性に、何かしらときめきを覚える。
そしてスカートのすそ先が少し揺れ、胸元がまぶしく、
中学生の時から、齢ばかり重ねた今でも、このような女性に対しての思いは変わらず、
ときおり私は独り微苦笑をしたりする。

こうしたことの原点は、コニー・フランシスから感じたことが始まりである。


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春爛漫のこの時節、齢ばかり重ねた私でも、生きている歓びを改めて享受し・・。

2012-04-15 13:02:38 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

一昨日の夜9時過ぎに小雨が降りだし、昨日は小雨の降る一日となり、
昼下りも11度前後であったので、花冷えかしら、と思いながら本を読んだりしていた。
そして深夜まで本を読んだりしていたので、今朝も寝坊して7時半過ぎに起床した。

家内は洗濯の合間に朝食の準備を孤軍奮闘をして、
私はぼんやりと洗面した後、まばゆい陽射しを受けながら、雨上がりの主庭の樹木を眺めたりしていた。
そしてテラスに下り立ち、大きな莟〈つぼみ〉から待ち焦(こが)がれたように咲き始めた紫木蓮(し・モクレン)、
或いは陽当たりの少ない所にある藪椿(ヤブ・ツバキ)の朱紅色、紅色、濃い紅色の花びらが、
彩(いろど)っている情景に微笑んだりした。

私の住む地域は節分を迎えた2月は平年より寒い日が続いた為に、
3月中旬に遅ればせながら白梅、紅梅は満開となる中、純白の日本水仙も咲いたりしていた。
そして茶花のひとつとして愛されている白玉椿(シラタマ・ツバキ)も咲き始め、
私は春到来ねぇ、と喜びをかみしめたりしてきた。

そして5本ばかりのモミジ、花梨(カリン)、無花果(イチジク)などの雑木は芽吹きを迎え、
やがて日増しごとに成長し、幼き葉から葉を広げ、新た若葉となっている。
この間、常緑樹の金木犀(キンモクセイ)の新芽も伸びだし、
垣根がわりのアカネモチは、朱紅色の新芽が勢いよく伸び、
その後は眩(まぱゆ)く朱紅色の若葉に変貌し、彩(いろど)りとなっている。

こうした中、日本水仙は終わりを告げると、黄色と純白のラッパ水仙が咲き、
可憐な純白した花びらの鈴蘭水仙(ススラン・スイセン)が、主庭、玄関庭に数多く咲き始めている。
そして稲穂のような小判草(コバンソウ)が地表から芽をだいして、
日増し毎に成長し、今や20センチばかりとなっている。

私は自宅から3分ぐらい歩いた先に野川があるが、
清流の水面(みなも)を眺めたり、この遊歩道や近くの公園を殆ど毎日のように散策したりしてきた。、
コナラ、クヌギ、モミジ、欅(ケヤキ)などの雑木の芽吹きが始まり、
その後の幼い葉が見られる木の芽時(このめどき)の時節の情景に、
齢を重ねる毎に私の心は深まってきている。

そして櫻の樹木は、無念ながら我が家は狭い100坪ばかりの敷地なので植えられず、
やはり付近の公園や野川の遊歩道、そして駅までの旧街道を散策したりして観たりしてきた。

私の住む地域は、染井吉野(ソメイヨシノ)の櫻が最初に咲き始めると、
その後に山櫻(ヤマザクラ)、最後に八重櫻(ヤエザクラ)が咲くのが、平年の慣(なわら)わしである。

こうした中で、三分咲きに心を寄せたりした後、
過ぎし金曜日の6日に、染井吉野(ソメイヨシノ)は満開となったりし、愛(めでた)りしてきた。

そして12日に野川の櫻並木の遊歩道を歩いたりすると、
早くも花びらが散乱して、歩道の脇には絨毯のように花びらが重なっていた。

私は立ち止まり、数多くの櫻花を見たりすると大半は小枝に残っているが、
ときおり微風が吹くと、花びらが小枝から離れ、青い空の中をさまようように舞いながら、
やがて地上に落下している。
古来より、櫻の散りはじめ、花びらが舞いながら散る情景を花衣(はなごろも)と称してきたことに、
思いを重ねたりした・・。

私は櫻花に関しては、3分咲きに魅了されるひとりであるが、
やはり花びらが散りはじめ、空中にゆったりと舞いながら散る光景に美を感じてきた。

このような情景に私は見惚(みと)れてたりしていたが、
遥か1000年前の人たちも、私のように感じる人が多いかしら、と思わず微笑んだりしてしまった。

私は櫻花を観る時、齢ばかり重ねた身であるが、
今年も余生の中で、天上の神々の采配で生かしてもらっている、と思いが強く、
毎年、花衣(はなごろも)の情景を眺めていると、過ぎし日々に愛惜を重ねたりしている。

このように思ったりした後、野川の水の流れを見たりした。
川面は陽春の陽射しを受け、光を帯びながら清き流れとなっていた・・。
そして川辺に枯れた薄(すすき)の群生に、櫻花が重なっていて、
やがて水の流れに巻き込まれ、花筏(はないかだ)のように下流に向かい、ゆっくと流れていた。

この後、私は野川の歩道を離れ、小路を歩くと、
ある旧家の農家だった家の敷地の中、
青空の中に聳(そび)えるように淡き色合いの大きな山櫻(ヤマザクラ)に出あったりした。
そして、このようなところに山櫻があったことは知らなかったよ、と思いながら私は足を止めた。

私は若き34歳の時、次兄が突然に自裁されたので、
私はこの山櫻に心を託して、山櫻の咲く時になると、次兄の言葉、しぐさを思い浮かべたりし、
何かとお世話になった次兄を思い馳せたりし、30数年過ぎている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、その後は年金生活をしている身である。
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている拙(つたな)いひとりである。

春爛漫の時節を迎えた今、齢ばかり重ねた私でも、生きている歓びを改めて享受している。
主庭は陽春の昼の陽射しを受けながら、まばゆい新芽、若葉を眺めたりし、
ときおり微風が吹く中、小判草や鈴蘭水仙の花先きは揺れたりする情景を、
私はぼんやりと見ながら綴っている。


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人は誰しも理想的な睡眠を求めても、現役の働いている時代は叶えられることなく・・。

2012-04-14 14:08:39 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨夜、いつものように本を読んでいたら深夜の1時半過ぎとなり、寝付いたのは2時過ぎと思われ、
今朝、目覚めたのは7時半過ぎであった。

『意気を抜いて眠ったら・・この時間になってしまったょ・・』
と私はいつもの日の出の起床時間から大幅に寝坊したので、
照れ笑いをしながら、家内に言ったりしていた。

しばらくした後、私は玄関の軒下で煙草を喫ながら、
昨夜の9時過ぎから小雨が降り続く玄関庭の樹木を眺めたりした。
そして数多くの雑木は、芽吹きが終えて幼い葉を広げ始めている情景に見惚(みと)れたりした。

そして花冷えのような気温なので、昼下がりのひととき、
寝室で布団にもぐり、少し読書をしながら、寝付くのも良いかしら、
と寝不足気味の私は思ったりした。

この後、私は過ぎ去った現役時代の何かと睡眠不足だった時のことを思い返したりした・・。


東京オリンピックが開催された頃、私はアルバイトをしながら映画青年の真似事をしていて、
小林正樹・監督の『人間の條件(全六部作)』は9時間半の大作であり、
池袋にあった人世座という映画館で、この当時に確か土曜日の夜にオールナイトで上映されたりしていた。
私は見逃した作品であったので、一週間ごとに二回ばかり観賞したので、
徹夜明けの池袋の朝、小林正樹監督の執念は凄かった、感動しながら駅に向ったりした。

その後、文學青年の真似事をしていた時代、
新聞の人事募集を見て、ある警備会社に契約社員として採用されたのは、
1968(昭和43)年の初春であった。

この警備会社の派遣先は、新宿から10分たらず駅に隣接した大きなショピング・センターであった。
私の勤務体制は朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そしてショピング・センターの営業時間は、朝の10時に開店し、
夜の8時に閉店し、夜間に一時間毎に視(み)まわり時間の責務で、
もとより仮眠の時間はなかった。

