夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

中島みゆきさんを敬愛している私は、ときには『歌姫 劇場版』を鑑賞して・・。

2012-10-16 21:26:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活68歳の身であるが.
過ぎし10日の前の頃、家内が読売新聞の夕刊を読んでいたら、
『あなたの好きな中島みゆきさんの映画館で『歌姫』の上映予告が載っているわ、
何かしらコンサートの案内広告も載っているわ・・
行ってくれば・・』
と私は教えられて、この後に私は新聞に掲載された内容を精読したりした・・。

私はシンガーソングライターの中島みゆきさんの歌を初めて聴いたのは、
遅ればせながら『昭和』の終わる少し前の頃であった。
私は音楽業界のあるレコード会社に勤務していたが、たまたま上司より試聴用カセットテープを頂いた。

このカセットテープは、私が尊敬しているテレビの脚本家として名高い倉本聰(くらもと・そう)氏が、
初めて映画監督された『時計』のオリジナル・サウンドトラックであり、
各レコード会社が契約している有力な歌手の曲が収録され、発売のレコード会社の選定に難渋していたが、
たまたま金子由香利さんの『時は過ぎてゆく』が最初と最後に編成されていた為か、
私の勤めていた会社が発売となった、と風の噂で聞いたりしていた。

このカセットテープの中の一曲に中島みゆきさんの『エレーン』の歌があり、
偶然に聴いた『エレーン』に瞬時に私の魂まで揺さぶられ、気が付けば涙を流し、
私は圧倒的に感銘して、この後は5年間ぐらい物狂いのように中島みゆきさんの歌を熱愛した。

多くの方も魅了されたアーティストに対し、
初期作品から聴いてみたいと思うように、私の場合も同様であった。

中島みゆきさんのカセット、CDなどは他社から発売されていたが、
最初のアルバムの『私の声が聴こえますか』から第17作目のアルバム『回帰熱』までのアルバムは、
私は数か月で購入し、物狂いのように毎晩聴いたりしていた。

何よりも多岐にわたる分野を書き分ける才能の豊かさには、圧倒された。
そして中島みゆきさんの綴られた随筆された本も買い求めたり、
中島みゆきさんに関しての評論された本も、当然のごとく購入した。
そして、歌詞集も三冊ばかり熱読したり、
コンサートは恥ずかしながら一回限りであるが、『夜会 第2回』を観たりしていた。

こうしたことの心情については、このサイトに於いて数多く投稿をしてきたので省略はするが、
熱愛が終わり平熱となったが、アルバムだけは殆ど買い求めたりしてきた。


今回、新聞で掲載されていたコンサートツアー『縁会』が、
都心では11月13日、15日、16日の三日間、東京国際フォーラムホールA館で開催される、
と知ったが、《ぴあプレミアム会員限定》などと明記されていた。
私はわざわざ《ぴあプレミアム会員》に入会申込みした後で、コンサートを予約するのが、
少し面倒と思ったりした。

何よりも私は邦楽、洋楽の各アーティストのコンサートを少なくとも10数回を鑑賞してきたが、
私たち観客の熱気が苦手であり、静かに観て、感動した場合は盛大に拍手するタイプであったので、
多くのアーティストのコンサートを見送り、CDだけを買い求めて自宅で愛聴してきた。

こうした意味合いから、せめて映画館で観られる『歌姫』劇場版を鑑賞しょう、
と本日の日中のひととき、出かけて鑑賞した。

http://www.utahime-movie.jp/
☆中島みゆき『歌姫 劇場版』公式サイト☆

私が特に感動したのは、三部構成の第二部の『Live at Sony Pictures Studios in L.A.』と題した、
ロサンジェルスの映画撮影スタジオを2004年9月下旬の二日間で、
貸し切って行われたスタジオライヴに魅せられた・・。

演奏されるミュージシャンやスタッフ、関係者が、スタジオ内部でライブを行う為に、
それぞれ集い、打ち合わせをし、音響も十二分に創意工夫を重ねたりし、
こうした情景は、大きな会場のライブ用のセッテング情景と違い、私なりに好感しながら観たりし、
やがて本演奏の中で、歌い手の中島みゆきさんを始め、それぞれミュージシャンが熱演されるライブ状況であった。

帰路、私は中島みゆきさんの歌のひとつの『地上の星』を心の中で唄いながら歩いた。、
こうした思いは、音楽業界のリストラ烈風が本格的に始まった1999(平成11)年に、
私も無念ながら出向となった体験もあり、あの当時を思い重ねて唄い、帰宅した。

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『にほんブログ村』に加入している私は、『エッセイ』から『60代』に完全移行の思い・・。

2012-10-15 22:53:43 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
この【gooブログ】の私のサイト『夢愛人たわむれ記 ~かりそめ草紙~』に於いて、
『ブログの開設から2,826日』と明示されて、こんなに過ぎたのかしら、
と微苦笑したのである。

そして、昨日までの『トータルアクセス数の閲覧数(PV)は2、986、050、
訪問者数(IP)は629,507と表示され、多いか少ないか判らない、と思ったりしている。

しかし閲覧数(PV)は、ここ3年前後グーグル、マイクロソフトなどの大手のロボット検索で、
大幅に加算されているので、実質数は不明であると苦笑したりしている。


私は2004(平成16)年の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職して、
まもなくブログの世界を知った・・。

最初に【アメーバブログ】に加入して、
『極楽とんぼ ~団塊世代のひとりとして~』と題し、発信名を『極楽とんぼ』と称した。
Webの世界に未熟な私は、戸惑いながら投稿をはじめ、
まもなく賞金ランキングのような形式が公示され、私は投稿をやめた。

そしてブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】に加入し、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、発信名を『風と光』とし、
原則として毎日数通ぐらい投稿したのは、2004(平成16)年11月17日である。

まもなくブログ形式に準じた【すくすくブログ】を知り、
『続・極楽とんぼ』と題し、発信名も『極楽とんぼ』と称し、
気楽に綴れる専用サイトとしたのは、翌年の2005(平成17)年1月11日であった。
一週間ぐらい投稿したが、【gooブログ】を知り、取り止めた。

この後、この【gooブログ】に加入して、
『新・極楽とんぼ日記』と題し、発信名も『極楽とんぼ』と称し、
少し気楽に団塊世代、社会、政治・経済の諸問題を綴ろうと思い、
投稿をはじめたのは、 2005(平成17)年1月19日であり、
この日から2,826日が過ぎた、ということである。

まもなく『極楽とんぼ』と称した芸能人がいることを知り、その上に社会的な不祥事を起し、
関係ない私までコメントが寄せられ、迷惑限りないと思い、心の純潔を汚されたように感じて、
やむなく発信名を『夢逢人〈ゆめあいびと〉』に改称した。


このように【gooブログ】と【簡単gooホームページ】
二刀流のようなことを一年半ばかりし、
【gooブログ】は特に政治・経済に関しては、素人のつたなさ、そして無責任の広言を反省し、
投稿を中止したのである。


その後、2007(平成19)年、肝要の本命である【簡単gooホームページ】が9月末で閉鎖と知り、
8月より半ばより、これまで投稿文が移動できるブログ形式に準じた【OCN Cafe】を知り、
やむなく加入し、『風のように光のように』として、殆ど毎日数通は投稿した。
そして後日には、改題し『風、そして光のように』とした。


この間、2008(平成20)年の春先から、少し悩んだりした・・。
定年退職後の3年半、このように4つのブログ系のサイトに加入して書き散らしてきたが、
4月の初めに、振り返った時、何かしら鍋物の《ごった煮》のような思い、
ひとつのブログ【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』に、
今まで書き散らかした投稿文3000通前後を整理、統合しはじめたりした・・。

そして本格的に2008(平成20)年4月中旬から開始し、
私が幼少時代から年金生活までの生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからである。

私のブログ形式に準じた【OCN Cafe】の『風のように光のように』は、
あたかも新聞の当日分のような存在であり、
余程のことがない限り、過ぎ去った投稿文はわざわざ読んでくれない、
と改めて認識したのである。

そして、集約した【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』に於いては、
カテゴリーのジャンル別に改めて編集した。
そして区分した結果として、あたかも14冊の旧刊本が並んでいると思いながら、
どの本の中で、一編読んでも、もとより私なりの愛惜を秘めたりしている。

そして併設していた【OCN Cafe】の『風のように光のように』(のちに『風、そして光のように』と改題)は、
2010(平成22)年7月で中止し、
これ以来【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』として、
本年の初めの頃に、いつまでも《年金青年》ではないと思い、
『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称している。


私の半生は屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・、
と思いながら、国内旅行で不在とかパソコンが故障しない限り、毎日投稿してきている。

そして数多くの方の投稿文を拝読しながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
私は励まされたり、微笑んだりして、年金生活を過ごしたりしてきた。

私は以前のある旧サイトで、コメントで交流を深めた人も含めた人もいるが、
何かしら『お友達リスト』が掲示機能があった。
そしてサイト上に明示できるので、こうした関連からまもなく100人は超えてしまい、
こうした影響もあり、ランキングの首位に4週間ばかりなったことがある。

しかし、私は気楽にコメントを書くことはできず、
書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプであるので、
時間を要して、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響したので、
原則としてコメントの返信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌したのであった。


私はブログを投稿する際、最後までお読み頂けるように工夫したり、
その上に数多くの方にお読み頂けるように、試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、この当時は150万人の加入数いたので、
私は誰からも読まれなく無視されることは、悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。

こうした意味合いからのひとつの目途として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、ささやかなブログの体験上で学んできた。

そしてあるブログのランキングに加入したりしてきたが、
その後、一昨年の2010〈平成22〉年の秋に、
ブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008〈平成20〉年の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了されていたので放置していたが、
『にほんブログ村』には、投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、
ふたたび本加入させて頂いた。

