蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

幻の希少種

2010年09月25日 | 季節の便り・虫篇

 9月も半ばを過ぎたというのに、居座り続ける残暑は衰えることがなかった。
捻挫した右足の不調に加え、いろいろ心労が続き、3週間ほど博物館ボランティアを休む日々が続いた。この日「自然環境セミナー」でようやく現場復帰を果たした。3年間の期限も残すところ半年余りとなり、おそらくこれが最後の環境ボランティア研修である。
 研修室で1時間の講義を受け、20人ほどの仲間と博物館北側の遊歩道沿いにあるビオトープに下りた。立入禁止地区に集団で入るため、一般来館者の誤解を招かないように、腕に「PRESS」のステッカーを貼る。

 此処は、自然の湧水と湿地と小さな溜池を生かして作られた空間だが、作られた当時の姿とはかなり変貌し、多分人為的に植え込まれた在来種ではない蓮があったり、放流された亀が生息していたり、水草が繁茂し過ぎていたり、本来のビオトープ(一定の組み合わせの種によって構成される生物群集の生息空間。転じて生物が住みやすいように環境を改変することを指すこともある。)というには、やや疑問が残る。昨年7月の豪雨により遊歩道の一角が崩壊し、一年経ってようやく修復されたが、今年の梅雨の大雨で再び崩壊した。開館以来、私のお気に入りの散策コースだったのだが、既に1年以上通行禁止が続いている。

 捕虫網を振るのは仲間達に任せ、一眼レフにマクロとクローズアップ・レンズを抱えて、池の周辺から遊歩道の奥を歩いた。遊歩道は荒れ果てて落ち葉や枯れ木や泥で埋まり、いつもミゾソバの群生がピンクの花をいっぱいに見せてくれていた湿地は、イノシシのぬた場(イノシシが身体についた寄生虫などを落とす為に、転げまわって泥浴びをする場所)になってしまっていた。左手の雑木の斜面では、竹の侵食が進んでいる。
 その荒れように少なからず落胆しながらも、汗のまみれながら草花や池の様子などをカメラに収めていった。2匹のアオスジアゲハが、残り少ない繁殖期に焦るように、木漏れ日の下を縺れ飛ぶ。キチョウ、モンキアゲハ、ヒカゲチョウ、オンブバッタ、シオカラトンボ、オニヤンマ……豊富な虫達の戯れである。白い小さな花の上では5ミリほどのナガカメムシが蜜を吸っていた。落ち葉の間からイシノミがそろりと這い出す。

 池の傍らの葉先に、密かに期待していたベニイトトンボがいた!
 
 30ミリほどの全身を紅色に染め上げた、イトトンボとしては中型の種である。環境省のレッドデータブックで、2000年に絶滅危惧Ⅱ類にリストアップされた。国内では本州東北部から九州南部にかけて分布しているが、宮城県をはじめ、栃木県、東京都、神奈川県、滋賀県等では、既に絶滅した可能性が高いと見られている。主として平地や丘陵地にある古い溜池で見られるのだが、開館前の平成7年の環境アセスメントで見付かり、平成17年、18年でも確認されていることから、風に乗ってきた飛来種の偶発的な発見ではなく、此処で生息し繁殖しているらしいと聞いてはいたが、まだ観たことがなかった私にとっては幻の希少種のトンボだった。
 人影に敏感な筈なのに、ファインダーを5センチまで近づけても逃げようとせず、レンズを付け替えて様々なアングルでシャッターを押す間も、じっと葉先で静止してくれていた。あるいは、羽化して間もなく、羽を乾かしていたのだろうか。傷ひとつなく、瑞々しいまでに鮮やかな紅の色が初秋の日差しに輝いた。

 撮り終って、屈めていた腰を伸ばすのを待っていたかのように、スイと風に乗った。見送る先の葉群れに、まだ数匹の紅の色が戯れていた。紛れもなく、此処で生涯を生きている証しだった。
 この荒れ果てた環境のままでいいのか、あるいは、このままがいいのか……自分に問いかけながら、池を後にした。
            (2010年9月:写真:希少種ベニイトトンボ)