私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
特にこの時節になると、夜のひととき主庭のテラス、玄関の軒下に下り立ち、
ぼんやりと月を眺めることが多い。
過ぎし日に『十三夜(じゅうさんや)』を誉めたり、
一昨日の30日は中秋の名月と称されている満月の『十五夜(じゅうごや)』は、
無念ながら台風の雨で雲隠れで、めぐり逢えなかった。
昨夜、玄関庭の軒下に下り立ち、 夜空にぽっかりと月が煌々と光をおびているのを眺めながら、
単細胞の私は、 待ちわびた『十六夜(いざよい)』かしら、と思ったりしながら、見惚〈みと〉れたりしていた。
私は幼年期の頃から月を眺めたりしてきたが、齢を重ねるたびに圧倒的に深く魅了されるのは、
なぜかしら『十六夜(いざよい)』である。
もとより『いざよい』は、「いざよう」の語源からであり、
ためらい、ためらう、ことなど意味しているが、
『十五夜』よりしばらく遅れて昇ることから『 いざよい』と称されてきた。
私は月を眺め、自分のその時の思いを託〈たく〉したりしているが、
十六夜の月は格別である。
古人の時代から、満月よりやや遅れてためらうように昇って来る、と伝承されてきているが、
つたない私の人生の軌跡と同様に、心持ちをためらいながら歩んできたので、
何かしら共感を深めている。
私は東京郊外の世田谷区に隣接した北多摩郡神代町(現・調布市)の片隅みの農家で、
長兄、次兄に続いて三男坊として、1944〈昭和19〉年の秋に生を受けた。
この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していた。
こうした中で祖父、父は、ふたりの男の子が続いたので、跡継ぎの男子は万全と思いながら、
今度は女の子を期待していたらしく、三男坊の私としては、
幼児心に何となくいじけた可愛らしくない児であった、
そして私が地元の小学校に入学したのは、1951〈昭和26〉年の春である。
私は小学校の学業は、兄ふたりは優等生であったが、
なぜかしら私は通信簿『3』と『2』ばかりの劣等生であった。
そして、この頃に生家にある本と云えば、
農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、
私は子供心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。
その後、私が都心にある高校に入学してから、
遅ればせながら、突然に読書に目覚めて、活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、
行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。
そして高校二年の夏に、初めて小説の真似事をし、原稿用紙に習作をしたりした。
東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋の直前に、
小学4年からの映画少年の影響で、映画の脚本家になりたくて私は大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画青年、やがて文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。
この間、演技と演出のある養成所に学び、
やがて、この養成所の講師のひとりが、ある月刊誌の記事の連載を契約していたので、
この講師の下で、私は取材、下書きなどをして、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。
或いは養成所の関係により、アメリカのテレビドラマの準出演を演じたり、
斡旋して下さるアルバイトで生活費を賄〈まかな〉ったりしていた。
そして、講師の知人の新劇のある長老から、小説を書いた方がよいとアドバイスを頂き、
確固たる根拠もなく、独創性はあると思いながら小説の習作したりして、
純文学の新人賞に応募したが、最終候補6編の選考の直前で3回ばかり落選した。
こうした時、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は30歳頃に結婚をして果たして妻子を養っていける自信もなく、
あえなく敗退した。
この後、やむなく大手の企業に中途入社する為に、コンピュータの専門学校に一年通った後、
何とかこの当時は大手の音響・映像のメーカーに中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
その後、この会社の音楽事業本部の大手レーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。
そして、このレコード専門会社の情報畑、管理畑など35年近く奮戦して、
2004〈平成16〉年の秋に、定年退職となった。
私は幼年期にたくさんの本のあるサラリーマンの家に生まれ、
学生時代は素直に文学部の国文学を専攻した後、最終として大学教授の国文学関係になった人に、
嫉妬と羨望を感じたりすることもある。
或いは私が読書を5年早く、中学生の初めの頃に目覚めていれば、
文学部の国文学を専攻した、と文学青年の真似事の習作の時、自責をしたりした。
このように何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
50代の頃から、『十六夜(いざよい)』を眺めたりすると、
ためらうように月が昇る情景を観ると、
この人生のはかなさの中で、余情を感じたりし、圧倒的に魅了されている。