そして、少しばかり加入ジャンル部門を彷徨〈さまよ〉った上、
小説系の『エッセイ』を90%前後の割合に、シニア系の『60代』10%前後の割合で加入し、
『エッセイ』を重点にランキングを少しばかり気にしたりしてきた。


こうして『にほんブログ村』は、早や3年近くになっているが、
この間に長く私が魅了されて、深く愛読しているサイトがある。

もとより『にほんブログ村』の加入数は64万人以上、
この中の小説系は12,000人、シニア日記系は1,200人は超えているので、
たまたま私が読んで魅了されて、少なくとも半年以上に及び愛読してきたサイトであり、
恥ずかしながら公表すれば、この私のサイトの【ブックマーク】に明示した。

いずれも小説系の『エッセイ』、そしてシニア日記系の『60歳代』で、
魅了されたサイトをご本人のご承諾も得ずに、勝手に掲載させて頂いている。

そして素直に発露すれば、『にほんブログ村』の『お気に入りメンバー』の機能があり、
私は少なくとも男性30名、女性25名を登録して、この方の投稿された愛読者のひとりとなっている。

そして私の『お気に入りメンバー』の方が投稿された文を精読して、
このように日常生活を過ごされている、或いは人生の思いを深く学んでいる。

私は、たかがランキング、されどランキングと思いながら、
この広い空の下で、たまたまランキングなどで未知のお方に、
投稿文の上で、めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そしてこうした中で、コメントを頂いたり、
或いは私は数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感きわまってコメントをしたりしている。


こうした心情で過ごしてきた私は、少しばかり心が揺れている。
私の投稿文の内容の殆どは、年金生活を過ごしている中で、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴っている・・。

しかしまぎれなく私は68歳の身であり、真情としては50代~70代の世代の投稿文を深く読むことが多く、
今回、小説系の『エッセイ』の加入を取りやめて、シニア系の『60代』にすべて集約することにした。
このことは小説系の『エッセイ』の投稿文を読む時間を減らしたく、
私と近いシニア系の『シニア日記』、『60歳代日記』の投稿文を読む時間を増やしたく、
年金生活の私でも、時間に限りあるので、決意した。

私の投稿する内容は、単細胞のつたない身なので、従来通りの形式で綴りますが、
シニア系のシニア系の『シニア日記』、『60歳代日記』の未知の諸兄諸姉、
よろしくお願い致したく、一筆啓上の挨拶とさせて頂きます。

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金木犀、ほのかな匂いを残して、音もなく、ときおり散りはじめて・・。

2012-10-15 10:05:55 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日、私は日中の大半、庭の樹の剪定、草むしりをしていたが、
和室の近く、そして小庭の片隅にある金木犀〈キンモクセイ〉の二本の樹が、
たわわな橙黄色の小花が咲き、満開のような状態で、近寄るとほのかな匂いとなっていた。

平年ならば10月の初めの頃になると、枝先の莟〈つぼみ〉がなり、
やがて一週間が過ぎた頃は、たわわな橙黄色の小花が咲き、あたり周辺に香ばしい匂いを漂(ただよ)わせ、
10数メートル離れていたも、芳香を感じて、この時節の到来を教えられてきた・・。

今年は我が家の金木犀の莟〈つぼみ〉は少ない上、どうしたのかしら、
と少し心配して10月を迎え、私は買物や散策の時に近所の旧家の植木畑に多い金木犀を眺めたりし、
やはり少なかったのである。
今年の夏は熱い日々が続き、9月の下旬の初めの彼岸の頃まで、残暑の厳しい日が多く、
天候のせいかしら、と私は少しばかり落胆したりした。


昨日の朝の9時半過ぎが庭の手入れをして、歩道に隣接した小庭の片隅にある金木犀の樹に近寄って、
初めて橙黄色の小花がたわわに咲き、満開のような状態に気付き、独り微苦笑したりした。
そして昼前後から霧雨となったが、少しばかり泥まみれとなった私は、
今しなくて何日(いつ)するのよ、と自身を叱咤激励して、昼食抜きで3時半過ぎまで、
孤軍奮闘したりした。

今朝、青空が広がる爽やかな秋晴れを迎え、まばゆい陽射しの中、
小庭に下り立ち、かすかな音がするので、風もないのに何かしらと思っていたのであるが、
しばらく解からなかった・・。

そして私は金木犀のほのかな芳香に誘われ、近寄ると、
ときおり小花が音もなく散り、黒土に落下する時に、かすかな音をたてていたのに気付いた。
そして樹元の周囲は黒土の上で、こぼれた橙黄色の小花が彩(いろど)っていた・・。

私は幼年期に農家の児として育てられたので、
このような樹の周辺に橙黄色の小花が黒土の上に落ち、彩〈いろど〉る情景に、
幼年の身ながら確かな美として、感じたりしてきた。

こうした思いを秘めている私は、小花が音もなく散り、黒土に落下する情景に、
しばらく見惚(みと)れ、夢幻のようなひとときを過ごした。

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多くの60代の女性、心身溌剌の秘訣、高齢者の男性の私は少し解り、微苦笑し・・。

2012-10-14 07:41:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
家内は私より5つばかり齢下の身であるが、何かしら心身溌剌として、元気なのである。
私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、年金生活を始め現役時代の緊張感が失くしたせいか、
ここ数年は体力の衰えを実感してきている。

亡くなった私の母、そして家内の母も更年期が過ぎた頃からは、
新たに甦〈よみがえ〉る程に元気になっていた60代の時期もあったので、
女は良〈い〉いよなぁ、と私は家内を見つめたりする時もある。

家内のお供でデパートに買い物に行ったりすると、
婦人服、婦人の雑貨品などを時間を忘れたかのようにゆっくりと選定するので、
私は館内の喫茶店など退避して、待っていることが多い。

そして帰路に食事処に寄ったりして、料理を頂くのであるが、
家内は、『私はこの料理を注文するから、あなたは違う料理を注文したら・・』、
と微笑みながら勧(すす)めるのである。

そして私の料理がテーブルに置かれた後、
『ちよっと失礼・・美味しそうねぇ』
と家内は私に言いながら、私の料理の一部を食べたりするのである。

或いは日常の雑貨品を買い求めに、自宅からの最寄りのホームセンターに行くと、
やはり時間を忘れたかのように、あちらの品こちらの品を見たりしているので、
私はフロアーの片隅にある休憩所のソファーに座り、缶コーヒーなどを飲んだりして、
待っていることが多い。

ときおり私たち夫婦の共通趣味のひとつの国内旅行を行ったりしているが、
私は要所だけ徹底して観たりするが、家内は殆どくまなく観ることが多く、
私は微苦笑したりしている。

そして家内は、『あっちの方も面白そうだから、行きませんか?』
と行楽地のひとつを私を誘うのである。

私は少し疲れていたので、宿泊している観光ホテルでお風呂に入りたいと思っていたが、
『はい! 了解しました・・行きましょう』
と私はやむなく若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく大きな声で応(こた)えた。


昨今、デパートの地下フロアーなど食べ物が相変わらず盛況になっていたり、
都心に新名所が出来たりすると、平日などは女性の60代を中心としたグループが多く訪れる、
と私はテレビのニュースを偶然に視聴して、微苦笑したりしている。

そして60代以上の「シニア」と称される世代の女性たちは、
ファッション業界から熱い視線が注がれている、と私は何かの雑誌で読んだりしたことがあった。

何かしら2千万人超という規模に加え、団塊世代を含めたこの世代はおしゃれへの関心も高く、
市場規模は3兆円近いらしく、通販会社などはシニア女性向けのカタログを創刊したり、
デパートでは専用フロアを設けたりするなど、シニア女性を取り込もうとさまざまな動きが広がっている、
とこのような概要が記されたりしていた。

或いは三菱総合研究所が2年前に意識調査を行った結果、
高齢者層を『プラチナ・エイジング世代』と命名し、60歳以上の衣料品に対する支出は約3・4兆円と試算し、
更に潜在的需要の2・4兆円と併せた市場規模は約6兆円に上り、女性の場合はその半分とみている、
と私は以前に新聞で読んだりした。


昨日の昼下がりに、昨日に買い求めた『阿川佐和子の世界一受けたい授業』(文藝春秋)を読んでいた時、
私はソファーから転げ落ちそうになった。

本書は阿川佐和子さんが『週刊文春』で対談連載をしてきた中で、
編集部が14名の方を厳選して、第一人者14人に奥義を学ぶ、と副題に明記されている。

この中のひとりの建築家・安藤忠雄(あんどう・ただお)氏と対談(2006年3月30日号)の中で、
《・・日本の女性は60歳でも、ヨーロッパの40歳よりも若いでしょ。
   (略)
 日本の女性の元気な秘訣は好奇心ですね。
 表参道ヒルズができて思ったんですけれど、来ている人の7、8割が女性ですよ。・・》

私はこれまでの人生に於いて、何事も好奇心を失くしたら、この人生は終わりだ、と信念を秘めてきたので、
60代の多くの女性も、《・・元気な秘訣は好奇心・・》と安藤忠雄氏が発露され、
私はソファーから転げ落ちそうになった。

そして私と同じような思いでも、私は無念ながら体力の衰えを実感してきているので、
女の人は良〈い〉いよなぁ、と私は心の中で呟(つぶや)いたりした。

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愚図の高齢者の私でも、何かと慌ただしく、過ぎし一週間を過ごして・・。

2012-10-13 12:11:18 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

年金生活の直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前まで民間会社の中小業に勤め、多忙過ごした思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住みながら、
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりしていた。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
独りで 毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

もとより年金生活を過ごすと、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

我が家は年金生活なので、原則として厚生年金とわずかな企業年金の年金支給額で平素の生活を過ごし、
国内旅行、冠婚葬祭、そして耐久品などの購入は、
程ほどの貯金を取り崩して過ごしているので、ごくありふれた年金の家庭であると思ったりしている。


