夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私のサイト、訪問者数(IP)は90万を超え、偏(ひとえ)に数多くの皆様に感謝を重ねて・・。

2014-04-14 07:35:41 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり、
今朝、パソコンを開き、やがて私の【gooブログ】のサイト『夢愛人かりそめ草紙』を見ると、
『ブログの開設から3,371日』と明示され、こんなに過ぎたのかしら、と微苦笑してしまった。

そして、昨日までの『トータルアクセス数の閲覧数(PV)は4、273、293』、
『訪問者数(IP)は900,742』と表示されて、90万を超えたか、微笑んだりした・・。

私は閲覧数(PV)に関しては、数多くの方が周知の通り、
ここ6年ぐらいはグーグル、マイクロソフトなどの大手のロボット検索が、
懸命に数多いブログ投稿文を追跡するように活動しているので、
大幅に加算されている実態であり、無念ながら実質数は不明であり、参考する程度である。

しかしながら『訪問者数(IP)は、どのような事情であっても、つたない私の投稿文を読んで下さったお方か、
或いは開いて下さったお方か不明あるが、私は大切な指針としているひとりである。
                                       
私は民間会社の中小業のある会社を35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
まもなくブログの世界を知った・・。

そして2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)の1月中旬に加入したので、
これ以来、ほぼ9年半が過ぎている。

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    

結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
                                       
                   
私はブログを投稿する際、筆力が乏しいながら
最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
過ぎし年の2008年(平成20年)の当時は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら文章だけの散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
まるで海岸の広い砂浜にある一粒の砂粒のような存在であった。

         
このように私は、やがて埋もれてしまうか、海に押し流されて消えてしまうか、
誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
                    

こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。
                   
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010年〈平成22年〉の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。
私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していた・・。

やがて投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、
と目安ができるので、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
一昨年の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行している。
                                              
こうした中で、『にほんブログ村』に加入している50代から70代の多いシニア層のお方を中核に、
多くのお方の投稿文を読ませて頂いたりした。

そして日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を感じながら年金生活を過ごしたりしている。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
                                              

私のブログサイトの左側の『ブックマーク』に於いて、
ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、と明記して掲げているが、
少なくとも2年以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトである。

そしてこの2年以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトのお方も多く、
大半は『にほんブログ村』で知り得たお方である。

この諸兄諸姉のサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
隠れキリシタンのように秘かに私は、愛読者のひとりとなっている。
                                      
         
こうした理由の一つとして、私は気楽にコメントを書くことはできない身で、
コメントを書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプのひとりである。

こうした事情により時間が要するので、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響し、
原則としてコメントの交信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌した時代もあったりした。

ここ数年は、来訪しコメントを残して下さった方には、原則として返信を認(したた)めている。
或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、そのお方にコメントをしたりしている。

そして諸兄諸姉のサイトを明記した以外にも、ときおり読ませて頂くお方も多く、
ここ3が月に於いても、瞬時に魅了されたお方のサイトも10名のお方もいる。
          
               
私はブログを書き始めて、丸9年半が過ぎて、早や10年生であるが、
この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できていることも確かな事であり、
何よりも数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、
私は人生の励ましを感じたり、ときには微笑んだりして過ごせてきたので、改めて感謝している。

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何かと愚図の私は、今年初めての庭の手入れ、孤軍奮闘してもあえなく・・。

2014-04-13 14:40:07 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
過ぎし日の5日の清明(せいめい)時節が過ぎた今、
落葉樹は日増しに幼い葉を広げ伸び、常緑樹は新芽を伸ばし、
みずみずしい新緑の情景となり、そして地表の草まで元気よく伸びている・・。

ここ2週間ぐらい春麗の情景の中、桜花に見惚(みと)れながら私は心の中でスキップしながら、
付近の遊歩道、公園をほぼ毎日のように歩き廻ったりしている散策することが多かったが、
肝要の我が家の小庭の手入れは、原則として私の責務の範疇であるが、
何かと愚図の私はさぼって放置していた。
          

今朝、小庭のテラスに下り立つと、今しくて何日するのよ、と自身を叱咤し、
本日の10時少し前から、今年初めての庭の手入れを始めた・・。

いつものようにストレッチパンズの長ズボン、着古したスポーツシャツ、ウォーキング・シューズ、帽子、
滑り止めの軍手をして、そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにした後、どの樹から剪定しょうかしら、
と思ったりした。

そしてとりあえず地表の草を抜き取ったし、樹の根本周辺の草むしりをしたりすると、
這(は)いつくばったりし長ズボンは泥だらけとなったが、
初夏のように汗まみれになくこともなく、
庭の手入れには快適だねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら孤軍奮闘した。

曇り空の中、ときおり晴れたりしていたが、18度前後の陽気の中、
少し汗ばむ程度なので、散策も良いけれど、ときには庭の手入れも良いよなぁ、
と実感を深めたりしていた。

庭の手入れをすれば、清々しくなり、成果が自身次第で小奇麗になるので、
個人競技だよねぇ、と思いながら、
剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、樹木の剪定もしたりした。

こうした中で、私は玄関の前の石畳に簡易椅子を持ちこんで、
ほぼ30分ごとに5分休憩し、煎茶を飲んだりしていた。

この後、剪定した後の切り落とした枝葉を市の指定の『燃えるゴミ』袋に、
剪定鋏(ハサミ)で枝葉を袋が破けない程度に細かく切り分けたりした。

やがて午後一時が過ぎた頃、3時間ばかりで疲れを感じて、庭の手入れを中止とした。
          

私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、現役時代の緊張感が失くしたせいか、
65歳を過ぎた頃から体力の衰えを実感したりしている。

そして風呂に入った後、私は今年の誕生日の9月下旬になれば、
古希と称される70代入門の身となるので、やむえないかなぁ、と独り微苦笑したりした。

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長い老後を安らかに生きる為の教科書のひとつは、西垣千春・著の『老後の生活破綻』

2014-04-12 13:38:08 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

その上、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私の父は、私が小学2年の昭和28年(1953年)の春に病死され、
母は、私が50代のなかば、平成10年(1998)年に入退院を繰り返していた母に死去された。
家内の父は、私が定年退職の平成16年(2004年)の秋の直前に、やはり入退院を繰り返し病死し、
私たちの両親は 家内の母だけとなり、千葉県の八千代市で一軒屋に独り住まいとなっている。
          

この間、私たち夫婦は自分たちの老後の生活の改めて話し合ったのは、
1999年(平成11年)の新春の当時で、私が54歳あった。

私が勤めてきた中小業の多い音楽業界は、1998年(平成10年)に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年から各社はリストラ烈風となり、業務の大幅な見直し、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば1999年(平成11年)の新春、
取引先の物流会社に出向を命じられた。

こうした時に、私が定年退職を出来た後、どのような生活をしたいか、そして生活資金などを話し合った。

具体的には、私たち夫婦の第二の人生は、どのように過ごしたいのか、主題であった。
          

やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよいなぁ、と漠然に念願したりした。

こうしたことを実現するためには、
各出版社から数多くの本が発売されていたので、私なりに買い求めた。

そして『定年後』~「もうひとつの人生」への案内~(岩波書店)、
『間違いだらけの定年設計』(青春出版社)、
『「定年後」設計 腹づもり ~50代から考えておきたい~』(三笠書房)などを読んだりした。

或いは雑誌としては、 『ほんとうの時代 ~50代から読む「大人の生き方誌」~』(PHP研究所)であり、
こうした本を読んだりしながら、現在の我が家の貯金の確認、定年退職までの年収、退職金など、
そして年金の推定額も算出し、
収支概算表を年別に作表し、平均寿命までの年を総括表にしたりした。

そして、毎年の月別は、家計簿の応用で収入の項目、支出の保険、税金等を含め、
予定表も作成したりした。

この時の私は、幸いに住宅ローンを終えていたが、
私は1944年(昭和19年)9月生まれであるので、
年金の満額の支給は62歳であり、それまでの2年間は満額のほぼ半分となるので、このことも配慮した。

そして年金が満額となった62歳からの生活の収支は、
私たち夫婦の共通趣味である国内旅行費、そして冠婚葬祭など諸経費は例外として、
原則として生活費は年金を頂く範囲として、収支の概要を作成したりした。

こうした結果、私の年齢、家内の年齢を主軸に
1998年(平成10年)から私が80歳を迎えるまで、
年次別の収支と残額を作成し、パソコンに入れて、計画、実績、差額を毎月入れたりしていた。
                    

こうした中、不慣れな遠い勤務先の出向会社に私が奮戦している時、
出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
          

私の定年退職後、年金生活を始め、私は自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
 

        
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は専守防衛長官の専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などの時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主もしている。

こうした中で、ときおり小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          

こうした年金生活をしている中、2011年(平成23)年の7月下旬のある日、
いつものように午前中のひとときに、駅前のスーパーに向かい買物に行き、
その後はいつものように本屋に立ち寄った時、過日の読売新聞の出版広告で、
たまたま中央公論新社の新書本の案内のひとつで、
西垣千春・著作の『老後の生活破綻 ~身近に潜むリスクと解決策~』を知り、
いずれは読んでおきたいと感じたりしたことを思い出して、本書を手に取ったのである。
            

そして解説文を読んだりした・・。
《・・認知症、病気、詐欺、事故、子どもの失業――老後の生活にはさまざまなリスクが潜んでいる。
そして一度問題が生じると、周囲に気づかれないまま生活が破綻してしまうことも、
現代の日本社会では少なくない。
高齢者を助けるサービスはたくさんあるのに、なぜ十分に活用されないのか。
苦しむ高齢者を一人でも減らすため、また、自分や家族がそうした事態に陥らないために、何が必要なのか。
豊富な実例とともに考える。・・》

そして私は帰宅後、最優先に読み終えた後は、
長い老後を安らかに生きる為の教科書のひとつだ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

本書の中では、《高齢社会の現実》の章に於いては、《高齢化の特徴》、《健康》、《血縁と地縁》、《家計》、
《事例で見る生活破綻》の章に於いては、《判断力の低下》、《健康状態の変化》、《予期せぬ事故・災害》など、
或いは《高齢者特有のリスク》の章に於いては、《生活破綻の実態》、《セルフマネジメント能力の低下》、《人間関係の変化》など、
そして終章の《高齢者の生活破綻を防ぐために》に於いては、多々実例を記載されている。

