蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

秋高く…(4)遠い日の花火

2015年10月10日 | 季節の便り・旅篇

 惜しげもなく降り注ぐ秋の日差しを浴びて、100万本のコスモスが咲き誇っていた。「秋桜」と日本名で書くと、一段と季節感が増す。「大春車菊」という別名があることを知った。今でこそコスモス園は到る所にあるが、かつては生駒高原がコスモス園の代名詞だった。
 雄大な霧島連山の麓に広がる一面のコスモスは、やはり見応えがあった。逆光の中に霊峰・高千穂峰がくっきりと浮かび、霧島連山を借景する秋景色は壮麗だった。広がるコスモスと背景の杉木立、その上に広がる秋空と雲の佇まい……お気に入りの一枚となった。

 ……学生時代、友人二人を誘ってえびの高原に泊り、大浪池から韓国岳(1700m)―獅子戸岳(1429m)―新燃岳(1421m)を縦走し、高千穂河原に降りたことがある。当時付き合っていた家内も同道しての山旅だったが、時間の関係で唯一諦めたのが高千穂峰(1571m)だった。神話に語られる天孫降臨の山であり、神が落とした矛が「天の逆鉾」として山頂に刺さっている。
 当時も今も、新燃岳は入山規制がかかっている活火山である。それを押して縦走した当時の私たちは、大胆で、ちょっぴり不遜で、そして逞しかった。

 ……リタイアして山歩きを再開して間もないころ、たった一人で入山規制が解けた新燃岳に登ったことがある。ミヤマキリシマの灌木を膝で分けながら火口淵に登りあがった瞬間、石礫を飛ばすほどの烈風に吹き飛ばされそうになってしゃがみ込んだ……霧島連山の姿を見上げながら、次々と想い出が湧きあがってくる。そんな若い日への郷愁を、人は「遠い日の花火」という。

 コスモスの語源はギリシャ語の「秩序」であり、「コスモス」とはラテン語で星座の世界=秩序をもつ完結した世界体系としての「宇宙」の事である。
 メキシコからスペインに渡り、マドリードの植物園に送られ、コスモスと名づけられた。日本には明治20年頃に渡来したと言われる。
 花言葉は「乙女の真心」「調和」「謙虚」。英語では「harmony(調和)」「peace(平和)」「modesty(謙虚)」「the joys that love and life can bring(愛や人生がもたらす喜び)」「beautiful(美しい)」…ネットとは便利なものである。ちょっとキーボードを叩くだけで、知ったかぶり出来る(笑)

 そうだ、来年は大きな鉢にコスモスを植えて、花が咲いたら玄関に置こう。お馴染みのY農園の奥様が、時折畑のコスモスを届けてくれる。近くののり面から刈ってきたススキを泡盛の甕に挿し、その根方にコスモスを添える。これが我が家の秋の演出である。

 高千穂峰の威圧に押されるように、花盛りの生駒高原を後にした。小林ICから宮崎道に乗り、えびのICでいったん降りる。「道の駅えびの」で、ご近所に約束した野菜を買い、再び宮崎道に戻れば、あとはひたすらわが家への高速ドライブである。

 15時55分、777キロを走り抜いて無事帰り着いた。嘘のようにゾロ目が並んだ記録に、「ラスベガスのカジノのスロットだったら、ジャックポットだね!」と笑い合う。ロサンゼルスから砂漠の原野をひた走ってラスベガスを2度訪れ、シーザース・パレスやルクソールに泊ってカジノを遊び歩き、25セント硬貨でささやかに楽しんだ時の「チャン、チャン、チャン、チャン!」と落ちるコインの音を懐かしみながら、秋旅が終わった。
 この歳には少しハードなロングドライブに、翌日ドッと疲れが出た。もう「遠い日の花火」は揚がらない。
              (2015年10月:写真:生駒高原のコスモス)

