夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

海の匂い潮の香り《1》  『里彦』の私が初めて海の匂いを感じた時

2012-05-21 05:52:10 | 旅のあれこれ
私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

私は小学生の時、先生から『山彦海彦』の話を優しく教えて頂いた時、
少し戸惑ったのである・・。
山の幸で生活されている両親に育った『山彦』でもないし、
海辺で生計をたてている両親の児の『海彦』にも属さないのである。

この頃の生家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と先生たちは称していた。
この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であった私は、
やむなく里の児の『里彦』だ、と心に決めたりしていた。


このような心情が60年過ぎた私の心の奥底に今だあるが、
海の匂いを初めて感じたのは、映画の『二十四の瞳』であった・・。

確か1955(昭和30)年の小学4年生だったと思われるが、
学校の高学年の4年生以上、先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
映画館で『二十四の瞳』を観賞した・・。

後年になると、木下惠介・監督の『二十四の瞳』の名作と知るのであるが、
この当時の私は、小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、海かょ、と衝撃をを受けたのである。
そして、ストーリーも完全に理解できない私は、数多くのシーンで涙を浮かべたりしていた。

この映画で何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉は一年生のときの記念写真を指差しながら、全員の位置を示すシーンであり、
この時に廊下にたった生徒が『浜辺の歌』を唄うシーンであった。

この『浜辺の歌』の歌は、私は圧倒的に海の匂いを感じ、
その後、私は国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の中で、ときおり『浜辺の歌』を唄ったりしている。


私が初めて海を観たのは、小学6年の夏、
独りで江ノ島に行き、海岸、展望台から海を観て、
田舎者の里彦の私は言葉もなく、呆然としながら長らく見つめたりした。

定年退職した直後、私は肩書きを失くした名刺となり、寂しさもあり、
やむなく里彦からヒントを得て、調布の里っ子、と付記した名刺を持ち歩き、
ときたま恥ずかしげに手渡したりしていた。

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ときには海の匂い潮の香りが恋しくなり、旅先は伊豆の網代(あじろ)を訪れることになり・・。

2012-05-20 10:32:47 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

ときおり家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

過ぎ去りし数年は、東北の各地を夫婦だけの個人型の旅行してきたが、
昨年の3月11日に東日本大震災で各地が甚大な被災となり、
私たち夫婦は、訪れてきた各地の余りにも痛々しい被害に唖然とし、
私たちの住む地域も余震が幾たびかあり、私の住む避難地の確認、防災器具の購入などをしたりした。

そして旅行の予定も中止し、私たち夫婦は我が家の専守防衛となり、家の内部の整理などに重点し、
日常生活も変貌したのである。

そして夏が終わり、落葉樹のたわわな葉が朱色、黄色などに染められる各地の錦繍の情景の紹介記事を見たりすると、
どの地域に魅せられるところは・・と漠然と探したりしたが、
夫婦だけの個人型の旅行より、幾分旅先の安全を配慮して、久々に団体滞在型のツアーに変更した。

この後、八ヶ岳の高原にあるリゾートホテルに10月16日より三連泊する団体滞在型で、
星空が観やすいリゾートホテル、と何かの雑誌で私は読んだりし、私たち夫婦は参加した。

この後も、11月13日より3泊4日で秋田県の田沢湖の高原温泉にある観光ホテルに
三連泊する団体滞在型に、乳頭温泉郷めぐりもあるので、
私たち夫婦は参加した。

そして12月20日より4泊5日で、北海道の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
その後に未知の糠平〈ぬかひら〉温泉に2泊する団体の滞在型に、参加して訪れた。

今年になって、裏磐梯の檜原湖に隣接したリゾートホテルに三連泊する団体の滞在型で、
3泊4日で訪れた。

その後は、1月28日より2月3日まで、札幌市の郊外のリゾートホテルに滞在し、
冬の札幌を中核とした地域を訪れた。

この後、私の住む地域は、初春より梅、そしてハナモモ、やがて桜花が咲く中、
この間は、落葉樹が芽吹き、そして萌希色、やがて新緑に染められる時節であり、
私たち夫婦は自宅の小庭、近く野川の遊歩道、或いは神代植物園の情景に、
魅せられて過ごしてきた・・。

こうした中で、家内は近くて源泉掛け流しの温泉地でゆっくり過ごしたいわ、
と私に言ったりした。

そして私たち夫婦は自宅の小庭、近く野川の遊歩道、或いは神代植物園の情景に、
魅せられて過ごしてきた・・。

こうした中で、家内は近くて源泉掛け流しの温泉地でゆっくり過ごしたいわ、
と私に言ったりした。

そして越後湯沢の旅館に宿泊する団体温泉滞在型に、
5月6日より3連泊するプランに私たちは参加した。

このように山里の観光ホテル、旅館、リゾートホテルなどで滞在して、
旅行を繰り返してきたが、
海を見ながら波打ち際に近い露天風呂で、ゆつくりと過ごしたいわ、
と家内は私に言ったりした。

そして私たちは余り遠くない伊豆半島で、海に近く温泉も良し、
食事処でも浴衣で良し、気楽に過ごせる観光ホテルを調べたりした。

この結果、私たちが選定した処は、伊豆半島の東海岸の熱海から少し南下した網代温泉で、
露天風呂から海を観ることができる観光ホテルを見つけたりした。

この後、この観光ホテルに電話で予約したので、明日の21日より四連泊することにした。

この根底には、一昨年の2010〈平成22〉年の若葉の季節、北東北を周遊していた時、
青森県の日本海に面した黄金崎(こがねざき)にある観光ホテル『不老ふ死(ふろうふし)温泉』に3連泊し、
この観光ホテルの波打ち際にある露天風呂に、私たちは圧倒的に魅せられたのである。

その後の12月中旬、やはり北東北を周遊し、旅の終りとし、
この『不老ふ死温泉』に再訪して3連泊したりした。

この時の私の露天風呂の心象を記載する。

到着した翌朝は、ときおり風が強く吹く曇り空で、午前10時過ぎに私は露天風呂に向かった。
露天風呂の出入り口の本館まで行き、
海岸の施設の歩道を百メートルぐらい海岸線まじかにある露天風呂に到着するのであるが、
浴衣の下はパンズ一枚だけ、左手にバスタオルとタオルを入れたビニール袋を提げた姿で歩きはじめた・・。

ゆるい下りの歩道で、強く風が吹き、浴衣の裾(すそ)は捲(まく)れ上がり、
私は右手ですそを押さえて、
『やめ~て・・少し風・・穏やかにねぇ・・お願いいたしますょ・・』
と心の中で呟(つぶや)いたりした。

そして露天風呂の簡素な更衣棚に浴衣とパンズをビニール袋に入れたが、
このビニール袋が風を受けて、たなびいているのである・・。

私は露天風呂に身体をゆだねて、波打ち際の波、そして押し寄せてくる波間、
ときおり私は立ち上がり、彼方の日本海を眺めたりしていると、風が冷たく感じ、
露天風呂に身体を沈めるように深く湯に入ったりした。

このような天候であったので、もとより私だけの貸切風呂となったりし、
帰路、本館の露天風呂の出入り口のいるホテルのスタッフの方から、
悪天候なのに健気に入浴される齢を重ねた男性もいる、と思われたと私は感じ、
この方から微笑まれた。
私は苦笑しながら、宿泊している新館の部屋に戻ったりした。

翌日は、冬晴れとなり、私は昨日の容姿で、露天風呂をめざした。
ときおり微風が吹く程度で、穏やかな快晴の中、散歩するみたいに海岸線までの歩道を歩いた。
そして、誰もいない露天風呂に心身ゆだねて入ったり、
押し寄せる波、そして遥か彼方のフェリー船が日本海を北上するのを見たりした。