このような年金生活を過ごしているが、先ほど、ぼんやりと過ぎし一週間を振り返ると、
何かと慌ただしく、過ごしてきたというのが実感であった。

平素の買物担当の私は、毎日のように独りで駅前のスーパー、専門店にひたすら歩き行ったりし、
本屋に寄ったりしてきたし、
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受してきた。
そして一日だけは、家内のボディー・カード兼お供で、駅前の専門店、スーパーに行き、
日中の大半を過ごしてきた。

そして過ぎしの一日、家内は私の夏から秋用のスポーツシャツ、長ズボン、下着、靴下など衣替えの整理をしたり、
我が家の各部屋で夏季に十二分に効果してくれた簾(すだれ)を取り外し、
カーテンなどを秋模様にしたりし、
この間の私は、庭の樹木の剪定や草むしりなどをしたりしてきた。

読書にしても、買い求めてきた松戸清裕・著作の『ソ連史』(ちくま新書)を読んだ後、
坂野潤治・著作の『日本近代史』(ちくま新書)を大半読んでいる中、
たまたま10日となり、月刊総合雑誌の『文藝春秋』の11月号を購読してきた。

この程度であったので、余り平素のペースと変わらないのであったが、
何かと慌ただしく過ごしてきたのは、大リーグの野球をテレビ観戦をしてきたと思える。

大リーグの野球にも余り関心がなかった私は、今年からダルビッシュ投手が、
テキサス・レンジャーズに入団したので、どのくらい活躍できるか、
と素人(しろうと)の私でも注視し、数多くテレビ観戦をしてきた。
そして予測した以上に日ごとに順応し奮戦して下さり、私は微笑んだりしてきた。

その後、イチロー選手がシアトル・マリナーズからニューヨーク・ヤンキースに移籍し、
私も注視し、ニューヨーク・ヤンキースの放映されるテレビ観戦をし、
何よりも黒田投手の奮闘に賞賛をしたりしてきた。

こうした中で、ここ一週間は、ヤンキースとボルチモア・オリオールズとの地区シリーズの連戦をテレビ観戦し、
本日の午前中も第5戦(最終戦)を視聴し、ヤンキースが3勝2敗とし、
2年ぶりにア・リーグ優勝決定シリーズ進出を決め、この連戦中の黒田投手、イチロー選手の活躍に、
悦んだひとりであった。

このように過ぎし一週間は平年と違い、ヤンキースとオリオールズとの地区シリーズをテレビ観戦してしまい、
愚図で高齢者4年生の私でも、何かと慌ただしく過ごし、微苦笑をしている。

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“ロコモ”って何ぁに、と学んだ後、高齢者の私は奮起して、ともかく歩けと叱咤し・・。

2012-10-12 09:06:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
昨日は日中の大半を家内のお供で買物して帰宅した後、
夕暮れのひとときパソコンを開き、トップページとして【YAHOO! JAPAN】を設定しているが、
この中の【雑誌】コーナーを見たりしていたが、この中のひとつの見出しに、
《 メタボより怖いのは「ロコモ」!?  40代からの対策で“大きな差” 》
と題された記事が掲載されていた。

恥ずかしながら私は、“ロコモ”は無知であり、メタボより怖いと明記され、
どのようなことなのょ、と何事も好奇心を失くしたら、この人生は終わりだ、と信念を秘めたりしているので、
こっそりとクリックしてしまった。

そして、この記事を配信元は、ときおり購読している『日経トレンディ』から配信された記事だったので、
信頼できると思いながら読みはじめた。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20121011-00000002-trendy-ind
☆【YAHOO! JAPAN】<==
     【nikkei TRENDYnet】<==《 メタボより怖いのは「ロコモ」!?  40代からの対策で“大きな差”》 ☆

私が読み終わった後、若き40代の諸兄諸姉も重要な要文があるが、
もとより私は高齢者の身で、何よりも寝たきりがこの世で一番怖いので、桑原恵美子さんの綴られた文を、
切実な思いで高齢者用に整理統合したりした。
無断ながら大半を引用させて頂く。
《・・
政府が「メタボ」の次に広めようとしているのが「ロコモ」。
聞いたこともないという人が多いと思うが、ロコモとはいったい何なのか?

厚労省が2003年から進めている国民の健康づくり運動「健康日本21」は、2013年2月で10年間の「第1次計画」期間が終了。
2013年3月から次の10年間を対象にした「第2次計画」がスタートする。
「第1次計画」で目指していた目標のひとつが「メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)」の認知度向上だった。
そのキャンペーンが功を奏し、スタート当時は2割程度だった「メタボ」という言葉の認知度は9割まで上昇している。

そして、これから政府が広めようとしているのが「ロコモ」。
現在、ロコモの認知度は17%程度(60代以上では30%)だが、
政府は来年から始まる第2次計画で8割まで高めることを目標としている。
若い世代だと「聞いたこともない」という人が多いのではないだろうか。

はたして、ロコモとは何なのか。
「日本ロコモティブシンドローム研究会」を設立して同研究会委員長を務め、
現在「ロコモ チャレンジ! 推進協議会」副委員長でもある大江隆史氏に聞いた。

ロコモは「ロコモティブ(Locomotive)シンドローム」(運動器症候群)の略。
Locomotiveは「運動の」という意味(機関車という意味もある)で、
骨や筋肉、関節など体を動かすために必要な「運動器」を表す。
運動器は加齢によりその働きが衰えるため、歩く、立つなどの移動能力が衰え、生活の自立度が低くなる。
その結果、介護が必要となってしまう。
ロコモのためにメタボになって血管障害を併発したり、認知症を併発したりすることにもなるという。

つまりロコモとは、「現在は自立できているが、近い将来、要介護になる危険性が高い症状を持っている状態や、
すでに要介護になってしまっている状態」を表す言葉ということになる。

そもそもロコモという言葉が誕生したのは、どのような理由があるのか。
厚労省のデータによると、介護保険制度が導入された2000年度、
要介護(要支援)認定者数は256万人だったが、2012年5月の段階で535万人と2倍以上に増えている。
介護が必要になる原因を見ると、約4分の1が運動機器の障害。
要介護認定を受けている人の4分の1(女性は3分の1)、要支援認定を受けている人の3分の1が運動器の障害が原因というデータもある。
「近年、整形外科の臨床の現場では運動器の障害を持つ高齢者の患者が急増し、対応しきれない状況」(大江氏)という。

脳卒中やがんなど、命にかかわる病気については危機感を感じている人が多く、予防への関心が高い。
しかし運動機器の障害も要介護に直結する危険な障害であるにもかかわらず、
それに気づいていない人が圧倒的に多く、実態と認識に大きなズレがある。
そうした状況に危機を感じた日本整形外科学会が、
「多くの人にその危機的状況を知ってもらうためには新しい言葉が必要」と考え、
2007年に「ロコモティブシンドローム」という言葉を作って発表したという。

大江氏によると、ロコモの3代原因は

(1)筋力低下
(2)バランス能力低下
(3)運動器の疾患

最近、「筋肉が減ってきた」「転びやすくなった」などの心当たりがある人は、
もうロコモの入口に立っているといえる。
なかでも女性は男性に比べて骨も筋肉も弱いので、ロコモになりやすいという。
「ロコモは女性の病気といえるかもしれない」(大江氏)というほどなので、要注意だ。

(3)の「運動器の疾患」でロコモの原因となる3大疾患は
「骨粗鬆(こつそしょう)症」「変形性関節症」「脊柱管狭窄(せきちゅうかんきょうさく)症」。
このうち、脊柱管狭窄症(背骨の内部の神経が圧迫されて足腰のしびれや痛みが出る症状)は悪化する原因がよく分かっていないが、
「骨粗鬆症」「変形性関節症」は若いころから気を付けていれば予防したり改善したりすることができるという。

ロコモは、「骨」「関節」「筋肉」それぞれの働きが加齢によって低下することから始まる。
その順番は以下の通り。

加齢により筋肉が減少し、骨強度が低下していく↓
筋肉は骨と関節を支えているので、筋肉が減少すると関節に過剰な負担がかかり、痛みを伴うようになる
↓骨量が低下しているうえに筋肉のサポートがなくなるので、ささいなことで骨折しやすくなる
↓歩行困難になる↓運動不足により、健康状態が悪化↓介護が必要になる 
つまり、ロコモの入口である「筋肉の衰え」「骨強度の低下」「軟骨の摩耗」を食い止めれば、
ロコモは予防できることになる。

そのためにはどうしたらいいのか。

筋力は何もしないと加齢とともに確実に減少する。
最大の理由は、大人になると大半の人が運動習慣から遠ざかってしまい、子供のころに備わっていた筋肉が失われてしまうこと。
なかでも衰えやすいのが、速い大きな動きをする下半身の筋肉(ひざから上)だが、
これは運動など普段の生活習慣による個人差が大きい。

80歳ではその差が約3倍にもなるといわれている。
例えば、肺活量などは元気な人と寝たきりの人でも3倍までは差がつかない。

筋力の衰えが最も分かりやすいのは「歩行速度」。
「最近、歩いていて若い人に追い越されることが多くなった」と感じたら、足の筋力が衰えている証拠だ。

筋肉の衰えを自覚しているならば、体を動かすように生活改善をしないといけない。

食事も大事だ。筋肉はタンパク質などの材料がないとつかない。
また運動をすると筋肉でエネルギーを燃やすので、運動をしてもたんぱく質が不足すると、筋肉はむしろ減少してしまう。
良質のたんぱく質をしっかり摂ることを心がけたい。
筋肉をつけるには1日に60~70gのたんぱく質を摂ることが必要だが、この量をしっかり摂るのはなかなか難しいという。

