夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

高齢者の私は、家内を呼ぶ時は『・・ちゃん』付けとなり、早や39年目となり・・。

2012-10-03 09:32:57 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は、結婚して37年生となっている。

私は外見上は、連れ合いことは、家内としている。
奥方というのも、つなない私でも遥か高貴の家から降下され嫁いできたような方と思い、
女房、というのも、私はあえてさけている。

女房の語源は、平安時代に於いて、宮中で私的事務をつかさどった女官の名称、
と若き頃に、井口樹生・文学博士から教示された。
そして、『房』は部屋を指し、奥ゆかしき独り専用の広い部屋のことらしく、
我が家としては、無念ながら家内専用の広い部屋がないのである。

従って、消却法として、家内、と私は外見上は公言している。

さて、内輪の日常生活の中、XX、と男性が愛しき連れ合いを名前で呼び捨てにしている方たちがいる。
もとより私の世代より齢上の方の男性に多く、私より少し若い団塊世代の人の一部に見受けられるが、
私は何となく存在を粗末にしているように感じ受けしまい、論外としている。

この根底には、私は幼年期の頃から、女性に対して憧憬する悪い癖があり、
齢ばかり重ねた昨今でも、50代から70代の女性の言葉、しぐさに魅せられている。
特に凛とした女性には、圧倒的に弱く、少しばかり眩暈(めまい)を感じることもある。

或いは、XXさん、というのも寝食を共にしているので、他人行儀らしく感じる。

このような幾つになっても可愛げのない独断と偏見のある私である。


私がこの広い世界の中で、家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
私のすぐ下の妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐ前に、私の生家の長兄宅に同居していたが、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、たまたま文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文學を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、私たちは交際をはじめた・・。

二度目に待ち合わした時、私はXXさん、と苗字を言っても何かしら他人のように思え、
いきなり相手の名前、XXちゃんと呼んだ。
相手は、驚いたような表情を浮かべた・・。

私の発想の根源は、恥ずかしながら告白すれば、
私が二十歳過ぎた頃に愛読していた小説家・福永武彦さんの『草の花』の中で、
主人公の男性が交遊し好感を重ねていた若き女性に対して、XXちゃん、と名前で呼んでいたので、
流用させて頂いたのである。

私はこれ以降、婚約、結婚、そして子供も恵まれなかったこともあるが、
家内のことを、我が家ではもとより、親族の集いの冠婚葬祭などを含めて、
XXちゃん付けとして呼んでいる。


私たち夫婦は、共通の趣味のひとつとして、国内旅行であり、
子供に恵まれなかった為か、若い頃から国内の各地を旅行をしたりしている・・。
ときには団体観光ツアーで各地を周遊したこともある。

バス、新幹線の車内、休憩所の土産売り場、観光ホテルのロビーとかで、
ご一緒に旅をしている人達から、ときおり笑われたりしている。

たとえば、新幹線を下車する直前、旅行のバックを持つ前に、
『あなた・・まわりのお方に注意して・・持ってね・・』
と私は家内から言われたりしている。

こうした時、
『はい!』
と私は明るく大きな声で家内に返事をする。

私は日常生活でも家内から何か言われた時、
はぁ~ぃ、と少しだらけた返事は嫌いなので、短めで明るく大きな声で返事をしている。

こうした返事を、旅先でもすると、 なぜかご一緒から、笑われたりするのである。


そして私は家内を呼ぶ時には、
『XXちゃん・・さぁ・・』
と私はいつものように、家内の名前を口にしたりすると、
車内の付近から、くすくす笑われたりしている

私は家内と婚約する前の交際期間から、ちゃん付けで呼んでいるので、
私は平然としている。

家内が私を呼ぶ時は、
あなた、が多いが、ときにはXXさん、と名前で呼ばれたりすることもある。

こうした時、ご一緒の特に女性グループ方達から、
『あなた達・・いいわねぇ・・』
と笑いながら家内に言ったりしている。

こうしたことは、私はいつもの日常生活で使っているので、
私は戸惑いながら、ご一緒の方達に微笑返しをしたりしてきた。

尚、私は連れ合いをワイフとかパートナーと呼ぶのは、何となく照れくさくい上、
何よりも幼年期に農家の児と育てられ、少なくとも日本男児のひとりであるので、
私としては、欧米文化の日常生活のふるまいに何かと苦手からである。

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『十六夜(いざよい)』のお月さま、齢を重ねるたびに圧倒的に魅了されて・・。

2012-10-02 07:00:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
特にこの時節になると、夜のひととき主庭のテラス、玄関の軒下に下り立ち、
ぼんやりと月を眺めることが多い。

過ぎし日に『十三夜(じゅうさんや)』を誉めたり、
一昨日の30日は中秋の名月と称されている満月の『十五夜(じゅうごや)』は、
無念ながら台風の雨で雲隠れで、めぐり逢えなかった。