こうした本書は、齢を重ねた高齢者にとっては、誰しもが避けて通れない切実な難題が明記されいる。
          

私たち夫婦は、大病に遭遇せずに今日まで至っている。
医院にお世話になったのは、私たち夫婦はお互いに歯が劣化して、
歯科医院に幾たびか治療を受けてきたぐらいである。

或いは私が2010年〈平成22年〉の秋の健康診断で糖尿病と明示されて以来、
食事の内容はもとより、ひたすら歩き廻ったりして大幅に改善されている。

何よりも長き45年ぐらい日本酒の純米酒、ビールを夜のひととき愛飲してきたが、
糖尿病と宣告されて以来、 冠婚葬祭、懇親会、国内旅行など以外は、
原則として自宅で呑むのは、5日に一度ぐらいとなっている。

この間、最寄の内科専門医院に3週間毎に定期健診を受けているが、
ここ3年ぐらいは悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はほぼ優等生となって、
改善努力の成果となっている。

こうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
          

しかしながら私の現役サラリーマン時代の58歳の時に、同僚が難病で死去されたり、
定年後の2年過ぎた頃、健康溌剌で過ごしてきた私より2歳先輩の方が、突然に病死されたりし、
昨今、長寿社会といわれても、60代でもこの世とお別れする方もいるのである。

このような心情を秘めてきた私は、せめて60代は五体満足で生かしてくれ、
この後の70代は余生と思ったりしてきた・・。
そして認知症などあわず、心が明確な時にポックリと死去できれば良い、
と秘かに念願しているが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものである。

或いは、私は煙草を喫う愛煙者で、運動も散策、ときたまウォーキング程度であるので、
家内より先にあの世に行っていると確信しているので、
私の葬儀、お墓、そして家内の独りの老後で程ほどに生活できそうな状況のことも、
話し合ったりしている。
          

しかし、このことも天命に寄り、家内に先立たれることもあり、
私が独りぽっちとなることも、一年に数回ぐらいは、おひとりさまの生活を思いめぐらすこともある。

こうした思い秘めているが、世の中は想定できないことが多々あるので、
もとより私が知らないことも数多くあり、
本書より、老後生活の実例の数々の問題、そして解決のような策を学んだりしている。

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何かと単細胞の私が熱愛すれば、物狂いのように夢中になり、やがて心酔期が過ぎれば・・。

2014-04-11 14:11:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして平素の買物専任者となり、家内から依頼された買物の責務を終えた後、
自宅の周辺の3キロぐらいの範囲にある遊歩道、小公園などを歩き四季折々のうつろいを享受している。

そして、こうした中で感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりして過ごしている。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。
          

本に関しては、小説、随筆、歴史書、現代史が圧倒的に多く、
過ぎし2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災後、何かと愚図の私でも、
身辺整理が肝要だ、と思いながら5000冊前後あった本を大半処分した結果、
居間と書庫だけ本棚となった今、2000冊ぐらいかしら、と思ったりしている。

映画の場合は、VCT、DVDを専用棚に於いて1000作品前後あり、
ときおり選定し、居間で観賞している。

音楽については、たまたま私は音楽業界のあるレコード会社に勤めた影響で、
レコード、カセット、CD、DVDが、過日に処分もしたが、
やはり専用棚として1000枚ぐらい残し、
ステレオセットを定年7年前の頃に処分し、やむなくCDラジカセで聴いたりしている。

私は若き日の頃から 幾たびか友人、知人などに上げたりしてきたが、
青年時代に映画、文学青年の真似事をした時代もあり、
倹約したり、一食を抜いて購入した本、レコード、そして映画を観たりしたので、
中々捨てきれなかったのであった・・。
しかし、本と映画は、これからの老後を配慮し、2011年(平成23年)の4月に断腸の思いで処分した。
          
          
古ぼけた築後35年の一軒屋で、このような生活をしていると、
ときおり過ぎし日々のことを思い馳せたりすることもある。
そして、誰しも同じような体験があると思われるが、
これまでの人生で、私は熱病のように無我夢中となったりする時があった。

大半は3ケ月前後で終わることが多いが、
少なくとも1年以上続いたのを振り返った時、私なりに微苦笑したりする。
          

音楽の場合は、1971年(昭和46年)にシャンソンのバルバラに瞬時に魅了され、
その後は金子由香里を盛んに聴いていた。
この当時は、もとよりレコードが主流であったので、
アルバムを買い求めて、擦り切れる程度の少なくとも百回以上聴き惚れていた・・。

1989年(平成元年)の少し前の頃には、
シンガー・ソング・ライターの中島みゆきを偶然に聴き、
カセット、CDはもとより、随筆、そして評論集まで購読し、
私の人生のいく度かの苦境の時に、3曲から救われ、今でも私の秘かな女神となっている。

そして1997年(平成9年)の頃に、ハードロック・グループの『X JAPAN』をテレビで観て、
この当時52歳の私でも瞬時に魅了され、
帰宅するたびに殆ど毎晩、2時間ぐらい聴きこんだりしていた。
          

映画に関しては、小学4年生の頃から独りで、たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年の体験も加わり、
これが原因で、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の直前に、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。

この間、映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、古本屋まで行って買い求めたりし、
一年後には500冊ぐらいなったりした。

そして、脚本家として橋本 忍を神様のように信愛した。
映画監督の場合だとデビット・リーン、セルジオ・レオーネに夢中になったりしていた。
アルバイトをしながら、映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりしていた。

この間、専門養成所に入り、やがて講師の知人から、
映画は衰退するばかりで、同じ創作分野だったら小説を書けば、と強く勧められたりした。
          

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりし、
こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。
確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、三回ばかり敗退し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970年(昭和45年)の春であった。
          

その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、
浅田次郎の各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

そして2004年(平成16年)の秋に35年近く勤務し定年退職した後、
年金生活の中で、単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は長らく愛読し、
毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
或いは『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読している。

そして季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読しているが、
今や季節をめぐる毎の秘かな恋人のように愛読している。
          

私は幼少の頃から根は単細胞の性格のためか、ともかく惚れこんだら命がけの恋と同様である。
若き頃の私は、失恋も多かったが、ときには相思相愛となった時は無我夢中で、恋い焦がれて時もあった。

このように私は映画、文學、音楽、そして愛(いと)しき女性にも、
この世の中、あなたしか視(み)えない、というように、
時を忘れ、ときには食事も忘れ、寝る間もほしんで物狂いになったりしてきた。

恥ずかしながら、齢を重ねても私の悪い癖は、ときたま活火山のようになるので、
もとより理性などの平常心は吹き飛んで、心酔を重ねることが多い。
やがて熱病のような熱愛期が終えて、平熱の平常心になった時、独り微苦笑したりしている。

そして、病気は治療すれば殆ど治(なお)るが、癖(くせ)は治ることは少ない、
と格言があるが、ときおり私は理性のある人にいつになったらなれるの、と思ったりすることがある。
          

いずれにしても私のつたない感性で、
この広い世の中で、偶然に目に留まったり、出逢えたり、聴いたりした人々の方たちである。
そして、私なりの人生の心の宝物と思ったりしている。

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『色の歳時記 ~目で遊ぶ日本の色~』、日本の伝統美を感じる本のひとつ・・。

2014-04-09 17:24:39 | 定年後の思い

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
古惚けた一軒屋に家内と2人だけで日々を過ごしている。

陽春に恵まれたこの時節、主庭のテラス、玄関庭の軒下などに下り立ち,
常緑樹の新芽、落葉樹の芽吹き、幼葉などを眺めながら、
季節のうつろいに深く心をよせたりしている。
          
私は読書も好きであるので、居間のソファに座りながら、
その日の心情に応じた本を開いたりしている・・。

先ほど、ぼんやりと一冊の本を本棚から抜き取り、しばらく読みふけっていたのである。

『色の歳時記 ~目で遊ぶ日本の色~』(朝日新聞社)という本であるが、
私が本屋で昭和62年(1987年)の晩秋の頃、
偶然に目にとまり、数ページ捲(めく)ったりして、瞬時に魅了され本であった。

その後、一年に数度ぐらい、毎年愛読している本のひとつでもある。
            

巻頭詩として、『色の息遣い』と題されて、
詩人の谷川俊太郎氏が、『色』、『白』、『黒』、『赤』、『青』、『黄』、
『緑』、『茶』と詩を寄せられ、
写真家の山崎博氏がこの詩に託(たく)した思いの写真が掲載されている。

そして、詩人の大岡信氏が、『詩歌にみる日本の色』と題されて、
古来からの昨今までの歌人、俳人の詠まれた句に心を託して、綴られている。

本題の『色の歳時記』としては、
春には抽象水墨画家・篠田桃紅、随筆家・岡部伊都子、造形作家・多田美波、
夏には英文学者・外山滋比古、随筆家・白州正子、女優・村松英子、
秋には俳人・金子兜太、歌人・前 登志夫、歌人・馬場あき子、
冬には詩人・吉原幸子、作家・高橋 治、作家・丸山健二、
それぞれの各氏が『私の好きな色』の命題のもとで、随筆が投稿されている。
そして、これらの随筆の横には、季節感あふれる美麗な情景の写真が 幾重にも掲載されている。
          

或いは『日本の伝統色』と題し
伝統色名解説として福田邦夫、素材にあらわれた日本の色の解説される岡村吉右衛門、
この両氏に寄る日本古来からの色合い、色彩の詳細な区分けはもとより、
江戸時代の染見本帳、狂言の衣装、江戸末期の朱塗りの薬箪笥、
縄文時代の壺、黒塗りに朱色の蒔絵をほどこした室町期の酒器、
江戸時代のいなせな火消しの装束など、ほぼ余すことなく百点前後に及び、紹介されている。

『色の文化史』に於いては、
京都国立博物館・切畑 健氏が、歴史を彩る色として、
奈良時代以降から江戸時代を正倉院御物の三彩磁鉢、
西本願寺の雁の間の襖絵として名高い金碧障壁画など十二点を掲載しながら、具現的に解説されている。

この後は、『色彩の百科』と題され、暮らしに役立てたい色彩の知識、としたの中で、
女子美術大学助教授・近江源太郎氏が『色のイメージと意味』として、
『赤』、『ピンク』、『オレンジ』、『茶』、『黄』、『緑』、『青』、『紫』などを、
現代の人々の心情に重ねながら、さりげなく特色を綴られている。
          

そして『配色の基礎知識』としては、日本色彩研究所・企画管理室部長の福田邦夫氏により、
《配色の形式は文化によってきまる》、
《情に棹(さお)させば流される》
などと明示しながら綴られれば、私は思わず微笑みながら読んでしまう。

