蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

土筆立つ……腹も立つ

2020年03月09日 | つれづれに

 映画「Fukushima50」を観た。(座席指定が、一人置きになっていた!入り口での、チケットのもぎりもなかった!!)
 『原作は、90人以上の関係者の取材をもとに綴られた門田隆将の「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」。2011年3月11日午後2時46分、マグニチュード9.0、最大震度7という、日本の観測史上最大の地震が発生した。全てが想定外の大地震が引き起こした太平洋からの巨大津波が、福島第一原子力発電所を襲う。全ての電源を失ったことで原子炉の冷却が不可能となり、原子炉建屋は次々に水素爆発を起こし、最悪の事態メルトダウンの時が迫りつつあった。1・2号機当直長の伊崎は、次々に起こる不測の事態に対して第一線で厳しい決断を迫られる。所長の吉田は現場の指揮を執りつつ、状況を把握していない本社とのやり取りに奔走する。緊急出動する自衛隊、そして“トモダチ作戦”の発動とともに米軍もついに動く。福島第一を放棄した場合、避難半径は250km、対象人口は5,000万人。その中で現場に残り続けた約50人の作業員を、海外メディアは“Fukushima 50”と呼んだ。避難所に残した家族を想いながら、作業員達は戦いへと突き進む……』(イオンシネマの映画紹介欄より)

 福島原発事故から9年、当時の首相の菅直人が、ある会で「最悪回避は、神のご加護だった」と述べた。冗談じゃない!この言葉で逃げた卑劣さが、この映画であからさまにされる。死を覚悟しながら現場で放射能の恐怖と戦い続けた50余人の人たち、その足を引っ張る首相以下政府と東電幹部の愚かさは、目を覆うばかりである。あわや首都圏を含めた関東・東北が死の放射能で覆われる危機的状況であったことに、改めて戦慄する。折角政権を奪い取ったのに無為無策、人材不足(むしろ人材ナシ)と政治を取り行う技量の無さを露呈し、あっという間に崩壊して安倍政権に奪還された主因となった事故だった。

 今、新型コロナウィルスで右往左往する政府の愚かさの原点がここにある。「モリ・カケ・サクラ」……隠蔽と欺瞞と虚言と偽造を繰り返した果てに、行き当たりばったりの後手後手の策を繰り返している中で、コロナウィルスは不気味に蠢き続けている。
 「盗人を見て縄を綯う」という言葉があるが、そもそも「盗人」であることさえ認識していないのではないか?とさえ思ってしまう。人の命の危機さえも、彼らは政治的に利用することを優先する……そんな思いに情けなさが募る。

 この映画が世界各国で上映されたら、おそらくオリンピック開催は崩壊するだろう。こんな日本、怖くて行けたものじゃない。そもそも、招致自体に大変な嘘があった。ある記事を引用する。
 『安倍総理がオリンピック招致プレゼンテーションで、福島原発問題を「アンダーコントロール(管理下に置いており)」、今までも現在も過去も「Safe(安全)」と強く述べたことで、今後、日本は海外に支援を要請することも、また汚染水を海に流すこともできない状況に自ら追い込んだ事になります。
 また、福島原発の「不都合な事実」は報道することも禁止されるはずであり、海外のマスメディアや特定のインターネット情報に頼ることになり、大方の国民は、本当の福島原発の姿を見ることが出来ないようになります。
 なぜなら、一国の総理が「アンダーコントロール」と国際会議で述べた以上、コントロールできていないという「不都合な事実」を報道することは、政府の意向に反することになり、風評被害を生んだとして懲罰を受ける可能性があるからです。
 これで東電は大手を振って今まで通りの情報発信で行くでしょうし、官僚も総理が問題ないと言っている以上、問題なく、それを覆す(否定する)のであれば、その事実を示せとなり、漏れ出した核燃料がどこにあり、どうなっているか、誰も分からない状態である以上、証明などできるものではないからです』

 東北3県の被災者の85%が、東京五輪が復興の役に立つとは期待していない。(共同通信の昨年12月のアンケート)
 7日、首相が福島県を訪問した。「いよいよ聖火リレー。この双葉町からの発信が、復興のシンボルになる」と挨拶した首相に、住民は冷ややかだった。「五輪のための見せかけの復興アッピールだ」。4日に双葉町の駅前など一部が避難指示解除された。しかし「五輪に間に合わせるために駅の周りだけ解除しても、俺たちは住めないのに」
 オリンピック招致時に総理が述べた「アンダーコントロール」という言葉に対し、「原発が近くなければ、俺たちはとっくに戻ってる。何を見てそんなことを言えるんだ」

 これが、今の日本の政治である。この9年で、政府はいったい何を学んだのだろう?「Fukushima」は、決して終わっていない。しかし、「瞋恚の焔(ほむら)」に身を焦がしてばかりいるわけにもいかない。「今が瀬戸際」と言われた2週間も過ぎた。

 早朝の散歩。石穴稲荷の参道脇の土手に、数本の土筆が立っていた。季節の移ろうままに、さりげなく立つ姿に癒される。今夕の膳に添えて、小さな春を味わうことにしよう。
                            (2020年3月:写真:春を告げる土筆)