昨夜、玄関庭の軒下に下り立ち、 夜空にぽっかりと月が煌々と光をおびているのを眺めながら、
単細胞の私は、 待ちわびた『十六夜(いざよい)』かしら、と思ったりしながら、見惚〈みと〉れたりしていた。

私は幼年期の頃から月を眺めたりしてきたが、齢を重ねるたびに圧倒的に深く魅了されるのは、
なぜかしら『十六夜(いざよい)』である。

もとより『いざよい』は、「いざよう」の語源からであり、
ためらい、ためらう、ことなど意味しているが、
『十五夜』よりしばらく遅れて昇ることから『 いざよい』と称されてきた。

私は月を眺め、自分のその時の思いを託〈たく〉したりしているが、
十六夜の月は格別である。

古人の時代から、満月よりやや遅れてためらうように昇って来る、と伝承されてきているが、
つたない私の人生の軌跡と同様に、心持ちをためらいながら歩んできたので、
何かしら共感を深めている。


私は東京郊外の世田谷区に隣接した北多摩郡神代町(現・調布市)の片隅みの農家で、
長兄、次兄に続いて三男坊として、1944〈昭和19〉年の秋に生を受けた。

この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していた。

こうした中で祖父、父は、ふたりの男の子が続いたので、跡継ぎの男子は万全と思いながら、
今度は女の子を期待していたらしく、三男坊の私としては、
幼児心に何となくいじけた可愛らしくない児であった、

そして私が地元の小学校に入学したのは、1951〈昭和26〉年の春である。

私は小学校の学業は、兄ふたりは優等生であったが、
なぜかしら私は通信簿『3』と『2』ばかりの劣等生であった。

そして、この頃に生家にある本と云えば、
農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、
私は子供心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。

その後、私が都心にある高校に入学してから、
遅ればせながら、突然に読書に目覚めて、活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、
行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。
そして高校二年の夏に、初めて小説の真似事をし、原稿用紙に習作をしたりした。

東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋の直前に、
小学4年からの映画少年の影響で、映画の脚本家になりたくて私は大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画青年、やがて文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。

この間、演技と演出のある養成所に学び、
やがて、この養成所の講師のひとりが、ある月刊誌の記事の連載を契約していたので、
この講師の下で、私は取材、下書きなどをして、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。

或いは養成所の関係により、アメリカのテレビドラマの準出演を演じたり、
斡旋して下さるアルバイトで生活費を賄〈まかな〉ったりしていた。

そして、講師の知人の新劇のある長老から、小説を書いた方がよいとアドバイスを頂き、
確固たる根拠もなく、独創性はあると思いながら小説の習作したりして、
純文学の新人賞に応募したが、最終候補6編の選考の直前で3回ばかり落選した。

こうした時、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は30歳頃に結婚をして果たして妻子を養っていける自信もなく、
あえなく敗退した。

この後、やむなく大手の企業に中途入社する為に、コンピュータの専門学校に一年通った後、
何とかこの当時は大手の音響・映像のメーカーに中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
その後、この会社の音楽事業本部の大手レーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。

そして、このレコード専門会社の情報畑、管理畑など35年近く奮戦して、
2004〈平成16〉年の秋に、定年退職となった。


私は幼年期にたくさんの本のあるサラリーマンの家に生まれ、
学生時代は素直に文学部の国文学を専攻した後、最終として大学教授の国文学関係になった人に、
嫉妬と羨望を感じたりすることもある。

或いは私が読書を5年早く、中学生の初めの頃に目覚めていれば、
文学部の国文学を専攻した、と文学青年の真似事の習作の時、自責をしたりした。

このように何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
50代の頃から、『十六夜(いざよい)』を眺めたりすると、
ためらうように月が昇る情景を観ると、
この人生のはかなさの中で、余情を感じたりし、圧倒的に魅了されている。

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何かと残暑の厳しかった9月に別れを告げ、爽(さわ)やかな秋を祈願して10月を迎えて・・。

2012-10-01 12:39:13 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり.
今朝ぼんやりとカレンダーを眺め、『長月』の9月のカレンダーにさよならすると、
新たな『神無月』の10月のカレンダーを見ながら、ようこ~そ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

過ぎ去ってしまえば、齢を重ねるたびに早く感じたりしているが、
9月になっても、何かと平年より残暑厳しかったが、
『秋分の日』の前の彼岸入りの頃から、やはり古人からの寒さ暑さ彼岸までの伝承の通り、
初秋の風の匂いを感じながら、暑さの苦手な私は、微笑んだりしていた。

そして昨日の月末には、台風17号は東海から東北地方を縦断し、
各地に暴風や大雨、高波、高潮に遭遇したが、
私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、夕方より夜の11時頃まで風が強く吹いたり、
ときおり雨が降る程度であった。