最後の特集として、『和菓子』、『和紙』、『組紐』、『染』、『織』が提示されて、
掲載された写真を見ながら、解説文を読んだりすると、
それぞれのほのかな匂いも感じられるようである。

そして最後のページに『誕生色』と題されたページが、
さりげなく掲載されて折、私は読みながら、思わず襟を正してしまう。

北越の染めと織物の街・十日町の織物工業共同組合が、
情緒豊かな日本の伝統色を参考にとして、十二ヶ月の色を選定していたのである。
          

無断であるが、この記事を転載させて頂く。
《・・
『誕生色』と命名して現代の暮らしに相応しい《きもの》づくりを行っている。
『誕生石』にもあやかって興味深い試みである。

1月
おもいくれない『想紅』
初春の寒椿の深い紅。
雪の中で強く咲き誇っている姿に華やぎ。

2月
こいまちつぼみ『恋待蕾』
浅い春に土を割る蕗のとう。
若芽のソフトな黄緑が春を告げる。

3月
ゆめよいざくら『夢宵桜』
春のおぼろ、山桜の可憐な色。
桜、それは心躍る春の盛りを彩る。

4月
はなまいこえだ『花舞小枝』
春風に揺れる花を支える小枝。
土筆(つくし)もまた息吹いている。

5月
はつこいあざみ『初恋薊』
風薫る季節の薊の深い紫。
5月の野には菖蒲も咲き、目をなごます。

6月
あこがれかずら『憧葛』
さみだれが葛を濡らして輝く緑。
蓬、青梅・・緑たちの競演がいま。

7月
さきそめこふじ『咲初小藤』
夏近し、紫露草のうすい紫。
きらきらと夏の光の中で、緑の中で。

8月
ゆめみひるがお『夢見昼顔』
夏の涼しさに朝顔、昼顔。
庭に野に夏には欠かせない風物の彩り。

9月
こいじいざよい『恋路十六夜』
月冴えるころ朝露に身を洗う山葡萄の深い紺。
十六夜の色にも似て。

10月
おもわれしおん『想紫苑』
風立ちて、目もあやに秋の七草。
野に咲き乱れる桔梗と紫苑の色。

11月
こいそめもみじ『恋染紅葉』
秋の野の残り陽に照る紅葉の赤。
心にしみ入るぬくもりのかたち。

12月
わすれなすみれ『勿忘菫』
淡雪のほのかな思い。
菫が咲き、小雪が舞う季(とき)の色。やすらぎの感覚。・・》

注)記事の原文より、あえて改行を多くした。
          

私はこうした美しい言葉、綴りに接すると、
その季節に思いを馳せながら、その地の風土を想い、心にひびき、香り、そして匂いまで伝わったくる。

日本風土の古来からの人々の営みの積み重ねの日常生活から、
さりげなくただよってくる色あいの結晶は、まぎれない日本文化のそれぞれの伝統美でもある。

この本は、昭和58年(1983年)に発刊されているので、
稀なほど優れた執筆陣でありながら、現在は無念ながら故人となられた人が多いのである。
          

こうした遺(のこ)された随筆などを、改めて読んだりすると、
日本風土と文化に限りなく愛惜されているので、
日本文化を愛する人たちへの遺書のひとつかしら、とも思ったりしている。

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花祭りの日、駅前まで散策すれば、思いがけない魅了された情景にめぐり逢い・・。

2014-04-08 16:43:41 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
京王線の『仙川』駅の周辺で、本を買い求めに行こう、と10時半過ぎに家を出た。

そして私の住む地域は路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受しているので、
この日も歩きだした。

快晴で暖かな17度前後の中、徒歩15分ばかりの道のりを大通りの歩道を歩き、
坂道を上る途中、桜花が咲き、欅(ケヤキ)の樹は芽吹きが終えて幼い葉が空に向かって伸びていたので、
山口百恵ちゃんのプレイバックのように振り返って撮ったりした。
          

私は桜花も魅了されているが、幼年期に農家の児として育ったので、
落葉樹の芽吹き、やがてたわわな幼い葉が拡げる状景に圧倒的に魅せられている。

やがて坂道を上がり切ると、こんな処に花があったの、と見惚(みと)れたりした。
          

そして5分ぐらい歩くと、お寺の多い地域の中を歩いた。
この周辺は関東大震災の時代、東京の下町一帯が焼失する中にあった数多くの寺院が、
この仙川の地帯に移転してきた。

こうした中、ある寺院には山門の前に、格言が掲げられたりしていたが、
『はなまつり』のポスターも掲示されていたので、あれぇ・・今日は『花祭りの日』だったことを教示された。
          

私の生家の宗派は、日本の中で数多く信愛されている曹洞宗であるが、
私は無念ながら仏教に無知な方なので、過ぎし9年前頃に『花祭り』について、
学んだりしたことがあり、思い浮かべたりした・・。

恥ずかしながら色々と調べ上げたが、1番解り易かったのは、
知識人の藤野邦夫(ふじの・くにお)氏の著作の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)であり、
この知識にすがり学んだりした。

今回、無断であるが、転記させて頂く。
《・・4月8日の『花祭り』は、仏教の創始者である『お釈迦さま』の誕生日。
それを祝うインドと中国の風習が日本に入ってきたのは、はるか昔の606年(推古14年)の事とされている。

祭礼の名称も、中国にならって『灌仏会(かんぶつえ)』と呼ばれていたが、
1900年頃(明治30年代)から、花祭りと言われるようになった。

灌仏会とは、お釈迦さまの仏像を『灌沐(かんもく)する《水を注いで洗い清める》儀式』という意味である。

この日、お寺では『花御堂(はなみどう)』《花で飾ったお堂》に、
『浴仏盆』という水盤を置き、そこに仏像を安置して、
お経を唱えながら、竹の柄杓で甘茶をかけて、礼拝する儀式が行われる。

甘茶を掛けるのは、釈迦が生まれた時、
空から9頭の竜が香り高い水を注ぎ、産湯にしたという伝説に基づいている。
また水盤は、その時に地下から湧き出て、釈迦の足元を支えたという蓮の花を表現する。
           
肝心のお釈迦さまの像は、右手を天を指し、左手は地面を指している。
これは釈迦が生まれた後、4方を7歩ずつ歩いて、
天と地を指して、『天上天下唯独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)』《宇宙の中で、私より尊いものはいない》
といったという伝説の表現である。
          

釈迦の生没年については、諸説があるが、前5世紀から前4世紀にかけて、80年ばかり生きた事は確からしい。

彼はインドとネパールの国境沿いの小国、カピラバストゥを支配していた『シヤーキャ』族の国王シュッドーダナ(浄飯王)と、
妻マーヤー(麻耶)の長子として、ルンビニー園で誕生した。

釈迦というのは、この種族の名前から出ており、
『釈尊』というのは『釈迦牟尼世尊』《牟尼は聖者》という尊称の略語である。

釈迦の名字は、『ゴータマ』《釈迦族全体の名字》で、名は『シツダールタ』《悉達多》。
モンゴル系かアーリヤ系の人間だったと言われている。

彼はまたサンスクリット語で、『悟った人』《覚者》を意味する『ブツタ』《仏陀》とも呼ばれ、
それが日本で『仏(ほとけ)』となった。
更に『如来』《真理の完成人》とも呼ばれるが、これは『タクーガタ』の訳語である。

生後七日目に実母を失った釈迦は、母の妹にに育てられ、16歳で結婚。
男の子を設けたが、人生の根源にひそむ『苦』《悩み》という問題を考えつめ、
29歳で地位を捨てて、出家した。

様々な苦行を重ねたが、問題の解明に至らず、最後は菩提樹の下で思索にふけって、悟りを開いたという。

苦悩を解決しようとする釈迦の教えを伝える最古のお経は、彼の孫弟子の時代に成立したという。

日本で花祭りが盛んになったのは、4月8日に、豊作を願って行われた古くからの農耕儀礼や、
山の神や田の神を祭る風習と結び付いたことに、一因があると言われている。・・》
注)原文にあえて改行を多くした。


私は再び歩きだしたが、隣接して小さな寺の門に、しだれ桜が咲いていて、見惚れながら、
先程の《お釈迦さま》について、ぼんやりと思い馳せたした・・。
          

もとより私は農家の児として育ち、やがてサラリーマンの都会の垢(あか)にまみれて35年ばかり勤めて退職した身であり、
実家は仏教のごくありふれた曹洞宗であるが、お釈迦さま、と云われても遥かに遠い存在の方である。

少し興味があったのは、『天上天下唯独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん』と掲(かか)げられたことである。
もとより、宇宙の中で私より尊いものはいない、と云ったかのような伝説はあるが、
私は孫弟子の人たちが、釈迦の教えを広く普及させるために、
権威をもたらすためにつくられた言葉と解釈してしまった・・。

このようなことを考えていたら、日本の史上に於いて、
『唯独尊』のような振る舞いをされた人物はどのお方であったろうか、と余計なことを思案したのである。
              

鎌倉幕府の創設者の源 頼朝、室町幕府の足利尊氏、
その後の織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康かしら、と思ったりしたが、
案外、地方の一国一城の大名である殿様の方が『唯独尊』が可能であった、とも思えたのである。

全国規模の統一者は、たえず苦楽を共にしながら統治する責務と権力があるが、
地方の有力大名の方が、幾分楽でそれなりにわがままを振舞えた、と思ったのである。


このようなせんなきことを思い馳せたりして、再び歩きだした・・。
やがて音楽専門学校の桐朋学園仙川キャンパスが見えたが、
この中の校門のひとつから、校内にあるしだれ桜が風もないのに、桜花が散り始めて、
私は見惚(みと)れてしまった・・。
          

やがて私は遠回りして駅前に向った。
そして私の住む市が総合文化芸術の街として、東京アート・ミュージアム、せんがわ劇場の並ぶ中を歩いたりした。
何かしらこの建物は建築家の安藤忠雄さんが設計され、2008年に開設されていたが、
たまたま私は『せんがわ劇場』で、どのような公演しているのか、と正面の入口に掲載されているポスターを見たりした。

この中のひとつに、『朗読ワークショップ~向田邦子 愛のカタチ~』のポスターが掲示されていた。
             
そしてポスターを精読すれば、ネット情報も明記されていた。
http://www.sengawa-gekijo.jp/events/11314.html
☆調布市 せんがわ劇場 公式サイト==>『朗読ワークショップ~向田邦子 愛のカタチ~』☆