難点としては、2人の交代制なので、私が朝の9時に警備室に入室し、
相手方と1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

しかしながら、私の相手方が宗教関係で一日だけ休日を取得され時、
私は徹夜明けでも勤務続行となり、さすがにショピング・センターの営業時間中、
警備室で待機している時、コックリと居眠りをし、48時間勤務に耐えた辛い思いで過ごしたりした。


その後は、文學青年の真似事もあえなく敗退し、
やむなく将来設計も可能なサラリーマンに転身するために、コンピュータの専門学校に1年ばかり学んだ後、
何とか民間会社に中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。

まもなく音楽業界のあるレコード会社が新設されて、
私は転属辞令を受けて、この会社の情報畑に20年ぐらい職務としていた。
そしてシステムの改定に伴い、開発・運用などに携わる業務であったので、
徹夜などは少なくとも百日ぐらいはしたと思う。

会社の勤務時間は朝の9時半に始業し、夜の6時が終業となっていたが、
システムの改定後の半年過ぎれば部分改定などがあり、定例時間内で退社できたのは、
殆どなかったのである。

徹夜となれば、朝の9時半に始業時に出社し、夜を徹して、翌日の昼下がりに退社していたので、
30時間ぐらいの勤務となり、若さと気力で業務に従事できたが、
さすが40代の半(なか)ばとなった頃は、
『中年のおじさんに・・体力テストは勘弁してほしい・・』
と非常階段の踊り場で六本木の朝焼けの前の情景を眺め、
煙草を喫いながら呟(つぶや)いたりしていた。

このように新婚の特別休暇、夏季休暇、年末年始も会社の規定通りの期間に休めたことはなく、
いつも数日は欠けたが、システムの安定した間に代休が取得できた時は、
家内と小旅行をしたりしていた。

その後、経理畑、営業畑に異動した時、大幅な業務改定時期を除けば、
初めて規定の業務時間が大半となり、ときおり夜の9時過ぎとなったりした。

そして55歳の直前に業界はリストラ烈風となり、私も出向となり、
少し遠い物流会社に勤務し、
朝は4時45分に起床して、帰宅は早くても夜の9時以降であったので、
当然ながら睡眠時間は削り、日曜日の午後に昼寝をして何とか保っていた。

このような私のサラリーマンの35年を振り返ると、
数多くの方と同様に多忙で合ったので、
睡眠時間を削り勤務していたことが圧倒的に多かったのである。

私の現役時代の理想としては、朝9時半に出社し、退社が夜の7時前後で、
帰宅するのは8時前後であったが、
もとより叶えられるのは少なかったのである。


2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
年金生活に入った私は、夜の10時に布団にもぐり本を読みながら寝つき、
起床は日の出と共に起きだし、昼下がりのひとときに昼寝をするのが理想であるが、
8年生となった現実は、週一度ぐらいは昼寝を体験し、
天上の神々からの何よりの贈り物として、甘受している。

ときおり私は、睡眠に関して妄想することがある。
睡眠時間の代わりに何かの錠剤を飲めば、
あたかも充分に睡眠できたように満足できる新薬を考案された人は、
ノーベル賞は3つぐらいは確実に受賞されると思ったりする。

しかし、夜のひととき、布団の中にもぐり、ほっとひと息つき、安らぎを得ながら寝付く、
そして目覚めた時、ぼんやりとぬくもりの感触を味わえるひととき、
こればかりは貧富にかかわらず、何事にも変えがたいと思ったりしている。

余談であるが、ナポレオンが睡眠時間は3時間あれば充分、と伝説があるが、
多くのヨーロッパの主要国、そして周辺の人々への虚勢と思い、
私は秘かに日中のひとときは昼寝をしていた、と確信を深めたりしている。

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サライの大特集『日本の作家 百年の歩み』、読書好きな私は悦び勇(いさ)んで・・。

2012-04-13 18:31:24 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の67歳の身であるが、
ここ20数年、女優だった高峰秀子さんの数多くの随筆の本を読んだりしてきた。

そして一昨年の年末に高峰秀子さんの死去を知り、私も落胆したひとりであり、
もとより天上の花のひとつとなった高峰秀子さんにお逢いできるひとがないので、
せめて私は高峰秀子さんが上梓された数多くの随筆を読んだり、再読したり、
或いは出演された名画を自宅の居間でVT、DVDで鑑賞したりして、愛惜を重ねたりしている。

昨今、《 高峰秀子没後一年 おしどり夫婦の名シリーズ 》として中公文庫より、
三部作が復刊された。

私は見逃していた作品なので、
第一弾の高峰秀子・松山善三 共著『旅は道づれ アロハ・ハワイ』を読み、
そして第三弾の高峰秀子・松山善三 共著『旅は道づれ ツタンカーメン』を読んだりしたが、
第二弾の高峰秀子・松山善三 共著『旅は道づれ ガンダーラ』に遅ればせながら気づき、
本屋で、母を訪ねて三千里のように探し求めても、無念ながら品切れであった。

もとよりネットでアマゾンなどに注文し、入手するのは簡単であるが、
これでは益々街から本屋が消えてしまうと思い、
齢ばかり重ねた私でも、本屋は街の文化のひとつである、と確信しているので、
待ち焦(こが)がれ、どうして欲しい本がないの、と思ったりしていた。

そして私は、出版社か出版卸社の基で、今日あたり書店に置かれるかしら、
と思いながら、京王線の仙川駅前の本屋に徒歩15分ばかり歩いて出かけた。

そして駅ビル内にある本屋のチェーン店の『啓文堂書店』の仙川店には無く、
私は落胆をしたりした後、
もう一軒の商店街にある本屋のチェーン店の『書原』の仙川店を思い浮かべた。

この『書原』は、つつじが丘店もあり、私は愛用している一軒であるが、
文藝関係の本が独創的に配列され、私が店員さんに問い合わせをした時、
今時めずらしい有識のある方で、私は感銘さえ感じたりした店であった。

過日、幾たびか私は、『書原』の仙川店も利用し、
独創的に配列、そして昨今めずらしい有識のある店員さんもいるので、
利用してきた一軒である。

そして私は『書原』の仙川店に入店し、文庫本の数多くの配列の中、
中公文庫の列で高峰秀子・松山善三 共著『旅は道づれ ガンダーラ』を探したが、
やはり品切れのようだった。
店員さんに訊ねると、ございますよ、と私は言われた。

本屋の中央部の一角に、何かしら高峰秀子さんに関する本が並び、
その片隅に文庫本が積み上げられ、この『旅は道づれ』の三部作品があった。
私はこの中の一冊『旅は道づれ ガンダーラ』を店員さんより、手渡しされた。

この後、この文庫本の横に作家・斎藤明美さんの著作『高峰秀子の捨てられない荷物』が置かれていたので、
買い求めることにした。

確か8年前頃に、作家・斎藤明美さんの著作『高峰秀子の捨てられない荷物』(文春文庫)を読み、
感銘したりし、その後は松山善三、高峰秀子ご夫妻の養女になられたと知り、
最近の私は、高峰秀子さんに関する本を再読したり、未読の本を買い求めたりしてきた。
そして改めて、斎藤明美・著作の『高峰秀子の捨てられない荷物』の本を再読したいと思い、
自宅の本棚を探したりしたのである・・。

私の本の整理の悪さか、一時間ぐらい探しても見つからなく、
もしかして、あの大幅に本の整理をした時に、捨ててしまったのかしら、と思いめぐらしたりし、
無念ながら探して見つけることが出来なく、
やむなく過日、新潮文庫より発売された文庫本を買い求めようか、と思っていた本であった。

そして私はこの上の単行本の本棚を見ると、
作家・斎藤明美さんの著作『最後の日本人』(清流出版社)があり、
読んで見たい本のひとつであったので、買い求めることにした。