そして露天風呂から上がり、岩場の上で立ち、
海上の冬晴れの陽射しに向かい、全身素肌を数分程さらしたりしたが、
寒さを感じることなく、むしろ快適な心情となったりした。

このようなことは一期一会のような恵まれたひとときであったが、
今回の旅も海の匂い、そして潮の香りの中で夢のような時を過ごしたい、と私はぼんやりと思っている。

尚、旅行の21日から25日まで、投稿文に関して、
私は《海の匂い潮の香り》として題して、五話ばかり書き上げていますので、
この間、予約セットし公開しますので、お読み頂き、ご笑話を願えれば幸いであります。

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国会図書館の「近代デジタルライブラリー」、遅ればせながら私は初めて知り、そして・・。

2012-05-19 15:42:27 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活67歳の身であり、
先ほど、ネットの読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
『ネットデジタル』を見ていた時、ひとつのニュースを読んだ後、
何よりの朗報かしらと思わず微笑んだりした・・。

http://www.yomiuri.co.jp/net/news/bcn/20120518-OYT8T00347.htm?from=yoltop
☆【YOMIURI ONLINE】<==《 国会図書館、ネット閲覧デジタル化資料が40万点に 》☆

私は恥ずかしながら国会図書館の「近代デジタルライブラリー」は無知であった。
そして今回のニュースの中で、魅せられた内容は、
《・・
5月28日からは、これまで国会図書館の施設内限定で提供していたデジタル化資料のうち、
2011年に著作権保護期間が満了したものや著作権者の許諾が得られたものなどの図書・古典籍約5万3000点を公開する。

これらの追加によって、「近代デジタルライブラリー」からインターネットで検索・閲覧できるデジタル化資料は約40万点になる。
ネット公開と国会図書館館内限定を合わせたデジタル化資料の総数は200万点を超える。
・・》

私は市の図書館は、高価な美術品、民芸品、民家の近代史などの本はお借りしたことがあるが、
国会図書館は私の住む処からは一時間ばかりであるが、
何かしら齢ばかり重ねた拙(つたな)い私としては、国会図書館は恐れ多いというのが、本音である。

今回のニュースで、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」に於いて、
インターネットでデジタル化された資料を私でも検索・閲覧できるので、
これだったら館員の方にご迷惑することなく、安楽に必要な書物を見ることができる、
と微笑んだのである。

そして何事も好奇心を失くしたら、この世は終りだ、と人生信条の私は、
こっそりと【 国会図書館 近代デジタルライブラリー 】をキー・インした後、
『古典籍資料(貴重書等)』を選定した。

http://dl.ndl.go.jp/#classic
☆【 国会図書館 近代デジタルライブラリー 】<==《 古典籍資料(貴重書等)》☆

そして私は表示された『地球全圖 司馬江漢峻 寫并刻』を茫然と見たりし、
解説文の《 平射図法による東西両半球図。「地毬全図略説」とセット。・・》
読んだ後、次ページを数分見惚(みと)れたりした。


この後、偶然に右の下に《アクセス数ランキング》を見ていたら、
《 3位 石巻日日新聞(号外). 平成23年3月12日 》と表示されていたので、
私は脳裏の片隅みに残っていたので、クリックした。

http://dl.ndl.go.jp/#newspaper
☆【 国会図書館 近代デジタルライブラリー 】<==《 新聞 》☆

解説文に明記されている通り、
《 東日本大震災翌日の壁新聞。震災の概況や、石巻市の被害状況、市民への呼びかけが掲載されている。》
この新聞の発行こそが、日本のメディア史上に燦然と遺(の)こる力作と私は確信している。


たまたま私は昨年の2011〈平成23〉年の4月18日に学び、
【ある地方紙の社屋、被災されたので、手書きで壁新聞を発行し、避難所に張り出し・・。】
と題して、このサイトに投稿している。

【・・
昨夜、ぼんやりと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、
ひとつのニュースの記事に圧倒的に感動させられた・・。

《 社屋被災で手書き、壁新聞を米で永久保存 》

と見出しされた記事である。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
【ワシントン=山田哲朗】
東日本大震災で社屋が被災した後も、
手書きで新聞を発行し続けた宮城県の石巻日日新聞のオリジナル壁新聞7枚を、
ワシントン市内のニュース博物館「ニュージアム」が取得し、永久収集品に加えた。

輪転機が動かない中、同社は印刷用のロール紙を切り取り、
懐中電灯などの明かりを頼りに油性ペンを使って手書きの新聞を作り、
6日間にわたって避難所に張り出した。

この努力を報じた米紙ワシントン・ポストの記事に目をとめた同博物館が
石巻日日新聞に電子メールで現物の提供を依頼したという。

同博物館のクリストファーセン学芸員は
「現代技術の恩恵が受けられない中、ジャーナリストたちは、
ペンと紙だけで地域に重要な情報を届け続けた」
と称賛している。

(2011年4月17日18時17分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110417-OYT1T00483.htm?from=y10
☆【YOMIURI ONLINE】《 社屋被災で手書き、壁新聞を米で永久保存 》☆


3月11日、予告もなく突然に巨大地震、そして前代未聞の大津波に襲われた宮城県の石巻市に於いて、
この地域に『石巻日日新聞』にあると思われる。

もとより地方紙の使命は、その地域の情報を全国紙と違い、
詳細に定期時に伝えることもひとつの大きな役割でもある。

こうした中で、『石巻日日新聞』の社屋被災されて、輪転機が動かない中、
やむなく記者たちは、同社は印刷用のロール紙を切り取り、
懐中電灯などの明かりを頼りしながら、油性ペンを使って手書きの新聞を作成した。

そして、避難所に6日間に及び張り出した。

この記者たちは、確かなジャーナリストとしての使命を果たされた、と私は圧倒的に感銘を受けた。
何よりも、このような創意と工夫をまじえて、本来のジャーナリストとしての責務、
感動させられたのである。

私は管首相が、この記事を読み、総理大臣賞として表彰されるかは、
管首相の感性に寄るものであるので、果たしてと微苦笑している。
・・】

このように私は投稿文として記していた。
そして管・前首相は感性が乏しいのか、私の秘かな願いであった『石巻日日新聞』の記者たちの奮戦を見逃し、
私としては管・前首相に失望を深めたりした。

今回、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」の存在、
そしてインターネットでデジタル化された資料を私でも検索・閲覧できるので、
これだったら館員の方にご迷惑することなく、安楽に必要な書物を見ることができる、
と微笑んだのである。

しかしながら《猫に小判》という名言があるで、果たして齢ばかり重ねた私は頻繁に活用できるかしら、
と自身の能力を疑っていることも事実であり、苦笑している。

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東京郊外の私の住む地域、昼時に雷鳴と共に激しく雨が降り、そして降雹(ひょう)に、戸惑い・・。

2012-05-18 17:50:20 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活67歳の身であり、
一昨日、昨日も初夏のような暑さになり、この時節にどうしてなの、と天上の気候の神々のきまぐれに戸惑い、
昨日の昼下りのひととき、庭の手入れをしながら、ときおり空を見上げたりしていた。

そして夜半に激しく雨が降り、震度3度ぐらいでも目覚めない私でも、屋根に雨脚の音を聴いたりした。
今朝、雨上がりの清々しい曇り空で迎え、樹木の枝葉に雨露が数多く残っていた・・。

地元の天気情報に寄れば、朝の6時は14度、昼下りは23度前後、夕暮れの6時は19度前後、
日中は快晴であるが、大気の状態が不安定となっているので、昼過ぎのひととき雨が降る場合もあります、
と報じていた。