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特にこの時節になると、夜のひととき主庭のテラス、玄関の軒下に下り立ち、
ぼんやりと月を眺めることが多い。
過ぎし日に『十三夜(じゅうさんや)』を誉めたり、
一昨日の30日は中秋の名月と称されている満月の『十五夜(じゅうごや)』は、
無念ながら台風の雨で雲隠れで、めぐり逢えなかった。
昨夜、玄関庭の軒下に下り立ち、 夜空にぽっかりと月が煌々と光をおびているのを眺めながら、
単細胞の私は、 待ちわびた『十六夜(いざよい)』かしら、と思ったりしながら、見惚〈みと〉れたりしていた。
私は幼年期の頃から月を眺めたりしてきたが、齢を重ねるたびに圧倒的に深く魅了されるのは、
なぜかしら『十六夜(いざよい)』である。
もとより『いざよい』は、「いざよう」の語源からであり、
ためらい、ためらう、ことなど意味しているが、
『十五夜』よりしばらく遅れて昇ることから『 いざよい』と称されてきた。
私は月を眺め、自分のその時の思いを託〈たく〉したりしているが、
十六夜の月は格別である。
古人の時代から、満月よりやや遅れてためらうように昇って来る、と伝承されてきているが、
つたない私の人生の軌跡と同様に、心持ちをためらいながら歩んできたので、
何かしら共感を深めている。
私は東京郊外の世田谷区に隣接した北多摩郡神代町(現・調布市)の片隅みの農家で、
長兄、次兄に続いて三男坊として、1944〈昭和19〉年の秋に生を受けた。
この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していた。
こうした中で祖父、父は、ふたりの男の子が続いたので、跡継ぎの男子は万全と思いながら、
今度は女の子を期待していたらしく、三男坊の私としては、
幼児心に何となくいじけた可愛らしくない児であった、
そして私が地元の小学校に入学したのは、1951〈昭和26〉年の春である。
私は小学校の学業は、兄ふたりは優等生であったが、
なぜかしら私は通信簿『3』と『2』ばかりの劣等生であった。
そして、この頃に生家にある本と云えば、
農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、
私は子供心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。
その後、私が都心にある高校に入学してから、
遅ればせながら、突然に読書に目覚めて、活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、
行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。
そして高校二年の夏に、初めて小説の真似事をし、原稿用紙に習作をしたりした。
東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋の直前に、
小学4年からの映画少年の影響で、映画の脚本家になりたくて私は大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画青年、やがて文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。
この間、演技と演出のある養成所に学び、
やがて、この養成所の講師のひとりが、ある月刊誌の記事の連載を契約していたので、
この講師の下で、私は取材、下書きなどをして、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。
或いは養成所の関係により、アメリカのテレビドラマの準出演を演じたり、
斡旋して下さるアルバイトで生活費を賄〈まかな〉ったりしていた。
そして、講師の知人の新劇のある長老から、小説を書いた方がよいとアドバイスを頂き、
確固たる根拠もなく、独創性はあると思いながら小説の習作したりして、
純文学の新人賞に応募したが、最終候補6編の選考の直前で3回ばかり落選した。
こうした時、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は30歳頃に結婚をして果たして妻子を養っていける自信もなく、
あえなく敗退した。
この後、やむなく大手の企業に中途入社する為に、コンピュータの専門学校に一年通った後、
何とかこの当時は大手の音響・映像のメーカーに中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
その後、この会社の音楽事業本部の大手レーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。
そして、このレコード専門会社の情報畑、管理畑など35年近く奮戦して、
2004〈平成16〉年の秋に、定年退職となった。
私は幼年期にたくさんの本のあるサラリーマンの家に生まれ、
学生時代は素直に文学部の国文学を専攻した後、最終として大学教授の国文学関係になった人に、
嫉妬と羨望を感じたりすることもある。
或いは私が読書を5年早く、中学生の初めの頃に目覚めていれば、
文学部の国文学を専攻した、と文学青年の真似事の習作の時、自責をしたりした。
このように何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
50代の頃から、『十六夜(いざよい)』を眺めたりすると、
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