「十六羅漢」の一体…「第七 迦理迦尊者」かなぁ?
サッカーW杯「クロアチアvs日本」戦、延長、PK戦の結果、ベスト8ならず…残念でした。先制したものの、『足がボール(地)に着かない』というか、敗れる時というものは、大方こんなものだろうと、やけに納得している『おやじぃ』であります。トップ世界との大きな差(壁)をまた一枚感じたところです。
さて、年末年始の混雑を避けて帰省した二女の『も~ちゃん』も東京に戻る…彼女の住所は、既に東京に置いているのだから、『戻る』というよりは『帰る』という表現が正しいのかも知れない。高々4年間を東京で暮らした『おやじぃ』ではあるけれど、大学の4年目には、寮のある駅に降り立ったときに『帰って来た』という思いがあったもの…そんな遠い昔のことを思い出しております。
はて、久し振りに帰省した二女に何かご馳走を…あまり美味しく感じない『東京のラーメン』よりは、地元のあっさり系の『米沢ラーメン』でもと、家族を誘ったところでありますが、学問の神様(仏様)で有名な「亀岡文殊」に行きたいとオッカーが言う。何で今さら?どうやら二女『も~ちゃん』の職業にも国家資格が導入されるらしい。『国家資格』などと聞くと、またぞろ財団法人でも設立し、官僚の天下り先を確保するのかいな…と斜に構える『おやじぃ』でありますよ。それでも、国家資格を得れば、お給金に影響するかもなどと俗な煩悩が湧き出しまして、久し振りに『学問の仏様』に手を合わせたのでありますけれどね^^;
『アラ還』にして、既に学ぶ意欲を失っている『おやじぃ』でありますから、文殊菩薩の本堂よりは、参道の「十六羅漢像」が気になりまして、一体々々数えている。「確かに十六体あった。」風化している中でも特徴的な『羅漢様』を一枚なんてね…。
記憶とは違った味でしたけれど…
『羅漢様』の傍らにいるのは、タヌキかクマか…古代インドで、狸・熊の類もあるまいに^^; 調べてみると「第七尊者 迦理迦尊者」は「左手で虎を撫でている。」という記述がヒットしましてね…「迦理迦尊者」を彫ったものに違いないと勝手に決めつけた『おやじぃ』であります。「学」を修め、もはや修学するものがなくなった者を仏教では「無学」というらしい。俗世では「無学」を学問・知識がないことを指すから大違いでありますなぁ…。ただし、「無学」でない者が「無学(阿羅漢)」を名乗ることは、永久追放の対象となるとのことであるからややこしい。「学」を修め、悟りの境地に達すれば、どう猛なトラさえすり寄って来る…家庭内のどう猛な『トラ』一匹さえ、手懐けることの出来ない『おやじぃ』は、悟りの境地など程遠く、手っ取り早い『諦めの境地』に達するのでありますが、本質は『諦め』ではなく『無視されている』のが正解かも知れないなぁ(笑)
はてさて、参道から脇道に反れず、「亀岡文殊堂」の本堂では…「普賢菩薩は貧乏で、文殊菩薩に宿を借りている。」と亡き祖母が言っていたような^^; 本堂裏に、「丑寅虚空蔵」「辰巳普賢」「未申大日如来」が祀られているんですなぁ。我が子三人、こちらで手を合わせれば、『守護本尊』を同時にお参りすることが出来るんですなぁ…果たして、「普賢菩薩」が貧乏だったかどうか事の真偽は分からないけれど、家内の安全を祈ったところでありますよ。これまた、脇道ですなぁ…「文殊菩薩」が願掛けの本筋である!ありがたいことに、我が家では「亀岡文殊堂」にお参りしているから、それぞれが受験には失敗していない。受験に失敗していないのではなく、身の程を知っているから失敗しない学校を選んで来たといった方が正解かも。「受験」も『ひとつの壁』かも知れないけれど、どこまでも続く『学びの道』…学ぶ姿勢が大切なのかも?