蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

大火砕流の記憶

2021年06月03日 | つれづれに

 30年前のその日、私は長崎県南をエリアとする長崎支店長の任にあった。

 諫早市との中間にある卸団地の支店から、部下の課長の運転で南に下り、橘湾沿いの崖路を愛野に抜け、ジャガイモ畑を左に見ながら島原半島に下った。定期的に繰り返している、取引先(家電店)の巡回だった。
 南有馬の店主夫人と暫く語らい、やがて島原市に近づいた頃、左手遥か遠くの雲仙普賢岳中腹から、一筋の細い煙が立ち上っていた。運転する課長に、「まさか、噴火じゃないよね?」と冗談交じりに話しながら、島原市内に走り込んだ。

 普賢岳噴火のニュースが流れたのは、その1週間後だった。たまたま予言したような結果になった噴火だった。1990年(平成2年)11月17日、二つの噴火口から熱水が吹きあがる程度の小さな噴火で、やがて収まると思われていたが、翌年2月12日に再噴火、4月3日、9日と規模が拡大、5月15日に最初の火砕流が発生した。
 5月20日、粘性の高い溶岩が噴きあがり、火口周辺に不気味な溶岩ドームが膨れ上がった。やがてドームが4つに割れて崩壊、さらに噴き上げる溶岩に押されて、火山ガスと共に一気に時速100キロの猛スピードで山腹を駆け下る大火砕流となった。
 6月3日、戦後初の大規模な火山災害として、43名の死者・行方不明者を出す惨禍を生んだ。火砕流に加え、水無川流域に巨岩を転がす土石流が多発、一層の被害をもたらした。

 その間何度も島原を訪れていた。車を停めて、4キロほど向こうの山腹を下る火砕流を見上げていた橋が、1週間後には土石流に呑まれ、新築したばかりの取引先の自宅も破壊された。
 家電メーカー会で、確か3億円規模だったと思うが、被災地の支援を当時の鐘ケ井島原市長に届けたこともあった。
 後日、カミさんと娘を載せて普賢岳の仁田峠に向かう途中の展望台で、噴き上がった噴煙に追われて車に逃げ込み、山道を駆け下ったこともあった。
 
 昭和天皇の崩御、平成年号の始まりとともに始まった長崎支店長の在任3年と10日、単身赴任の自炊生活を終えてやがて福岡に戻ったが、在任中の数々の思い出の中で、今も忘れ難い重い記憶である。
 手元に、持ち帰った拳大の噴石がある。アメリカのデスバレーの砂丘の砂と並んで、飾り棚の奥でひっそりと30年の時を刻んでいる。

 追悼の記念式典が開かれた今日、梅雨の雨が激しく降りしきっていた。老いた鐘ケ井元市長の姿に、胸が痛んだ。
 
 平成も令和に替わって既に3年目、世界中が「疫病」という自然災害に翻弄され続けている。2ヶ月遅れたワクチン接種に追い込まれている中で、民意を黙殺して、まだオリンピックにしがみついている総理、都知事、オリンピック委員会の何と無様な姿だろう!女性3人を中心に祭り上げているのも、所詮「人柱」にしか見えない。気持ちの中では既に、オリンピックそのものが災害になってしまいそうな哀しみがある。
 命の尊厳さえ見極められない支離滅裂の政府の愚策に、もう怒る気力さえ失われつつある。政府の「しっかりと」とは、「何もしない」という言葉と同義語であろう。

 梅雨本番から末期にかけての豪雨災害が、もうそこまで迫っている。梅の古木の下を舞う梅雨の蛾・ユウマダラエダシャクが、今日も雨を呼び寄せていた。
 ワクチン接種まで、あと7日―--。
                      (2021年6月:写真:雲仙普賢岳の噴石)