まもなく急速に天気は回復するように、青空となり陽射しが射し込んできたのは、午前9時過ぎであった。
そして樹木の枝葉の雨露は陽射しを受けて、キラキラと光り帯び、私は見惚れながら微笑んだりした。
家内は洗濯の干し物竿を拭いた後、洗濯物を干し物竿に並べたりした。

この後、11時過ぎになると曇り空となった後、黒い雲が多くなり、
『雨が突然に降ることもあるから、戸締りをするよ』
と私は家内に言ったりしながら、微風を部屋に通していたガラス戸、障子を閉めたり、
雨戸も少し閉めたりした。
家内は洗濯物を干し物竿を取り込んで、やむなく乾燥機に入れたりした。

そして雷鳴が空に響き、雨が激しく降りだし、こうした中で白っぽいものが地上に落下したので、
初めて降雹(ひょう)と解り、パラパラと小庭にあるベランダも落下していたので、
『この時節に降雹(ひょう)なんて、生まれて初めてだょ・・』、
と私は苦笑しながら家内に言ったりしていた。

まもなく降雹(ひょう)は終った後、遠い彼方に落雷の激しい音が3度ばかりした後、
小雨となり、その後は急激に陽射しが射し込み、青空となったのは午後1時半過ぎであった。
そして私はベランダに下り立つと、降雹(ひょう)は消え去って、
5度ぐらい下がった冷気に身をゆだねながら、自然クーラーの威力に微苦笑したりしていた。

その後は風が突然に吹き、強くなった風は数多くの樹木の枝葉を激しく揺すっている・・。

何かしら東日本上空に強い寒気が流れ込み、私の住む地域でも、広い範囲で大気の状態が不安定と
今朝は知ったりしたが、
このような激しい天気の変貌には、私は戸惑いながら回復した雲ひとつない青空を眺めたのは、
午後2時半過ぎであった。


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ドナ・サマーさんの逝去を知り、ささやかな私の思いは・・。

2012-05-18 13:42:52 | 定年後の思い
先ほど、ネットの読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、
ドナ・サマーさんの突然のご逝去を知り、齢ばかり重ねた私は、ご冥福を祈ったりした・・。

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20120518-OYT1T00139.htm?from=yoltop
☆【YOMIURI ONLINE】<==《 ドナ・サマーさん死去…グラミー賞5回、63歳 》☆

私は1970〈昭和45〉年の25歳の時、この当時ある大手の音響・映像メーカーに中途入社し、
まもなくこの中の音楽事業本部の中の大きなレーベルが、
レコード会社として独立し、私も転籍させられて、これ以来35年近く音楽業界のあるレコート会社に勤めて、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職をした身である。

私は音楽の制作に直接携わることのない管理畑の物流、情報、経理、営業などを務めた身であったが、
多少なりに音楽を聴くことに恵まれた職場であった。
こうした中で、他社で発売されていたドナ・サマーの『ホット・スタッフ』、『愛の誘惑』、『恋はマジック』、
『マッカーサー・パーク』、『バッド・ガール』、『情熱物語』等のヒット曲は知ったりしていたが、
私は苦手なディスコ系であったので、魅了されることはなかった。

しかし次兄がドナ・サマーの数多くの曲が好きだったので、
私は確か3枚ぐらいレコードか、カセットで、買い求めて次兄に贈呈していた。

その後、確か1995〈平成7〉年のクリスマス・シーズンの前、
たまたまドナ・サマーのクリスマス関係の名曲の数々に惹かれて、
一枚のCDアルバムを私は購入したりした。


ダンス・クィーンなどと称されていたドナ・サマーが、
1994年に名プロデューサーのマイケル・オマーティアンとの共作に寄る
『CHERISTMAS SPIRIT』と題されたアルバムである。

そして日本ではマーキュリー・レーベルから発売され、
アルバム・タイトルは、『ホワイト・クリスマス/ドナ・サマー』となっている。

①ホワイト・クリスマス
②クリスマス・ソング
③神の御子は今宵しも
④クリスマス・イズ・ヒア
⑤クリスマス・メドレー
  a.このみどり子は誰なるぞ
  b.ドゥ・ユー・ヒア・ホワット・アイ・ヒア
  c.もろびとこぞりて
⑥クリスマスはわが家で
⑦クリスマス・スピリット
⑧プレイス・オブ・ヘヴン
⑨オー・ホーリー・ナイト
⑩ラム・オブ・ゴット

私は初めて聴いた後、真の大人の歌手が圧倒的な歌唱力で唄い上げ、
オーケストラとゴスペラ・コーラスを背景にした作品であり、
黒人霊歌を根底に育ったドナ・サマーが、真摯に唄うクリスマス・ソングの一曲でも聴くと、
まさに使い古された言葉であるが、鳥肌が立ち、思わず襟を正された・・。

かといって、どなたでも親しみのある名曲ばかりであるので、
たとえ一流のホテル、街のお洒落な居酒屋でも聴きやすいアルバムでもある。

私はクリスマス関連のアルバムを10数枚を所有しているが、
このアルバムのドナ・サマーが、『クリスマス・ソングス』、『神の御子は今宵しも』
そして『もろびとこぞりて』等を聴いたりすると、
やはり日常生活でキリスト教に信愛し、親しみを持たれた類(たぐい)稀(まれ)な歌手に、
底知れぬ唄声に降参し、魅了されるのである。

私はドナ・サマーに関しては、このたった一枚のアルバムしか知らないが、
毎年クリスマス・シーズンになると、
このアルバムを盛んに聴いたりして、早や16年は過ぎている。

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惜春に別れを告げながら、ときには庭の樹木の剪定をすれば・・。

2012-05-17 17:40:21 | 定年後の思い
まもなく21日になると『小満(しょうまん)』の時節を迎えるが、
古来より陽気が良くなり、草木が繁って天地に満ち始める頃と伝えられているが、
東京の郊外に住む地域は、昨日より初夏のような陽気となり、
どうしてなのょ、と天上の気候の神々のきまぐれに戸惑い、
昨日の昼下りのひととき、空を見上げたりしていた。

そして今年の春も終りを実感させられて、過ぎ去った日々に愛惜感を深めたりした。

我が家の小庭も樹木が伸び、昨夜の食事時に、
『明日、樹の剪定をするよ』
と私は家内に言ったりした。
『私も手伝うから・・入梅前だし、枝切りを徹底的にしましょう、私も頑張るわ』
と家内は微笑みながら言ったりした。

我家は原則として、庭の手入れは私の責務の範疇であるが、
年に数回ぐらい家内の支援がある。


朝の8時半過ぎに私は玄関庭の下り立ち、
いつものようにストレッチパンズの長ズボン、着古したワイシャツ、ウォーキング・シューズ、帽子、
滑り止めの軍手をして、そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにして、
剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、
樹木に登ったり、適度な台に乗り、枝葉を切り落としはじめた。

まもなく家内は、トレーナー姿にエプロンを身に着け、そしてタオルを姉さん被り、ウォーキング・シューズの万全な容姿で、
高枝鋏(たかえだばさみ)を薙刀〈なぎがた〉のように持ち、
私に近寄ってきた後、付近の樹木を高枝鋏(たかえだばさみ)で枝葉を切り落としたりした。

私は樹木の枝葉を切り落としたりしていると、ときおり地上から、
『その枝の下の方から、切り落として・・』
と家内の指示の声がする・・。

このように2時間ばかりした後、主庭に移動した。

そして私はベランダの片隅の簡易椅子に30分ごとに5分休憩し、
煎茶を飲みながら、煙草を喫ったりしていた。

家内は歩道に面した垣根のアカネモチの枝葉を剪定鋏(ハサミ)で器用に切っている。
その後は、金木犀(キンモクセイ〉、マテバシイなどの樹木も高枝鋏(たかえだばさみ)で枝葉を切り落とし、
休憩も取らず、奮戦している。