骨がスカスカになってもろくなる「骨粗鬆症」は命にかかわる病気ではないため、軽く見られがち。
だが、「柔道やレスリングの試合を見ても分かるように、
本来骨というのは丈夫にできていて、少しくらいの圧力が加わったくらいでは折れないもの。
普通の生活をしていて骨が折れたりひびが入ったりする人は、すでに“危機的な段階”といえる。

例えば、高血圧の人にとって脳血管がつまるのが危機的な段階であるのと同じと考えてほしい」(大江氏)。
特に女性は40代後半から骨にカルシウムを吸着させる働きがある女性ホルモンが急激に減少するため、
閉経後は骨のカルシウム吸収力が低下し、骨粗鬆症になりやすい。

骨粗鬆症の人は骨が折れやすい順番があり、50代では手首、足首。
そのときに骨粗鬆症の治療をせずに放置すると60代では背骨や脊椎が折れやすくなり、70代では太ももの付け根が折れやすくなる。
そうなるともう歩行困難なので、寝たきりになる場合が多いという。
「疫学的な統計を見ても、1回骨折をした人は2回目の骨折をする危険性が約2倍。
高齢者では3倍位上になる場合もある。
ちょっとしたことで骨折し心当たりがある人は、自分の骨密度を測定する必要がある」(大江氏)という。

怖い話が続いているが、明るいニュースもある。
ここ数年で骨密度の検査法は飛躍的に進歩し、
保険診療で受けられる「血液検査」で骨のカルシウム吸収と排出のバランスまで分かるようになった。
またその人のカルシウムの出入りのタイプ、骨粗鬆症の重症度に合った治療薬もできている。
だからちょっとした衝撃で骨折したような場合、骨密度を測定したほうがよさそうだ。

骨の強度アップもまた食事がポイントになる。
骨の強度を決めるのはカルシウムだと思われているが、それだけではない。
カルシウムを骨に結びつけるコラーゲン(たんぱく質)の量や質も関わっている。
筋肉だけでなく骨を作るためにも、カルシウムとともに良質のたんぱく質をしっかり摂ることが必要だ。

筋肉や骨と比べて難しいのが、一度減ってしまうと増やすことができない「軟骨」だ。
中高年にはグルコサミンのサプリメントが人気だが、関節の軟骨には血管がないので、栄養を補給しても届かないという。
ではどうやって軟骨に栄養を補給しているかというと、
関節の中にある水分が動いたときの重力によって軟骨に浸透し、栄養分が染み込む。
つまり軟骨は動かさないと減る一方だが、動かし続けることで摩耗を食い止めることができるということだ。

さらに筋肉をつけることで関節に加わる衝撃を調節し、痛みを和らげることができる。
つまり関節を動かし続けて負荷をかけ栄養を補給すること、
適度な運動で筋肉をつけることで摩耗による痛みを抑えられるのだ。

膝が痛いからといって動かずにいると少しの動きでも痛みを感じるようになってしまうので、
できる範囲でストレッチなどを行ったほうがいいという。
ただし痛みが続く場合は、無理に運動を続けずに医師に相談すること。
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

私は2004〈平成16〉年の秋に定年後、
年金生活を始めて自主的に日常の買物を担当となっている。

私の住む所は最寄駅としては京王線の場合は『仙川』、『つつじヶ丘』駅、
そして小田急線だと『成城学園前』、『喜多見』、『狛江』駅、
いずれもほぼ中間地点で、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みの辺鄙な処に、
結婚の5年前後を除き63年住んでいる。

そして、これらの駅前までの道のりは、徒歩で15分から25分程度であり、
それぞれ路線バスは頻繁に走っているが、私は根がケチなせいか路線バスに乗るのことなく、
散歩代わりに、ひたすら歩いたりしてきている。
或いは旅行、冠婚葬祭、都心に買い物などの場合は、バス、タクシーを利用すると10分足らずである。

こうした中で、寄のスーパーの2店に10分たらずで買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパーの10店に行ったりし、
本屋に寄ったりすることが多い。
その後は、自宅から数キロ以内を散策する時もある。

このような生活をしているが、今回、ロコモ、初めて学んだ後、
歩けなくなったら、私の人生は終わりだ、と高齢者の私は奮起して、
三食を定時に食べ、よく眠り、ともかく歩けと自身を叱咤激励をしている・・。

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『平成』の時代が24年過ぎている今、高齢者の私がぼんやりと思い馳せることは・・。

2012-10-11 17:03:56 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
1944〈昭和19)年初秋に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
天皇家には何かと敬(うやま)う空気の中で家庭で育ち、
昭和天皇に関しては、私の40代かばまで『昭和』の時代で過ごしたので、
もとより自己形成、歴史観などで、多大な影響を受けていた。

1988(昭和63)年の晩秋、私はこの頃、音楽業界のあるレコード会社に勤務して15年が過ぎ、
管理部門の情報畑で、4月より実施される『消費税』のシステム対応の開発に追われていた。
こうした中で、昭和天皇が病状が悪化し、社会は何かと自粛の空気につつまれていた・・。

そして、私の勤めていた会社でも、音楽の世界では世界的な有名な『ボン・ジョヴィ』と命名したロック・グループが、
日本のある大手家電メーカーが強力なスポンサーとなり、
年末に日本で公演されることになり、テンカウントダウンを華はなしく実施する予定が、なぜか中止となり、
せっかくのチャンスだったのに、と私なりに落胆をしたりしていた・・。

そして1989(昭和64)年の1月7日の朝、
私は昭和天皇が崩御された、とNHKのテレビのニュースで視聴し、
とうとう陛下様は亡くなわれてしまった、というのが率直な思いであった。

私はいつものように出社し、社内の恒例の朝礼の時、
専務取締役の指示で、フロアーを共にした各部署の一同は、
皇居の方面に向かい、黙祷をささげた。

その後の私は、4月から『消費税』の対応策で多忙な身である上、
更に『昭和』から新たな『平成』と制定されると、
コンピュータの和暦の表示を『請求書』に至るまで改定したので、慌しい日々を過ごしていた。

こうしたこともあるが私の心情は、平成元年といわれるより、
昭和64年といった方が心身の波長が合うので、何かしら戸惑ったのは事実である。

もとより平成の時代は、昭和天皇がご逝去されたのが1989(昭和64)年1月7日により、
平成元年は1月8日から初まり、早くも本年は平成24年となっている。


私は平成の時代の始まりを思う時、
何故かしら1989(平成元年)年11月9日から東ドイツが
市民に寄る『ベルリンの壁』を実質的に撤去の出来事と重ねてしまうのである。

この後、米ソの冷戦構造が終結され、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、
やがて社会が一変したからである。

このした中で、私たち日本の生活に於いて急速に変貌したのは、アナログからデジタルに変貌したこと、
そして水をペットボトルなどで購入したことなどを思い馳せたりした・・。

音楽の録音品のレコード、カセットはCDに普及して平成を迎え、
録画のビデオ・テープは平成になってまもなくDVDに変貌し、昨今はブルー・ディスクも普及している。
そして音楽配信が携帯電話が主流で普及し、昨今はスマートフォンに活性化の時代を迎えている。

こうしたことは国民全体からは、音楽愛好者に限られて実感度は薄いと思われるが、
圧倒的に社会を変貌させたことはパソコンが普及し、インターネットの急激な浸透である。
1995(平成7年)の秋に『Windows 95』が発売され、それまでのパソコン愛好者、専門職を領域から、
大衆化したことである。
そして、これに連動して、インターネットが急激に普及し、ネット通販の隆盛となっている。

もうひとつの変貌は、モバイル情報の発生であり、携帯電話の急激に普及であり、
そして昨今はスマートフォンに活性化の時代を迎えている。

映画のオリバー・ストーン『ウォール街』は1987(昭和62)年にアメリカで公開された作品であるが、
冷酷で貪欲な投資銀行家が、浜辺で大きな携帯電話を持ち、会話しているシーンがある。
確か、この頃は大きめのラジカセのような形の携帯電話であり、破格な高価な品であった。

平成になると、形も性能も向上、価格も廉くなり、昨今は日本で一億台突破となり、
殆どの日本人が愛用し、ここ数年は高性能のスマートフォンの急速に普及となっている。

私は20世紀の時代は、テレビと原子爆弾の世紀だった、といわれたりしているが、
こうしたことを流用すれば、
平成の時代は、ネットとモバイルの代表の携帯電話、と断言したくなる。

こうした中で、何よりも変貌の実感をさせられたことは、
一部の専門のマスコミ、著名人などから発信できる時代から、
誰でも簡易に発信できる時代となり、こうしたことは文明史上初めてのことである。

もうひとつの日常生活に於いて、水を買い求める時代である。
『缶』から『ペットボトル』に変貌しているが、私は日常の外出先とか旅先で、
自動販売機で煎茶のペットボトルを買い求めることが多い。
これも平成の時代の始まりの頃からと記憶している。


私は煙草の愛煙家のひとりであるが、日本に嫌煙ブームが始まったのも平成になってからである。
喫茶店でテーブルの上には、灰皿と喫茶店独自のマッチが置いてあったりした。
飛行機の機内でも水平飛行になれば、スーモキング・ランプが点(つ)いたり、
そしてJRの車内の座席の脇に灰皿が設置されたりして、ときおり煙草を喫う方が見られたりした。

私がギックリ腰が酷く入院生活を1991(平成3)年の頃は、
整形外科のフロアーの片隅に喫煙コーナーがあり、
煙草を吸わない人でも憩いの場として、団欒していたのである。


私は定年退職した2004〈平成16〉年後は、
年金生活をしているので社会状況に疎(うと)く、もとより若き諸兄諸姉はご存知であるから、省略する。

こうしたことを思いつくまま馳せたりし、
昭和の時代が終わり、平成の時代になってから大きく変貌したことを綴ってきたが、
私は何より社会が劣化し、言葉、しぐさが雑になった、と憂いている。

