数百冊の本を処分した。読書家にとって、愛読した本を手放すほど切ないことはない。
2階の寝室の一角を書斎に仕立て、天井まで届く本棚を作り付けた。3段に詰め込んでも溢れはじめた本の重みで家が微かに傾いだのだろうか、壁紙に縦に裂け目が出来、床にビー玉を置くと、ゆっくりと片隅に転がっていく。
10年ほど前に、BOOK OFFに2000冊ほどを引き取ってもらったのに、再びこの有様である。そろそろ諦めよう、もう改めて読み返す時間もなくなった。
中学時代から秘蔵し愛読していた大杉栄訳の「ファーブル昆虫記」にも別れを告げた。昔風の古本屋が姿を消し、こんな貴重な本でも、色褪せて古びたものはBOOK OFFでも引き取ってくれない。子供会の資源回収に出すしかないのが実に寂しい
中西悟堂の「定本野鳥記」、畑正憲の「ムツゴロウ全集」、新田次郎の山岳小説、司馬遼太郎、山本周五郎、本田勝一、アリステア・マクリーン等々の作品集、数知れない作家たちの文庫本の数々…ジャンルもまちまちの60年間の乱読の軌跡を、次々に縛り上げて想い出と共に切り捨てていく。両腕にかかる本の重みを愛おしみながら、2階と物置の間14段の階段を数十回往復して、数知れない想いを絶っていった。まだ新しい200冊ほどは、BOOK OFFに売るために納戸に仕舞う。6時間がかりの断・捨・離だった。
足元の袋戸の中に仕舞っていた、高校時代の拙い20篇ほどの小説原稿も捨てた。その間から、思いがけなく中学校時代の昆虫採集のレポートがいくつも出てきた。
「クロアナバチの巣作り観察」「光雲山採集記」「平尾山夜間採集記」「西公園に生活する昆虫」「昆虫はどのようにして食物をとるか」「私の生物日誌から」……拙いレポートだが、紛れもなく燃えていた日々の軌跡である。早朝から明け方まで24時間の、熱い熱い昆虫少年の記録である。
私の中学校の校舎は福岡市の中央部やや西の海に面した西公園という小山の下にあって、365日虫と接する環境にあった。
その一角には光雲(てるも)神社があり、福岡藩祖・黒田如水と福岡藩初代藩主・長政が祀られている。神社の名前は、2人の龍光院殿(如水)、興雲院殿(長政)という法名から一字ずつ取って名付けられたという。別名・光雲山(荒津山、荒戸山)というこの公園は桜の名所であり、当時は笹が生い繁る雑木林の中に小道が幾筋も走っており、若い二人が人目を忍んでそぞろ歩き、愛を確かめる聖地でもあった。豊富な昆虫と触れ合えるこの小さな山は、私にとっても思春期の熱い血を滾らせ、大人への扉を開いた思い出の場所でもあった。
克明な地図に昆虫の分布が記され、しかも当時凝っていたラテン語の学名で記録された昆虫の名前が、今でも不思議に蘇ってくる。「手製の捕虫網、受け網、三角罐、三角紙、ピンセット、殺虫管、毒瓶などを持って7時30分~10時。採集した虫は、ルリタテハ、ゴマダラチョウ、キマダラヒカゲ、シラホシハナムグリ、アオカナブン、クロキマワリ、ハンミョウ、ヨツボシケシキスイ、カブトムシ、クワガタムシ、コメツキムシ、オニヤンマ、ホシウスバカゲロウ、ニイニゼミ…」そんな記録の数々が、あの虫キチの日々を鮮明に思い出させて、暫く片付けの手を止めて読み入っていた。
1954年(昭和29年)中学3年の時の生物日誌に、懐かしい一節を見付けた。3月14日、まだ肌寒い早春の一日、担任の国語の教師と今は亡き親友の一人と、都府楼政庁跡の傍らを歩いた。当時は走る車も少なく、枯れ草を敷く道端でお握りを食べ、小川の畔のスカンポの葉裏に潜むベニシジミの幼虫10頭を採取した。半ば凍りながら雪の下で越年する驚異的なベニシジミの幼虫との、初めての感動的な出会いだった。スカンポの株と一緒に持ち帰って飼育し、ときめきながら前蛹・蛹化・羽化の過程を克明に見極めて以来、いつも連れ添う私の一番好きな蝶となった。
ひとつのことに、これほど夢中になることはもうないだろう。いまだに昆虫少年の情熱の残滓を引き摺り、お蔭で季節の移ろいに敏感で豊かな日々を重ねている。
断・捨・離…「不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする生活術や処世術のこと。」と定義づけられている。想いを絶ち、未練を捨て、執着から離れるということでもあろう。
肩と膝の痛みを甦らせながら、片付け終わった本棚に再びレポートを納めた。この想いだけは、最後まで絶つことは出来ない。
間もなく、虫たちが蘇る「啓蟄」(3月6日)の日を迎える。冬への袂別が近い。
(2015年3月;写真:ベニシジミ)