今朝、目覚めると雲ひとつない青空の快晴となり、台風一過となったが、
やはり台風は日本列島から去り行くまで気になるひとりであり、
天気情報で台風17号は北海道の南東海上を北東へ進み、北海道と東北が強風域にあり、
北海道の太平洋側を中心に激しい雨が降り、夜には千島列島沖に遠ざかる、
と報じていたので、被害が少なければよいが、と思ったりした。


私の住む地域は、新たな『神無月』の10月を迎えると、
平年ならば、この時節の秋日和に恵まれて、
やがて数多くの葉が朱紅色、黄色に染められる錦繍〈きんしゅう〉の時節を迎える11月上旬まで、
エアコンの冷気、ガスファンヒーターの暖房にお世話になることもなく、
最も過ごしやすい時節と感じている。

こうした快適な中で、農業、果樹業の方たちが労苦の成果とした農作物、果物を頂いたり、
散策をしながら、ときには心の中で小躍〈こおど〉りし、秋の訪れから深まりゆく情景を享受し、
定年後の私は、毎年この時節を過ごしてきた。

或いは遊歩道でウォーキングしながら健康な汗を流したり、
夜になれば月を愛〈め〉でたりし、ときおり私の心の合わせ鏡のような心情で眺めたり、
小庭の片隅から鈴虫、こうろぎの健気〈けなげ〉な鳴き声を友とし、書物に熱愛してきた。


私は新たなカレンダーを眺めながら、
秋涼爽快・・、山里を彩〈いろど〉る朱紅色、黄色の錦繍の時節をまもなく迎える情景かしら、
と心の中で呟(つぶや)いたりしている。

こうした思いになると、私たち夫婦は国内旅行が共通趣味のひとつで、
旅にでかけたくなる。

昨年の10月は、初めて八ヶ岳の山里にある大泉高原を10月16日から3泊4日で訪れた。

有力な旅行会社のクラブツーリズムの雑誌に、
八ヶ岳の高原にあるリゾートホテルに三連泊する団体滞在型のプランが掲載されいた。
この『八ヶ岳ロイヤルホテル』リゾートホテルは、
星空が観やすいところ、と何かの雑誌で私は読んだりしたこともあり、
その上、この地域は10月中旬の頃から、
数多くの落葉樹が朱色、黄色などに染め始める錦繍(きんしゅう)の情景が展開すると学んだりした。

こうした理由もあり、私は家内に、
日中は錦繍の情景を見ながら、山里の遊歩道の山路を散策して、そして夜には満天の星空を眺められる・・
独断と偏見の多い私でも、三日間宿泊すれば、一日ぐらいは煌々と輝く数多くの星が見られる、
と家内を勧誘したのである。

新宿駅に集合し、特急『あずさ』を利用して、小淵沢駅で下車し、
ホテルからの送迎バスに乗車し、ホテルに3連泊する間、それぞれ好きな所を見てきて下さい、
滞在の自由プランであったりした。


その後は11月になると、やはりある有力な旅行会社の雑誌に、
秋田県の田沢湖の高原温泉にある観光ホテルに三連泊する団体滞在型のプランが掲載され、
乳頭温泉郷めぐりもあるので、
私たち夫婦は11月13日より3泊4日で参加した。

そして田沢湖の湖畔より北上した山麓に『プラザホテル山麓』に宿泊して、
この館内とか周辺、或いは乳頭温泉郷に、私たちは歩き廻り、
雪が舞い降る情景にめぐり逢え、私は小躍(こおど)りをしたりした。

そして12月20日より4泊5日で、北海道の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
そして未知の糠平〈ぬかひら〉温泉に2泊し訪れた。

私たち夫婦は何故かしら北海道の風土に魅せられて、幾たびか訪れてきたが、
無念ながら帯広の地域は、二度ばかりしかなく、いずれも雪のない時節であった。

私の心の奥底には、この十勝地方の帯広の冬のイメージは、
郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、蒼穹(そうきゅう)の情景である。
厳冬の晴れ間の中、大地は凛とし、果てしなく青空が観えるのが、蒼穹(そうきゅう)の言葉に何よりも相応しい、
と思ったりしている。

このような思いで帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊した後、
いつに日か訪れることを夢にみていた山奥の糠平〈ぬかぴら〉温泉の厳冬地に訪れてきた。


このように昨年の秋から12月まで訪れてきたので、今年はどこに訪れようか、
と私たちは9月の半(なか)ばの頃が思案したりした。

そして取り合えず10月としては、ある有力な旅行会社の雑誌に、
フリープラン滞在型の企画のひとつとして、北海道の洞爺湖の湖畔にある観光ホテルに9泊10日があり、
この間に湖畔を散策したして、晩秋の情景にめぐり逢えたら、と秘かに願いながら、
旅費を振り込んだりしてきた。


私は何かと暑さに苦手な身であるので、私の住む地域の10月は爽(さわ)やかな秋、
11月を迎えると秋日和の中、朱紅色、黄色に染められる錦繍〈きんしゅう〉の時節を迎え、
やがて色づいた葉が舞い散る晩秋が、心躍(おど)らされる時節である。

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