蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

隠れ宿、再び

2017年08月03日 | 季節の便り・旅篇

 山の木立で鳴くヒグラシの声が、こころなし優しく感じられた。数年振りにミンミンゼミを聴いた。子供のころは身近に聴いていたその声が、近頃では山で稀に聴くだけになった。
 熊本大地震から1年4か月、一番のお気に入りの宿の復興を知って、地震以来初めて出掛けることにした。九州道・北熊本SAで小休止、車を出た途端、喘ぐほどの灼熱の中にいた。後で知ったことだが、すぐ隣の玉名市が37.7度と、この日全国一の最高気温だったという。
 益城熊本空港ICで降りて南阿蘇に向かう途中、迂回の指示が出る。カーブを繰り返す山道を辿り、俵山トンネル、南阿蘇トンネルを抜け、左折するとそこが南阿蘇の一角、細い山道を上がったところに、懐かしい隠れ宿が姿を現した。
 5000坪の敷地に、回廊で結ばれた15の客室、全室離れの露天風呂付の宿である。大自然の中にある癒しの隠れ宿、団体が入らないからアジア系観光客の煩わしい喧騒もない。チェックインすれば、あとは24時間掛け流しの露天風呂の湯音だけに包まれる静寂が待っていた。我が家から僅か2時間余りで、この静けさがある。
 浴衣に着替え、先ずは大浴場に向かう。アクセスがまだ整わず、時たま起きる余震、大雨……その度にキャンセルが相次ぎ、いまだにかつての客足が戻らないという。到着時間が早かったこともあり、この日も大浴場を独り占めだった。露天風呂の木陰を選んで浸り、暑熱に倦んだ身体を伸ばす。湯口から注ぐせせらぎにも似た湯音に、もう言う言葉がない。
 ふと頭に微かな気配を感じて手で払うと、シオカラトンボが慌てて跳び立った。白髪頭を何と間違えたのだろう。舞い戻ったシオカラトンボは、湯船の中に刻まれた碁盤の縁に翅を休めて、いつまでも動かなかった。
 伸ばした脚に、光のさざ波が波紋を散らす。身体の芯からほっこりとした温もりが拡がって、湯当たりしがちな私にしては珍しく長湯した。それでも、温泉好きカミさんの長湯は、さらに小一時間続く。ひと足先に回廊を辿って部屋に戻り、いつの間にかベッドで微睡んでいた。

 アブラゼミの姦しさが、少し澄み切ったヒグラシの声に代わる頃、お食事処の個室で夕飯となる。品数を減らし質を上げた「シニアプラン」……最近、そんなシニア・サービスの宿が増えてきたが、まだ量が多い。それでも、地酒を冷酒で飲みながら、気が付いたら完食していた。
 寝る前のひと風呂、少しぬるめの部屋付き露天風呂は、5人くらい入っても余裕があるほどにゆったりとしている。この宿を一番のお気に入りの常宿に選んだ所以である。目を閉じれば、あとはただただ、静かにせせらぐ湯の音。

 爆睡して目覚め、朝湯のあとの朝食に満ち足りて、秋の再来を約束して宿を出た。阿蘇山を越えて、小国を経由して帰ろうとナビに従って走ったが、大崩落した阿蘇大橋の近く、「通行止め」「工事中片側通行」「大型車通行不可」などの看板に、度々行く手を遮られるドライブとなった。仮設住宅のそばを走る。大崩落した生々しい山肌がある。外輪山にも痛ましく爪痕が残っている……大地震の爪痕は、まだまだ残酷だった。
 内牧温泉から外輪山を駆けあがり、小国を走り抜け、「ファームロードWAITA」を辿って、今回の旅の仕上げに、お馴染みの「豊礼の湯」に立ち寄った。1200円コインを入れれば、50分間薄い翡翠色の湯の掛け流し。目の前の湧蓋山(わいたさん)の頂きに夏雲が浮かび、濃く薄く緑の絨毯を敷き詰めた夏がそこにあった。岩風呂に浸り、湧蓋山から吹き降ろす風に吹かれる贅沢をほしいままにした。

 二日間で299.6キロを走り、戻った我が家で容赦ない真夏の暑熱が待っていた。もうすぐ暦の上の立秋。しかし、夏はこれからが本番である。

 今年のセミの羽化は、7月25日の104匹で終わった。
                    (2017年8月:写真:隠れ宿の露天風呂)