そして私は単行本一冊、文庫本2冊に大いに心を充たされながら、
レジで精算している時であった。
何気なしに店の入り口に近い雑誌コーナーで、
《 日本の作家 百年の歩み 》と大きく明記された雑誌に見惚れて、
思わず近くに寄り、手に取った。

大人の生活誌して名高い月刊誌の『サライ』の5月号で、
大特集として《 日本の作家 百年の歩み 》であり、
私は瞬時に魅了されて、読んで見たい、と悦び勇(いさ)んで帰宅後買い求めることにした。

そして何故かしら、昨今の女性専門月刊誌のように、
この『サライ』の縦横に紐が結ばれて、盛り上がるようになり、
何かしら小さな玉手箱のような縦長の箱があった。

もとより私は大特集の《 日本の作家 百年の歩み 》をどうてもよい、
と思いながら、『サライ』の5月号を追加購入とした。


私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりし、
こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。
確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、三回ばかり敗退し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970(昭和45)年の春であった。

その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、
浅田次郎の各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

そして2004(平成16)年の秋に35年近く勤務し定年退職した後、
塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、各氏の作品に深く魅了され、
この著作された人たちを主軸に精読している。


このように年金生活の今でも、大半は読書をしたりしているが、
帰宅後、早速この『サライ』の大特集の《 日本の作家 百年の歩み 》を読んだりし、
遥か45年前頃に、愛読した数多くの作家の記事、掲載されて写真などを見つめたりした。

余談であるが、『サライ』に関しては、私の50年代は定期購読してきた雑誌のひとつであり、
定年後は特集に魅了された時は、購読しているので、
今回の特集は、知らなくて、思いがけないプレゼントを頂いた、と私は微笑んでいる。

そして小さな玉手箱のような縦長の箱は、《「SERAI」オリジナル萬年筆》であり、
私は25歳の頃までは万年筆を愛用したので、42年ぶりかしら、と思いながら、
どのような時に使うか、少しばかり戸惑ったりしている。


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櫻花は花衣(はなごろも)となり、そして川面(みなも)は花筏(はないかだ)の情景となり・・。

2012-04-12 16:15:55 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の67歳の身であるが、
午前の10時過ぎに散髪屋(理容店)に行く為に出かけたが、
その前に少し遠回りし、遊歩道を散策した後にしょうと、と思ったりした。

私の住む地域は、過ぎし6日の金曜日から、染井吉野(ソメイヨシノ)の櫻が満開となり、
私は自宅の付近にある野川の遊歩道を幾たびか散策して、櫻花を愛(め)でてきた。

そして染井吉野(ソメイヨシノ)の櫻が最初に咲き始めると、
その後に山櫻(ヤマザクラ)、最後に八重櫻(ヤエザクラ)が咲くのが、平年の慣(なわら)わしである。

昨日、どんよりと小雨まじりの曇り空となり、夜に本降りの雨となったので、
櫻花は散り始めたのかしらと気になり、野川の遊歩道を下流に向かい歩いた・・。

雲ひとつない青空の中、陽春の陽射しを受けながら歩き、
まもなく幾たびも訪れてきた櫻並木が観え、上部はピンク色に染まる情景を観て、
私は微笑みながら足を止めたりした。

平日の為か人影も少なく、そして歩きだすと、ときおり微風が吹き、心地よく感じたりしたが、
早くも遊歩道には花びらが散乱して、歩道の脇には絨毯のように花びらが重なっていた。

私は立ち止まり、数多くの櫻花を見たりすると大半は小枝に残っているが、
ときおり微風が吹くと、花びらが小枝から離れ、青い空の中をさまようように舞いながら、
やがて地上に落下している。
古来より、櫻の散りはじめ、花びらが舞いながら散る情景を花衣(はなごろも)と称してきた・・。

私は櫻花に関しては、3分咲きに魅了されるひとりであるが、
やはり花びらが散りはじめ、空中にゆったりと舞いながら散る光景に美を感じてきた。

このような情景に私は見惚(みと)れてたりしていたが、
遥か1000年前の人たちも、私のように感じる人が多いかしら、と思わず微笑んだりしてしまった。

冬の季節が過ぎて、早春の梅の花、そして桃の花、
やがて春本来の暖かさの中で、待ち焦(こ)がれた櫻花を愛(め)でる。
そして短かき日々の中、櫻花は散り去る・・。

私は櫻花を観る時、齢ばかり重ねた身であるが、
今年も余生の中で、天上の神々の采配で生かしてもらっている、と思いが強く、
毎年、花衣(はなごろも)の情景を眺めていると、過ぎし日々に愛惜を重ねたりしている。

このように思ったりした後、野川の水の流れを見たりした。
川面は陽春の陽射しを受け、光を帯びながら清き流れとなっていた・・。
そして川辺に枯れた薄(すすき)の群生に、櫻花が重なっていて、
やがて水の流れに巻き込まれ、花筏(はないかだ)のように下流に向かい、ゆっくと流れていた。


この後、私は散髪屋(理容店)に行く為に野川の遊歩道を離れ、小路を歩くと、
ある旧家の農家だった家の植木を数多く植えている敷地の中、
青空の中に聳(そび)えるように淡き色合いの大きな山櫻(ヤマザクラ)に出あった。
そして、このようなところに山櫻があったことは知らなかったよ、と思いながら私は足を止めた。

私は現役時代は中小業の民間会社に勤め、
結婚して3年目に生家の近くに一軒家を構えたのは33歳であった。
若気の至りで、家屋の中に茶室などを設けたりしたので、当初の予算以上の経費となり、
我が家としては多大なローン返済の中、専業主婦だった家内はパート、契約社員に働きに出たりし、
私は強力な援軍を受けたりしていた時であった。

私の次兄は自営業し、結婚もしていたが子供に恵まれない時、
資金繰りを苦に、次兄は自宅の布団の中で、毒物を飲み自裁されたのは、
私が34歳の時であった。

私は次兄が突然に自裁し、葬儀を終えた後、
会社から帰宅するたびに、深夜になると、
居間の外れのテラスの前で腰かけて、日本酒の一升瓶を横に置き、茶碗酒を呑みながら、
どうしてそこまで踏み切ったの、と戸惑いながら、ため息をしたりし、
前方のモミジの樹木に問いかけは、涙ぐんだりした・・。

こうした中、私は日曜日の時、近くの公園で偶然に山櫻を観て、次兄の言葉、しぐさを思い浮かべたりし、
この山櫻に心を託したりした。

そして10日ばかり過ぎた頃、私なりに次兄の追い詰められた心情を
遅ればせながら私になりに了解したりした。

このように私にとっては、山櫻の咲く時、何かとお世話になった次兄を思い馳せたりし、
30数年過ぎている。


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だががタケノコ、されど筍(たけのこ)、ささやかな私の筍(たけのこ)の思いは・・。

2012-04-11 14:42:54 | 食べ物、お酒
昨日の朝、NHK総合テレビの『あさイチ』で筍の特集を家内が視聴していて、
たまたま私も少し見たりしました、
私は幼年期は農家の児として育ち、ささやかな筍に関しては思いもあり、
これまで家内には幾たびか筍の話題を話し合ったりしてきた・・。

私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の67歳の身であるが、
日常の私は、殆ど毎日、付近の遊歩道を歩いたりし、周辺の情景を眺め、
季節のうつろいを享受している。

ときおり遠方に散策したりする時、偶然に孟宗竹の竹林に出会った時は、
思わず足を止めて、しばらく眺めたりしている・・。

或いは国内旅行の旅先で、孟宗竹の竹林を観た時も、
私は時間が許す限り、眺めたりしている・・。


私が小学校に入学した1951〈昭和26〉年の春の当時は、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。
そして母屋の周囲には竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには蔵、物置小屋と称した納戸などがある農家であった。

そして竹林は、孟宗竹だけでも2反(600坪)程あり、
4月の終わりの頃になると、筍を殆ど毎日のように、数週間ぐらい青果市場に出荷していた。

秋になると、祖父と父は地表に根が出そうになったのを最低50センチぐらい堀起こし、、
枯れた竹の葉、肥料を施して、地中に埋めた。
次兄と私は、穴が掘られた後に子供心にいたずらをし、父によく怒られた。