その後、お互いに昼食抜きで奮闘していたのであるが、
私は疲れて、ときおり簡易椅子に腰かけて、煎茶を飲みながら、煙草を喫ったりしていた。

家内は62歳の身であるが、何かしら心身溌剌としている。
私は5つばかり齢上であるが、定年退職後は現役時代の緊張感が失くしたせいか、
昨今は体力の衰えも実感する時がある。

私の母、そして家内の母も更年期が過ぎてから、
新たに甦〈よみがえ〉る程に元気になっていた60代の時期もあったので、
女は良〈い〉いよなぁ、と私は家内を見つめたりしていた。

その後、私は家内の切り落とした枝葉を拾い、市の指定の『燃えるゴミ』袋に、
剪定鋏(ハサミ)で枝葉を袋が破けない程度に細かく切り分けたりした。
主〈あるじ〉の私は、ついに家内に体力も逆転させられたか、と微苦笑した。

こうして2時間ばかりし、散乱した落ち葉を掃き清めていると、
そして午後の2時過ぎに、『XXちゃんさぁ・・ボチボチ・・やめない?』
と私の方から家内に提案したのである。

私達は昼食抜きで専念していたが、私の方が体力の限界に近いし、
やむえず作業を中断しょうと思ったのである。

そして風呂を沸いた頃、家内に先に入ってもらい、
私は庭の片隅で簡易椅子に座り、煎茶を飲みながら煙草を喫ったりした。

私は若き40代の頃は、こうした時はお寿司屋さんから頂いた大きな湯呑茶碗で、
冷酒を二杯ぐらいは呑んで待機していたが、
その後の50代の時は、殆どビールを吞んだりしていたが、
今や煎茶を飲む身となり、やはり齢かしらと苦笑し、短くなった樹木を眺めたりしていた。

そして、入梅が過ぎ、初夏の頃になれば、それなりに樹形もなるだろう、
しかし半分ぐらいしか樹木の剪定は終わっていないのだから、
今月中に孤軍奮闘で挑戦しょう、と思ったりした。

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『年々歳々 花相似 ・・』、齢ばかり重ねた私でも、心の中で呟(つぶ)やくように・・。

2012-05-16 23:23:32 | 定年後の思い
私は今宵のひととき、玄関の軒下に下り立ち、ぼんやりと月を眺めたり、
幾つかの星を眺めたりした。

もとより月は、私たちが観れば早朝の月、昼の月、そして春、夏、秋、冬の色合いと変貌したりするが、
私にとっては、自身のその時の心境の合わせ鏡、と齢を重ねるたび深まりを覚えている。

こうして眺めているが、新緑を彩(いろど)っているこの季節も、
毎年同じように季節は巡って来ているように思われるが、
年々歳々 花相似 年々歳々 人不同
という漢詩のひとつを心の中で呟(つぶ)やくように、反復したりした。

もとより中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の頃に、
小説家・阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏の作品から学んだひとつの詩である。

毎年たんたんと美しい花を咲くが、
この花を観賞できる人は変っている・・

私はこのように解釈しながら、人生のはかなさを若き二十歳の時に、
この詩を学びだし、47年の歳月が流れている。

そして、果たして昨年、一昨年の今頃は、或いは来年の今頃は、と思い浮かべても、
せんなきことかしら、と微苦笑したりしている。

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ときには、文房具屋めぐりをして、お気に入りの品を買い求めて・・。

2012-05-16 14:40:10 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活67歳の身であり、
午前中のひととき散髪屋(理容店)に行った後、いつものようにスーパーで買い物し、帰宅した。
そして煎茶を飲んだ後、駅前に出かけた・・。

私の住む所は最寄駅としては京王線の場合は『仙川』、『つつじヶ丘』駅、
そして小田急線だと『成城学園前』、『喜多見』、『狛江』駅のほぼ中間地点で、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みの辺鄙な処に、結婚の5年前後を除き60数年住んでいる。

そして、これらの駅前までの道のりは、徒歩で15分から25分程度であり、
特に年金生活になると散策がわりに歩いたりしているが、
ときには旅行、冠婚葬祭、都心に買い物などの場合は、バス、タクシーを利用すると10分足らずである。

たまたま本日は、この中のひとつである『仙川』の駅をめざして、歩いたのである。

家内から鉛筆の『B』か『2B』が欲しい、と要望されたりしていた。
『仙川』駅の商店街には、文房具用品が販売している店は三店あり、
都立の高校、専門学校の音楽専門学校の桐朋学園、そして女子校の『白百合学園』もあるので、
本屋も少なくとも三店ばかりある。

家内は平素のメモ書き、旅行を思案したりする時などは、
以前はポールペンを使い、その後はシャープ・ペンシュルを使ったりしてきたが、
昨今は鉛筆の『HB』を使っていたのであるが、少し筆感が柔らいのが欲しい、
呟(つぶや)いたりしていた。

私の住む近くの最寄り駅もコンビニ、スーパーなどの影響で、
街中の文房具屋が淘汰されることが多く、
私もポールペン、A4の厚手のノートのお気に入りも少なく、
困窮する時もあり、こうした時は文房具屋に数軒探し求めたりすることもある。

もとより『調布』、『成城学園前』の駅前には、大きな文房具の専門店があるが、
何かと手軽な街中の文房具店で私は買い求める習性がある。


そして『仙川』のある文房具店で、家内の三菱鉛筆のHiーuni『B』と『2B』を
それぞれ1本づつ買い求め、
お気に入りになれば良いがと思いながら、買い求めたりした。

この後、私が日常のメモ書き、外出先でも愛用しているポールペンの
パイロットのSUPER-GPの0.7、1.0、1.2別に
それぞれ黒、青、赤色を2本づづ購入したりしたが、こうしたことは一年に一回ぐらいで買い求めている。

問題はA4の厚手のノートであり、表裏のカバーが堅牢の厚手を買い求めてきているが、
なかなかお気に入りがなく、母を訪ねて三千里のような思いの時もあったりし、
毎年に一冊ぐらい購入してきている。

このノートに日常の心象を記したり、旅行の時は持参して宿泊先で書き留める悪い癖が、
定年後の年金生活の習性のようなことになっている・・。

たとえば過日の越後湯沢の旅の時、宿泊先で夕暮れのひととき、

【・・仲居さんのひとり・・黒髪で30代の前半ぐらい・・
  平素の館内はセミロングで、食事処ではポニーテール風に髪を束ねて、麗(うるわ)しい・・】

このようなことを心象としてメモったりした。

或いは真摯に文學のことを思索し、書き留めたりした。

【・・
          ささやかな私の川端康成の思いは

今回の旅は、家内が近くて源泉掛け流しの温泉地でゆっくり過ごしたいわ、という思いで、
ある旅行会社の企画のひとつとして、《 源泉掛け流しの老舗旅館 源泉卵の湯『雪国の宿 高半』4日間 》
と題された越後湯沢の旅館に宿泊する団体温泉滞在型に参加することにしたのであるが、
もとより作家・川端康成が1934(昭和9)年の秋より逗留し、
『雪国』を執筆された宿として有名であるので、私は少し困ったなぁ、というのが本音であった。

私は小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年で、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりしたが、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人のアドバイスで、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。

純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。

そして、やむなくサラリーマンに転職し、中小業の民間会社に35年近く勤め、
定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の晩秋であった。

