蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

短気は本気(!?)

2015年10月27日 | つれづれに

 「あなた、歳をとって短気になったわね!」
 「うん、我慢するのやめた!」
 ……他愛無い夫婦の会話である。
 
 好きなものは好き、嫌いなものは嫌い…だから、アベシンゾウは大嫌いだッ!(あァ、スッキリした!)
 安保法案の収拾、辺野古基地問題、TPOの成り行き、原発再稼働、汚染物質の処理……山積する課題の議論に恐れ慄いて臨時国会を開かず、さっさと海外へ脱出、アベノミクスだかアベノリスクだか知らないが、したり顔で得々と政策などを説いて廻り、あろうことか(いや、毎度のことながら)ギリシャの二の舞になりかねない財政難をよそに、大盤振る舞いに億単位の金をばらまいて歩いている。腹が立つから、アベがニュースに出たら即チャンネルを変える。
 「一億総活躍社会?年寄りに、また働けってか!」という意味の戯れ句を新聞に見た。わけの分からない政策である。たった一つ、今すぐにでも再就職したい仕事がある。それは「必殺仕置人」。真っ先に仕置きしたい奴が誰かって?…勿論、言うまでもあるまい。

 携帯のメモに「好きな女優」と「嫌いな女優」を書き並べてほくそ笑んでいる。嫌いな女優が出ているドラマは、話題になっても観ない。「どっちも出ていたらどうするの?」…これは困る。取りあえず観るけれど、嫌いな女優が出たら文字通り目を瞑る。(笑)

 歳を取ったら、何故誰もが短気になるのか?
…それは、この歳になれば、いつ何かあってもおかしくない。だから、一日一日が限りなく貴重な時間なのだ。今出来ることは今やっておかないと、明日は何が起きるかかわからない。自分を殺し、周りに気を遣いながら、何を齷齪する余裕があろう。我慢しないで、自分が欲するままに、「今」を大切にするしかないのだ。
 だから、食事にも気を遣わない。あれが身体にいいから、これは身体に悪いから…そんな気を遣って僅かな延命にしがみついても意味がない。そんな気遣いをする方が、よっぽどストレスになって寿命を縮めると思う。
 好きな時に起きて、好きなものを食べて、好きなことをして、好きな時に寝る。これこそ最高の余生ではないか。
 だから、年寄りは本気で短気になる。短気は損気?…もう損するものは何もない。

 ……そんな極論で自己弁護しながら、15日振りの晩秋の雨のトレモロを聴いていた。乾ききっていても、この季節は夜露が降りる。だから、真夏のように毎夕井戸水のホースを延ばして散水しなくても、庭の木々は生き生きと葉を揺らし、キブシは来春の開花に備えて小さな蕾を育てている。山茶花がホロホロと花びらを散らし、朝の落ち葉掃きも、散り終えたハナミズキからキブシに代わった。コデマリの木陰で斜めに茎を伸ばしたホトトギスが一列に花を並べ、黄色いツワブキの花が今盛りである。季節がこうして、貴重な日々を重ねていく。
 今年も、鉢植えのダイモンジソウやイトラッキョウが一斉に花開いた。溢れそうに群舞するダイモンジソウの鉢を、玄関の衝立の前に置いた。小さな火花のような白とピンクのイトラッキョウの花時は長く、木枯らしが吹く12月まで可憐な花火を揚げ続ける。絢爛と咲き、呆気なく花吹雪を散らす桜の潔さもいいが、長く命を紡ぎ続けるこんな花も、私たちの世代には何とも捨て難いのだ。
 バラやダリアやカサブランカなど、大型の豪華な花に魅力を感じなくなったのはいつからだろう?立ち位置から蹲踞位置、そして這い蹲ばるほど低いカメラ目線で、やっとファインダーに捉えられる小さな山野草に惚れ込んだのはリタイア後…正直に言えば老後である。些細なもの、小さな出来事、目立たなく控えめな姿…そんな細かなものが限りなく愛しくなった。

 花は控えめがいい。年寄りも老醜を曝さず、老害を振り撒かず、独りよがりに気が短い日々を、控えめに生きることにしよう。
                (2015年10月:写真:イトラッキョウ)