スタインベックが描いた「怒りの葡萄」は、高校時代の生物の教師に勧められ、神田の古本屋で手に入れた文庫本を貪るように読みました。パールバックの「大地」もタイトルに興味を持ち、長編ではあったけれども読みながら人生の無常を感じたものであります。住井すゑさんが書いた「橋のない川」は、当時高校3年生の姉からの推薦図書?として小学6年生の私に単行本7巻が手渡されたのでありますが、余りにも長編であり第1巻で何度も挫折し、学生時代に文庫本を手にして何とか読破しました。
こうしてみると、地方の農民社会における怒りや差別、無常といったものが、私の人生観を語る上で、大きな影響を与えていることは確かなようであります。少なくとも社会に対する憤りが強力な推進エンジンとなり、今ではアルコールという補助燃料で咆哮のボルテージを上げている…がしかし、冷たいビールで暴発する自分を冷却している節もあるのではありますが^^;
さて、『それでも日本人か、恥を知れ』という伊集院静氏の発言が物議を醸し出しております。早朝のラジオからコメンテーターが繰り返し被災地の復興を呼びかけるのでありますが、伊集院氏のコメントだけが一人歩きし、ソースが何処かも分からない。(スポニチへのコメントのようでもありますが…。)同じ東北地方という括りの中に暮らしているのだから、何かお手伝い出来る事はないだろうかという気持ちもあるのではあるけれど、列島の中央を走る奥羽山脈を挟んで、大気中の放射線量が上昇していないことに安堵する毎日であることも事実なのであります。
我が在所、山形県高畠町は北緯38°線が走っており(目に見える訳ではありませんが^^;)、これが何を意味するかと言いますとイデオロギーの違いによって南北朝鮮が機械的に分断された緯度であります。したがって、根拠は別として、私は子どもの頃から亡くなった祖母から、場合によっては日本もアメリカとソ連に分断統治されていたかもしれないなどと繰り返し聞かされたのであります。自称日和見平和主義者であるから、軍備などということには無関心…しかし、頭上を『将軍様のてぽどん』が通過するのに、へらへらとしても居られないのでありまして、日和見平和主義者であっても頭の回りを飛び回るハエは手で払おうとするのであります^^;
正直なところ平和ボケしている私などは、首筋に匕首を向けられて初めて恐怖に慄くのでありまして、平時から安全・安心・平和などと経文を唱えている訳ではありません。同様に「市民の安全を護るのが首長の役割…」などと言って、瓦礫処理を拒否している首長は『市民の安全』ではなくて『首長の座の安泰』を願って拒否しているのでありましょうから、小市民としての立場は何ら変わるところが無いのであります。
立派な言葉を並べてみても、自分の所の安全さえ確保できていればという感覚を、誰も否定することは出来ないとも思うのであります。情けないなぁ…俺…こんな風に自分の内面に怒りの矛先を向けると落ち込んでしまうのでありまして、首長や漠然とした『日本人』という括りに怒りをぶつけないと遣り切れない毎日…「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆呵…」…今日も般若心経に逃げ込むのであります^^;
追記)加茂水族館の「なまず」…当分の間騒がないでいてください^^;