私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

こうした拙(つたな)い身ながら、若き日には文學青年の真似事をしていた時期は、
もとより日本文学の作品は読んでいたりして、
中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであったと思われる文学全集を基盤に、
数多くの作家、作品を読んだりしていた。

そして川端康成の代表作とされる『伊豆の踊子』(1926年)、『禽獣』(1933年)、『雪国』(1935年 - 1948年)、
『千羽鶴』(1949年)、『山の音』(1954年)、『眠れる美女』(1961年)、『古都』(1962年)等の作品は、
当然ながら読んでいたが、『雪国』、『眠れる美女』は苦手であった。


今回の旅立つ前に、私は書庫から二冊を本を抜き出して、この中の一部を再読したりした。
ひとつは純文学の月刊雑誌の『新潮』(新潮社)が、氏が1972〈昭和47〉年4月に自裁された後、
6月臨時増刊号として《 川端康成読本 》と発刊されて本である。

あとの一冊は、河出書房新社が《文芸読本》シリーズが作家別に発刊されて、
『文芸読本 川端康成』は1977〈昭和52〉年8月に発行された本であった。

ともに氏の作品、この当時の有力な各作家、評論家による氏の作品批評、そして人物批評が、
掲載された内容であった。

この中で私が圧倒的に突出していると感じたのは、
作品批評として、《川端文學の問題点》の特集の中に作家・立原正秋が寄稿した『川端康成のエロティシズム』であり、
人物批評としては、《小説 川端康成》の特集の中に作家・五味康祐が寄稿した『魔界』であった。
いずれも『新潮』(新潮社)の6月臨時増刊号として《 川端康成読本 》である。

このふたつの寄稿文を私は脳裏に残しながら、
今回宿泊先した『雪国の宿 高半』の館内の氏を中核とした展示室、
或いは『雪国』を執筆したという「かすみの間」が保存されている処を見たりしていた。

そして川端康成がどのような人物批評であれ、どのような言動をしても、
作家は遺(のこ)された作品がすべてである、ということを改めて深く感じさせられたのである。
・・】

このように私にとっては、たかがノートされどノートであり、
今回お気に入りのノートは、わずか750円であったが、私にはこれからの一年ぐらいの心象を書き留めたりするので、
心の宝物と微笑んだりしている。

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北原白秋の波乱万丈の結婚歴を学び、拙(つたな)い私でも、微苦笑させられて・・。

2012-05-15 11:55:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
今朝6時過ぎに玄関の軒下で、小雨降る中の樹木を眺めたりしていた時、
ぼんやりと『城ヶ島の雨』の歌の一節を思い重ねたりした・・。

♪雨はふるふる
 城が島の磯(いそ)に
 利休鼠(りきゅうねずみ)の
 雨がふる
【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】

と私は心の中で唄っていたのである。

♪雨は真珠か
 夜明けの霧か
 それともわたしの
 忍び泣き
【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】

私はカラオケは苦手であるが、ときおり鼻歌を唄ったり、心の中で唄うことが多い。
このような定年後の日常生活であるが、今日は『城ヶ島の雨』かょ、と微苦笑である。

私は無念ながら北原白秋のようにこうした詩は、
とても書けないが、あの北原白秋の人生の軌跡も波乱に満ちた人だった、
と思い馳せたりしていた・・。

もとより北原白秋(きたはら・はくしゅう)氏は、日本の詩人、童謡作家、歌人であり、
1885(明治18)年に生まれ、生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表するなど、
日本の文藝に多大に貢献し、1942(昭和17)年に死去された人である。

詩歌や童謡にも疎(うと)い私でも、詩集の『邪宗門』、童謡の作詞された『ゆりかごのうた』、『砂山』、
『からたちの花』、『この道』、『ペチカ』、『あわて床屋』、『待ちぼうけ』、『城ヶ島の雨』ぐらいは、
若き日の頃から学んでいる。

私は学生時代、大学を中退し、映画・文学青年の真似事をしたが、
あえなく敗退し、やむなくサラリーマンに転職し、
35年近く音楽業界のあるレコード会社に勤め、定年退職となったのは2004(平成16)年の晩秋であった。

私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書することが多く、
こうした中で、文藝評論家・河盛好蔵(かわもり・よしぞう)氏の詩人・北原白秋の評論文を読んでいた時、
《・・
いよいよ旺盛な詩作活動を続けていたが、
明治45年7月、隣家の人妻・松下俊子との恋愛問題のため、
俊子の夫から姦通罪で告訴され、市ヶ谷未決監に二週間拘置、
無罪免訴となったが、深刻な打撃を受けた。

のみならず郷里の家が破産して一家の人々が上京し、
その生活を負担しなければならなくなったために一層困窮した。

大正2年4月、離婚した俊子と結婚。
5月に神奈川県・三崎に転居・・
『城ヶ島の雨』は、このころの作である。
・・》

こうしたことを思い浮かべると、

♪舟はゆくゆく
 通り矢のはなを
 濡(ぬ)れて帆あげた
 ぬしの舟

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】

私は鼻歌などで気楽に唄えなくなる。

この後は、俊子は肺患療養となり、窮乏の末に、白秋は離婚し、
その後は江口章子と結婚したり、清貧生活の中で詩作を発表したのである。

そして江口章子と離婚してまもなく、佐藤菊子と結婚し、終生つれそった、
と伝えられている。

私の敬愛している作家のひとりの嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)氏に寄れば、
《・・
最初の妻はフランス人形のような麗人て、
二番目のの妻は菊人形ような美人、
そして三番目の妻は婚期を逸して三十歳を過ぎ・・
(略)
白秋の名が広く知られるようになったのは、
童謡によるところが大きく、
悪魔的耽美世界から出発した詩人は、少年的抒情世界に転進しました。
これは、ひとえに菊子夫人あってのことで、
菊子との出会いがなければ、糸の切れた凧になって、
白秋は破滅の道を進んだかもしれません。
・・》
と嵐山光三郎・著の『人妻魂』(マガジンハウス)で明記されている。


私は小説、随筆、詩、短歌、俳句などの創作者は、
作品の出来ばえが良ければ、その人の日常の言動は問わぬという哲学じみた暗黙の了解は、
知っているつもりである。

しかしながら小心者で無力の私は、結婚はたった一度で、
ひとりの妻となった人と寝食を共にして37年目となっている。
そして独身時代でも恥ずかしながら人妻と性愛し、その主人からも告訴された体験もないので、
詩人・北原白秋の結婚の三度ばかりの軌跡に思い馳せる、と
改めてこの人生は大変だなぁ、微苦笑したりした。

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阿川尚之さんの寄稿文『優れた作家は文章のみで・・』、言霊を信愛する私も微笑み・・。

2012-05-14 08:10:51 | 真摯に『文学』を思考する時
昨日の朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
思わず私は、そうですよね、と共感させられながら、読了後に感銘を受けた記事が掲載していた。

9面の【文化】面の週間定例の『本よみうり堂』があるが、
この中に月次の定例記事の『空想書店』があり、
今回は慶応義塾大学の阿川尚之(あがわ・なおゆき)教授が寄稿されていた。

氏は数多くの作家の解説文も綴られ、私も多く読みながら幾たびか感銘を受けた優れて文を書かれる方で、
もとより氏の父上は作家・阿川弘之さんで、妹君はエッセイストの阿川佐和子さんである。

氏は港から観える船を見ることが好きらしく、
こうした地点で書店を開くことを空想していることなどを綴っている。
この後、
《・・
けれども店主が一番大事にしているのは、船や船旅を描いた小説や詩集である。
優れた作家は文章のみで、生き生きと船を描く。
文章を読めば船が好きであるとわかる。
(略)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

