蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

カマキリの瞑想

2008年10月03日 | 季節の便り・虫篇

 庭の木立に秋風が戯れる夕暮れ、楓の葉陰に沈思するカマキリがいた。

 天満宮の裏山でいただいて来た楓の実生が3本、陋屋・蟋蟀庵の庭で1メートル余りに育ち、やがて訪れる紅葉の季節を待っている。いつしか法師蝉の鳴き声も途絶え、夕顔の花時も終わった。野放図に伸びたキブシの枝の一葉ごとに、その根元には早くも早春の花房が見事に芽生え始めている。夜毎コオロギの声が冴え渡り、秋が駆け足で深まっていく。
 異常が当たり前になった記録的猛暑が残暑を引き摺ったかと思うと、突然朝晩の風がまだ夏衣装の腕に鳥肌を立てる。晩夏も初秋もなく唐突に訪れた秋の気配に、経年劣化で賞味期限が切れかかった身体がついていけない。
 おそらく産卵の時期をはかっているのだろう、はち切れそうになった腹部を抱えながら、いつもの俊敏な動きを忘れたように、カマキリは夕風の中で動かなかった。指先で触れると、「やぁ!」というように頭だけをこちらに向けておどけてみせる。何気なく見過ごしていた虫達の「顔」が、最近しきりに気にかかる。キアゲハの幼虫の顔をカメラのファインダー越しに見詰めてみたり、羽化間もないヒグラシとお見合いしたり、挙句の果ては玄関先のハナミズキに取り付いたイラガの幼虫を見詰めて、その凄まじいまでの造形美に嘆声を上げる。一見無表情に見える虫達の顔の、何という変幻!
 かつて、乏しい小遣いをやり繰りして高価な「蝶類幼虫大図鑑」を手に入れた時の感動……まるで繊細な菓子職人の手で作られたような、美しく美味しそうな卵や角振り立てる幼虫の姿、可憐としか言いようのない顔の表情、精巧を極めたその造形は、最早人智を超えていた。
 誰が子供達に毛虫は汚い、危ない、怖いと教えてしまったのだろう?毎年町内の小学生の子供達を集めて塾長を務める「夏休み平成おもしろ塾」で、7年間「塾長先生の昆虫講座」を開いてきた。カマキリの脱皮を見せたり、世界最大のヘラクレスオオカブトの実物大の写真を配ってビデオを見せたり、幼虫から蛹を経て美しい蝶になるプロセスを写真で体験させたり、蝉の種類とオスメスの見分け方を教えたり、蝶と蛾の区別を図解したり……一貫して言い続けたのは「怖い、嫌いと思ったら、逃げないでもう一歩近付いてよく見てごらん。きっと好きになれるから」ということだった。
 たくさんの子供達が塾で育っていった。どこかで、なにかの機会に虫達に触れて、そのひと言を思い出してくれたらそれでいい。

 九州国立博物館の環境ボランティアの活動が始まった。生物インジケーター(トラップ)を館内にたくさん置いて、2週間毎に交換して捕捉された虫達の同定を行なう。緻密に管理された展示室なのに、こんなにもいるのかと思うほど、チャタテムシなどが粘着面に捕捉される。肉眼では(老眼では)黒い点にしか見えない小さな虫である。このトラップ(ゴキブリホイホイのミニ版みたいなもの)は、フェロモンや薬剤で誘引捕捉するのではなく、自然に歩行する隅っこの暗がりに置いて虫を捉えるものである。
 そもそも害虫という虫はいない。元々この3000坪という広大な敷地は天満宮の杜であり、様々な生き物の生活圏だった。そこを破壊して巨大な博物館を建てた人間こそ、生き物達にとってはむしろ害獣じゃないか。だからお互いに侵略しない限りは共存しよう。但し、展示物に悪さした時は容赦しないからネ!……徒らに薬剤燻蒸することなく、虫達と同じ目線で総合的に有害生物を管理していこうという、IPM(Integrated Pest Management)の思想が、この博物館の文化財環境保全システムの底流に一貫して流れている。そこに共感して、環境ボランティアに参加し、博物館に寄り添うことになった。昆虫少年の成れの果てが辿りついた究極の生き甲斐探しだった。

 秋の夕暮れに何を想うのか、カマキリはいつまでも楓の葉陰で瞑想に耽っていた。
          (2008年10月:写真:カマキリのシルエット)