そして平成の時代に育ち、現在は10代、成人となられた世代の方たちに、
たとえば映画の小津安二郎・監督の『東京物語』(1953年=昭和28年)を観た時、
どのように反応するのかしら、と齢を重ねた68歳の私は限りなく関心がある・・。

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文愛人の私は、本日は『文藝春秋』の発売日だ、と心の中で呟(つぶや)きながら・・。

2012-10-10 14:23:10 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
毎月10日は、定年後の8年近くささやかな楽しみのひとつがある。

月刊総合雑誌のひとつの『文藝春秋』が発売される日であり、
今月11月号はどのような特集記事を掲載されるか、
と前月の9月10日に発売された10月号を読了後、思いめぐらしたりしてきた。

前月の10月号のに於いては、次号の11月号の予告として、
《 【大特集】大人の読書 》のタイトルと概要だけが掲載されていたが、
もとよりこの間に緊急時事問題などは発生し、月刊誌の使命として急遽変更せざるを得ないので、
『文藝春秋』の編集部の諸兄諸姉は、どのような特集記事を採りあげる、
つたない私なりに興味をいだいているのである。


今朝いつものように購読している読売新聞の朝刊を見ていたら、
出版の広告として、本日10日発売の月刊総合雑誌の11月号の『文藝春秋』、『中央公論』が掲載されていた。
そして『文藝春秋』の大特集として、
総力特集として《 日中文明の衝突 》と題され、
やはり月刊誌の使命として取り上げざるを得ない、と微苦笑をさせられた。

大特集として《 名著再発見 六十歳になったら読み返したい41冊 》
と明記され、各界の著名人が推薦される作品を紹介される記事のようで、
私に心身波長に合った記事かしら、と微笑んだりした。

大型企画として《 英「エコノミスト」誌が分析した 2050年の日本 》
と命題を掲げられていた。
私も英「エコノミスト」誌が分析した2050年の日本の概要は、
ネットで掲載されていた記事を読んだりしたが、私は興味を覚えことなく、そうですか、
この程度であった。

私は少なくとも18年先の2030年問題が最大関心となっている。
試算すれば、この時は私は86歳となる年であり、家内も81歳となり、
この世に存命できているか、あの世に行っているか、もとより不明であるが、
果たして日本が2030年の社会はどのような変貌するのか、
日頃から思索する課題のひとつでもある。

しかしながら、私たち夫婦は子供も恵まれなかった為か、
その20年先の2050年は、私たち夫婦は既にあの世に行っているので、
想像の範囲を超えているので、私たち夫婦にとっては、せんなきことと思ったりしている。

このようなことをぼんやりと思ったりした。


私は『文藝春秋』に関しては、1970〈昭和45〉年の春から、毎月買い求めているが、
『中央公論』は特集に関心した時は、購読しているのが、ここ40数年の習性である。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このように定年後からの生活を過ごしてきたが、
私が読書に目覚めたのは、恥ずかしながら高校生になってからである。
活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、そして行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。

そして年金生活の今でも本屋で、雑誌コーナーで月刊誌、季刊誌、臨時特別号を眺めた後、
単行本、新書本、文庫本のコーナーを見たりする。
或いは、、ときには古本屋に行き、読みたい本を探し求めて購読し、
早や50数年過ぎている・・。

昨今は、私もネットから多々読むこともあり、活字中毒の私は一辺倒もままならなくなり、
苦笑する時もある。


私の高校時代は、人並みに文学の小説、随筆の文庫本、単行本を買い求めたりしていたが、
授業の時事に魅了されし、週刊誌の『朝日ジャーナル』を買い求め、
海の彼方のケネディなどの政治家に心酔したりした。

大学に入学する前後から、映画専門雑誌の『キネマ旬報』に熱中し、
小学4年生の頃から独りでたびたび映画館に通ったりしてきた体験も加わり、
これが原因で大学を中退し、シナリオライターをめざして養成所に入所し、
アルバイトなどをしながら、映画青年の真似事の期間を過ごしたりしていた。

その後、講師の知人のアドバイスを頂き、小説の習作に移り、
契約社員の警備員などをし生活費の確保と空き時間を活用して、文学青年のような真似事をして、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を精読したり、
総合月刊雑誌の『文藝春秋』を不定期に購読していた。

この間、純文学の新人賞に応募したが、最終候補の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。


やむなく民間会社に中途入社をする為に、
技術を習得しょうとコンピュータの専門学校に一年ばかり学んだ後、
この当時は映像・音響メーカーの大企業だった会社に、何とか中途入社をしたのは、
25歳の時であり、遅ればせながら、社会人のひとりとなった。

この時から社会人としての常識が欠けていたので、
総合月刊雑誌の『世界』、『中央公論』、『文藝春秋』を毎月読んで、
まもなく転籍させられた会社がレコード会社であり、音楽に何の素養のない私であったので、
音楽専門月刊誌の『レコード芸術』を必死に読んだりしていた。

この頃は私は血気盛んな独身青年であったので、娯楽週刊誌の『平凡パンチ』まで読んでいたので、
一時期は『世界』から『平凡パンチ』まで雑誌を読んでいるのは、
日本広しといえども私ぐらい、と自惚(うぬぼ)れしてもいた時期であった。

50代の初めの頃に、教養娯楽雑誌の『サライ』を知り、
その後、パソコン初心者向けの『暮らしとパソコン』、ビジネス週刊誌の『日経ビジネス』、
音楽専門の週刊誌の『オリコン』なども買い求めたりしていた。

そして2004(平成16)年の秋の定年退職の4年前頃は、
大人の生き方誌と称された『ほんとうの時代』を精読し、私の退職後の生活を明確に思考していた。

定年退職後まもなくして、めぐり逢えたのは季刊誌の『文藝春秋SPECIAL』であり、
私の心身の波長に合うのである。

ここ数年の状況は、定期に購読しているのは月刊誌の『文藝春秋』であり、
25歳からの総合雑誌として持続しているので、毎月逢える私の心の友としている。
そして季節をめぐる毎には『文藝春秋SPECIAL』を秘かな恋人のように愛読している。

こうした中で、本屋の書棚で『中央公論』、『新潮45』、『サライ』など特集に魅せられた場合は、
買い求めたりしている。

書籍に於いては、定年後からは塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、
三浦朱門、阿川弘之、高峰秀子、中西輝政の各氏の作品を中核に、
単行本、新書本、文庫本を購読している。

このように文愛人のひとりの私は、
定年後に日常の買物専任者となった私は急いで2店のスーパーを廻った後、
11月号の『文藝春秋』を買い求めて、先ほどから、ほっとしながら読みはじめている。


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何かと暑さに苦手な私でも、本日より秋の装(よそ)いに衣替えとなり、微笑み・・。

2012-10-09 11:53:05 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住む年金生活の68歳の身であり.
朝の5時半に起床した後、ぼんやりとしていたら肌寒いのである。
私は夏用のバジャマを着ていたので、家内は寒いじゃないの、と笑われた・・。

私の住む地域は、過ぎし9月になっても、何かと平年より残暑厳しかったが、
『秋分の日』の前の彼岸入りの頃から、やはり古人からの寒さ暑さ彼岸までの伝承の通り、
初秋の風の匂いを感じながら、何かと暑さの苦手な私は、微笑んだりしていた。

その後の私は、いつものように夏用の半袖とか長袖のスポーツシャツ、長ズボンの洋装をしたりしていたが、
家内は早くもスリー・シーズンの装(よそ)いとなった。

昨日、爽(さわ)やかな秋晴れの日中、私は庭の剪定、草むしりに奮闘している間、
家内は部屋の中で、私の秋にふさわしいスリー・シーズンの長袖のスポーツシャツ、長ズボンを取りだして、
衣装部屋のハンガーなどに吊るしたり、夏用の9割方を押し入れの衣装ケースに収納した、
と私は夕暮れ時に家内より伝えられた。


私はバジャマのままで、庭のテラスに下り立つと、曇り空の中、微風を全身で受けると、
寒いじゃないの、と苦笑しながら退散して居間に戻った。
そして私は家内に、今日から秋の服装にするよ、と言ったりした。

この後、スリー・シーズンの長袖のスポーツシャツ、長ズボンに着替えたりした。
普段着の5月の初めの頃まで春の長い期間に愛用してきた品のひとつである。

まもなくして地元の天気情報を視聴していたら、
朝の6時は16度、昼下りは22度前後、夜の6時は19度前後、
曇り空でひんやりと寒さを感じる朝ですが、昼前までには快晴となり、爽やかな秋晴れとなります、
と報じていた。

こうした天気情報を視聴した後、私は微笑んだりした。
これからの時節は、秋晴れの爽やかな天候に恵まれることが多く、
やがて秋日和を迎える頃は、落葉樹の数多くの葉が朱紅色、黄色に染められる錦繍〈きんしゅう〉の時節を迎えるので、
私はこの時節は、スリー・シーズンの長袖のスポーツシャツを日中だけは腕まくりして散策したりしてきた。
何よりもエアコンの冷気、ガスファンヒーターの暖房にお世話になることもなく、
最も過ごしやすい時節と感じている。

こうした快適な中で、農業、果樹業の方たちが労苦の成果とした農作物、果物を頂いたり、
散策をしながら、ときには心の中で小躍〈こおど〉りし、秋の訪れから深まりゆく情景を享受し、
定年後の私は、毎年この時節を過ごしてきた。

私は根が単細胞であるので、暑さに苦手な身としては、これからは時節は天上の神々からの何よりの贈り物だ、
と微笑んだりしている。

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伊予地方産の柚子(ゆず)の樹、東京郊外でも季節の移ろいと共に過ごし、愛(いと)おしく・・・。