この後は、過ぎし時代に船が隆盛した時代に思いを重ねて、愛惜を綴っている。

そして恒例の推薦作品の『店主の一冊』として、
氏は北 杜夫・著作の『どくとるマンボウ航海記』を選定し、
《船に乗って海に出たい。外国に行きたい。
少年の私にそう思わせた本。
潮騒と風の唸(うね)り、溶岩のうねりのような湧き立つ波頭。これが海だ。》
と記している。

私は読みながら、作家・北 杜夫・著作の『どくとるマンボウ航海記』を思いだしながら、
文章だけて確固たる情景、心理描写などを的確に表現させていた作品、と改めて感じたのである。

そして紀行作家・宮脇俊三さんが中央公論社の編集時代に、
北 杜夫さんが作家としての地位を確立する前に、幾たびか勧誘して『どくとるマンボウ航海記』を書かせたことは、
読書好きな人たちでも、今や伝説となっている。

そして宮脇俊三さんは、後年に『ザ・文章設計』第14号で1988〈昭和63)年6月に、
『文章と写真と』と題して綴られている。

《・・
「若い精神科医が水産庁の調査船に乗って、アフリカ沖からヨーロッパのほうへ行っている。
筆のたつ人らしい。小説も書いている」

という情報が入ってきた。昭和34年の春のことだった。
当時の私は出版社に勤めていた。
そして、外国旅行は高嶺の花の時代だった。

その「小説も書く若い精神科医」が帰国するのを待ちかまえて、私は航海記の執筆を依頼した。
その際、旅行中のたくさんの写真も見せていただいた。
珍しいものばかりだった。
写真もふんだんに入れた本にしょう、と私は思った。

半年ほどで原稿が完成した。
その出来ばえは期待をはるかに上回っていた。
眼を見はるほど自由闊達で伸びやかな、若い心が躍動するような文章にはユーモアさえ溢れていた。

その文章に魅了された私は、すっかり満足し、写真を挿入することなど念頭から消えてしまった。

翌年の春、写真なしの外国旅行記という当時としては珍しい本が出版された。
が、文章の魅力が読者をとらえ、たちまちベストセラーになった。
北 杜夫・著『どくとるマンボウ航海記』である。

編集者として思わぬ幸運に調子づいた私は、「世界の旅」全10巻というシリーズを企画した。
既刊の外国旅行記を地域別に集めるというシリーズである。
写真も各ページごとに挿入することにした。
旅行記には写真は欠かせないのが編集の常道であった。

第一回の配本は目玉商品として『どくとるマンボウ航海記』を収めた。
こんどは写真が何十枚も本文に割って入った。

ところが、刷り上がった見本に眼を通しているうちに、私は愕然とした。
写真不要、いな邪魔! せっかくの文章の魅力を減殺さえしているのである。

『世界の旅』シリーズに写真を挿入しょうとの編集方針がまちがっていたとは思わない。
しかし、他の収録作品の著者にたいしては失礼にあたるが、
第一級の紀行文には写真など無用にして無縁なのだ。

そういえば、内田百の『阿房列車』に写真はいらない。
『おくのほそ道』に写真を入れたらナンセンスだろう。
文章とは写真などとは次元のちがうところで成立する精神の作用なのだ。

と深く思い知らされた私は現在の職業は「旅行作家」。
すでに20冊もの本を出させていただいたが、写真入りの本は、やむえぬ事情により1冊を除けば他にはない。
文章の作用は写真なんぞ遠く及ばない、という私の心意気なのである。
(略)
・・》
注)著者の原文より、あえて改行を多くした。


私は中小業の民間会社を35年近く勤め、定年退職したのは2004〈平成16〉年の秋であった。
そして、まもなくブログの世界を知った。
その後の私は、各サイトのブログ、ブログ系に加入して投稿をし始めて、早や8年生となっている。

私は定年後に年金生活を始め、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、無念ながら写真、イラスト、絵などに素養もないが、
何より言葉の力を信じて散文のような形式で投稿してきた。

古来、日本は人々の会話の伝達の時代が過ぎた後、
少なくとも飛鳥の時代の頃から言葉を綴り, 日記、随筆、小説、詩、短歌、俳句、
川柳などは文字で表現してきた。

そして、その時代なりに数多くの人々により、
心を思いを満天の星空のように、数多くの文を遺〈のこ〉されて、現世に至っている。

私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
できうる限り随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。
そして若き頃に小説の習作を少し体験し、幾たびか校正したりしてきたが、
ブログの投稿文と甘え、一気呵成〈かせい〉に書き上げてしまうことも多い。

しかしながら、その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多いのが実情でもある・・。

このような時、言霊(ことだま)に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの何かと甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙〈つたな〉い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。

しかし拙〈つたな〉い投稿文でも、その時の心情を素直に綴れば、幾年か過ぎた後、
のちの想いになることは確かだ、と思い原則として日々投稿文を認(したた)めている。

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草花を愛(め)でながら、齢ばかり重ねたぐうだらな私でも、ときには庭の手入れに挑戦・・。

2012-05-13 08:41:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
我が家の小庭は落葉樹の多いが、少しばかり草花も植えている。

この時節、落葉樹のモミジ、花梨(カリン)、紫木蓮(ハモクレン)等は、
日増しに枝葉を伸ばし、草も伸びだしているので、
日中の6時間前後、剪定と草むしりをしょうと思ったりしている。

こうした中で、根宿草の半夏生、或いは半化粧(ハンゲショウ)、唐糸草(カライトソウ)、アメリカン芙容(フヨウ)、秋海棠(シュカイドウ)、
そして小判草(コバンソウ)、が芽を出して、日増しに成長しているので、
齢ばかり重ねた私は、微笑みながら見つめたりしている。

半化粧(ハンゲショウ)は、入梅の時節になると、上部の数葉は、白く化粧をほどこしたような色合いとなったり、
妖艶な姿、と私は思ったりし、
唐糸草(カライトソウ)は、初夏の頃になると淡いピンクの花となり、かぐわしい芳香となる。

アメリカン芙容(フヨウ)は、初夏から盛夏の頃に、純白、ピンク色の美麗な花を見せてくれている。
そして秋海棠(シュウカイドウ)は、夏の終りの頃から初秋に可憐な淡紅色の花が咲く。

私は先ほど、群生させた稲穂に近い小判草(コバンソウ)の群生は、
微風を受けて、揺らいでいる情景に、思わず微笑んだりしてしている。

小判草はイネ科の草花で、古来より茶花として愛用されているひとつでもある。

毎年、3月の下旬頃に芽を出して、稲のような容姿で成長し、
5月頃から葉先が小さな小判のような花穂となる。

初夏には小麦色に染めら、風もないのに揺れたりしている。
水田の稲が実を重たげに見せている状況と同じで、
背丈30センチ前後の小判草は、けなげな容姿となっている。

9月のお彼岸の頃になると、
枯れはじめて、また来年もお逢いしましょう、
という例年の移ろいである。

ここ4年ばかりは、例年通り枯れた後、やがて芽を出し、幼い稲に成長し、
15センチ前後の小柄な容姿で、花穂は小判のような形となり、
小判草も二毛作になったの、と嬉しげに見つめきたが、
地球の温暖化のせいかしら、と思ったりしてきた。

私は草花の中でも、さりげなく季節のうつろいを教示してくれ、
健気(けなげ)な容姿のうつろいを見せてくれる小判草は、
確かな美のひとつとして、ここ30数年ぐらい愛(いと)しき心の恋人となっている。


このような思いを秘めて、ストレッチパンズの長ズボン、着古したワイシャツ、ウォーキング・シューズ、帽子、
軍手をして、いつものように剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにし、
庭の手入れをしょうとしている。