私は亡き作家の向田邦子さんが遺された小説、随筆、テレビドラマに関して、
一時は物狂いのように熱愛したひとりで、現在は平熱となり時折再読したりしているひとりである。

何よりも驚いたのは、田園調布にお住まいの心清き奥方が、
この『朗読ワークショップ~向田邦子 愛のカタチ~』に関して投稿文を認(したた)められていたので、
大田区と同様に我が街の調布市でも同じようなことがされる、と私は微笑んだりした。


この後、私は駅前に出て、市民たちから長らく愛されている桜を観に行った。
          
そして駅前にある2本の桜は一時は再開発に伴い、伐採される予定であったが、
数多くの住民の署名の結果、少し移植して保存された樹である。
          

私は長らく見惚(みと)れた後、駅ビルの中にある本屋で、
本を買い求めたりした。

そして家内のお気に入りのパン専門店『ANDERSEN(アンデルセン)』で、
フランスパンとケーキのような菓子パンを購入した後、帰路に向った。
          

やがて私は自宅に向かい、長い坂路を下っていると、幾重かの思いがけない魅了された情景に、
めぐり逢えた、と幸福感につつまれた。

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桜花が彩(いろど)った時節に、つたない69歳の私は、愛惜を重ねて別れを告げて・・。

2014-04-07 16:43:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に結婚前後の5年を除き、
63年近くこの地に住んでいる。

10時半過ぎに平素の買物の専任者の私は、スーパーで家内からの依頼品を買い求め、帰宅した後、
本日はどのコースを散策しょうかしら、と少し思案した後、野川の遊歩道とした。

私の住む所は、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の辺鄙な処で、
住宅街で家並みが密集しているが、
自宅の近くに野川が流れ、この両岸に遊歩道があり、私は何かしら解放感を感じて、
上流に向かったり、ときには下流に向かったりし、
こよなく歩いているコースのひとつであり、本日は下流沿いとした。

このような思いになったのは、桜並木があり、私は一週間前に満開となり、
私は微笑みながら桜花の下を歩いたりしたが、
やはり桜花は散ってしまったかしら、と気になり向ったのである・・。

やがて10数年前に小公園のある10数棟マンションの前の遊歩道を歩いていた時、
この小公園の広場で、多くの方が芝生の上に座り、花見をしていて私は微笑んだりした・・。
          

幸いに桜花は快晴の17度前後の暖かな中、少しは散り始めて、ときおり微風が吹くと、
舞い上がり、やがて地上に落下し、周辺に散りばめていた。
古来の人たちは、このような情景を花衣(はなごろも)と称してきた思い馳せ、私は足を止めて見惚れたりした。
          

そして私は再び歩きだすと、前方から若きママに引率されるように児童を見かけ、
この近くに区立の小学校があり、入学式の帰路なのかしら、と私は感じたりした。

やがて若きママはツー・ピースを召されて、数歩遅れに歩いている男の児が真新しい制服、
或いは女の児は若きママに手をつながれて歩いてきたりした。
そして6組ぐらいのピカピカの新入生に、私は眩(まぶ)しげに見惚(みと)れたりした・・。

やがて数分過ぎた頃に、遠ざかって行ったこの方たちを、私は振り返って写真を撮ってしまった。
          
        
この後、私は再び遊歩道を歩き、対岸への橋を歩いたりした。
          

私が歩いてきた遊歩道は、両岸にあり、川沿いには小路がある中で、
何かしらキャンバスを立てて絵を描いている方たちが10人ぐらいいて、
私は絵心の素養もないが、その人なりの風景画の発露は素敵だよねぇ、と思ったりした。

そして対岸の遊歩道を歩いて、桜花を見上げたりしていた。
          
或いは近づいて、見惚れたりしていた。
                    

こうしていた時、若き女性のふたりが散策して近づいてきた・・。
何かしらツーピースをきちんと召されていたので、
近くにある大企業の研修センターがあることを私は思いだして、
研修を受講されている新社会人の方たちかしら、と感じたりしていた。

そして休憩の合間、桜並木を散策されて、桜花の鑑賞のひとときと私は思ったりした。

やがて若き女性のひとりが、相手方の若き女性に、
『こうした桜を観ると、あたし直太郎の『さくら(独唱)』の歌を感じてしまうの・・』
そして『あたしの中学校の卒業式に、桜が咲いて、あたしたち皆で『さくら(独唱)』を唄ったのょ・・』
という話し声が、私は聞こえてしまったのである。

私は桜の視える近くのベンチに座り、休息とした。
                  

そして私は先ほどの若き女性の言った森山直太郎の『さくら(独唱)』の歌に、
思いを馳せたりした・・。

私のサラリーマン現役時代は、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に勤めていたが、
1998年(平成10年)に業界のCDを中核とした売上げがピークとなり、その後は業界全体が縮小した。
この前後に、それぞれの会社が再構築がよぎなくされ、リストラなども行われた。

私たちの同世代は、定年退職時が60歳であり、
暗黙として、お互いに定年退職まで、頑張ろうとする意志は大半であった。
そして、もとより若き入社時代から人生設計の主軸として過ごしてきた・・。

こうした中で、私の知人の多くは50代となり、
組織の見直しによる人事配置転換の人事異動、出向、そして早期退職優遇制度による退職などの烈風となった・・。
このような形で、同じ時代の空気を共にした上司、同僚、後輩などと別離があり、
業界から去った人も数多くあった。

私自身も1999年(平成11年)の初春、55歳の少し前に出向となってしまった。
          

私の出向先は、委託しているCD、DVD等の音楽商品を保管・管理する物流情報会社であり、
通勤としては、ほど遠く、この中のひとつの物流センターに配属された。

私の住む自宅からバスに乗った後の最寄り駅は、小田急線の成城学園前であり、
30年近く情報畑、管理畑に勤めた本社で勤務していた時は、
自宅を8時過ぎに出て、都心に向かって一時間で通勤していた。

そして出向先は、自宅を6時過ぎのバスの始発に乗車し、成城学園前からは下り方面の本厚木駅に行った後、
バスに乗り換えて物流倉庫の多い処まで、一時間半ばかりで通った。

職場状況、そして通勤状況も大幅に変貌したので、初めの半年ぐらいは戸惑いながら、
つたない私でも、もとより出向は本社機能の戦力から不必要だと烙印を押されたことであるので、
まぎれなく都落ちで、敗北感が充満し失墜感で気落ちした・・。

この後、何とか半年後に私は職場の業務にも馴染み、
この間に、私の勤めていた出向先の物流情報会社も大幅なリストラがあったり、
かって30年近く勤めていた出向元のあるレコード会社も幾たびかリストラが実施され、
こうした中で、私なりに奮戦し、定年退職を迎えた。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
          

私が勤めた物流センターは、CD、DVD等の音楽商品を保管・管理する部署であった。
センター長を始め、私も含めて正社員5名を中核に、
若き20代の男性の契約社員10名前後、そして女性パート120名前後の中で、
全国のCD販売店、卸店などからの注文に応じて、即日出荷するのが、業務が大半で、
私は主要曲の出荷量を予測したりし、効率よく迅速に出荷できるような業務も責務のひとつであった。

こうした中で、2003年(平成15年)3月の初め発売された森山直太郎の『さくら(独唱)』のCDシングルは、
発売日の初回枚数がわずか1500枚前後であったと記憶している。

この当時、かって勤めていた出向元のあるレコード会社からは、
毎月発売されている新譜と称されるCD、DVD等の音楽商品に関して、
邦楽、洋楽、クラシックなどは、少なくとも100種類はあった。

その上に既に前月までに発売されている旧譜と称されるの商品は、
1万5000種類は超えて、この中の一部にヒット曲もあり、主要曲として出荷量の大半を占めていた。

こうした状況であったので、3月5日に発売された森山直太郎の『さくら(独唱)』は、
初回枚数が余りにも少なく、私は注視することがなかった。

やがて桜の花が本州を北上するように、
この曲のCDが次第に上昇し、私は明日は3千枚ぐらいかしら、と予測して、
若手の男性契約社員に、商品を揃えるように依頼したりした。
               
しかし大半が私の当日出荷枚数を超えて、
私はCD5000枚単位のパレットを保管倉庫から出荷しやすい場所に移動させたり、
そして私が予測した以上の曲の数々の商品に於いても、現場を駆けずり廻っていた。
          

この頃の私は、通勤時にCDウォークマンで数々の曲を聴き、
音楽専門雑誌を読みながら、それぞれの曲の出荷を予測の基礎としていたが、
30年近くレコード会社で情報・管理畑で体験した身でも、需要予測は難しいのである。

特に数多い音楽商品の場合は、人々の好みを予測し、この中の一部の方が一枚を購入して下さるので、
まぎれなく生きた心の商品でもある。

結果として、森山直太郎の『さくら(独唱)』は、東北の北部に桜の咲く時期まで、活発に動き、
5月の初めの大型連休の頃、ミリオン・セラーと称せられる百万枚となり、その後も出荷を重ねた。

私にとっては、たまたま定年退職の前の年に、この曲が、
私の予測を遥かに超え、思いで深い曲のひとつとなった・・。
          

この当時の頃のCDシングルは、何曲も収録されているのが、流行だった。
このCDシングルも『さくら(独唱)』、『さくら(合唱)』、『さくら(伴奏)』、そして別の曲の『手紙』が入っていた。

私は『さくら』を3回ばかり聴いた後、『さくら(合唱)』が最も好きな曲となった・・。
何よりも女子高等学校の音楽部の方達が合唱に加わり、
より一層、哀切、惜別が醸(かも)し出されいる、と公言したりした・・。

このように私なりに体験をしたので、本社に勤務を含めた35年間でも、
数多くのヒット曲にめぐり逢えたが、とりわけ森山直太郎の『さくら(独唱)』の歌は、
思いで深い曲のひとつとなっている・・。
          

そして昨今、中学生、高校生の間で、卒業式の愛唱歌として唄われる、
と私は風の噂で聞いたりすると、
作詞も良し、メロディーも良し、そして唄声も心に残る、と私は確信を深めて、
そうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、微笑(ほほえ)む時もある。

このようなことを私は思い馳せたり、この森山直太郎の『さくら(独唱)』の出荷作業に奮闘していた時から、
早くも11年の歳月が過ぎてしまった、と微苦笑したりして、
そして年金生活をしていると実に早く過ぎ去ってしまう、と思いを重ねたりし、帰路に向った。