2012-10-08 18:16:24 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
『体育の日』を迎えて、働いて下さる現役の諸兄諸姉の多くは、三連休の最終日かしらと思い、
せめて休日の時ぐらいの時は、ご家族でゆっくりと過ごして下さい、とぼんやりと思ったりした。
そして行楽地に行かれたり、ハイキングを楽しまれたり、或いは公園で安息過ごしているかしら、
と私は微笑んだりした。

高齢者の私は『体育の日』は運動ぐらいと思っても、
平素はときにはウォーキングをするが、大半はひたすら自宅周辺を数キロ周辺を歩き散策する程度となっている。
せめて『体育の日』に対応して体力テストの代わり、庭の手入れをしょうと決意した。

朝の10時過ぎに爽やかな秋晴れの22度前後の中、樹木の剪定をしたり草むしりを孤軍奮闘していると、
やはり少し汗まみれ、やがて泥まみれとなったりした。
そして一時間毎に、庭のテラスに簡易椅子を置いてに腰かけ、10分ばかり休憩したりした。

ときおり微風が吹き、身をゆだねると、秋めいた風は心地よく、微笑んだりした。
そして、冷茶を飲み、煙草を喫ったりし、今しなくてはいつするのよ、
と心の中で気合いを入れて、昼食抜きで奮戦し、午後4時過ぎに体力の限界を感じて、
少しばかり清々(すがすが)しくなったで、庭の手入れは終了、と心の中で言ったりした。

この間、簡易椅子を置いてに腰かけ休憩している時、
庭の片隅に飢えているたった1本の柚子の樹を眺めたりし、微苦笑をしたりした。
この柚子の樹は、小ぶりの実が成る伊予地方(現在・愛媛県にあたる)産の樹である。


35年前、私の生家の近くに家を建てた後、
徒歩45分ばかり歩いた先に都立神代植物園に家内と共に行き、
帰路、深大寺の近い花木が多い苗木屋さんに立ち寄り、買い求めた品であった。

私の幼年期は農家の児として生を受け、宅地の外れに大きな柚子の樹があり、
晩秋になると、祖父が長い竹竿(たけざお)で捥(も)いだりし、
黄色い色艶した大きな実が数多く収穫できた・・。
そして、 お正月の御雑煮などに、幼児の私でも一切れ入れてもらったり、
祖父や父の晩酌の友としたり、春先までの大人楽しみの食べ物のひとつだった。

このような幼年期のささやかな体験があったので、
苗木屋さんで、柚子の樹に買い求めようかなぁ、と思っていたのである・・。
そして私は柚子の苗木を見たりしていた時、
『旦那さん、この柚子の樹・・お買い得よ・・』
と店の奥さんから声を掛けられた。

私は見ると、鉢に入った根元2センチぐらい、樹高は80センチぐらいで、
一人前に接木したあった。

『おねえさんさぁ・・その柚子の樹、少し小さ過ぎない?』
と私は言った。

『あらぁ、旦那さん・・伊予(いよ)地方の柚子なの、
この辺に成る大きめの実と違うけれど・・小振りな実で評判良いわょ・・』
と店の奥さんは微笑みながら、私に言った。

『小振りは、解ったけれど、実は成るかなぁ・・』
と私は言った。

『心配なしょ・・数年したら、食べきれなく程、成ります』
と店の奥さんは私に力強く言った。

『そうですか。実が成ったら、家から出荷するか』
とB型のお調子者の私は、明るく言ったりした。


こうして私は買い求めて、主庭の一箇所に植え、水をたっぷり上げた。
その後、肥料を施(ほどこ)し、数年過ぎた。

しかし花が咲かず、実も成らなかった。

『XXちゃん、地植えが駄目なのかなぁ』
と私は家内に言ったりした。

『貴方、柚子は実が成るまで時間が掛かると言うじゃ、ありませんの・・
柚の馬鹿・・何とか・・』
と家内は笑いながら、私に言った。

『苗木屋さんの奥さん・・調子良すぎだったなぁ・・』
と私は苗木屋さんの奥さんの顔としぐさを思い馳せながら、家内に言ったりした。

『・・』
家内は笑ってばかりだった。

『だまされたかなぁ・・』
と私は呟(つぶや)くように、未練たらしく言った。

この後、私は伊予地方と東京の郊外では、土壌が違うのか、
或いは主(あるじ)の私に反抗して、のろまな態度なのか、私は心配したりした。

こうして7年が過ぎた後、5月になると、突然に純白の花が咲いた。
そして秋になると、ゴルフホールぐらいの実が三つばかり収穫ができて、
これが小ぶりの実のなる伊予産地の柚子かょ、と私は微苦笑を重ねたりした。

翌年の5月になると、若芽が伸びたので、刈り込んだ。
栄養分を主木から枝に行き渡らす為に、程ほどに刈り込んだのである。
しかし私の期待に反して、この秋、収穫ゼロとなった。

それから数年、刈り込まず、肥料も与えず、草むしりだけは丁重にするだけで、
自力で成長しなさい、とあえて放置した。

そして秋になると、実に10数個ばかり収穫があった。


私が定年退職する10年前の頃からは、百個は超える実が成った。
この秋の時は、たわわな緑色の実を眺め、
『XXちゃんさぁ、やっと念願どおりになったょ・・』
と私は家内に高揚しながら言ったりした。

そして晩秋になると、緑色の実は淡い黄色に染められ、
やがて黄色になる頃は12月を迎えたりした。

このように我が家の伊予柚子は、苦節10数年の歳月を要したりである。


その後、5月初旬の頃になれば、
伊予柚子の枝からは、たわわに白い花を咲かせ、
私は微笑みながら、この樹木の下とその周辺を草むしりをしたりする時、

♪白い花が 咲いていた
 ふるさとの 遠い夢の日
【『白い花の咲く頃』 作詞・寺尾智沙、作曲・田村しげる、唄・岡本敦郎 】

と思わずかぼそい声で鼻歌を唄ったりしている。

秋になると、週に一回、柚子を7つぐらい捥(も)ぎ、冷蔵庫の野菜コーナーに保管する。
そして夕食の前に、私はこの日に気に入った弐合徳利に辛口の純米酒を入れ、
人肌ほどに温めながら、ぐい呑みも選定した上、
家内に柚子のひとつを渡して、輪切りにして貰ったりする。

私は酒を一口呑み、柚子を口に含み、そして香りと共に味わう・・。

この後、家内と夕食を頂きながら、
私のかみ締めている柚子の一切れは、それなりの風味がある。

このように伊予柚子を晩酌の友としていたが、一昨年の秋から私は自発的に休肝日が多くなり、
こうした時は夕食の一品となったりしている。

このような私は、私の住む武蔵野地方から遥か遠方の四国の伊予地方の柚子は、
初めの10年ぐらいは敬遠されたが、やがて何とか我が家の土壌に馴染んでくれて、
愛(いと)おしさを増している・・。

こうした私なりのささやかな思いがあるので、庭の手入れの合間、微苦笑したのである。

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山口百恵ちゃんの『いい日旅立ち』が街に流れていた頃、その当時の私は・・。

2012-10-07 10:07:45 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨日の午前中のひととき、家内が台所で皿洗いなどをしている付近のラジオから
山口百恵ちゃんの『いい日旅立ち』の唄声が聴こえてきた・・。

この後、私は庭のテラスに下り立ち、眩(まばゆ)い陽射しを受けながら、
樹木や草花を眺めたりし、秋めいた情景に心身をゆだねたりした。

そして、働いて下さる現役の諸兄諸姉の多くは、三連休かしらと思い、
何かと成果主義とデフレの蔓延する風潮の中で過酷な勤務される人たちは、
せめて休日の時ぐらいの時は、ご家族でゆっくりと過ごして下さい、とぼんやりと思ったりした。

この後、しばらくして先程ラジオから流れていた歌が脳裏に残っていたせいか、
私は心の中で唄いだした・・。

♪雪解け真近の 北の空に向い
  過ぎ去り日々の 夢を叫ぶとき
【『いい日旅立ち』 作詞、作曲・谷村新司、編曲・川口 真、唄・山口百恵 】


この歌は盛んに街に流れていたのは、 確か1978〈昭和53)年の晩秋の頃であったと思われるが、
JRの前身の国鉄時代の新宿駅で『いい日旅立つ』の歌が流れて、
私は中央線のプラットフォームで快速の東京駅行きを待っていた時も、メロディーが流れていた・・。

この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、
六本木の本社に於いて、情報畑のコンピュータ専任として奮闘していた時代であった。
そして毎月20日から数日間だけは、新宿駅から神田駅に行き、
委託処理をしていた日本橋ある情報処理会社に通ったりしていた。

このような時代、朝のラッシュ時も、或いは退社後の街の中を歩いたりしていると、
ある他社レコード会社の所属の山口百恵ちゃんの『いい日旅立つ』の歌が盛んに流れて、
私は人影のない処で、かぼそい声で唄ったりしていた・・。

♪帰らぬ人たち 熱い胸をよぎる
 せめて今日から一人きり 旅に出る
【『いい日旅立ち』 作詞、作曲・谷村新司、編曲・川口 真、唄・山口百恵 】


私はプラットフォームで前方に見える中央線の松本行きの『L特急』の列車が、
始発前の待機の状況で、勇姿を見せていたりしたので、
多忙な私にとっては、平日にゆっくりと旅行に行けるのは夢のようなことであり、
羨望しながら見つめたりしていた。

私はこの春に家を新築した年であったので、高揚感もさることながら、公私共々多忙な時であった。

住宅ローンなどを含めて一戸建ては何かと出費が多く、私たち夫婦は悲鳴をあげながら、
この難局を何とかしなければ・・と家内は契約社員として働きに出たりして、
お互いに奮闘したりしていた。

