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蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

湿原の秋

2005年10月22日 | 季節の便り・花篇

 高原の夜が沈んだ。岩肌から流れ落ちる豊かな湯の音が静寂を深める。露天風呂を一人でほしいままにしながら、絡みつく湯に身を委ねていた。湯煙が夜風に靡き、身体の奥深く沁み入る温泉の温もりが、ひと夏の疲れをほぐしていく。たゆたうように湯船に半ば浮きながら、岩に頭をもたせかけて目を閉じた。
 「小さな秋」を探しに、高原に車を走らせた。日田で高速を降り、川沿いの曲折を走り上がる。小国に入る手前、橋のたもとを左折して下条の大銀杏を訪ねた。古木はまだ秋の色を纏わず、傍らの滝の響きに包まれて鎮まり返っていた。お馴染みの小さな店に寄り、ピーナッツを10袋買い求める。病気がちな年老いた夫婦が作るここのピーナッツは、知る人ぞ知る逸品。耳が遠くなったお婆ちゃんと言葉を交わすのが常になってもう何年になるだろう。束の間のふれあいが何故か懐かしかった。
 小国の「きよらかーさ」で豊後牛のさいころステーキでお昼を摂り、大観峰からスカイラインに乗る。阿蘇外輪山の尾根を走る快適なドライブ・コース、そのなだらかな牧草地を縫って風を切って走り抜ける。阿蘇五岳は雲に包まれ、久住の山並みも今日は雲の中だった。やまなみハイウエーを一気に走り抜け、牧の戸峠に駆け上がった。うっすらと霧が巻き、窓から吹き込む風がすっと冷たくなる。
 走り下った標高1000メートルの長者原は、連休明けで人影も少ない。夏に痛めた足がまだスッキリせず、今回の山旅は登ることを諦め、お気に入りの長者原自然探求路を歩いて「小さな秋」を探す散策の旅とした。雲間から時折洩れる日差しに、湿原のススキが眩しい。これだけは紛れもなく秋たけなわ…と言うより、この時期にススキがこれほど若々しいのは、やはり長い残暑を引きずった証なのだろう。
 木道を歩く。湿原からやがて木立の中に入る小一時間のコースは、いつ来ても心休まる森林浴の散策路である。吹く風は少し湿り気を帯び、かすかに硫黄の匂いが交じる。ススキの根方に、今盛りのヤマラッキョウがピンクの花を並べていた。姫手鞠のような丸い花の中に、珍しく車輪を並べたような花を見付けてシャッターを押した。
 木立の木道の下を流れる細い河床は鉄錆色に染まり、美しい苔や茸が「小さな秋」を演出する。まだ葉末に紅葉の気配は乏しく、時折僅かな紅の色が木の間に揺れるばかりで、高原の秋は大幅に遅れていた。
 長者原の初めて宿は別荘地帯の中にあった。夕食のメニューには満たされなかったが、この露天風呂と高原の夜風があればそれでいい。闇が落ちて一気に冷えてきた夜風に火照った身体を嬲らせながら部屋に戻る途中、見上げた空に一筋の流れ星が泉水山の尾根に飛んだ。一瞬の光芒を瞼に焼き付けて、高原の夜が更けていった。
          (2005年10月:写真:ヤマラッキョウ)