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『団塊世代の“勝ち逃げ”は嘘』寄稿文、年金生活の69歳の私は賛意し、やがて微苦笑して・・。

2014-04-06 13:32:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

その上、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私は私より少し若い団塊世代の人々に対して、知人、友人が多いので、何かと注視してきた。
私が25歳の時に、民間会社に中途入社できたのは、1970年〈昭和45年〉4月であり、
やがて私が職場の机で隣接したのは、大卒で入社された一年生の団塊世代が多く、
この後もお互いに業界、社内の空気を長らく共に苦楽を重ねてきた・・。

そして私の妹ふたりは1947年(昭和22年)1月、1948〈昭和23年〉10月の生まれであり、
家内に1949〈昭和24年〉12月の生まれであり、
何かと幼年期からの情況は、理解しやすいひとりとなっている。

ここ数年、団塊世代は“勝ち逃げ”とか、中には“日本社会の不良債権”と雑誌などで私は読んだりしたことがあり、
少し酷いじゃないの、と憂いたりしてきた・・。
          

たまたま先ほど、ネットでニュースを検索していると、
昨年の2013年(平成25年)10月8日に配信された記事に於いて、
《 団塊世代の“勝ち逃げ”は嘘 年金は彼らの積立金が支える 》
と題された記事を精読してしまった。

この記事の元は、『週刊ポスト』の2003年10月18日に掲載された記事であり、
無断ながら転載させて頂く。

《・・安倍政権が年金カットを閣議決定したのは消費増税を決断する1か月前の9月3日だった。
その大義名分に掲げたのが、「もらいすぎ年金」と呼ばれる特例水準の解消だ。

 
年金は物価の上下に応じて支給額を調整することになっているが、
歴代の自民党政権はデフレ(物価下落)状況の中で高齢者の生活を考慮して年金支給額を下げずに据え置いた。
結果、受給額は法律に定められた水準より高くなり、これが特例水準と呼ばれている。

 
財務省や厚労省は昨年の消費税増税法案審議にあたって、そのことを問題にした。
消費税を上げなければならないのは、
「高齢者が年金をもらいすぎているからだ」と批判して現役世代の不満を高齢者に向けさせ、
自公民3党で消費増税とともに年金カット(特例水準解消)の法案を成立させた。
今回の閣議決定ではそれを予定通り実施すると決めたのである。

 
しかし、本当に高齢者は年金をもらいすぎているのか。
そもそも政府が年金減額に動いたのは、「団塊の世代」(1947~1949年生まれ)が
年金受給開始年齢の65歳を迎え、年金財政が一層苦しくなったからだ。
年金カットは団塊世代を狙い撃ちするものといっていい。
          
 
年金博士として知られる社会保険労務士の北村庄吾氏が指摘する。

 
「団塊世代は年金に関して“勝ち逃げ世代”といわれるが、そうではない。
年金制度はすでに破綻しているのに、なんとか年金を支払うことができるのは、
高度成長期からバブル期にかけて団塊世代が中心になって貯めた積立金があるからなのです」

 
日本の年金制度は、積み立て方式ではなく、現役世代が支払う年金保険料で高齢者の年金を賄う「賦課方式」を取っている。
制度上、保険料は給付に必要な金額という考え方が基本だ。
ところが、政府は長い間、サラリーマンから支給額より多く保険料を徴収し、
余ったカネを積立金にしてリゾート開発などに注ぎ込んだ。

 
年金積立金とはいわば“払いすぎた保険料”であり、その金額は団塊世代が就職した1965年の約1兆4400億円から、
大量退職を迎えた2007年には約127兆円へと100倍近くに増えた。
          
 
半面、団塊世代は受給額では割をくっている。
年金の支給額は制度改革のたびに減らされ、サラリーマン男性の世代別の年金支給額(今年3月末)を見ると、
1927年生まれ(86歳)が平均月額21万7110円なのに対し、
それ以降の世代は1歳刻みで受給額が減っていき、
団塊世代の1947年生まれ(66歳)は18万1952円と3万4000円も低い。

それに加えて年金支給開始年齢引き上げ(団塊世代は64歳で満額支給)で、生涯の年金受給額はさらに少なくなる。
 
団塊世代は、現役の時は必要以上に保険料を支払って年金制度を支えさせられながら、
受給額は前の世代より大きく減らされている。

それなのに「もらいすぎ」と年金破綻の元凶のように批判されては、反乱を起こしたくなるのも当然だろう。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

敗戦後の荒廃した日本は、敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、誰しも貧乏な時代を体験してきた世代である。
私より10歳以上の先代の諸兄諸姉の多くは、それぞれに奮戦し、
少なくとも世界の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代も奮闘してきた。

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。

その上、経済は低迷していると言われている現在さえも、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
医療の充実もあり、主要国の中でも最先端の長寿化の超高齢化社会の時代を迎えている。


私より少し若い世代の団塊世代の諸兄諸姉は、
多くは60歳で定年退職をされて、その後は年金完全支給年まで何らかの形で働かれ、
65歳前後を迎えられた今日、年金生活を始められた方が多いのが社会の実情となっている。

こうした中で、団塊世代の諸兄諸姉は、第一線を退かれ、年金生活を過ごされ、
今までの多忙な勤務の生活を終えて、それぞれお好きな趣味の時間で過ごされる、と思ったりした。
          

しかしながら年金に関しては、私が若き40代の時、
家内の両親と旅行した時、何かの調子に年金の話題となったことがあった。

この時の私は、お義父さん(1926年=昭和元年生まれ)たちの世代は、
私たちの世代が多いので、たくさんに神輿(みこし)をかつがれている世代などで安楽しているが、
私たちが退職後に年金生活に入った時、神輿(みこし)をかついて下さる人が減少するので、
少し不安ですょ、とこのような意味合いの言葉を私は義父に言ったりした。

或いは厚生労働省の前身の厚生省だった時代に、《余ったカネを積立金にしてリゾート開発などに注ぎ込み》
やがて破綻して、国民の大切な年金資金を浪費させた厚生省の高官たちに、
中小業の民間会社に勤めていた私は、怒り心頭をし、非国民だ、と思いを深めたりしてきた。
          

このことはもとより、日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実がある。

そして年金も現役世代が払う保険料で高齢者に年金を支給する「世代間扶養」の仕組みを取っているので、
団塊の世代が65歳を迎えた今日、社会保障を長らく支えてきた団塊の世代が、
「支えられる世代」となって、若い世代に重い負担を強いることになってしまった現状である。

こうしたことの主因は、高齢者は長寿化となり、年少者が激少し、超高齢化社会の時代を迎えているが、
こうした現状は30年前のベルリンの壁が崩壊し、世界の経済が自由主義経済に一色になる状況は、
誰しも予測できなかったであろう、と私は思ったりしている。
          

私たちが過ごしてきた時代は、日本の多くの人たちは一生懸命に働けば、年収も毎年増え、
そして家族で明日に希望が持て、実感できた総中流社会であった。

こうした中でバブルが終息し、そしてベルリンの壁が破壊され、
やがてソ連が崩壊し、世界の経済が自由主義経済に一色となった後、
世界の経済が自由主義経済となった上、日本は失われた15年で、
主要各国や躍進してきた中国などに国際競争力に敗退し、かっての高度成長の総中流社会の再現は、
見果てぬ夢となった。

そして殆どの民間会社は、社員が一家を養(やしな)うだけの給与を支払う余裕もなく、低下してきた。
そして私は確か5年前の頃、働いて下さる現役世代の男性の民間会社に勤めている正社員の人たちが、
1997年〈平成9年〉の時点から、年収が横ばいと知り、無力な私は悲嘆した・・。
        

こうしたことは私たちの息子、娘の世代から観れば、
お父さんは会社で一生懸命に奮戦し働き、マンションか一軒家を買い求めて、
お母さんは専業主婦で家庭を守る中で、子供ふたりは程ほどの自由な生活を満喫し、大学まで学び、
やがて子供は結婚して独立させてくれた典型的な中流社会は、大半は崩壊した・・。

こうした状況に、私は無力ながら憂い、ここ10数年のデフレの閉塞感ある実態より、
何とか経済復興をした上で、堅実な経済成長が望ましい、と念願してきた。
                    

この上、高齢者の有権者層が急増している今日、
政治家の諸兄諸姉が高齢者を重視した政策を掲げることが多くなり、
現役世代の若い30、40代の人たちがのささやかな念願よりも、
定年退職が出来た上、年金受給者の高齢者を優遇せざるを得ない危険な政治状況と憂いているひとりである。

このような現状の制度のままで放置すれば、
現役世代の若い30、40代の人たちは、何かと過重負担となり、
耐え切れず反乱されても致しがたいであろう、と思ったりしている。

そして、働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、世代間の格差の羨望と嫉妬の末、
高齢者の人たちを負担させるばかり人たちと思い、
邪魔な存在と感じながら、粗末にする風潮のなる世界が想像できる。

私はこのような世代間の対立を回避したく、
このサイトに幾度も現状の『消費税』を廃止する代わりに、
新たなる社会保障費の専用にした『社会保障税』の新設で、賢人の審議により、
多くの方が安心できる制度を政府は迅速に成立させるべきてある、と高齢者の私さえ投稿を繰り返してきた・・。

しかし、高齢者の巨大な層の有権票の反対が怖くて、政治家の諸兄諸姉議員の多くはためらい、
日本経済のデフレ状況もあり、混迷をしてきた。
                    

このような心情を重ねてきた私は、
やむにやまれず安倍首相の《・・社会保障の財源を確保し、財政再建を図るため・・》
そして《・・経済の再生、財政健全化・・》の実現を目的とした今回の消費税の増税に賛意してきた。

改めて今回の消費税の増税は、世代間の論争の難題を超えて、
やむなく総論は賛意、各論の一部にはそれぞれ異論はあると思われるが、
私も年金支給額が削減と知り、苦笑したりしている。

しかしながら社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、現状のままあると、
少なくとも毎年一兆円の国の負担が増している今日、
          
私より上の世代、そして私たち世代、団塊世代、そして働いて下さる50代から20代の人々、
それぞれ自分たちの世代だけが得をするようなことは、この世にあってはならず、
消費税の増税を期にして、お互いに国民は痛みを共有し、
明日に希望が持てる日本の再建の第一歩、と私は微苦笑したりしている。

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風邪薬を飲めば、何かと鈍(にぶ)い69歳の私でも、9時間ぐらい安眠して・・。