この年の前の2年間は、新婚生活を始めて賃貸マンションに住んでいて、
1976〈昭和51〉年の最初の夏季休暇の時は、
私たち夫婦は『L特急』に乗車し、上野駅から長野電鉄に乗り入れた湯田中駅の終点で下車し、
その後は路線バスで志賀高原の奥地のリゾートホテルに2泊3日で行ったりした。

翌年の夏季休暇の時は、やはり『L特急』に乗車して、新宿駅から松本駅で下車し、
その後は大糸線で簗場駅で下車し、青木湖の湖畔にあるリゾートホテルに2泊3日で滞在し、
周辺を散策したりした。

こうした賃貸マンションで私たち夫婦は新婚生活していたが、
もとより私は家計の収入の責務があり、孤軍奮闘したり、家内は専業主婦の身でありながら、
私たちは予期した以上に貯金もでき、単純に享受できた時期でもあった。

そして、家を建てた当年、私は収入からして多大な住宅返済となり、殆ど生活に余裕はなくなったが、
せめて夏季休暇の時ぐらいと、旅行会社のJTBの格安のパンフレットを見て、
蓼科高原の白樺湖の湖畔にある観光ホテルに2泊3日としたのである。
この時も、新宿駅から茅野駅まで『L特急』を利用した後、路線バスで白樺湖に行ったりした。


このような私たち夫婦は、新婚時代からささやかな思いでが『L特急』と共にあるので、
ラッシュアワーで混んでいるプラットフォームに立ちすくんで、
前方に観える『L特急』の列車を眺めていたのである。

そして、いつの日にか、平日のゆっくりとした時に、『L特急』で旅行するのが、
私の30代の叶うことのない夢であったが、
その後は、中央本線などは『L特急』列車から、
洒落た最新鋭の列車に、大きく変貌してしまったのである。

私は、『L特急』の程ほどのスピード感で車窓から観る情景が好きで、
そして在来線の駅舎のそれぞれ特徴を秘め、旅に出てきた実感が醸(かも)しだされてきた。
或いは車内の座席に近い窓も開き、それぞれの地の駅弁とお茶も買い求めることも出来、
この当時は、座席で喫煙もできた時代であったりした。

昨今の私は、『いい日旅立ち』を聴いたりすると、『L特急』の列車が浮かび、
私の苦節の多かった30代の思いでと共に蘇(よみが)り、
年金生活の今、なぜかしら愛惜を深めたりしている。

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天上の松尾芭蕉翁から、現世の齢を重ねた私が、確かに教示されたひとつには・・。

2012-10-06 09:38:05 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
購読している読売新聞の記事の中で、圧倒的に魅せられた記事を切り抜いて、
とりあえずA4サイズの茶色の箱を保管している。

昨日の昼下がりのひととき、たまたまこの箱を開けて、整理している時に、
古ぼけた切り抜きの記事のひとつに、思わず読んだりしてしまった。

読売新聞の朝刊の中で、一面に掲載されている定例記事の『編集手帳』で、
私のつたないポールペンの字で、2008.10.12.と右上に記いていた。

そして記事の中には、江戸時代の前期に数多くの俳句を遺(のこ)された松尾芭蕉の一句である。

    旅に病(やん)で 夢は枯野(かれの)を かけ廻(めぐ)る

余りにも著名な名句のひとつであるが、私がこの句にめぐり逢えたのは、
1965(昭和40)年頃から、作家の立原正秋(たちはら・まさあき)氏の数多くの小説、随筆に魅せられて、
愛読してきた私は、民間のサラリーマンしていた1974〈昭和49〉年の6月に、
たまたま買い求めた単行本の氏の小説『夢は枯野を』(中央公論社)を読んだりした。

そして読了後に、つたないなりに喚起されて、
改めて俳人・松尾芭蕉(まつお・ばしょう氏の遺された句、生涯を学びはじめたのである。


私は手に取った記事を改めて読み終わった後、改めて微笑んだりした。

無断であるが、大半を転記させて頂くと、
《・・
《旅に病(やん)で夢は枯野(かれの)をかけ廻(めぐ)る》。
芭蕉翁は最期の床でそう詠んだが、
格別に辞世の句として遺(のこ)したわけではなかった。
門人には「平生則(すなわ)ち辞世なり」と説いている。
常に日々を大切に生き、句作してきたということだろう。
・・
(亡くなったのは)数えで51だ。
満なら50歳になるかならないか。
・・
当時としても若くして年長に見られたらしい。
とはいえ、今日の同世代とは雰囲気があまりに違う。
現在、日本人の平均寿命・・(略)・・芭蕉の時代よりはるかに長い。

無論、長寿は喜ばしい。
問題は人生が豊かになっているかどうか。
平生則ち辞世、などと思索する間もなく、日々はあわただしく過ぎる。
現代の50歳が翁に近い風貌になるころ、頼りの年金や医療は少々心もとない。

芭蕉翁が今、数10年長い人生を過ごせばどうだろう。
思う存分に「侘(わ)しきを面白がる」ことになっても困る。
・・》
注)記事の原文より、あえて改行を多くした。


このような概要の記事であり、私は民間会社を2004(平成16)年の秋に定年退職し、
年金生活の8年生となった身である。

私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、
七転び八起きのように悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

そして定年退職の時は、せめて10年だけは五体満足で生かしてくれ、その後は余生である、
とこのような意味合いの言葉を公言したりして、私より年配の方たちは苦笑されたりしていた。

私も幾たびか自己格闘を重ねて、つたないなりに人生を歩んきたが、
恥ずかしながら自身の力もさることながら、もとより両親に育まれ、兄妹と共に成長しながら、
多くの人にめぐり逢えて、人生の知恵を学び、今日に至っているので、
それぞれの人には感謝をしている。

こうした思いから飛躍すれば、高齢者となった私としては、
生きがいをなくされ、目の輝きを失くした時は、
誰からも敬(うや)まわれず、齢ばかり重ねた老人と思い、
若い世代からは価値のない邪魔な存在と思われても仕方がない、
と私は自戒したりしている。

このような思いから、年金生活の身過ぎ世過ぎの日常であるが、
少なくとも身体は衰えても心だけは、惰性することなく、
人生の残された日々に天上の松尾芭蕉翁から、確かな教示のひとつとして、
日々を清進し大切に過ごそうと思い過ごしている。


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買物担当の高齢者の私は、『コンビニ』より『スーパー』をこよなく利用して・・。

2012-10-05 12:55:50 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
定年後の年金生活から自主的に日常の買物を担当となっている。

昨今のニュースで、コンビニ好調でスーパー苦戦している理由のひとつとして、
コンビニ各社は生鮮食品の品揃えを強化したり、高齢者向けの品揃えを整備したりして、
スーパーは顧客を奪われている側面もある、と報じられていたので、私は微苦笑したりした。

私の住む所は最寄駅としては京王線の場合は『仙川』、『つつじヶ丘』駅、
そして小田急線だと『成城学園前』、『喜多見』、『狛江』駅、
いずれもほぼ中間地点で、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みの辺鄙な処に、
結婚の5年前後を除き63年住んでいる。

そして、これらの駅前までの道のりは、徒歩で15分から25分程度であり、
それぞれ路線バスは頻繁に走っているが、私は根がケチなせいか路線バスに乗るのことなく、
散歩代わりひたすら歩いたりしてきている。
或いは旅行、冠婚葬祭、都心に買い物などの場合は、バス、タクシーを利用すると10分足らずである。

こうした中で、最寄のスーパーの2店に10分たらずで買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパーの10店に行ったりし、
本屋に寄ったりすることが多い。
その後は、自宅から数キロ以内を散策する時もある。

このように過ごしているが、コンビニは数多くあるが、私は殆ど利用することは少ないのである。
やはりスーパーは店内は広く、ゆっくりと多種類の品を選べるし、
農作品、果物などで季節の到来を実感できることが多く、
その上にお値段も廉(やす)いので、私はこよなく愛して利用している。

私がコンビニに入店する時は、散策して喉が渇いたと感じたりすると、
ペットボトルの冷たい煎茶を買い求めたり、
冬の寒い時には熱い缶コーヒーを買い求めたりしてきた。
或いは徒歩5分足せずのコンビニで、愛煙家の私は、煙草(タバコ)を購入したり、
ときおり流行誌の『日経トレンディ』、月刊総合雑誌『文藝春秋』を買い求めることもある。

このような関係で、我が家の買物担当の私は、月平均の購入額として、
専門店を除くと『スーパー』が95%、『コンビニ』は5%ぐらいかしら、
と思い、時流に遅れているかしら、と高齢者の4年生の私は微苦笑したりしている。

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鴻上尚史氏が創作者をめざす諸兄諸姉に最適な助言、と若き日に敗退した私は確信し・・。

2012-10-04 15:44:09 | 真摯に『文学』を思考する時
私は遠い昔、東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋の直前に、
小学4年からの映画少年の影響で、映画の脚本家になりたくて私は大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画青年、やがて文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。

この間、演技と演出のある養成所に学び、
やがて、この養成所の講師のひとりが、ある月刊誌の記事の連載を契約していたので、
この講師の下で、私は取材、下書きなどをして、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。

或いは養成所の関係により、アメリカのテレビドラマの準出演を演じたり、
斡旋して下さるアルバイトで生活費を賄〈まかな〉ったりしていた。

そして、講師の知人の新劇のある長老から、小説を書いた方がよいとアドバイスを頂き、
確固たる根拠もなく、独創性はあると思いながら小説の習作したりして、
純文学の新人賞に応募したが、最終候補6編の選考の直前で3回ばかり落選した。

こうした時、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は30歳頃に結婚をして果たして妻子を養っていける自信もなく、
あえなく敗退した身である。