我家は原則として、庭の手入れは私の責務の範疇であり、
ときおり草取りをしているが、落葉樹が圧倒的に多いので、樹木の剪定(せんてい)は、
春、入梅の合間、初秋、晩秋、年末の近く、樹木の剪定(せんてい)を行っている。

私は孤軍奮闘して、剪定用の鋸(のこぎり)を持ちながら、樹木に登ったり、
適度な台に乗り、枝葉を切り落としたりしたりしている。

そして伐り落とした枝葉を整理した後、草むしりを始めるが、
樹の下の周囲などは、はいつくばって草を取ったりすると、泥だらけになる。
夏の時節になると汗も加わるが、今の時節は薄っすらと汗をかく程度であるので、
少しは楽である。

この草むしりは、労苦を要するが、愛(いと)しき草花の成長を見たりして、
手入れの後の清々しく、成果が明確になるので、なるべく丁重にしている。

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『大学教授が交歓会で学生と口論となり、平手打ちして』、なぜ咎(とが)められるのか・・。

2012-05-12 11:15:44 | 時事【社会】
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んだ後、
ネットの読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていた時、
ひとつのニュースを見て、不可解な戒告処分に、昨今の社会状況に憂いたりした。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120511-OYT1T00970.htm
☆【YOMIURI ONLINE】<==《 東大教授、酔って学生を平手打ち…交歓会で口論 》☆

《・・
東京大学は11日、酒に酔って男子学生のほおを平手打ちしたとして、
60歳代の男性教授を戒告処分にしたと発表した。

東大によると、教授は2010年4月、大学院のガイダンス終了後に行われた交歓会で、
酒に酔った状態で男子学生と口論となり、学生のほおを平手で数回打ったという。
学生が同年11月、東大のアカデミックハラスメント防止委員会に被害を申し立てた。

(2012年5月12日06時21分 読売新聞)
・・》

私は東京郊外の調布市に住む年金生活をしている67歳の身であるが、
たとえ酒に酔っていたといえども大学教授が、学生との交歓会で口論の中、学生を平手打ちした結果、
なぜ戒告処分にされたか、不思議に感じている・・。


私は1944(昭和19)年の秋に東京郊外で農家の児として生を受け、
1952〈昭和27〉年に地元の公立小学校に通っていた二年生の時、
校庭の片隅で体育の授業が終わり、私は同級生の三人と、跳び箱の前に置いていたマットで戯れていた。

体育の先生が飛んできて、私を含めて4人を叱咤した後、
並ばされた。
そして、ビンタを喰らい、小柄な私たち二年生はよろけたのである・・。

『マットは学校で皆で使う大切な物だ。
君たちは遊び道具にし、恥を知りなさい・・』
と言いながら、先生は立ち去った。

私たちは恥ずかしげに、
『お前・・大丈夫か・・』
とお互いに相手の赤らんだ顔を見たりし合った。

そして顔を上げれば、教室の校庭に面した窓から、
上級生、下級生が10数人見ていたのであった・・。

私は家に帰り、このようなことを両親に、
学校でいたずらしビンタを喰らったなどを話したならば、
もとより私がいけなかったことなので、父親に庭の隅にある蔵に叩き込まれるた体験もあったので、
これ以来、私は2度と公共品、公共物を汚したりすることは、やめたのである。


私の高校時代は、1960(昭和35)年の4月に入学して、
1963(昭和38)年3月に卒業した身である。

都心の私立高校の普通、商業科があり、そして男子部、女子部のクラス分けをされた学校であり、
学風の勉学面は関しては温和であったが、
特に言動だけは、自己形成時期なので、将来社会人になった時に備え、厳しかった。

たまたま私は風紀委員に選定され、
朝、登校してくる校門の正門前で、副校長の女性の方、その日の担当となった先生、
そして私達の風紀委員3名が立ち並び、生徒を迎えていた。

中には襟(えり)元がだらしなかったり、男子生徒が帽子の少し斜めに被ったりしていると、
副校長の女性は、
『だらしいですよ・・』
と生徒に向かい、直させていた。

こうした折、生徒の中にはふてくされたような反抗の表情を浮かべたりすると、
この副校長の女性は、生徒にビンタをしたりし、
私は驚きながら、ごもっとも、と感心していたのである。

私が在学中に不良の言動で退学されたのは、知る限り3名であった。


このようなささやかな体験がある私は、
当時の小学時代は、教師、校長、そして教育委員会も威厳があり、
もとより私たち生徒、両親、そしてPTA(父兄会)は何かと学校に対して敬(うやま)う傾向があった。

学童のしつけは、もとより家庭の責務でありながらも、
近所の見知らぬ小父さん、小母さんからも、何かと叱咤激励させられたりしていた。
そして学校は、先生から授業を学ぶ貴重な学習であった。

こうした中でも、私たち学童間で言動の差異があった時は、
休み時間に男の子の場合は、取っ組み合いの喧嘩をすることもあった。
私も小学3年、その後の中学2年の時も、相手の同級生に余りにも腹だたらしかったので、
数多くの同級生の中で取っ組み合いで殴り合いをしたが、その後は蟠(わだか)りがなくなり清々しかった・・。


私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、昨今の諸情勢に疎(うと)いが、
新聞、テレビのニュース、或いは近所の方たち、かっての同級生の親睦会などにより、
ここ数10年は、親御さんは何かと学校に対して権限は強まっているらしい。

そして教師は生徒から暴力、陰湿ないじめがあったり、
或いは生徒間でいじめが多発しても、教師は見て見ないふりし、
校長、教育委員会は世評におびえている、
と私は学び、おかしな時代と私は憂いているひとりである。


今回の事例は、私が想像すれば、
東京大学の男性教授が、2010年4月、大学院のガイダンス終了後に行われた交歓会に参加し、
ある生徒と口論になり、余りにも幼い意見(?)に腹を立てて、思わず平手打ちをしてしまった・・。

私が不可解なことは、なぜ生徒が同年11月、半年に過ぎた頃に、
東大のアカデミックハラスメント防止委員会に被害を申し立てた、ことである。

この結果、この男性教授を戒告処分されたのである。

私は二流の大学を中退した身なので、詳しい状況は解らないが、
最高学府と称される東京大学に於いて、もとより国費を受ける中で、
生徒は酔った男性教授に平手打ちされても、学業の先達者の教授に失礼なことを言って腹をたてさせたのか、
と謙虚に猛省すべきなところである。

まして、生徒はアカデミックハラスメント防止委員会に被害を申し立てることは、
たとえ学識があっても、肝要な先達者に敬(うやま)う心も欠け、恥も知らずで、自身の幼さを証明することである。

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春麗の越後湯沢、初めてこの地を訪れれば・・。【2012.5.6.~5.9.】 最終回

2012-05-11 16:25:53 | 
        最終章  旅の終りも越後湯沢の美人と言葉を重ね

8日の夕食の時、明日で越後湯沢とお別れだね、と前に席に座っている家内に私は話しかけたりした。
この食事処は、創意工夫のある数多くの料理を頂いた上、
仲居さんの微笑みの中、今回の旅に参加した私たち一同は楽しく過ごさせて貰った。

私はおしゃべりで呑兵衛のひとりなので、隣席の同行した人たちと談笑を重ねてきた。
或いは仲居さんの中で、セミロングの方が食事時はポニーテール風に髪を束ねて上、
何かと私たちに気配りして下さったり、
もうひとりの方はショートヘアーの方も颯爽と各テーブルを廻っていた。
いずれも黒髪で30代の前半ぐらい美麗で、制服と思われる半袖の黒シヤツが私にはまぶしかった・・。