春先になると、この竹林に子供が入るのを禁じられた。
地割れと土壌が固くなるので、私たち子供は近寄れなかったのである。

4月の下旬から5月の初め、
柔らかな地表が微(わず)かな地割れを見つけて、筍を掘り出すためであった。
この微かな地割れを専用のスコップで60センチぐらい堀り、やがて大きな筍を掘り出した。
すべて地中で育ち、根元は最低10センチ以上あり、
少しでも地上に芽が出たものは身が固くなるので、商品価値が激減するのである。

地上から5センチ以上芽がだした筍は、皮は黒ずみ、身が固くなるので
子供心でも、カラス、と呼んでいた・・。
このカラスは、値が下がるので、家の人々の食卓にのせられた。
地中にあった良質の筍は、市場に出荷していた。

それから残した筍は、日増しに大きくなり、若い竹となり、
子供心でも著しい成長を眺め、感嘆した心を躍らせていた・・。


夏になると、ひんやりした竹林に入るのが、私は好きだった。
田畑の暑い中、この竹林は涼しく、ときたま風が吹くと、
さわさわとした葉ずれの音を聴き、心地よいひと時を感じたりした。

秋のある日、竹細工の方が買い付けにきたりした。
この当時は、孟宗竹で籠(かご)、笊(ざる)、作物入れ用とかで何処の家も使われていた。
その後、1953〈昭和28)年の春に父は病死し、翌年に祖父も他界した。

私の生家、周辺の農家も、この後に急速に変わり、竹林も無くなった。


この間、私が小学生の頃、付近の崖に面した傾斜地に著名な小説家の邸宅があった。
傾斜には竹林が手入れされていなく密集ばかりし、下方に池があった。

私は小学4年ぐらいの時、級友たちの間で小説家が引っ越してきた、と噂が広がり、
私は独りで下校の時に遠廻りし、この脇道を通った時に、
この小説家が難しい顔して池を見詰めていた。

『あれが小説家かょ・・何か難しい顔しているが・・
竹は生え放題・・孟宗竹のこと・・ぜんぜん解っていないなぁ』
と私は子供心に内心呟(つぶや)いた・・。

後年、高校生になった私は駅前の本屋に行った時、
店内の壁面に色紙と写真が掲げられていた。
そして、さりげなく《武者小路実篤》と明示されていたので、
私はあのお爺さんが・・武者小路実篤かょ、と気づかされたのである。

私が大学入学後、ある体育系の部に所属した時、
同期の方が福井県、福岡県の友がいた。
地上から5cm以上、芽を出し伸びたものは筍じゃない、と言ったりした時、
半信半疑の目付きをされたので、困ったりした。

私の新婚旅行の時、京都市内の外れで、筍の売り場を観た時、
15センチの高さ、根回りが5センチが3月末に売られていた。

私の生家では、少なくとも30センチ、根回りが10センチ以上が基準値であったので、
これが筍かょ、と感じた。

このような思いがあり、地方のお方は理解してくれるかしら、と思い続けていた。

幸いにして、確か2006〈平成16〉年の五月に、
読売新聞に於いて、【彩事記】が随時掲載をされている記事であり、
私の思いに近い記事で、榊原智子・記者が綴られた記事を無断ながら引用させて頂く。

《・・
今春は寒い日が多かったため、タケノコが生えてくるのが、
例年より遅くなった。
一番手の孟宗竹は、関東では4月下旬から頭を出し始め、
首都圏のタケノコ園ではこの連休に、タケノコ狩りのピークを迎えているという。

タケノコの産地といえば鹿児島、京都、静岡などの暖かい地方が知られている。
中でも京都産は軟らかく味のよさで有名だが、
実は東京も、戦前まで京都と並ぶタケノコの産地だった。

とりわけ『目黒のタケノコ』は、知る人ぞ知る名産だった。
目黒区守屋教育会館・郷土資料室によると、
京都では土や肥料をふわりとかけて、軟らかいタケノコを育てるのに対し、
目黒では根っこのあたりまで深く掘り、肥料を加えては固く戻したという。
この作業を数回繰り返す独自の栽培法で、
身が締まり、味のいいタケノコを作っていた。

これが《初物好き》の江戸っ子の間で人気となり、
値段が高騰したため、質素倹約を求めた天保の改革(1841~43年)では、
『早い時期の掘り出しはダメ』と禁制まで敷かれたという。

それほど盛んに栽培されたタケノコだが、
関東大震災の後に郊外に広がった宅地開発や、
高度経済成長期の都市の拡大で、タケノコ畑はじりじりと減少。
(略)
・・》
このように時代の趨勢を綴られていた。


その後、私は2009〈平成21〉年の4月、私たち夫婦は家内の母を誘い、
鹿児島市内と霧島温泉に5泊6日の旅をした時である。

この中で、鹿児島市の郊外にある島津家の別邸で名高い磯庭園と称せられた『仙厳園』に、
私は独りで観て廻ったりした。

この時は、四年前に、家内と団体観光ツアーでこの『仙厳園』と隣接された『尚古集成館』を訪れた時は、
わずか二時間半ばかりで慌(あわ)ただしく拝見した程度であり、
何かと心残りがあったのも本心でもあった。

一時間近く歩き廻り、喉の乾きを覚えたので、
『竹徑亭』に寄り、抹茶を飲みながら、和菓子を頂き、
窓辺からはボタンの花がたわわに咲き、それぞれの色合いに染められ、
この時節を教示してくれた。

この後、中国の江南地方より移植された孟宗竹の竹林を長らく私は見つめていた・・。
そして、この地から孟宗竹は日本各地に広まった、と解説されていた。


ここ30年近く、私が住んでいる近くに生家だった長兄の宅より、
この時節になると毎年頂いている。
長兄の宅の宅地のはずれに、五、六坪の竹林があり、
手入れも昔ほど出来なくなり、地表に出た、カラスを掘り起こしている。

このカラスと称した筍であるが、家内に料理してもらい、
私は3日も続けて食べたりし、家内に飽きられながらも、
幼年期の愛惜感も増して、この世の最上の食べ物のひとつである、と思いを深めながら頂いている。

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4月10日のこの日ばかりは、愚図で年金生活の私でも、大忙しとなり・・。

2012-04-10 15:41:39 | 定年後の思い
私は東京郊外の、調布市に住む年金生活の高齢者3年生の67歳の身であるが、
今朝もまばゆい陽射しに恵まれ、陽春の朝を迎えた。

しかしながら、何かと愚図の私でも、そわそわして落ち着かないのである。

今年より大リーグのレンジャーズに加入したダルビッシュ投手が、
この日の公式戦で初めて登板されると知り、
昨年まで日本ハムで活躍していた雄姿に、スポーツ音痴の私でも、秘かなファンのひとりとして、
本日の9時よりNHKで実況中継で放送されると知ったからである。

私は野球でも殆ど無知である。
恥ずかしながら告白すれば、私は中学校に入学した時、野球部に入部した。
そして総勢35名ぐらいで練習に明け暮れていた。

こうした中でレフト付近に3人で守備位置に付いて、外野フライのノックを受けていたのであるが、
何かしら私だけが打球の行方の判断が、いつも数歩遅いと言われたした。
私は運動神経が鈍(にぶ)く、練習すれば、打球の飛んで来る判断も良くなると、
思っていたのである。
しかし2年生を迎える直前に、私は野球にセンスがないと自覚し、退部した。

その後の私は中学3年の終りの1960(昭和35)年の頃、
私は職員室で担任の先生から呼ばれ、
『XXくん・・あなた眼・・悪いわね・・0.3ですって・・』
と先生は、健康診断書を見ながら、私に言った・・。

『・・どうして・・今まで黙っていたの・・
メガネを掛けないと・・黒板の字も見えないでしょう・・』
と先生は言った。

私は教室の後部に座って、黒板の字もかすれていたが、
皆もこのようにと思い、信じていたのである。
兄ふたり、妹ふたりもメガネをしていないので、それなりに思い込んでいた。

