蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

秋色、濃く

2019年11月17日 | つれづれに

 それは午後10時に始まった。

 妹の弔いに続き、高校と中学のダブルの同窓会解散式で実行委員長を務めた。「令和天皇祝賀御列」の日、第61回修猷館高校昭和33年率「さんざん会」の解散同窓会総会だったが、既に3割を超える多くの館友を彼岸に送った。その喪失感以上に、6割以上が生きて「傘寿」を迎えたことの意義を思う。
 生まれて間もなく戦争を経験し、終戦後の瓦礫の中を生き延びて、その後高度成長期の企業戦士として闘い、バブル崩壊と共にリタイア。食べる物もろくにない「どん底」と豊かな「ピーク」を知る、ある意味で最も幸せな世代だったのかもしれない。
 卒業30周年を期して、「さんざん会」を立ち上げた。120名参加のもとに、母校で果たせなかった修学旅行を、由布院への旅で実現した。昭和33年卒「さんざん会」30周年記念同窓会に貸し切った列車は「サザンクロス号」。その走行時間が3時間33分。奇跡的な「3尽くし」に、皆で手を叩いて喜んだ。以来31年目のこの日をもって、「さんざん会」を閉じる。
 ソラリア西鉄ホテルに集った館友、およそ100名。初めて参加した仲間もいた。遠く関東、関西、山陰などからの参加もあった。多くの言葉は、もう不要だった。全員で目を閉じ、61年を一気にタイムスリップし、館生だった当時に戻った。 溢れるほどの想い出に包まれて、語り合い笑い合う二時間はあっという間に過ぎた。80年使いこんだ身体は、いろいろ部品にガタが来てはいるが、残された日々を健やかに、心穏やかに過ごしながら、八十路の一里塚を一本ずつ立て続けていってほしい……と挨拶を結んで会を閉じた。
 既に八十路、寂しくはあるが、何処かでケジメを着けなければならない年齢である。

 その後、会場を替えて福岡学芸大学附属福岡中学校の解散同窓会を開催。8時間の同窓会三昧に、さすがに疲れ果てて帰り着いた。
 その疲れと気落ちから、俄かに風邪気味がひどくなった。掛かりつけの医者に行き、風邪薬と抗生剤の処方を受け、服み終った4日目の夜だった。熱もないのにやたらに午後から眠気を催し、うつらうつらの半日を送った。自重して早寝と決め、9時にベッドに入って「三国志」の3巻を読みはじめた。

 本が重たくなり、瞼が閉じがちになる。そろそろ寝ようと決めた時、脚の付け根の辺りから小さな震えが始まった。みるみる全身に悪寒が広がり、歯の根が合わず、瘧にも似た痙攣にベッドの上でのたうちまわった。震える手で何とか携帯電話を開き、隣室のカミさんを呼んだ。
 子供の頃、錆釘を踏み抜き、感染症で悪寒に震えて以来の出来事だった。カミさんが掛かりつけの医師に電話して相談したところ、すぐに救急車を呼んだ方がいいという。がくがく震えながら待つこと10分もしないで救急車がやって来た。
 初めての経験だった。乗り心地が悪いこと夥しい。悪寒に震えながらも、「道が荒れてるんですね」と訊く余裕はあった。「いや、車が古いんです」と答えが来る。揺られながら道筋を辿っていた。左肩腱板断裂の手術や、カミさんの亜イレウスの治療などで通い慣れた福大筑紫病院が受け入れてくれた。
 診察台に移って検査が始まる頃、ようやく悪寒が治まり、身体が熱くなって熱が38度を超えた。胸部レントゲン、尿検査、血液検査、インフルエンザのチェック……血中酸素濃度が下がっているからと、酸素吸入が始まる。白血球が少し高い。それ以外は特に問題はなく、多分急な発熱前の悪寒だろうという。
 2時間ほど抗生剤などの点滴を受け、落ち着いたのでタクシーを呼んで帰った。午前2時だった。氷枕に頭を着けて、そのまま眠りに落ちた。
 風邪薬と抗生剤を処方されたが、救急搬送には1日分しか投薬しないことを知った。明日、かかりつけの病院に行きなさいと言う。

 翌土曜日、掛かりつけの病院に行った。再度血液検査したところ、白血球の指数がさらに高くなっているから、3日間抗生剤の点滴に来なさいと言われ、日曜日の今日も3階の病室で点滴を受けた。

 付き添って乗ったことはあったが、自分自身が救急車で搬送されたの初めての経験だった。そして、やはり二度と経験したくないことでもある。暫く、ご町内の噂のネタにされることだろう。歳を取るとは、こういう事なのだろう。

 秋色濃く、庭の楓が色づきを深めていた。
                      (2019年11月:写真:楓の秋色)