2014-04-05 16:45:09 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
過ぎし3月25日に最寄駅の皮膚科の専門医院に行った。

何故かしら左の腰の近くに吹き出物のような赤みがあり、
三日前の頃は少し膨らんでいたが、痛みもなく放置していたが、やはり気になったりしていた。

そしてこの状況を私は家内に話したりすると、
『うちのお父さん・・40代の頃に大きな吹き出物が出来て・・
近くの病院で10センチぐらい切開して・・治ったことがあったから・・
専門の皮膚科の先生に診て頂いた方が無難だわ・・』
と家内は私の腰近くを視て言ったりした。

私は『皮膚科』の病院に行くと、受付の近くにある待合室に10数組の受診者がいた。
私は予想したより少し多いなぁ、と思いながら持参した本をソフアーに読んだりした。

やがて30分過ぎた頃、XXさん、お待たせを致しまして、と若い看護師の女性から呼ばれて、
医院長のいる診察室に私は行ったりした。

そして私はこれまでの経過状況を言ったりした後、
患部を診て頂く為に、恥ずかしながら長ズボン、そしてパンズを少しずらした・・。
結果としては、隣室で切開をすることなり、私は隣室の診察室に移動するように指示された。

その後、診察室は8畳くらいの広さで、ベットが中央に設置されて、
私は麗(うる)わしき若き看護師に指示されて、ベットに横たわった後、
再び長ズボン、そしてパンズを少しずらした・・。

そして医院長が見えて、麻酔をした後に一センチ前後切開します、と宣言された後、
私の赤み帯びた患部の手術をして頂いた。

そして入浴は避けてシャワーだけにし、切開した箇所が濡れた場合は、ガーゼを取り換えて、
細菌物質の薬を呑み、明日も治療経過を診せて、と医院長から言われたりした。

もとより細菌物質は、細菌による感染症の対処であるが、
明日も通院するのか、と私は思ったりした。
やがて何かとプラス思考の私は、明日も麗(うる)わしき若き看護師に逢える、
と私は瞬時に感じ、承知致しました、と私は病院長に御礼の言葉の最後に元気よく言ったりした。
          

この後、4回ばかり通院している中、お風呂に入れず困苦したりしていた。
平素の私は、入浴すると身体を洗い、入浴して身体を温めた後、
髪の毛も丁重に洗ったり、髭(ひげ)を剃ったりした後、再び入浴したいた。

しかしながらシャワーだけで、髪の毛、身体を洗ったりしていると、
身体全体が温まることなく、やがて6日間が過ぎた頃、風邪気味の状態となってしまった・・。

やむえなく市販の風邪総合薬を飲みはじめた・・。

こうした結果、何かと鈍(にぶ)い高齢者の69歳の私は、赤ちゃん返りのように、
よく眠るのである・・。

たとえば夜の9時過ぎに布団にもぐり、本を読みはじめていても、数ページ読んでいるうちに眠くなり、
消灯した後、朝の6時半頃まで眠り続けるのである。

日中は平素のように買物、散策はしていても、何かしら覇気がなくなり、
困ったもんだ、と独り微苦笑をしたりしてきた。
          

そして私は今年の9月の誕生日を迎えると、古希と称される70代に入門するので、
70代になれば、このような睡眠時間は9時間前後、そして覇気が消え去るのかしら、
と危惧したりした。

私は体力の衰えは齢を重ねるたびに実感しているが、
睡眠時間は7時間ぐらい、そして日中は溌剌とすごしてきたが、
やはり入浴して心身やすらぐことが欠かせないなぁ、と苦笑したりしている。

そして明日からは、久々のお風呂に身も心もゆだねて、
ここ10日間の不調と称されるスランプ期から脱出するぞ、と小庭を眺めて決意したりしている。


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わが家のこの時節の『朝の挨拶』は、単細胞の私は珠玉曲に想い重ねて・・。

2014-04-05 15:03:45 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、朝食前に居間の食卓テープルで、私は煎茶、家内はコーヒーを飲んていた時、
『今朝は少し平年より幾分寒いかしら・・』
と家内は私に言ったりした。

『そうだよねぇ・・花冷えの日と思われるが、桜、海棠(カイドウ)の花持ちするから、
ときにはこうした時も良いよねぇ・・』
と私は家内に応(おう)じたりした。

そして小庭は快晴の陽射しの中、モミシの幼き葉が広げ始めたりとている情景を私たちは眺めたりし、
『今の季節が・・一番綺麗よねぇ・・』
と家内は私に言ったりしたりした。
          

やがて私は小庭の片隅にあるテラスに下り立ち、たわむれにデジカメで撮ったりした。
          

そして塀際の常緑樹のアカネモチは朱紅色の新芽が勢いよく伸ばして、
あのように毎年たんたんと元気よく新芽に、体力が衰えてきた私は羨望して、微苦笑したりした。
          

そして紫木蓮(シモクレン)が咲いているのに、見惚れたりしていた。
          

この紫木蓮(シモクレン)は、2月中旬の頃に白梅が咲きはじめる頃、
落葉した枝葉の裸樹から、枝先に数多くの萌黄色の莟が観られるようになる。

この頃になると、この莟(つぼみ)を小鳥が飛来して餌(えさ)の不足の早春時期に食べてしまい、
半分ぐらいを残してねぇ、と私は思ったりして毎年過ごしているが、
無念ながら大半を小鳥が食べてしまった後、この時節になると30数輪が咲いている。

私は農家の児として育った幼年期に、生家の庭の外れに大きな紫木蓮があった。
そして私は子供心に、品のある花だと思っていた。

やがて私が35年前頃、家を建てた時、ある程度の配置で植え込んだりした。
この花は平年ならば3月の下旬から4月の終わる頃まで、
次々と開花し、高貴な花の容姿と色合い、そして気品ある香りを彩(いろど)ってくれる。

そして花の盛りを過ぎると、花びらが周辺に散り、黒土の上に重ねはじめる・・。

その後、新梢が伸び花芽が付いたりする。
やがて幾重に伸びきった枝葉を入梅の頃に剪定すると、
入梅のひとときの晴れ間の日、再び花が咲き、花の少ない時期の私は喜んでいたりしている。

そして10月の中旬になると、黄葉し、やがて茶色に染められ後、落葉する。

このような移ろいを私は想い返して、陽春を受けている花を見詰めている。


わが家の小庭の片側の一面は、陽当たりの少ない所にある藪椿(ヤブ・ツバキ)の朱紅色、紅色、濃い紅色の花びらが、
この時節に彩(いろど)っている。
          

或いはここ5日前より、群棲させた鈴蘭(スズラン)水仙が咲き始めている。
          

このような小庭にある情景を眺めたりしていると、
何かと単細胞の私は、クラシックの珠玉曲のひとつとして名高いエルガーが『朝の挨拶』の曲が、
つたない脳裏から思いだされた・・。

私は楽譜も読めなく、楽器ひとつも弾けない身の音楽に素養のない身であるが、
このエルガーの『朝の挨拶』を聴いたりすると、
イギリスの田園風景の中で、程ほど大きな邸宅の裕福な家で、朝のひととき優雅な情景を私は重ねてしまうのである。

しかしながら私は農家の三男坊として生を受け、小学低学年まで農家の児として育てられたが、
父が病死し、祖父も亡くなったので、生家は衰退し、一時は生活に困窮した時代もあったりした。

そして私は幼年期の劣等感、そして身過ぎ世過ぎの年金生活を過ごしている今、
せめて心の中だけでも優雅な裕福のひととき・・と思っているせいか、この曲を聴く時もある。

このような身勝手な思いで聴いたりしているが、
この時節に風光る情景や我が家の小庭にある雑木を眺めたりしていると、
今年も雑木は芽吹いてくれて、幼い葉を広げ、やがて萌黄色、黄緑色から新緑色に染められる時節に、
限りなく心の濾過を託すように魅せられている。
          

こうした朝のひととき、もとよりエルガーの『朝の挨拶』の主旨とは、遥かに差異があるが、
農家の庭先に観られる情景を真似事した我が家の小庭に、私はやすらぎを感じて、この時節を過ごしている。


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私の過ぎ去り年の定年退職時、リストラ烈風の中、ささやかな思いは・・。

2014-04-04 16:45:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
午前中のひととき、平素の買物専任者の私は、最寄のスーパーで買物の責務を果たして帰宅した。

やがてテラスに下り立つと、昨日の朝から小雨が降り今朝の8時過ぎまで降り続き、
そして曇り空から急速に天候は回復して、澄み切った清々しい晴れ間となっている中で、
小庭にあるアカネモチは朱紅色の新芽、そしてキンモクセイの黄緑色の新芽も伸びだし、
名も知らぬ落葉樹は芽吹きが終わり、幼い葉を眺めたりした。
            

そして名も知らぬ落葉樹を眺めていた時、2004年(平成16年)の秋に定年退職をした当時の頃が、
思いだされて、微苦笑したりした・・。

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、
あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転進する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
何とか大手の民間会社に中途入社出来たのは、1970年(昭和45年)の春であった。

そして音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、
外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
この新しいレコード専門会社に情報畑、管理畑、営業畑など35年近く勤め、
定年退職を迎えたのは2004年(平成16年)の秋であった。

このようにサラリーマンの生活をしてきたが、もとより一流大学を卒業され後、
大企業、中央官庁などに38年勤め邁進し、栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
そして何かと半生記は、自慢史が多いと言われる中、無念ながら該当もせず、敗残記ような存在である。
          

たまたま私が勤めてきた中小業の多い音楽業界は、
1970、80年代はそれぞれのレコード会社は躍進したが、
1990年代を迎えると、特に外資系は、世界市場の中でアメリカに続いて、日本が第二位となり、
抜きん出た市場となり、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998年(平成10年)に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば1999年(平成11年)の新春、
取引先の物流会社に出向を命じられた。
                 

もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。
                   

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
          

この間、私が50代のなかば1999年(平成11年)の新春に出向の辞令の直後、
私たち夫婦は、定年退職後の生活を具体的に話し合ったりした。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
定年後に於いて、どのような生活をしたいか、そして生活資金などを話し合った。

私は定年の60歳まで働き、主(あるじ)としての責務を果たし、
その後は趣味の時間に没頭し自在に過ごしたいので、
現役時代の収支、そして退職金、退職後の年金推定を算出した。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
何かと私たち夫婦の私の退職後の生活収支はある程度算出し易かった。