この後、やむなく大手の企業に中途入社する為に、コンピュータの専門学校に一年通った後、
何とかこの当時は大手の音響・映像のメーカーに中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
その後、この会社の音楽事業本部の大手レーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。

そして、このレコード専門会社の情報畑、管理畑など35年近く奮戦して、
2004〈平成16〉年の秋に、定年退職となり、その後は年金生活をしている身である。


先ほどパソコンを開き、トップページとして【YAHOO! JAPAN】を設定しているが、
たまたま【雑誌】コーナーを見たりしていたが、
この中のひとつの見出しに、《 脚本の書き方のポイント…基本はとにかく完結させること! 》
と明記され見出しを見て、思わず読んでしまった・・。

そして私は恥ずかしながら鴻上尚史(こうかみ・しょうじ )氏に関しては、
無知であったが日本の劇作家・演出家と知り、
舞台の戯曲、テレビの脚本、小説、エッセイを書いてきたとお方である、と学んだりした。

たまたま私は読み終わった後、まぎれなく創作者をめざす諸兄諸姉に最適な助言である、
と若き日に敗退した私は確信を深めたりした・・。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20121004-00000500-sspa-soci
☆【YAHOO! JAPAN】<==【雑誌】
       <==【週刊SPA! 】<==鴻上尚史『脚本の書き方のポイント…基本はとにかく完結させること!』☆

そして創作者をめざす諸兄諸姉に氏から最適な助言である、と確信を深めている私は、
ネットに表示されたのは読みづらく、あえて改行を多く転載させて頂くので、
ご興味のある方は読んで頂きたい、と熱望する。
《・・
        鴻上尚史『脚本の書き方のポイント…基本はとにかく完結させること!』

★鴻上尚史「ドンキホーテのピアス」

しこしこと、10月30日から始まる虚構の劇団『イントレランスの祭』の台本を書いています。
書いては気分転換を求めて、ツイッターを眺めたり、無理して書き込んだりしています。
「どうしたら脚本を書けるんですか?」という質問をツイッターで受けました。

「先輩は『とにかく終わらせることだ』とアドバイスをくれるんですが、
最後まで書けないんです」と文は続いていました。
「とにかく最後まで終わらせること」というのは、一番基本のルールです。
どんなに傑作でも、途中で終わっているものは評価の対象にはなりません。

多くの作家志望の人達は、途中まで書いた作品を抱えているはずです。
すべて、途中で「面白いとは思えなくなった」とか「アラが目立って前に進めない」とか冷静な判断力が働いた結果です。

書いている途中から「おおっ、すごいぞ!これは傑作だぞ!」なんて感激している人がいたら、天才かアホです。
たぶん、99.9999%アホでしょう。
書けば書くほど、いろんなアラが目立つものです。
この発見が、作品を書き続ける推進力を弱めます。

そういう時は、確信を持って、そのアラに目をつぶります。
なぜなら、それが本当にアラなのか、物語上必要な“ゆるみ”なのかは、物語が完結してみないと分からないからです。

作品は、どんな形であれ、最後までたどり着いて初めて、何が必要で何が必要じゃないか分かります。
逆にいえば、最後までたどり着かないのに、駄作か傑作か判断のしようがないのです。

と書きながら、やはり、途中で行き詰まることはあります。
物語がにっちもさっちもいかなくなる場合です。
「台本の書き方レッスン」の本を出すと10年以上前から言っていますが、まだ書けていません。
えらいこってすが、ちょっとだけここに書きます。

■物語に必要な「目的」と「障害」

物語が行き詰まった場合、「目的」のレベルなのか、「障害」のレベルなのかを、まず見極めます。
「目的」のレベルというのは、つまり、あなたが今書こうとしている登場人物は、
この時点で、「どんな具体的な目的を持っているのか?」ということです。
じつは、「具体的な目的」がない登場人物は、動けません。
「地球を救いたい」といくら念じていても、「だから具体的に何をしたいのか?」ということがない人物には、
具体的にやることはありません。
ただ、祈るか心配するだけです。
それでは、ドラマは生まれないのです。

あなたが書こうとしている物語も、じつはもう「目的が実現している」場合や
「目的が矛盾している」場合や「目的が抽象的すぎて何をしたらいいか分からない」場合があります。
それを整理し、明確にするのです。
具体的な目的が多すぎて行き詰まるということもあります。
やりたい目的に順番がついてないので、登場人物は何から始めていいか分からず動けないのです。

「障害」のレベルというのは、その具体的な「目的」の実現を阻むために、ナイスかチャーミングか意外か切ないか、
とにかく心動く「じゃまするもの=障害」があるかどうかを見極めることが大切です。
じつは「障害がない」場合や「障害が抽象的すぎる」場合や「障害が簡単に乗り越えられる」場合などがあります。
今、この人物は何がしたくて、でも、何のせいでそれが実現できないのか--ということを常に明確にするのです。
もちろん、大前提として「そもそもこの人物は何がしたくて、何がそれを阻んでいるのか?」という物語全体の設定は大切です。
ですが、その大きな設定の中で各場面では細かな「目的」と「障害」のぶつかり合いが求められます。
それがドラマであり、前に進む力なのです。

そして、「目的」と「障害」が明確になっても、
どうしてもシーンが浮かばない場合は「ここで主人公は何らかの方法で迷宮を脱出して」と書いて、次に進むのです。
細かなことは大切ですが、それは最後まで完成した後に考えることなのです。

とにかくどんなにぶさいくな形でもいいから、最後まで書き終わらせること。
それは完成ではなく、やっと執筆が始まる瞬間なのです。

そこから全体を見直し、本当の意味で作品を書き始めるのです。

週刊SPA! 10月4日(木)14時0分配信
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

このような氏からの創作者をめざす諸兄諸姉に最適な助言、と私は深く確信しているので、
ぜひ今回の氏の助言を参考に、創作活動に励んで頂きたい、と若き日に敗退した私は切望する。

もとよりこうした思い私の心の根底には、私は敗退した身であり、
たまたまこの記事に接して、創作者をめざす諸兄諸姉に少しでも氏からの助言に学んで頂きたく、
高齢者となった私としては、若き時期に挫折した体験を若い人たちに繰り返してほしくなく、
あえて投稿した次第である。

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私の夢のような住む地域、はかなくも消え去り、やがて微苦笑し・・。

2012-10-04 10:02:50 | 定年後の思い
私は年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
過ぎ去った日々には、住む地域に関して、夢のような願望をいだいていた・・。

若き独身時代の時は、八ヶ岳の別荘地の分譲地などで、のんびりと生活することだった。
この当時は民間会社のサラリーマンの身であり、都心の六本木の本社に勤めていたので、
もとより他に収入を挙(あ)げて生活できる自信はなく、夢のひとつとなった。

そして30代の初め、私は結婚して、千葉県の市川市で賃貸マンションの生活を始めた。
東京都と千葉県の間に流れる江戸川の川辺に近い国府台で、
学校と公園の多い緑豊かな地域で学園都市のような情景であった。

そして2年生活している中で、マンションを購入するか、
或いは私の生家の近くに家を建てるか、と思案を重ねたりしていた。

結果としては、生家の近くの世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に家を建てることとなり、
空き地のような土地を100坪ばかり探し求めて、この当時は血気盛んな私は、どうせ多額な借金をするんだったらと、
家内が中学生の頃から茶事を習っていたので、家屋の中に茶室を追加したりした。

そして総合したローンは私の試算より超えて、作庭の予算が無くなり、
やむなく遠い親戚の叔父さんに、幾ばくかのお金を持参して、希望していた雑木を植えてもらったりした。
その上、私は奮戦しても、このローンの返済に四苦八苦していたので、
専業主婦だった家内の強力な援軍を私は受けたりした。

そして家内が契約社員などを2年ばかり勤めて、専業主婦に復帰して、
もとより収入の責務の私は孤軍奮戦し、家内は家事、交際など専守防衛長官のような生活状況となった。
そして私たちは子供に恵まれず、ふたりだけの家庭で20年間が過ぎた。

私たちの住まいは住宅地の外れであったが、
周囲は人家の建て込まれた住宅街より、幼年期に農家の児として育てられた私は、
解放感のある地方の山里に、と思いを馳せたりした。

50代の後半になると、定年する60歳の後は、
山里のコナラ、クヌギを中核とした雑木林の一角を300坪前後の土地を求め、
平屋建ての30坪ほどに住むことも思案したりした。
そして今度は、住宅ローン等の負債はなく、老後の生活資金を配慮した場合、何とか出来ると思ったりした。

しかしながら都心の郊外に住む私たちは、
日常生活の買い物、交通、病院などの利便性で家内から反対された。
『貴方の好きな本屋さんだって、今は歩いて行ける範囲よ・・まして、買い物だって・・』
と私は家内に言われたりした。

確かに私はこの当時も本屋に通ったりし、店内を見て周り、興味を持ったのに手を取ったりし、
好きな音楽CDとか、映画のDVDを購入する店で購入したりしている。
私はこうした時間の空気が好きである。
或いは、洒落た居酒屋もときおり、欠かせない・・。

『貴方、60代の元気なうちは良いけれど、
70代頃からの身体が弱ってきた時の事も考えて・・』
と家内に言われたりした。

確かに山里に住めば、自動車は必須事項だし、買い物も一週間まとめて購入し・・と思ってきたが、
身体の弱った時と都心の外れの文化と利便性には勝てない、と断念した。


こうして私のはかなくも夢のような欠片(かけら)消え去り、微苦笑したりしている。

定年後に年金生活を始めた私は、雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に家内と共に住みながら、
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりしていた。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
独りで 毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
ときおり私たち夫婦は、温泉滞在旅行などをして、その地方の風土、文化を思索したりしながら、
街中、郊外、そして山里を散策したりしている。

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