蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

喪われた、心の故郷(ふるさと)

2019年11月03日 | つれづれに

 ラグビー・ワールドカップが終わった。想定外の大差でイングランドを下し、日本を破った宿敵南アフリカが優勝!テレビの前で血を沸せた日々が終わった。次は4年後、ウ~ン……???
 冬の体育の時間は全てラグビーに明け暮れた高校時代以来、私にとって最も好きなスポーツである。昨日今日のブームに乗った付け焼刃のファンとは、のめり込む奥行きが違う。

 そのラグビーボールのような楕円状の実が枯れて、10月の終わり頃にチューリップのように弾ける。その中に、層にになって畳まれた薄い薄い無数の種子が入っていた。掌に零すと、鼻息で吹き飛んでいくほどの軽くて薄い種子である。微かな風に乗って散り拡がっていくのだろう。
 朝の石穴稲荷詣での折りに、お狐様にお詫びして、ひと株だけ分け頂いてきた。日差しを嫌う花である。庭の日当たりの悪い隅々に、そっと散らした。果たして根付いてくれるか、来年の楽しみが出来た。
 ウバユリ……花は地味だが、すっくと楕円ボールを立てる頃の青い実は、玄関の鉢に纏めて立てるとなかなかの風情である。

 ミニ・ドライブから帰った翌朝、テレビの実況に驚愕し、言葉を失った。
    首里城炎上!!!
 紅蓮の炎に包まれて崩れ落ちる正殿の悲惨な姿に、こらえきれずに涙が出た。私にとって、喜怒哀楽を濃厚に沁みつかせている第2の心の故郷である。
 当時の外地・韓国ソウル(私にとっては、当時の「京城・けいじょう」と書く方が気持ちに馴染む)で生まれた私は、いまだに生まれ故郷を訪れたことがない。その後、豊中、平穣(ピョンヤン。妹は此処で生まれた。兄の出生地は釜山である)、京城と外地を転々とし、終戦3か月後の秋に、駆逐艦「雪風」で玄界灘の波濤を渡って福岡に引き揚げ、一時神奈川県足柄上郡山北町に住み、その後福岡で大学まで過ごし、就職して名古屋、福岡、沖縄、福岡、長崎、福岡、広島と転勤を重ね、リタイアして此処太宰府を「終(つい)の棲家」とした。 いったい、私の故郷はどこになるのだろう?

 本土復帰の昭和47年(1972年)から沖縄を17年間担当して通い詰め、1年半家族と転勤して暮らした沖縄で、様々な修羅を見た。
 それまで準海外扱いの特別扱いになっていた販売会社のマージン率を、復帰と同時に「本土並み」という美名のもとに、一挙に半分近くに引き下げた。親会社のご都合主義である。なんでたまろう、倒産の危機に瀕した販売会社に、「1年で立て直してこい」と命を受けて出向した。「駄目だったら、潰してもいい」という、非情且つ背水の出向だった。
 連日の再建会議で、交際費をはじめあらゆる経費を切り詰めていった。接待ゴルフ禁止令を出したことで、抱えて行った父の形見のゴルフ道具も、一度打ち放しに行っただけで埃を被ることになった。生涯ゴルフをやらなかった原点が此処にある。
 最期の手段は、人員整理しかなかった。当時、日本最強の労組だった沖教組や全軍労からオルグが乗り込んできて、組合員に社屋を包囲され、三線で抗議の歌を浴びせられながら、希望退職、肩叩きなどで99人いた社員を70人まで減らして、ようやく再建のめどを立てた。
 たまに、街角でやめさせていった社員に出会うと、涙を流して握手を求めてくる。温かい沖縄の心に触れて、何度涙ぐんだことだろう。だから、今後何があっても人材に手を付ける再建手段だけは決して取るまいと心に決めた。

 後に、全国の代理店を統合して販売会社を立ち上げた。高度成長がピークを過ぎてバブルが弾け、この業界にも厳しい試練の波が押し寄せて、再び人員整理に手を付けることになった。「人は宝」……10年後100年後の大計の為には、借金してでも人材を確保しなければならないのが経営の鉄則である。経営陣の蹉跌のツケを、安易に社員に払わせるのは決しては許されることではない。人を採用するということは、その人の人生を預かるということなのだ。
 人員整理を軽々しく口にする役員に、憎しみさえ感じた。だから、取締役西日本本部長として役員会での協議に臨んだ際に、自ら全役員の辞表を社長に預けることを提案した。そうしなければ、私の気が済まなかった。その覚悟がなければ、決してやってはならない禁じ手なのだ。

 沖縄の販売会社の再建が成り、当時の副知事と諮って民間から新社長を迎えて、やがて新社屋を建てるまでになった時、その屋上に私の「風葬の場」を作ろうと、社員も私も半ば本気で語り合った事さえあった。
 こうして、沖縄は私の第2の「心の故郷」となった。

 初めて沖縄を訪れた頃は、古い「守礼之門」と石垣が残るだけだった首里の丘に、長い長い歳月をかけて見事に首里城が復元された。そして、世界遺産の一部として認められた。再現文化財だから、国宝にこそ指定されていないが、沖縄の人たちにとっては国宝以上の誇りであり、心の故郷だったのだ。
 もう、生きて再び壮麗なあの城を見ることは出来ないだろう。怒りと哀しみと、たとえようのない心の震えの中で、茫然と燃え落ちる首里城を見詰めていた。
 心の中でも、何かが音を立てて崩れていった。
                (2019年11月:写真:ウバユリの種子)