秋高く…(3)思いがけない出会い

2015年10月10日 | 季節の便り・旅篇

 遠く小笠原諸島の東を掠めて北上する大型台風23号の余波で、日南海岸は白く湧きたち崩れる怒涛の海だった。
 50年前の新婚旅行は、別府、宮崎、鹿児島…当時海外旅行など夢の世界であり、南九州がメッカと言われたハネムーン・コースだった。カメラを提げた新郎と、帽子をかぶった新婦が、行く先々で同じ顔を見合わせることになる。その時訪れた都井岬を目指して走った。
 左手に荒れ狂う日向灘を見ながら走ること2時間、途中橋梁新設工事で山の中の離合も難しい山道に迂回させられ、助手席の家内が不安げに「この道、もう通りたくない!」と悲鳴を上げる。対向してきた路線バスにバックして道を譲ったりしながら、何とか無事に都井岬に辿り着いた。
 山の斜面に天然記念物の野性馬「御崎馬」が草を食んでいる。走り過ぎる道端にも、無関心に草を食む姿が散見される。速度を緩めて野生馬を傷つけないようにするのが、此処でのマナーである。
 木曽馬や道産子と並ぶ日本在来馬は、2000年前の縄文時代後期から弥生時代中期に中国大陸から導入されたのが起源と言われる。太平洋と日向灘の交わる岬の突端に白い灯台が立ち、ほぼ九州を縦断してやってきたこの旅の最果てだった。

    日向の国 都井の岬の青潮に
       入りゆく端に ひとり海見る  (牧水)

 岬の入り口の管理人の勧めもあって、帰路は串間市経由日南に戻った。そろそろお昼時、目指すは日南市油津漁港「びびん屋」の伊勢海老である。待ちが入るほどの人気の店で、念願の「伊勢海老の姿造り」、「伊勢海老の味噌汁」に舌鼓を打って二人ともご満悦だった。
 伊勢海老の刺身のこりこりした舌先の食感と甘味は絶品である。お造りのあとの味噌汁は、それだけで満腹するほどの大丼だった。1匹6000円、この満足感は決して高くない。

 まだ日が高く、日南海岸を北上して鵜戸神宮に詣でた。打ち寄せる豪快な涛に挑むサーファーの姿がある。
 崖に呑まれるように建つ鵜戸神宮、朱塗りの欄干を辿っていたとき、思いがけない出会いが待っていた。傍らに立つ数本の蘇鉄に、シジミチョウが群れている。ハッとした。もしや?と期待を込めてファインダーに捕えたのは、紛れもなくクロマダラソテツシジミ!
 かつては、東南アジア、南アジア…台湾やフィリピンで生息し、たまに風に乗って沖縄南西諸島や沖縄本島に飛来、「迷蝶」として散見される珍種だった。当時は全国からこの蝶を求めて採集家が訪れても、採集出来るのは僅かだった。2008年ごろから九州、四国、西日本各地、そして今では関東にまでも生息圏を拡げているという。
 数年前、熊本県玉名郡岱明町の大野下(おおのしも)の樹齢700年とも1000年ともいわれる天然記念物の大蘇鉄に、クロマダラソテツシジミが発生したという新聞記事を読んだ。以来、どこかでお目にかかりたかった幻の蝶だった。
 蘇鉄の害虫と位置付けられているが、彼ら(彼女ら)は自然の摂理に従って食餌し、繁殖して種を維持しようとしているだけのこと、それを「害」と切り捨てるのは、人間の傲りだろう。
 温暖化による生き物の生息圏の北上を、こんなところで確かめるとは夢にも思わなかっただけに、この邂逅は嬉しかった。

 私のこの日の運は、これで尽きた。
 鵜戸神宮には楽しい運試しがある。眼下の海の中の奇岩のひとつ「亀石」に、注連縄で巻かれた升形の窪みがある。粘土を丸めて「運」の文字を押した「運玉」5個を初穂料100円でいただき、女は右手、男は左手で窪みに向かって投げる。見事に窪みに入れば、願いと夢と喜びが与えられるという。
 家内は1個入れたが、私の運玉は5個とも岩に砕けて虚しくなった。それでいい、私にはクロマダラソテツシジミと出会うという最高の幸運があった。

 旅には、本当にいろいろな出会いがある。帰ったら早速図鑑で確かめようと、浮き立つ思いでホテルへの道を辿った。
          (2015年10月:写真:鵜戸神宮のクロマダラソテツシジミ)