帰宅後、亡き父の妹である叔母に、
『・・今日、先生から言われたのだけれど・・
眼が悪いので・・メガネを掛けなさい・・と言われたの・・』
と私は言った。

母は外に孤軍奮闘で働いていたので、
未婚の叔母に私達の兄妹は、料理、洗濯、掃除などで、甘え、育ってきたりした。

結果として、高校の入学から私は生まれて初めてメガネを掛け、
恥ずかしいなぁ、と思ったりした。

そして生家の宅地の丘の外れから、遠望の丹沢の山並み、富士山を観た時、
くっきりとした景観が観え、行く先々の情景も余りにも明確に見えたので、
私は驚き、世の中こんなにはっきりと見えるだぁ、と溜息をした・・。


その後の私は野球に関しては、プロ野球を後楽園、明治神宮球場で10試合ぐらい、
観戦したりした。
そしてテレビ観戦は、年に多くても10試合ぐらい、少ない時は3試合ぐらい視聴する程度なので、
もとより野球ファンの範疇に入らないが、
昨年まで日本ハムで活躍していたダルビッシュ投手だけは、凄みを感じ、注視したりしていた。

このように野球にも殆ど無知な身ながら、
私はダルビッシュ投手の大リーグで奮戦する勇士を期待しているので、
9時よりNHKで実況中継で放送されるのを待ち焦がれたした。


しかしながら、この時節は櫻花は、私の住む地域は過ぎし6日の金曜日から、櫻が満開となり、
私は自宅の付近にある野川の遊歩道などで、幾たびか散策して櫻花を愛(め)でてきた。
そして天気情報に寄れば、明日より南風に乗って雨が予測されるので、
本日が今年最後の櫻の花見も終りかしら、と思ったりした。

そして私は野球の実況中継が始まる前に、いそいそと朝の陽射しが残る中、
野川の遊歩道を歩き、櫻花を愛(め)たりした。

もとより櫻花が散り頃、微風を受けると空中にさまようように舞う櫻花の情景は、
愛惜感も増し、この世の確かな美麗のひとつとして私は確信を深めたり、
そして川面に花筏(はないかだ)のように櫻花が浮きながら流れる情景も、
私は30数年ばかり心を寄せたりしてきた。

そして夕暮れの前に、散策して夕陽を受けた櫻花を愛(め)でようと思いながら、
私は帰宅した。


9時過ぎより、私はNHKでレンジャーズとマリナーズ戦の実況中継を視聴する前、
ダルビッシュ投手は変化球を多投し、マリナーズ打線を6回まで1点だけで封じ、
このマリナーズの1点は、大リーガーの洗礼を浴びるように被ホームランぐらい、と予測した。

しかしながら現実は、一回に4失点と乱調したダルビッシュ投手に、
どうしたのかしら、と無力な私でも心配したり、
6回途中で降板するまで、8安打、5四死球で5失点となったりしたが、
味方のレンジャーズ打線は私が予測した以上に破壊力があり、
結果として、レンジャーズは11対5でマリナーズに勝利を納め、
ダルビッシュ投手は辛くも初勝利に飾ることができた。

このようなダルビッシュ投手もあるんだ、と私は納得しないままテレビ観戦をした後、
定年後に日常の買い物をしている私は、いそいで着替えてスーパーに向ったりした。

そしてこの日の10日は、総合月刊雑誌の『文藝春秋』の五月号の発売日であるので、
やむなくコンビニに立ち寄り買い求めたりした。
この『文藝春秋』は、1970〈昭和45〉年4月より購読している月刊誌で、
私が社会人の常識を何かと欠けていたので、私の劣等感を克服する為に読んできた雑誌でもある。

もとより月刊誌なので、記事にも賞味期限もあり、
愚図な私でも優先的に読まなければならない、と思ったりしたのである。

そして夕暮れ前に、野川の遊歩道を散策して、
夕陽を受けた櫻花を愛(め)るので、
何かとノロマも私でも、この日ばかりは大忙しかしら、と微苦笑を重ねたりしている。

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櫻花も満開、陽春の中、園児、学童、学生、そして社会人も新たなる時を迎えて・・。

2012-04-09 10:51:51 | 定年後の思い
私は東京郊外の、調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝、まばゆい陽射しを迎え、思わず天気情報を見たりした。

私の住む地域は、過ぎし6日の金曜日から、櫻が満開となり、
私は自宅の付近にある野川の遊歩道を幾たびか散策して、櫻花を愛(め)でてきた。

しかしながら一昨日の7日には、晴れのち曇り空となり、
3月上旬のような温度となり、どうして今頃に一か月前に遡(さかのぼ)るの、
と戸惑ったりした。

このように天候もあったりしたので、地元の天気状況が気になるのである。
朝の6時は3度、その後急速に気温が上がって、昼下りには22度前後、
そして夕方の6時には18度前後が予測され、
今年一番の暖かさを迎えます、と報じていた。

そして私は一年でこの時節は一番過ごしやすく、
昼には長袖スポーツシャツ一枚でも良いかしら、と私は微笑んでしまった。


この後、NHKのニュースを視聴すると、この中のひとつとして、
本日より、学童は新学期を迎えます、と報じていたので、
私は櫻花も満開の中で、暖かな陽気につつまれ、天上の気候の神々も何よりの贈り物をしてくれた、
と微笑んでしまった・・。

新たに幼稚園の入園された園児、小学校に入学したピカピカの一年生、
そして進級をされた学童、生徒たちを思い浮かべたりした。

私の住む徒歩で10分ぐらいの所に、小中学校がそれぞれ2校あり、
都立の高校、音楽専門学校の桐朋学園もあるので、
私は散策していると幾度も下校時の生徒を見かけたりしている。

このような情景を思い馳せれば、特に小学校に入学したピカピカの一年生には、
あどけなさを残し、笑顔でランドセルを背負いながら、友達と談笑して歩く姿に、
私はまぶしく感じたりしてきた。

新たに新社会人となられた方は、入社式も終え、職場の所属も決まり、
歓迎会で上司、先輩にあたたく迎えられ、真摯に職務を始められて緊張している姿に、
私は好感したりしてきた。

そして人事異動で新たに配属となった諸兄諸姉、
不慣れな職場に困惑したり、職務に悩んだりした時、
上司、先輩、同僚のせいにしないで、自分の敵は自分です、と自身を叱咤激励をして欲しい、
このようなことも中小業の民間会社に35年近く勤めた私でも、念願している。


私は定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活をしている身なので、
櫻花の咲く時節は、自宅の小庭は雑木が多く、芽吹き始めて、
早くも幼い葉も見られ、日増しに成長している情景に、魅了されて過ごしたりしてきた。

そして私は近くの公園、野川の遊歩道を散策したりとすると、
雑木の芽吹きが始まり、モミジ、コナラ、クヌギ、欅(ケヤキ)など、
季節のうつろいを観せてくれる雑木に、この時節は『清浄明潔』という言葉を思い重ねたりした・・。


櫻花も満開となり、陽春の中、それぞれ新たなる人生を歩まれる人たちには、
たとえ苦難があっても、七転び八起きのたおやかな心で歩んで欲しい、
と無力な私はぼんやりと思ったりしている。

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角川春樹さんより、切実に豊かな人生を楽しむことが大事、と銘言を学び、つたない私でも・・。

2012-04-08 12:04:53 | 定年後の思い
昨夜、いつものように読売新聞の夕刊を読んでいたら、
13面の左上に『ウイークエンド 文化』で、確か月に2回ほど連載されている【魂の一行詩】を読んだりした。

俳句を詠まれ、投句された方たちの選定、講評を俳人でもある角川春樹(かどかわ・はるき)氏が担当されている。
私は無念ながら俳句、短歌を詠む素養はないが、ときより読むのが好きなひとりでもある。

