蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

小さな大旅行

2020年06月16日 | 季節の便り・旅篇

 久々の温泉だった。昨年12月に、アメリカから帰省した次女を連れて、熊本県平山温泉の露天風呂付離れに泊まって以来のことである。隠忍自重、雌伏半年?!……温泉好き、旅好き、ドライブ好きの我が家が、こんなに長く温泉から遠ざかったのは、リタイア以来20年で初めてのことかもしれない。
 例年ならば、大分県男池に春の山野草探訪をして、帰り道に貸切り露天風呂に立ち寄ったり、九重高原をドライブして、長者原の湿原から樹林を回遊する木道を歩いて、そのまま山宿に泊まったり、南阿蘇の隠れ宿で部屋付き露天風呂を楽しんだり……それが我が家だった。
 不要不急の外出自粛、県を跨ぐ旅行の自粛と、コロナに縛られる日々が、もう4ヶ月も続いている。もやもやが日ごと鬱積し、いい加減くたびれ始めていたそんな中に見付けた新聞の折り込みチラシに、間髪を入れずにカミさんが反応した。365日24時間亭主が居て、三度三度の餌を与えなければならない主婦にとって、旅=外食=他人がが作った食事をあげ膳据え膳でいただき、後片付けをしないで済むということは、貴重な「骨休め神事」なのだ。

 11時、誰一人いないロビー。カウンターにただ一人いたマスク姿の女性がチェックインを受けてくれる。温泉宿にしては、部屋に案内する人もいない。部屋に入って着替えを済ませようとしたが、日帰り客に部屋の提供はあっても、浴衣のサービスはない。そのまま、取り敢えず大浴場に向かった。
 広い展望大浴場には、高齢の人影が一つ、背中を丸めて頭を洗っていた。つまり、老人ふたりの貸切り状態なのである。地下200メートルから汲み上げるアルカリ性単純ラジウム温泉の熱源は50度、仄かに硫黄の匂いが混じる掛け流しの湯船は40度ほどに保たれ、滑らかな肌触りに疲れが一気にほぐれていくようだった。少し軋るようなつるつるした肌触りは、嬉野、武雄、原鶴、平山、別府、鉄輪などの温泉とも、ひと味違う感触で心地よかった。
 腱板断裂手術を受けた左肩、山鹿の八千代座での海老蔵公演で痛めた右膝、人工股関節置換手術を受けた左脚股間、帯状疱疹後神経痛が続く右腕……それらの古傷がゆっくりと癒されていく。振り返れば、私の病歴は全て整形系ばかりである。幸い、内臓も脳も、まだ(かろうじて?)今のところ健在である。
 太もものすべすべした肌触りを、女体の太ももに置き換えて妄想するのも毎度のこと(呵々!)幸四郎ほどの逞しい色気はないが、近ごろのアイドルのようなカマキリ脚ではない。毎朝のストレッチと散策で、それなりに引き締まった太ももである。(誰も褒めてくれないから、取り敢えず自画自賛!)

 展望大浴場の窓から遠く、高校から大学を通してひたすら歩き回った健脚向け「三郡縦走コース」の宝満山―三郡山―砥石山―若杉山と連なる山並みが望まれ、部屋のソファーに座れば、目の前に天拝山が迫る。手前を横切る九州道……そう、ここは太宰府市の隣り、筑紫野市湯町の「二日市温泉」の「D荘」。我が家からひた走って、何と6.3キロ、15分の最も近い温泉である。小さい旅行だが、我が家にとっては大旅行にも相当するリッチな時間だった。
 かつては、大宰府天満宮詣、所謂「宰府まいり」の宿場であり、芸者遊びも出来る温泉場だった。しかし、JRや私鉄が伸びたことによって、福岡から僅か20分ほどで結ばれるようになり、宿場としての存在価値を失っていった。柳が揺れていた川も暗渠となり、万葉の時代から守られてきた風情も喪われていった。宴会や団体客も、このコロナ騒ぎが一切を奪い、大々的に折り込みチラシを撒いた今回の企画も、平日の今日は僅か2組だけだった。

 近年稀な部屋食というのがいい。決して高価な食材ではないが、有田焼の器の数々に盛られた料理は手綺麗で美しく、自宅食を続けていたカミさんにとっても、嬉しく、楽しく、美味しいランチとなった。
 福岡市内出身ながら、すでに20年この旅荘の寮に暮らす仲居さんが気安くもてなしてくれた。食後の憩いのあと、再び大浴場を独り占めした。3時間、期間限定の夏ランチ「彩(いろどり)紀行」、温泉と部屋食付きでまったりと寛いで、3,800円の満ち足りた時間を堪能した。

 因みに、目前に迫る天拝山……かつて都から大宰府に左遷された菅原道真公が、都に帰ることも叶わぬままに亡くなり、この天拝山から龍神となって京都に飛んだ。京の街の諸所に雷を落として暴れまわったが、唯一菅原家所領の「桑原」という所には雷が落ちなかった。後世人々が、雷が鳴ると「くわばら、くわばら!」と唱えながら頭を抱えて身を伏せるようになった所以の逸話である。桑原という地名は、今も京都の道路脇の小さな空き地として残っている。

 梅雨の合間の夏空には、小振りな入道雲が幾つも湧き立ち、天拝山の裾をシラサギが斜めに飛んだ。梅雨本番は、まだまだこれからである。
                        (2020年6月:写真 夏ランチ「彩紀行」)