そして私は、ビールをもう一本下さい、とショートヘアーの方も言ったりして、
二言三言を言葉を重ねたりした。
清潔感があり健気に明るく言葉で応じてくれ、私は楽しげな顔をしていたらしく、
家内は笑ったりしていた。

私は館内の仲居さん、フロントのスタッフの男女の方たちも、
少しばかりの越後湯沢の文化、風土、食べ物などを話題にしてきたので、
お客の立場としてではなく、お互いに謙虚に言葉を重ねて余情があれば、これ以上のことはない、
と私は思っているひとりである。

今回の旅のお土産としては、いつものように家内は数多く買い求めていたが、
私としては特に魅せられたのは洋菓子の場合は、『地酒生ショコラケーキ』であり、
お煎餅は純和風米菓子と称された『こめ・米煎餅』、
漬物類は、『芽生姜(めしょうが)の塩麹(こうじ)漬け』であった。

そして吞んだ地酒は、『八海山』の純米吟醸、『鶴齢(かくれい)』の純米吟醸であり、
帰路の際、買い求めたのは『巻機(まきはた)』の純米吟醸であった。
いずれも4合瓶であり、この地の南魚沼地方で人々から育(はぐく)まれた酒であり、
文化のひとつでもある。

帰路、新幹線で東京駅に向かう車中、
宿泊先を辞する時、お騒がせしまして、色々とお世話になりまして、
と私は仲居さんをはじめ、フロントの方たちに言葉をかけたので、
この中のひとりのセミロングの仲居さんの笑顔を思いだされた・・。

東京駅で私たち一行はお互いに別れる時、
再びお逢いしたいですねぇ、と私も家内も何かと言葉を重ねてきた一行の人たちに、
私たちは挨拶を重ねたりした。


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春麗の越後湯沢、初めてこの地を訪れれば・・。【2012.5.6.~5.9.】 第五回

2012-05-11 10:27:18 | 
        第五章  アルプの里は残り雪の情景

8日の朝も快晴の朝を迎え、部屋のベランダから越後湯沢の街並みを眺めたり、
そして遥か遠方の雪をいだいた三国連峰を眺めると、
『日中のひととき・・やはりアルプの里に行って見ようょ』
と私は部屋の座卓で煎茶を飲んでいる家内に言ったりした。

前日に私たち夫婦は街並みを散策していた時、アルプの里に往復するロープウェイを観かけたが、
どうしょうかしら、とためらったりしていた。
里山の頂上付近かに山なみを観ても、私たちの宿泊している部屋からの美景にまさるものはなし、
という思いがあったのである。

9時過ぎに私たちは宿を後にして、わずか10分足らずでロープウェイの乗車入口に着いた。

http://www.yuzawakogen.com/
☆越後湯沢【アルプの里】公式サイト☆

私たちは前日に、このアルプの里のパンフレットを宿泊している館内から頂き、
《 雲を超えて山頂へ。
    雲上のお花畑、色彩の海へ。 》
と明記された数多くの高山植物の写真を見たりしていたので、少しは見られるかしら、
と期待していたことも事実であった。

そして乗車入口の『山麓』駅で、乗車券をチエックして頂いた時、
『山頂駅からブナの原生林の少し手前まで歩けますが・・
後は雪が残っていますので、散策は無理ですが、よろしいでしょうか?』
と麗しき若き女性の係員から訊ねられたが、
『結構ですょ』
と私は明るく微笑みながら応えた。

私は体力も衰えた身なので、パノラマコースと称される2時間半ばかりの登り下りは無理であるし、
ミニトレッキングコースと称される一時間ぐらい登り下りが最適と思っていたので、
ブナの原生林の少し手前だったら20分ぐらいの登りであったので、微笑んだりした。

ロープウェイの乗車すると街並みを下方に遠ざかり、里山の中腹には山桜の花が見えたり、
辛夷(コブシ)の純白の花も見え、やがて山頂駅に到着した。

広大な平坦地から周辺の幾重か里山が観え、
遥か彼方には、谷川岳、朝日岳、越後三山の中の岳、駒ヶ岳、八海山の雄姿が一望でき、
山頂は雪をいだき、山裾まで雪筋で輝いていた。

その後、私たちはブナの原生林の少し手前を目指して、
登り路を歩き始めたが、周辺は残り雪の景観であり、やがて積雪の路となり、
引き返して展望台で遥か彼方の雄大な山なみを改めて観たりした後、
イタリア料理のレストラン『アルビナ』が見えたので、昼食とした。

私たち夫婦は、婚約する前の頃から私がイタリア料理がこの味であったので、
食べたりしてきたので、家内を誘ったのである。
http://www.yuzawakogen.com/service/restaurant.html#anchor02
☆レストラン『アルビナ』☆

このレストランは窯焼きで、私たちは三品を頂いたが、予期した以上に美味であった。
私は定年後の3年まで、こうした時はイタリアのワインを一本(720ml)を吞んできたが、
何かしら胃腸が弱くなり、やむなく昼はビール、夜は純米酒としてきたのがここ5年となっている。

そしてビールを吞みながら、家内と談笑し、
窓辺から観える除雪車の二台が道路、付近のゆるやかな丘陵を除雪している情景を見たりして、
こうした人影の少ない閑静の中で、残り雪のアルプの里も良いねぇ、
と私は家内に言ったりした。

                        《つづく》

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春麗の越後湯沢、初めてこの地を訪れれば・・。【2012.5.6.~5.9.】 第四回

2012-05-10 18:40:17 | 
        第四章  越後湯沢の歩みを学び

『雪国の宿 高半』に宿泊した翌日の7日は快晴の朝となり、
日中のひととき、私たち夫婦は越後湯沢の街並みを散策しょうとして、10時過ぎに旅館を出た。
よして食事処、お土産屋を中心とした商店街を歩き、20分ぐらい中心点の駅の西口に着いた。

この駅も駅ビルとなり、昨今流行(はや)りのエキナカ風の街のあらゆる名品が百店ぐらい集積され、
小奇麗なフロアーとなっていた。
『これだったなら・・雪の降った時・・夏の熱い時でも・・
観光客は簡単に欲しい品を買い求めることができるよねぇ』
と私は家内に小声で言ったりした。

そして私たちは地元の方たちが平素買い求める一般の商店街を見たく、
東口に向かった後、30分ぐらい歩き廻った後、
ある店で、念願の地酒『鶴齢(かくれい)』の純米吟醸の4合瓶を買い求めた。
そして家内は店内で、漬物や和菓子、そして駄菓子などを購入したりしていた。

その後、西口に戻り、家内の好みのひとつ射的屋に入ったり、
歴史民俗資料館の『雪国館』に入館した。

そして館内の案内員のご厚意で、
越後湯沢の江戸時代の頃から新幹線が開通する前の頃までの情景を記録したDVDを視聴させて頂いたりした。
この後、私は越後湯沢の人々の歴史の歩みが、概要としての少しは理解できた。

そして私たちが帰館したのは、午後一時過ぎで、
私は入浴した後、買い求めた漬物などを食べながら、
『鶴齢(かくれい)』の純米吟醸を吞んだりし、この地の風土を思い馳せたりした。

この夜のひととき、旅館のご厚意で館内にあるシアター室で、
映画の監督・豊田四郎『雪国』(1972=昭和32年)を鑑賞した。

島村は池部 良、駒子は岸 惠子、葉子は八千草 薫が演じていたが、
三人とも、この当時は幼い演技であったので落胆し、
あの当時の昭和32年の頃は、日本映画の文藝大作の水準として、
通用していたのか、と考えさせられてしまった。
収穫としては、背景の昭和10年前後の越後湯沢の情景、人々の生活を学んだことぐらいかしら、
と思ったりした。

                        《つづく》

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