そして何より魅了されてきたのは、角川春樹氏の序文である。

今回の記事は、二句詠まれた後、いつものように格調高い文章を綴られている。
私は精読した後、しばらく溜息を重ねたりした。

今回に二句詠まれたのは、映画監督の森田芳さん、歌い手のホイットニー・ヒューストンさんに対し、
氏の哀悼を詠(うた)った作品、と氏は明記している。
この後の綴られた文に、私は溜息を重ねたのである。

無断ながら転記させて頂く。
《・・
俳句は、上手(うま)いに越したことはないが、
上手いだけの句など、なにほどでもない。
技術に限界はあるが、生き方に限界はない。

究極のとろこ、人間は人生の途上で死を迎える。
俳句も、人格も、生き方も完結がない。
完結がないならば、より一層、切実に豊かな人生を楽しむことが大事である。
西行も芭蕉も、詩人である前に、人生の達人であった。
・・》
注)原文より、あえて改行を多くした。


私は中小業の民間会社に35年近く勤め、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、その後は年金生活をしている身である。

東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭となっている。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋などで逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、小説、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


私は定年後に年金生活をしたのは、
それまでの半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしたのである。

もとより人は、食事をしたり、寝て安らぎを得たり、性愛をしたりしているが、
こればかりだと動物と一向に変わらないのである。

そして人は誰しも知識欲があり、これを失くしたら、
この人生は終わりだ、と私は確信したりしている。

或いは好奇心を失くしたら、この人生は単なる生き長がられているだけで、
もとより生の充実感がない、と思ったりしている。

このような齢ばかり重ねても可愛げのない私は、今回、角川春樹さんより、
《・・切実に豊かな人生を楽しむことが大事・・》、と銘言を学び、
さて、つたない私は・・と考えめぐらしている。

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松山善三さんの思考、そして表現力に私は圧倒され、小説家の達人も動揺される、と深め・・。

2012-04-07 12:18:27 | 読書、小説・随筆
私は音楽業界のあるレコード会社の管理畑など35年近く勤め、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、その後は年金生活をしている身である。

日常の大半は読書をすることが多く、退職後は特に塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、
曽野綾子、阿川弘之、各氏の作品を中核に、単行本、新書本、文庫本を購読している。

こうした中で、女優、その後はエッセイを綴られた高峰秀子さんは、
一昨年の2010〈平成22〉の年末に高峰秀子さんの死去が公表されが、
私も生前の高峰秀子さんのエッセイを買い求めて、殆ど愛読しているひとりである。

私が二十歳の時は、東京オリンピックの開催された1964〈昭和39〉年の秋の時であったが、
大学を中退し、映画の脚本家になりたくて、映画青年の真似事をしていた時期で、
オリンピックには眼中なく、京橋の近代美術館に通っていた。

そして戦前の邦画名作特集が放映されていたので、
数多くの戦前の昭和20年までの名作を観ることが出来た。

この中の作品の中で、山本嘉次郎・監督の『綴方教室』(1938年)、
そして『馬』(1941年)も観て、天才子役、少女と称せられた高峰秀子さんの存在を実感させられた。

私はこの当時の1964年に於いては、
少なくとも木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954年)、
成瀬巳喜男・監督の『浮雲』(1955年)、
木下恵介・監督の『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、
松山善三・監督の『名もなく貧しく美しく』(1961年)等は当然のように鑑賞していた。

そして封切館で松山善三・監督の『われ一粒の麦なれど』(1964年)で観たばかりの年でもあった。

私は女優の高峰秀子さんの存在は、天上の女神のような存在であり、
『二十四の瞳』と『浮雲』がほぼ同時代に演じたこのお方には、ただ群を抜いた女優であった。

子役、少女、そして大人としての女優としての存在は、
私のつたない鑑賞歴に於いて、このお方以外は知らない。

その上、脚本家、ときには監督もされた松山善三さんには、
まぶしいようなあこがれの存在の人であり、秘かに敬意をしていた。

その後の私は映画青年の真似事、やがて文學青年の真似事もあえなく敗退し、
やむなく民間会社に中途入社し、サラリーマンの身となった。

私は松山善三さんと高峰秀子さんのご夫婦に関しては、
もとより知人でもなく、敬愛を重ねてきたひとりである。

たまたま2日前、高峰秀子、松山善三の両氏に寄る共作の『旅は道づれツタンカーメン』(中公文庫)を読み終わり、
私は松山善三さんの思考、そして表現力に私は圧倒され、
数多くの小説家の達人ても動顚される、と確信を深めたりしてきた。

本書は、おしどり夫婦として名高いご夫婦が、
50代の時にエジプトに旅行をされた時の紀行文であるが、
この中に時折、それぞれの人生の思い、ご夫婦の日常の思いを綴られていると思いにながら、
読んだりしてきたが、
松山善三さんの底知れぬ心の深淵までの思考力、そして表現力に私は圧倒され、
今でも虚(うつ)ろな心境である・・。

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれ、数多くの本を読んできたので、50年は過ぎている。

今回、時代を超越した破格な文章を綴られた松山善三さんに、
私は改めて敬意を重ねると同時に、創作者をめざす人には、ぜひ学んで欲しいと思い、
引用させて頂く。

エジプトのアブ・シンベル神殿を観た時の中で、ひとつの思いを発露している。
《・・
ラムセス二世やネフェルタリ王妃を刻んだ名もなき石工たちは、
はじめ鞭や酷使に泣いたかも知れない。
しかし、やがて、彼らは自らが刻んだ美に酔いはじめる。
美は、美を生み、完結を求める。
歓びは深まり、その頂点で信仰と重なる。
その時、彼らが刻むのはラムセスやネフェルタリの像ではなく、
彼らの胸中に、形なくして存在した筈の神々である。
そこに現れた形はラムセス二世でありネフェルタリ王妃であっても、
刻まれたものは「永生」を願い、それを約束してくれる彼らの神々であった。
・・》
注)本書の122ページの一部より引用し、原文をあえて改行を多くした。

この後、しばらくしてアブ・シンベル神殿を観ながら、
新王朝時代に思いを馳せ、ひとつの時代の思いを発露している。
《・・
新王朝時代には、偉人、賢人、英雄が続出する。
ハトシュプストを、世界最古の女王であり、ウーマン・リブのはしりだとすれば、
あとに続くアメノフィス四世、アクナトンは、世界で最初に一神教を信奉した個人であり、
モーゼの一神教にも大きな影響を与えた人物だとも言われる。
アクナトンは、偶像を廃し、太陽神のみをあがめ、無知と迷信と我欲を捨てよと説いた。

アクナトンの説く太陽神は、鷹頭人身の偶像ではなく、姿も形もない。
それは、己れの心の中にあった。
仮に指させば、太陽の光そのものであって、
万物に生命を与える神の「意志」とでも言うべきものだった。

そのような教えが、何千年もの間、偶像を拝んできた人民に受け入れられる筈はなかった。
人民は、形なきものを信じない。
おまけに、社会の中枢にあった祭司たちの反抗にあい、アクナトンの宗教革命は一代で終った。
けれども、彼こそが、人類の歴史で「平等」を説いた最初の男である。

アクナトンの死後、国政も社会も大ゆれに揺れ、
一神教はもとの偶像崇拝へ逆もどりした。
(略)
・・》
注)本書の122、123ページの一部より引用し、原文をあえて改行を多くした。

このように私は圧倒的に感銘させられた代表的な部分を引用させて頂いた。

昨年の12月初旬に、私は久々に『芸術新潮』の12月号を買い求めた。
そして特集記事に《没後一周年特集》として、
《高峰秀子の旅と本棚》と題された記事を私は精読した。

この特集記事のひとつに、養女となられた作家・斎藤明美さんが、
『ハワイの攻守』と題した寄稿文の中で、松山善三さんの写真が掲載されていた。
お齢を召された表情で、私は驚いたりしたが、86歳のご高齢であるので、了解させられた。

この二葉の写真を私は思い浮かべ、今回たまたま引用させて頂いた本書は、
氏が当時50代で綴られ、この引用部分でも数多くの小説家の達人と称される人さえも震撼させられる、
と私は深く思い、改めて松山善三さんに敬意を重ねている。