秋高く…(2)あゆみちゃんマップ

2015年10月10日 | 季節の便り・旅篇

 南国の空は何処までも青く高く、太陽は限りなく近かった。気温25度、木陰を吹く風は涼しかったが、日差しは痛みを感じるほどに眩しい。緑濃い山の稜線が、鋭いスカイラインで青空を切り取る。カリフォルニアの真っ青な空を思い出しながら、ホテルを走り出た。

 30分足らずで、飫肥の城下町に着く。
 資料によると、五万一千石、九州の小京都・飫肥(おび)城の藩主伊東家は藤原氏南家の子孫で、遠く鎌倉時代の工藤佑経にまで遡る。6代伊東佑持のときに、足利尊氏より曽於郡に所領を賜り日向に下って曽於郡城に居城を構え勢力を拡大、これを伊東家の初代とする。
 10代義佑は、飫肥城を攻めとり48城を各地に配して日向国内に覇権を樹立したが、天正5年(1577年)島津に敗れて豊後に落ちた。天正15年、秀吉に仕えた佑兵(すけたけ)が九州平定に功績をあげ、飫肥城を与えられて大名として復活する。以降280年余、飫肥城五万一千石を14代で治めた。
 飫肥…珍しい名前に、その由来が気になる。定かではないが、土地が肥沃で食べるものに困らなかったからでは…という説がネットにあった。

 中国からの大型クルーズ船の寄港もなく、今日は静かな佇まいだった。この町の観光には「あゆみちゃんマップ」という楽しい企画がある。1100円でマップを買うと、全施設入館料込みで、豫章館と庭園、松尾の丸、飫肥城資料館、小村寿太郎記念館などすべてを観て、町歩きしながら5つのお店で食べもの・飲み物などのサービスを受けられる。
 日差しに汗をかきながら、42の対象の中から5つを選ぶ悩みを楽しんだ。商家資料館で姫アイスと絵ハガキセット、吉田寝具店で手作りのお札入れ、旧山本猪平家で寿太郎巻、こだまで卵の厚焼き、ku ru mu.で珈琲、安藤商店でうまくち万能醤油、おび天本舗でおび揚げ牛蒡天…それぞれに穏やかな人柄の店の人と会話を交わしながら、静かな城下町の「食べあるき・町あるき」を楽しんだ。
 名物「卵の厚焼き」とは「出し巻玉子焼き」の一種と思っていたら、実は和風プリンともいうべきスイーツだったのは驚きだった。

 何処に旅しても異口同音に言われることがある。アジア隣国からの旅行者が爆発的に増え、爆買いとマナーの悪さで顰蹙を買う昨今。ド派手なファッションで傍若無人に姦しく騒ぎ立て、街を散らかし、トイレを汚し、前も洗わずにずかずかと湯船にはいりこむ姿は眼を覆うものがある。だから、最近は温泉宿も隣国の団体の予約がないことを確かめて宿を取るのが習慣になった。空港でも、爆買いした荷物をスーツケースに詰め替え、空の段ボールを通路に置き散らす姿がニュースに出る。
 そんな中で、台湾からの旅行者のマナーの良さをよく言われる。此処飫肥で立ち寄った店のお婆ちゃんからも同じ指摘があった。文化の違いだろう、各国語で書かれた注意書きも、読めない人たちもいるらしい。添乗員の教育も遅れているのだろう。国内旅行でこんな煩わしさを感じるのは腹立たしいし、「観光立国」、「おもてなし」という言葉が空虚に感じられる。

 閑話休題。

 ひりつく鼻の頭に夏の名残を確かめながら、3時にホテルに戻った。ゴルフを終えた客が慌ただしく風呂を浴びて帰っていくのを横目で見送りながら、ゆったりと露天風呂に浸った。湯船に照り返す日差しが眩しく、あとはただ、静かな寛ぎの時間が待っていた。
 ひと眠りして、夕飯は買って来た食材で部屋食。寝る前の露天風呂は、今夜は独り占め。綺麗な星空を見上げながら、吐口から落ちる湯の音に耳を傾けていた。カシオペアが中天に広がり、一筋の流れ星が夜空を切った。
                  (2015年10月:写真:飫肥城)