ただし私は1944年(昭和19年)9月生まれであるので、
年金の満額の支給は62歳であり、それまでの2年間は満額のほぼ半分となるので、このことも配慮した。

この時の私は、幸いに住宅ローンを終えていたので、
年金が満額となった62歳からの生活の収支は、
私たち夫婦の共通趣味である国内旅行費、そして冠婚葬祭など諸経費は例外として、
原則として生活費は年金を頂く範囲として、収支の概要を作成したりした。

こうした結果、私の年齢、家内の年齢を主軸に
1998年(平成10年)から私が80歳を迎えるまで、
年次別の収支と残額を作成し、パソコンに入れて、計画、実績、差額を毎月入れることとした。
                       

こうした中で、定年を半年後となった2004年(平成16年)の春、
私は右腕が肩より上に上げたりすると何かと重く、痛みを感じたので五十肩かしらと思い、
毎週土曜の休日になると、自宅から最寄駅の駅前の近くにある整形外科に通院したりした。

思い当るとすれば、この当時は毎朝の4時45分に起床し、
自宅の付近の始発バスに乗り、小田急線の『成城学園前』駅より遠方の通勤場所に通い、
音楽商品のCD、DVDなどのある東京ドームより広い商品センターで奮戦し、
帰宅は早くても夜9時過ぎであったりした。
こうしたことを50代の後半に5年過ごしてきたので、疲労の蓄積かしら、と苦笑したりした。

やがて5月の大型連休になると、私の責務の範疇である自宅の庭の手入れの樹木の剪定、草むしりは、
やむなく放置していた。

そして7月頃になると、家内の父が腎臓癌で入退院を繰り返してきたが、
更に悪化状況になり、家内の母と家内は一日交代で、夜通し看護する身となった。

家内は我が家から2時間以上の電車に乗り、入院している大学病院に通ったりし、
帰宅後は疲労困憊の日々であった。
                    
こうした我が家として危機のような状況もあり、やむなく私は有給休暇を利用して、
定年退職時は10月20日であったが、早めの8月の月末で通勤を断念して、実質の定年退職時とした。
                    

そして世の中は定年退職時は、職場で多く方に囲まれて花束を贈呈され、拍手喝采中、職場を去ることが多く、
この数週間前の頃から、幾たびも歓送会が開催された、と私は聞いたりしていたが、
確かに私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風の前にはあり、
私も先輩方たちの歓送会に幾たびか出席したりしてきた・・。

そして私の同僚のふたりが、私が定年退職の時、歓送会の幹事をすると私に約束してくれたが、
リストラ烈風の中、私が出向3年生の時に、肝要な同僚のふたりが、リストラをされて退社し、
はかなくも30年近く勤めてきた出向元の会社の中での私の歓送会は、まぼろしとなってしまった。

こうした中、誰しもがリストラ烈風の中、のどかな定年退職時の歓送会などは、
開催されることは少なくなった。

私の場合は物流会社の中のひとつの商品センターに出向であり、
センター長をはじめとする私を含めて正社員の5名の中、
若手の20代を中核とした男性の契約社員、アルバイトの10名、
そして30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

この最後の勤務8月の月末日、商品センターが出荷作業が一段落した後、
全員並ぶ中、私は退職の挨拶をした後、女性のパート方達から花束、贈呈品、
そして色紙にほぼ全員からの短かなメッセージを頂いたりした。

そして物流会社の本社に挨拶に出向いた後、
夜のひととき、商品センターの有志10数名から歓送会を開催して下さり、
後日の9月中旬に物流会社の本社、商品センターの有志で20数名で歓送会をして下さった。

或いは10月下旬に、私が30年近く勤めてきた出向元の会社の有志20数名で、
歓送会を開催して下さったりした。

このようにリストラ烈風の中、のどかでおめでたい退職時の情況は、私の場合は出向身分もあり、
大きく変貌してしまったのである。
          

私は実質退職した9月の始めから、自宅で五十肩を労(いたわ)りながら、
家内の父の危篤のような状況を憂いたりしていた。

やがて9月の中旬に私は、小庭の枝葉、雑草は伸び放題だったので、
とりあえず五十肩を気にしながら玄関庭、主庭の雑草の草むしりをした。
主庭の草ぼうぼうの中で、草取りをしている時、小さな幼い樹が三本を見つけた。

樹高は10センチぐらいで樹元の幹回りは3ミリぐらいの、かぼそい樹であった。
そして私は、小鳥が飛び立つ前のささやかな贈り物が成長したのかしら、と微笑みながら、
取るのをやめて放置した・・。
 
           

この後、家内の父は10月初旬に死去し、葬儀を終えてまもなく、
私の定年退職時の10月20日の正式日に迎え、退職後の書類、退職金などで銀行廻りをしたり、
慌ただしい日々を過ごしたりした。
          

こうした中、定年退職後の失業保険に関して、当初は申請して、5ヶ月分の失業手当を頂こうとした。
しかし、私は長年に及び管理畑の身であったので、これといって特別な技術もなく、
たまたま家内の父が死去し、退職直前は業務の引継ぎに加わり多忙となったりした。

そして、この数年前の頃は大企業もリストラ烈風で失業された人達も多く、
私は勤める意志なく、求職される方達の真摯な様子をホームページ、新聞、テレビのニュースなどで知ったので、
失礼と思い、失業保険の申請書を破棄したのである。

そして家内の父の死去に伴い、定年退職記念旅行、失業保険の断念は予定外であったが、
人生は予定通り進まないことも多くあるので、私なりに後悔はしなかった。
          

翌年の2005年(平成17年)の初め、五十肩を消え去り、私は60歳の年金生活であったので、
天上の神々は、何時までも50代ではない、と采配して下さったと思いながら微笑んだりした。

そして入梅前に私は草むしりに専念していると、
あの幼い三本の樹は、少し成長していたので、この中の一本を庭の片隅に移植して、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
秘かに定年退職時の記念樹と私は決めたりした・・。

小さい樹ながら、早春には芽吹き、春には主幹と枝は成長して若葉の情景となり、
          
秋を迎えると、あまたの葉は黄色に染まり始め、やがて晩秋には黄色の色合いに染め、
          
12月の初めの頃に落葉して、そして冬木立となる。
          
この間、めざましく伸長したので、やむなく剪定を繰り返して、
樹高は5メートルまでとしたりした。
          

こうした中で、小庭に私の定年退職の記念樹として植えた樹も大きく育っている。
つたない半生を歩んできた私が、せめて定年退職時の記念樹と思いながら、
ときおり四季折々ながめることが多い樹となっている。

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ときおり物忘れが多くなり、高齢者の私は独り微苦笑して・・。

2014-04-03 10:54:05 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、NHKのテレビニュースを視聴していたら、
いよいよ明日の4日(日本時間)は、ヤンキースの田中投手が先発で登板されます、
と報じられて、私は苦笑した。

そして私は、肝要の黒田投手を忘れていませんか、と呟(つぶや)こうとしたが、
この黒田(くろだ)さんの表情、しぐさを思い浮かべることが出来ても、
無念ながら『黒田(くろだ)さん』の名前が出てこなかったのである・・。

大リーガーのヤンキース球団の投手陣の中で、特に昨年の8月中旬の頃まで、それぞれの投手が不調の中に於いて、
黒田投手は孤軍奮闘するかのように活躍し、野球に詳しくない私でも、あれこそはプロだ、
とテレビで幾たびか視聴観戦してきた私は絶賛してきた。

今年の投手陣の先発ローテションは、サバンナ、黒田、そして私も期待している田中・・と知り、
本日の3日(日本時間)は、黒田投手が先発予想がされるので、
私の好きな田中投手は明日に登板予定なのに、NHKは田中投手の話題より、
本日の黒田投手のことを報じるべきである、と私は強く思ったりしたのであった。

そして私は、年金生活の中で齢を重ねるたびに、物忘れが多くなった、と改めて気付き、
独り微苦笑したりした・・。
          

家内とテレビの旅番組を共に視聴したりしている時など、
あそこも行ったよねぇ、と私は家内に言ったりした時、その地の情景などは鮮やかに重ねることができても、
肝心の地域名が言葉に出来ないことが、もどかしさを感じることがある。
          

私はサラリーマン時代の50代の前半時期は、音楽業界のあるレコード会社に勤めて、
この当時は営業本部の片隅で奮闘していた・・。

こうした中で、発売しているCDシングル、CDアルバム、DVDなどの1万5000作品に於いて、
主要作品の1000作品ぐらいのタイトル名、発売年月日、そしてアーティスト名なとは、
時系列で記憶し、いつでも言葉にできていた・・。

そして他社の作品でも、売上ランキングのベスト10になる作品ぐらいは、
タイトル名、発売年月日、アーティスト名なども覚えて、自宅でときおり聴たりしてきた・・。

もとより給与を頂いている身であったので、職責のひとつとして覚えざる得ない、
というのが本音でもあったが・・。
          

そして2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、年金生活を始め、
やがて多くのことは忘れてしまったが、
私の幼年期のことなどは、何故かしら鮮明に思いだせるのである。

祖父と父が健在だった頃、所有していた田畑、雑木林、竹林、田んぼの中で流れていた小川などの情景、
或いは初めて観た映画作品は、1950年(昭和25年)の夏、『長崎の鐘』を母に連れられて鑑賞したこと、
今でも心の片隅に残っているのである・・。
          

ここ数年、物忘れが多くなり、溜息を重ねたりしているが、確か私が小学3年生の頃、
亡き脚本家の菊田一夫(きくた・かずお)さんの『忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ』と、
名作の『君の名は』で遺(のこ)された名言に、私は独り微苦笑したりしている。


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新たなる新年度の4月は、清浄明潔の月だ、と高齢者の私でも、微笑んで・・。

2014-04-02 09:24:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であり.
昨日の早朝ぼんやりと3月のカレンダーを切り剥がしながら、『弥生(やよい)』の3月と明記されていたが、
私の住む地域に於いては 『桜月(さくらづき)』だったかしら、と微笑んだりした。
          

古来より日本の多くの各地では、2月は梅の花が咲き、3月は桃、やがて桜の花が咲いてきたので、
『桜月(さくらづき)』、『桃色(ももづき)』と称せられ、
数多くの人々が春の訪(おとず)れに、感謝しながら悦(よろこ)び感じて過ごす時節である。