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つたない私でも熱愛すれば、物狂いのように夢中になり、やがて心酔時期が過ぎれば・・。

2012-04-06 13:25:17 | 定年後の思い
私は民間会社に35年近く勤め、2004(平成16)年の秋に定年退職となり、
その後は年金生活を始め、買物、散策などの時、四季折々のうつろいを享受し、
その時に思ったこと、思索したことなどを心の発露として、
このサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりして過ごしている。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。


本に関しては、小説、随筆、歴史書、現代史が圧倒的に多く、
昨年の東日本大震災後、心変わりとなり5000冊前後あった本を大半処分した結果、
居間と書庫だけ本棚となった今、2000冊ぐらいかしら、と思ったりしている。

映画の場合は、VCT、DVDを専用棚に於いて1000本前後あり、
ときおり選定し、居間で観賞している。

音楽については、たまたま私は音楽業界のあるレコード会社に勤めた影響で、
レコード、カセット、CD、DVDが、過日に処分もしたが、
やはり専用棚として1000枚ぐらい残し、
ステレオセットを定年7年前の頃に処分し、やむなくCDラジカセで聴いたりしている。

幾たびか友人、知人などに上げたりしてきたが、
若き青年時代に映画、文学青年の真似事をした時代もあり、
倹約したり、一食を抜いて購入した本、レコード、そして映画を観たりしたので、
中々捨てきれないのである。
しかし、本と映画は、これからの老後を配慮し、昨年の4月に断腸の思いで処分した。


古ぼけた築後34年の一軒屋で、このような生活をしていると、
ときおり過ぎし日々のことを思い馳せたりすることもある。
そして、誰しも同じような体験があると思われるが、
これまでの人生で、私は熱病のように無我夢中となったりする時があった。

一時的な3ケ月前後で終わることが多いが、
少なくとも1年以上続いたのを振り返った時、私なりに微苦笑したりする。


音楽の場合は、1971(昭和46)年にシャンソンのバルバラに瞬時に魅了され、
その後は金子由香里を盛んに聴いていた。
この当時は、もとよりレコードが主流であったので、
アルバムを買い求めて、擦り切れる程度の少なくとも百回以上聴き惚れていた・・。

1964(平成元)年の少し前の頃には、
シンガー・ソング・ライターの中島みゆきを偶然に聴き、
カセット、CDはもとより、随筆、そして評論集まで購読し、
私の人生のいく度かの苦境の時に、3曲から救われ、今でも私の秘かな女神となっている。

そして1997(平成9)年の頃に、ハードロック・グループの『X JAPAN』をテレビで観て、
この当時52歳の私でも瞬時に魅了され、
帰宅するたびに殆ど毎晩、2時間ぐらい聴きこんだりしていた。


映画に関しては、小学4年生の頃から独りで、
たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年の体験も加わり、
これが原因で、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の直前に、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。
この間、映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、古本屋まで行って買い求めたりし、
一年後には500冊ぐらいなったりした。

そして、脚本家として橋本 忍を神様のように信愛した。
映画監督の場合だとデビット・リーン、セルジオ・レオーネに夢中になったりしていた。
アルバイトをしながら、映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりしていた。
この間、専門養成所に入り、やがて講師の知人から、
映画は衰退するばかりで、同じ創作分野だったら小説を書けば、と強く勧められたりした。


私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりし、
こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。
確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、三回ばかり敗退し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970(昭和45)年の春であった。

その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、
浅田次郎の各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

そして2004(平成16)年の秋に35年近く勤務し定年退職した後、
塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、各氏の作品に深く魅了され、
この著作された人たちを主軸に精読している。


私は幼少の頃から根は単細胞の性格のためか、ともかく惚れこんだら命がけの恋と同様である。
若き頃の私は、失恋も多かったが、ときには相思相愛で無我夢中で、恋い焦がれて時もあった。

私は映画、文學、音楽、そして愛(いと)しき女性にも、
この世の中、あなたしか視(み)えない、というように、
時を忘れ、ときには食事も忘れ、寝る間もほしんで物狂いになったりしてきた。

恥ずかしながら、齢を重ねても私の悪い癖は、ときたま活火山のようになるので、
もとより理性などの平常心は吹き飛んで、心酔を重ねることが多い。

そして、病気は治療すれば殆ど治(なお)るが、癖(くせ)は治ることは少ない、
と格言があるが、ときおり私は理性のある人にいつになったらなれるの、と思ったりすることがある。


いずれにしても私のつたない感性で、
この広い世の中で、偶然に目に留まったり、出逢えたり、聴いたりした人々の方たちである。
そして、私なりの人生の心の宝物と思ったりしている。

尚、このように綴ると、私自身の思想、信条、そして日常の心情が解かるので、
発露をするのは少し危険かしら、と微苦笑したりしている。

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岩崎時子さん、たった一晩で名曲『愛の賛歌』を訳詞されたと知り、改めて敬意を重ねて・・。

2012-04-05 13:48:14 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
家内は過ぎし4月1日より独り住まいとなっている家内の母宅に、
季節の変わり目の支度を孤軍奮闘で行う為に、7泊8日で行っているので、
この間、私としては『おひとりさま』の生活となっている。

昨日の夜遅くビールを吞みながら夕食を食べたりして、
テレビでNHKの番組を視聴し始めたら、
【 歴史秘話ヒストリア 】の定例番組に於いて、
『 歌え!友情の“愛の讃歌~異色の宝塚スター越路吹雪と岩谷時子 』と題した番組が放送されていた。

私は苦手な越路吹雪さんかょ、と思い、テレビを視聴するのは止めようとしていたら、
何かしら作詞家の岩谷時子さんらしき人が出ていたので、番組を見続けた・・。

番組の内容は、NHKの解説に寄ると、
《・・
昭和の名曲『愛の讃歌』。その誕生の裏には宝塚歌劇で出会った二人の女性の秘話があった。
歌姫・越路吹雪と作詞家・岩谷時子、二人の知られざる友情のドラマ。

今から60年前、昭和の歌謡史に残る名曲が生まれた。
今も多くの歌手に歌い継がれている「愛の讃歌」。歌ったのはタカラヅカ出身の越路吹雪。
もともとフランス語の歌詞を訳したのは「君といつまでも」や「恋のバカンス」などのヒット曲で知られる作詞家・岩谷時子。
2人は宝塚歌劇を通じて運命的に出会った生涯の親友だった。
戦争の時代を支え合い乗り越えた2人が、戦後、新しい歌の世界を切り開いていく青春の日々を描く。
・・》
このような内容であるが、齢ばかり重ねた私でも、何よりも驚いたのは、
『愛の讃歌』の訳詩の創作の秘話であった。

越路吹雪さんが初めて大きな舞台で翌日に唄う時に、
編曲を担当された黛 敏郎さんを囲んで『愛の讃歌』を検討し始めた・・。
もとより『愛の讃歌』は、エディット・ピアフ の 名曲のひとつであり、
作詞・エディット・ピアフ、作曲・マルグリット・モノー基で、1950年5月にエディット・ピアフがレコーディグされ、
シャンソンを代表する曲として各国から親しまれている曲である。
そして唄われた原曲の作詞を直訳すると、

♪愛のためなら宝物を盗んだり
 自分の国や友達を見捨てたりする

このような内容であり、日本の方には余りにもなじめなく抵抗感があるので、
越路吹雪さんのマネージャーもしていた岩谷時子さんが、ひと晩徹夜をして、
私たちに聴いている有名な訳詩が誕生したこと、この番組から学んだ。

岩谷時子さんは1939年に神戸女学院大学部英文科卒業された後、
宝塚歌劇団出版部に就職され、月刊誌『歌劇』の編集長を務めていた。
この間、ためため編集部にやってきた当時15歳の越路吹雪さんとめぐり逢い、二人は意気投合し、
何かと越路吹雪さんの相談相手となる。
そして越路吹雪さんが宝塚を退団して歌手になりたいと相談した時、岩谷時子さんも退職を決意し、
共に上京し、越路吹雪さんが付き人を務めた。