秋高く…(1)1965年もの

2015年10月10日 | 季節の便り・旅篇

 「Happy 50th Wedding Anniversary! 2人の歩んできた長い道のりと同じだけ熟成したものです。旅行の最後に2人で飲みながら、たくさんの想い出を語りあって」

 777キロを走り戻った翌々日、思いがけないブランデーの贈り物が届いた。しかも、私たちが結婚した50年前にフランスで仕込まれた貴重な逸品!5月23日に始まった金婚式関連行事の何度目かの秋旅、日南ドライブの掉尾を飾るアメリカの次女と婿から届いたハプニングだった。
 ホテル滞在中には、家内宛にコミック「昭和元禄落語心中」全5巻が届いた。「読書の秋ですけん!無聊をかこつのにでもお読みなさいまし」とメールが添えられた。横浜に住む長女の粋な計らいである。
 娘たちそれぞれの、暖かい思いやりに包まれた旅だった。

 北米大陸が垂らした右手の指先、1000キロに及ぶバハ・カリフォルニア半島の最南端に、「地の果て」と名付けられた岬を抱える一大リゾート地・ロスカボスがある。そこに建つホテル・プラヤ・グランデに、アメリカに住む次女が向こう30年間11月第2週1週間の使用権を持つ一室がある。大理石が敷き詰められた豪華な部屋、5つのプール、3つのジャグジー、プライベート・ビーチ、その向こうに広がる海は、太平洋とカリフォルニア海が接し、左手から昇る朝日と右手に没する夕日を見ることが出来る。アラスカから回遊する鯨が時折豪快なブリーチングを見せ、目の前をトビエイがジャンプする。
 水温16度の10月、カリフォルニアのカタリナ島に船泊りして68歳にしてスクーバダイビングのライセンスを取り、その足でロサンゼルス空港から2時間半のフライトでこの地に降り立ち、初のダイビングを体験した想い出の海である。20メートルの海底の白砂に漂いながらカリフォルニアアシカと戯れ、一気に800mの海溝に沈む崖の上辺りで数十万匹のギンガメアジの大群に囲まれて絶句し、岩礁に眠る海亀やウツボと向かい合い、海面近くを悠然と舞うエイを見上げながら、至福の海底散歩を何度も体験した。
 その使用権を全世界のホテルとバーター出来るRCIのシステムで、次女が日南のリゾートホテル5日間の無償使用権を金婚式記念旅行にプレゼントしてくれた。

 片道290キロ、九州道をひた走り、八代から人吉に曲がり込み、深い渓谷の球磨川を縫うように23のトンネルが続く曲折した高速道路を走り、間近に霧島連山を見ながらえびのJCTから宮崎道に乗った。田野ICを降りておよそ30分、閑静な山の中にゴルフ場を併設した7階建てのホテルが姿を現した。
 日南市北郷、此処が5日間の旅のベースキャンプである。この辺りは「飫肥杉」というブランドを持つ杉林が、文字通り林立する美しい山林が拡がるところである。7階のベッドルームのテラスから、遠く日南の海が見える。
 ゴルフ客で昼間は駐車場も賑わっているが、殆どが日帰り客であり、その夜の宿泊は10人ほどのK国人、心配していた通り、どうやらK国資本のホテルらしく、従業員も殆どはK国人だった。幸いお行儀も良く、それに寝るだけのベースキャンプ、早めに大浴場と露天風呂を楽しんでおけば、あとは気兼ねないマイルームの静寂である。

 露天風呂で傾いた午後の日差しを浴びる。眼を閉じると瞼が淡いオレンジ色に染まり、瞼に力を込めていくと、次第に濃いオレンジからやがて真っ赤に染まる。何となく懐かしい色に、一気に走り抜けてきた長いドライブの疲れが、肩から膝から湯の中にほぐれるように溶けていった。
 秋旅の始まりだった。
             (2015年10月:写真:1065年もののブランデー)