しかしながら私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に地域では、
昨年の12月頃から平年より30数年ぶりの寒さとなり、
2月を迎えた時は、我が家の小庭の水仙(スイセン)も莟〈つぼみ〉も見えず、白梅(ハクバイ)、
そして紅梅(コウバイ)は莟〈つぼみ〉が固く、平年より数週間は遅れているのかしら、と苦笑をしたりしてきた。

平年ならば、1月には日本水仙の花は咲き、冬麗の美を感じ、
            

2月中旬には白梅は凛とした純白の色合い、紅梅は華やかな朱紅色の色あいを見せてくれるので、
早春の美だ、と思いながら毎年過ごしてきた・・。                         

今年の2月は、相変わらず平年より寒さが続き、齢ばかり重ねた私でも、
天上の気候の神々の采配に戸惑い、どうしてなのょ、と空を見上げたりしてきた。

過ぎし2月20日になって、玄関庭にある白梅が、遅れてご免なさい、と言ったように、
恥じらいながら2輪ばかり咲いたりし、
2月の月末に、澄み切った青空で陽射しは燦燦(さんさん)と、風もなく暖かい3月下旬のような陽気となり、
主庭の白梅は数多くの莟〈つぼみ〉か大きく膨らんできた。

そして3月を迎えると、我が家の小庭は遅ればせながら日本水仙、白梅、紅梅が、
仲良し恋しと彩(いろど)る中、予告もなく幾たびか4月の中旬のような陽気に恵まれた。
          

そして自宅付近の遊歩道を歩いたり小公園に寄ったりした時、
日本水仙から白梅、花桃、そして平年より早くも桜花まで3月にめぐり逢えたりした。
                 
   
こうした中で、欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、モミジ、ツツジなど雑木は芽吹き、
幼年期に農家の児として育った私は、見惚(みと)れながらも愛惜を秘めて、
父親は私が小学2年、祖父は小学4年の時に病死され、その後、私が50代の時に母親が他界された。
そして天上人となった父、祖父、そして母の言葉、しぐさを思い重ねたりしてきた。
                    

過ぎ去りし3月は、日本各地で初旬には日本中の女の子をそれぞれのご家庭で慶(よろこ)び祝う『桃の節句』、
下旬の初めには新たなる旅立つの『卒業式』などが祝賀され、
こうした中で働いて下さる諸兄諸姉の新たなる社会人が、不安と希望を秘めてスタートされる時節でもあった。

そして社会の中核である働いて下さる諸兄諸姉も、再就職や人事異動などで、
新たなる職場に配属され、戸惑いながらも意欲充分な志(こころざし)で、勤務される時期でもある。

私はこうした時節は、定年後に年金生活を過ごし10年生になった今、
それぞれの人々の人生の門出に、微笑ましく感じて、
3月は『桜月(さくらづき)』だったと感じ深めていたのである。
          

そして新たな『卯月(うづき)』の4月のカレンダーを見ながら、
卯月と命名されたのは旧暦で、現在より40日ばかり遅い初夏に近い時節で、
里に多い落葉樹のウツギの樹から名付けられた、と古人から伝えられているので、
少しばかり私は戸惑っている。

このような心情を重ねたりしていると、4月は世の中は新年度の始まるが多い中、
保育園、幼稚園の園児のあどけない表情、しぐさ、
或いは小学生の入学するピカピカの一年生に、高齢者の私は眩(まぶ)しく見惚(みと)れたりしてきた。
そして新たに中学、高校、大学を入学されたり、或いは進級される方が数多い時節である。

或いは民間会社に於いては、緊張感の中で新社会人となった人たちも多い。

私はこの四月の時節は、近くの公園、野川の遊歩道を散策したりとすると、
木の芽時(このめどき)と称せられる雑木のモミジ、コナラ、クヌギ、欅(ケヤキ)等の時節が終わり、
やがて幼いあまたの葉を広げて、新緑に時節に向っている。
                
そして常緑樹も新芽を伸ばしている。
                       
            ☆ 小庭の奥の右にアカネモチ、左はキンモクセイ
              手前は落葉樹で私の定年退職時に5センチぐらい自生した幼き樹、私の記念樹とし成長している ☆

こうした情景を思い馳せると、ここ数年『清浄明潔』という言葉を発想して、
新しき『四字熟語』を創案してしまったかしらと、と微笑みながら思い深めて、重ねたりたりしてきた・・。

この季節は古来より、樹木は芽吹き、やがて幼い葉を広げて、草花は花を咲かせ、
春の明るい陽射しの光につつまれて、清らかに生きている万物に恵みの時、と私は解釈している・・。

こうした思いになると、私は4月は『清浄明潔』の月だ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。


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消費税8%開始に伴い、互いに国民は痛みを共有、と高齢者の私は微苦笑して・・。

2014-04-01 11:32:41 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
          

こうした中で、現政権の安倍閣議は、昨年の秋に、
社会保障の財源を確保し、財政再建を図るため、消費税の引き上げを決断し、
消費税率引き上げは、1997年(平成9年)4月に橋本内閣で3%から5%に引き上げて以来、
17年ぶり2度目となる。

そしてこの当時の安倍首相は記者会見で、「経済の再生、財政健全化の二つを同時に達成するほかに、私たちには道はない。
経済政策パッケージはそのためのベスト・シナリオだ」と述べきた。

私は政治、経済にも無念ながら疎(うと)い身であるが、
《・・社会保障の財源を確保し、財政再建を図るため・・》と改めて明言され、大いに賛意し、
そして《・・経済の再生、財政健全化・・》の実現をして欲しい、と念願してきたひとりである。
                     

私より少し若い世代の団塊世代の諸兄諸姉は、
多くは60歳で定年退職をされて、その後は年金完全支給年まで何らかの形で働かれ、
65歳前後を迎えられた今日、年金生活を始められた方が多いのが社会の実情となっている。

敗戦後の荒廃した日本は、敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、誰しも貧乏な時代を体験してきた世代である。
私より10歳以上の先代の諸兄諸姉の多くは、それぞれに奮戦し、
少なくとも世界の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代も奮闘してきた。

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。

その上、経済は低迷していると言われている現在さえも、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
医療の充実もあり、主要国の中でも最先端の長寿化の超高齢化社会の時代を迎えている。

こうした中で、団塊世代の諸兄諸姉は、第一線を退かれ、年金生活を過ごされ、
今までの多忙な勤務の生活を終えて、それぞれお好きな趣味の時間で過ごされる、と思ったりした。
もとより60代はゴールデン・イヤーズと称される通り、身体も元気、
心は長年の勤務から解放感で満ち、心身共に第二の人生を満喫されている年代でもある。

そして70代以上の方たちも殆どの方は、体力の衰えは実感しながら、心は溌剌している.
                    

ここ15年前の頃からは、日本は政治の昏迷、経済の低迷、社会の劣化となる中、
国の財務概要として悪化の一途をたどっているのが実態である。

こうした中での社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、現状のままあると、
少なくとも毎年一兆円の国の負担が増している、と伝えられている。

もとより高齢者が使う費用は、現在の日本に於いては、
その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実がある。

そして私は確か5年前の頃、働いて下さる現役世代の男性の民間会社に勤めている正社員の人たちが、
1997年〈平成9年〉の時点から、年収が横ばいと知り、年金生活の私は悲嘆した・・。

私たちが過ごしてきた時代は、バブルが終息し、そしてベルリンの壁が破壊され、
やがてソ連が崩壊し、世界の経済が自由主義経済に一色になるまで、
日本の多くの人たちは一生懸命に働けば、年収も毎年増え、
そして家族で明日に希望が持て、実感できた総中流社会であった。

もとより今日は、世界の経済が自由主義経済となった上、日本は失われた15年で、
主要各国や躍進してきた中国などに国際競争力に敗退し、かっての高度成長の総中流社会の再現は、
見果てぬ夢となった。
民間会社は、社員が一家を養(やしな)うだけの給与を支払う余裕もなく、低下してきた。
                     

こうしたことは私たちの息子、娘の世代から観れば、
お父さんは会社で一生懸命に奮戦し働き、マンションか一軒家を買い求めて、
お母さんは専業主婦で家庭を守る中で、子供ふたりは程ほどの自由な生活を満喫し、大学まで学び、
やがて子供は結婚して独立させてくれた典型的な中流社会は、大半は崩壊した・・。

こうした状況に、私は無力ながら憂い、ここ10数年のデフレの閉塞感ある実態より、
何とか経済復興をした上で、堅実な経済成長が望ましい、と念願してきた。
          

この上、高齢者の有権者層が急増している今日、
政治家の諸兄諸姉が高齢者を重視した政策を掲げることが多くなり、
現役世代の若い30、40代の人たちがのささやかな念願よりも、
定年退職が出来た上、年金受給者の高齢者を優遇せざるを得ない危険な政治状況と憂いているひとりである。

このような現状の制度のままで放置すれば、
現役世代の若い30、40代の人たちは、何かと過重負担となり、
耐え切れず反乱されても致しがたいであろう、と思ったりしている。

そして、働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、世代間の格差の羨望と嫉妬の末、
高齢者の人たちを負担させるばかり人たちと思い、
邪魔な存在と感じながら、粗末にする風潮のなる世界が想像できる。

私はこのような世代間の対立を回避したく、
このサイトに幾度も現状の『消費税』を廃止する代わりに、
新たなる社会保障費の専用にした『社会保障税』の新設で、賢人の審議により、
多くの方が安心できる制度を政府は迅速に成立させるべきてある、と高齢者の私さえ投稿を繰り返してきた・・。

しかし、高齢者の巨大な層の有権票の反対が怖くて、政治家の諸兄諸姉議員の多くはためらい、
日本経済のデフレ状況もあり、混迷をしてきた。
                    

このような心情を重ねてきた私は、
やむにやまれず安倍首相の《・・社会保障の財源を確保し、財政再建を図るため・・》
そして《・・経済の再生、財政健全化・・》の実現を目的とした今回の消費税の増税に賛意してきた。

私は民間会社の中小業に勤めたサラリーマンであり、努力不足もあったので、
もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、
遥かに遠い存在であるので、程ほどの年金を頂いている身である。
          

改めて今回の消費税の増税は、世代間の論争の難題を超えて、
やむなく総論は賛意、各論の一部にはそれぞれ反対もあると思われ、
私も年金支給額が削減と知り、苦笑したりしている。

しかしながら自分たちの世代だけが得をするようなことは、この世にあってはならず、
互いに国民は痛みを共有し、明日に希望が持てる日本の再建の第一歩、と私は微苦笑したりしている。


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