そして 1951年から1963年までは東宝文芸部に所属しながら、越路吹雪さんをサポートし、
越路吹雪さんが死去するまでの約30年間、マネージャーとして強い信頼関係で支え続けたことは、
今や伝説となっている。

越路吹雪さんが大きく飛躍された原点は、この『愛の讃歌』の歌であり、
たった一晩で訳詩された岩谷時子さんの言霊(ことだま)の引き寄せは、
文學少女からの長年の言霊(ことだま)の蓄積に寄るものでものかしら、と思ったりした。

小説の世界で、たとえば浅田次郎さんが、
『小説すばる』の1995年11月号に掲載した『鉄道員(ぽっぽや)』の短編は、
一晩で書き上げた、と伝説があるが、
これは浅田次郎さんがあらがじめ構想されで、その日の一晩で執筆された、
と私は解釈している。


今回、越路吹雪さんと岩谷時子さんは、二人三脚のような形で、
この『愛の讃歌』の歌で大きく飛躍され、越路吹雪さんは大歌手の道を切り拓いた。
そして岩谷時子さんは作詩家、訳詩家として、もとより越路吹雪さんの歌を始め、
多くの歌い手に寄稿されヒット曲を重ねてきた。

私は歌に関しては、楽譜も読めなく、楽器のひとつも触れことがないので、
やむなく感性で音楽を聴いているので、越路吹雪さんの偉大さは、解らない。
こうした中で、私は若き頃の一時期に文學青年の真似事をしたので、
何よりも言霊(ことだま)を信愛しているので、岩谷時子さんの数多くの名曲には敬愛をしてきた。

番組を終わった後、『愛の讃歌』の歌が当時から絶賛され続け、
これまでのシャンソン分野に於いて、シャンソン・ファンしか知らなかった名曲の数々を、
越路吹雪さんと岩谷時子さんのお二人が、多くの日本の国民に、
数多くのシャンソンの歌を広めたことは、もとより功績のひとつである。


私は26歳を迎えた頃、それまでのシャンソンの知識としては、
越路吹雪、岸洋子さんぐらいは知っていた。
本場のシャンソンとしては、
ダミアの『暗い日曜日』は、私の先代の人たちが夢中になったり、
ジュリエット・グレコとか、やはりエディット・ピアフに尽きる、
とかはあくまで知識としての範囲であった。

この当時、たまたまバルバラの『私自身のためのシャンソン』アルバムのレコードで、
この中の『ナントに雨が降る』の歌を知り、
私の屈折の多い青春と私の父親を小学2生に死去された想いが加味され、
瞬時に魅了されてたのである。

そして、私はバルバラの魔力にとりつかれて、
アルバムを買い求めたりし、この当時12枚のアルバムから、盛んに聴いたりした。

この間、銀座の外れにシャンソンの殿堂として名高い『銀巴里』に通ったりし、
日本のそれぞれシャンソン歌手が唄われるのを、聴き惚れたりした。

そして、この行き帰りに、ヤマハの銀座店に寄ったりして、
数多くのシャンソンを唄われる方たちのレコードを購入したり、
数年過ぎると、私の自宅のレコード棚は、シャンソンのアルバムだけでも、
少なくとも100枚は超えていた。

やがて、バルバラ自身が、『黒いワシ』の異色作品を携え、日本に来日した。
日生ホールで公演され、私は駆けつれて、観たのである。

いずれにしても、このバルバラの『ナントに雨が降る』が
シャンソンに傾倒する10年の始まりで、熱愛した時期もあったりした・・。


このような私のささやかな思いでもさることながら、
深夜のひととき私は、岩谷時子さんが作詩、訳詩された数多くの歌い手に寄稿されたヒット曲を重ねた歌を
思い浮かべたりし、
改めて敬意を重ねたりした。


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『おひとりさま』の生活、ぐうだらなオジサンの私でも、ときには特別演習と思い挑戦し・・。

2012-04-04 14:45:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭であるが、
家内は過ぎし4月1日より独り住まいとなっている家内の母宅に、
季節の変わり目の支度を孤軍奮闘で行う為に、7泊8日で行っている。

この間、私としては『おひとりさま』の生活となっているが、
ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、仲良し恋し、と好評を頂いている私たちでも、
いずれは片割れとなり『おひとりさま』となるので、特別演習かしら、と思いながら私は過ごしている。

平素の私は、煙草を喫う愛煙者のひとりで、スポーツは無縁で、
根がケチな性格なのか、駅前までの路線バスなどは乗らず、ひたすら歩き廻ったり、
遊歩道、公園などを散策するぐらいである。、

そして、お酒大好きだった呑兵衛の私は、一昨年の晩秋に何とか卒業して、
冠婚葬祭、国内旅行以外は週に一度ぐらいは吞むぐらいとなっているが、
このような齢ばかり重ねぐうだらな生活をしている私は、
私としては家内より早くあの世に行く、と確信をしている。

しかしながら、こればかりは天上の神々の采配にゆだれられているし、
まして、この世の中は、先のことは何が起きるか解からないので、
一年に何回かは、家内に先立だれた場合のことを考えたりしている。

私は家内と日頃から、葬儀、お墓のことも何度も話し合ったりしている。
葬儀は親族関係だけの家族葬とした後、お墓は樹木園に埋葬し、
それぞれ好きな落葉樹の下で土に還る、
そして四十九日が過ぎたら、その時の心情でお墓参りをすればよい、
とお互いに確認し合っている。

私は家内が亡くなった時は、世の中はこのようなこともあるの、
と茫然(ぼうぜん)としながら四十九日を終えて、樹木園に行き、埋葬をすると思われる。

そして私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行うが、
何より長年寝食を共にし、人生の大半の苦楽を分かち合い、
気楽に安心して話す相手がいなくなったことが、何よりも困ると思ったりしている。


今回、たまたま『おひとりさま』となっているが、
朝一番に行うことは、台所にある市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日を確認して、
これに対応して、指定された道路に面した門扉に置いたりした。

そして、読売新聞の朝刊を読みながら、煎茶を飲みながら、
幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜』としている。

私は単細胞のひとりなので、白米のご飯、ワカメの味噌汁、
そしてコブの佃煮、シャケの瓶づめ、海苔(ノリ)が10枚ぐらいが不変で、
あとは家内が作ってくれた春菊のゴマ和え、カブの醤油漬などを食べたりしてきた。

昼食はコーヒーを飲みながら、レーズンロールのパンを5つばかり食べたり、
菓子パンを食べたりしてきた。

夕食はスーパーで買い物をし、野菜コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
煎茶を飲みながら食べたりしている。
そして、なぜかしら独りだと寂しいので、毎夜缶ビール500mlをたった一本だけ呑んだりした。


洗濯に関しては、乾燥の機能がある洗濯機をオール自動セットに頼り、
日中のひととき、きまぐれに手抜きの部屋の掃除をしたり、台所で皿洗いをしたり、
夜の入浴の時間も、8時前後としてきた。

このような生活を過ごしてきたが、料理に関しては素材から焼いたり、煮たりすることは無く、
掃除も簡略に済ませてしまうので、家内のいる平素から落第生となっている。

そして作家の曽野綾子さんの『夫族の中で、生活者として無能な人・・』と銘言に、
私は叱咤激励されながら、小・中学生の時は劣等生であった私は、
やはり年金生活の劣等生かしら、と苦笑を重ねてきた。


先ほど、主庭のテラスに下り立ち、昼下がりの陽射しを受けながら、
曽野綾子さんの『夫族の中で、生活者として無能な人・・』と銘言を思い馳せたりした。

この詳細については、このサイトで昨年の8月28日に私は投稿してきたが、
あえて今回再掲載をする。
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/d/20110828/2
☆《 夢逢人たわむれ記 ~かりそめ草紙 》
    8月28日『 曽野綾子さんの『夫族の中で、生活者として無能な人・・』と銘言に、私は叱咤激励され・・。』☆

このようなことを私は苦笑しながら、思い重ねたりしている。

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