峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

変わらないね

2016年04月07日 | 学校教育

午前中に佐々中学校の入学式が行われ、出席した。
男子74名、女子61名の計135名の子供たちが中学生として新たなスタートを切った。

中学校の入学式と聞いて、自身のことを思い出す人の多くは若者だろう。私くらいの年齢になると、既に自身の入学式のことなどすっかり記憶から抜け落ちてしまっている。小中学校の入学式や卒業式で子供たちの様子を見ながら思い出すのは、私の子供たちの未だ幼かったあの日のことである。

それにしても、校長の式辞や教育長の告辞は何故あんなにも紋切り型なのだろう。
「自ら進んで学習に励め」「自主性が必要」「根気が大切」「心身ともに鍛えよう」等々と百年一日、お定まりの言葉が並ぶ。しかも、ほとんどの子供の実態とは程遠く、言われることが出来ないから悩み苦しんでいるのにだ。

肝要なのは、美辞麗句を並べ上げ、そつなく式辞・告辞を読み上げることではなく、何故、自ら学習に励むことが大切なことであり、何故、自主性が必要なのか、はたまた何故、根気が大切で、何故、心身を鍛えなければならないのかを説く共に、どうすれば、それらを身に付けることが出来るようになるかを、丁寧に語りかけることだろう。

時代が変わっても変わらない、変えられない。

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夫唱婦随

2016年04月06日 | 夫婦

一昨日から風邪の症状が出ていたので早目に病院に行くことを考えたのだが、このところ再び抗菌薬の使用量削減の話題がマスコミを賑わせていたのを思い出し、とりあえず自分の中にある免疫力に頼ることにした。

昨夜が最悪だった。喉が痛むし、体の節々も痛んだ。一晩寝て目覚めた今朝も、やはり気分はすぐれない。おまけに、女房どのまで頭が痛くて吐き気がするというではないか。午前中、小学校の入学式への出席が入っていたが、失礼することにした。

私は、いつものように朝食をとったが、女房どのは吐き気がするからと大好きなコーヒーも口にしなかった。朝食後、2人仲良くソファーに横になり、今日1日安静することにした。

午後2時過ぎ、遅めの昼食をとった後、少し楽になってくるのを感じた。女房どのも同様で、夕方、シャワーを浴びるとすっきりした。
これならば、明日の中学校の入学式には行けそうだ。

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私のルーツ

2016年04月05日 | 家族

昨夜から少し咳が出だしていたのだが、朝になってもすっきりしないので午後からのキックボクシングの練習を控えることにした。

天気予報によると明日から2日ほど雨天のようだ。そこで、女房どのと2人、気になっていた平戸紐差(ひもさし)の「慈眼(じげん)桜」に会いに行くことにした。
愛車アルファ159で我が家を発ち、一路平戸紐差まで。通い慣れた懐かしい道だ。

樹齢約140年の慈眼桜は、静かに私たちを迎えてくれた。既に満開の時期は過ぎ、花が散り始めていたが、そのおかげで観光客もなく、ゆっくりと老木と向き合うことが出来た。

帰途、慈眼桜から程近い「平戸紐差カトリック教会」に立ち寄った。平戸はキリシタンの島だ。其処此処に教会があるが、その中でも、この教会は圧倒的な大きさを誇り威厳のある佇まいを見せている。

紐差教会を後にして間もなく、私の祖先が代々暮らしてきた川内町の神社に寄った。現在、東アジアの英雄と呼ばれた「鄭成功(ていせいこう)」の居宅跡として立派な記念館が建っているが、その場所で私の祖父母は暮らし、私の父や叔母たちが育った。私も、幼い頃に当時の家で遊んだ記憶がある。
境内の一角に鄭成功が手植えしたと伝わる樹齢300年を超すだろう「梛(なぎ)」の木が今もそびえている。私たち家族は、ここに来ると必ず梛の木に手のひらを当てる。女房どのも、今日やはりそうしていた。私も両の掌を幹に当て「ただいま」と声をかけた。

平戸は私と女房どのの故郷だ。私の祖先は代々、平戸の川内町で暮らしてきた。また、女房どのの祖先も平戸の志々岐(しじき)町で代々暮らしてきた。
平戸に来ると何となく心持が違ってくるのが感じられる。それは、やはり私のルーツがこの島にあることによるものなのだろう。

平戸大橋を渡り終えたところで、女房どのに見せるべく「田平教会」に立ち寄った。
そのレンガ造りの美しい佇まいは女房どのを直ぐに虜にした。

女房どの「ここで、くーちゃん(くるみさん)の結婚式を挙げさせよう」
私「辺ぴじゃない?ここまで来るのにみなさん大変だよ」
女房どの「佐世保駅から、峰野家御一行様のバスを走らせるとさ。そこまで考えてた」

まんざら冗談でもないようだ。それほど、美しく心惹かれる教会ではあった。

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師弟

2016年04月04日 | 将棋

深浦九段とお互いの子供の成長などを語り合いながら歩いているうちに目指す「木楽屋」に着いた。
ウナギの寝床のような店内を奥へ進んで行くと、既に光武前佐世保市長が到着しておられた。
光武さんは大の将棋好きで、確か日本将棋連盟からアマ五段の免状をいただいておられる。もちろん、深浦さんを囲むこの会にも必ず参加されている。日本将棋連盟佐世保支部の良き理解者という存在だ。

松山先生の司会で先ず光武さんの挨拶から会が始まった。続いて深浦九段の挨拶、そして佐々木新四段の挨拶と続く。
いよいよ乾杯の段になり、その音頭をとるよう松山先生に指名を受けた。
せっかくだったので乾杯の発声の前に、直前の佐々木新四段の挨拶の言葉から、彼と深浦九段との師弟関係にまつわる話を紹介させていただくことにした。

このブログを通してお近づきになった憲司さんが孫娘たちの家へ訪ねて来てくださった際、お会いするや否や私に深浦さんのですと言ってたたまれた新聞紙を差し出された。見ると、対久保利明九段の竜王戦の棋譜だった。そこには、観戦記者・池田将之によって深浦九段と佐々木新四段の師弟についての厳しくも心温まるエピソードが書かれてあった。

佐々木新四段は、プロ棋士になったとはいえとりあえずフリークラスからのスタートとなる。10年以内にフリークラスから抜け出せなければ引退を余儀なくされる。そのフリークラスを抜けるためには任意の範囲で30局以上の勝率が6割5分を超えなければならない。プロになるのは厳しいが、プロになった後も厳しい。

観戦記の最後の段に、師匠・深浦九段の弟子・佐々木新四段に送るエールがこう記されてあった。
「私は地元の方々に支えられてプロ棋士になれました。佐々木もそうだと思います。地元に応援してくれる方々がいることを胸に抱いて頑張ってほしいと思っています」

この観戦記は、お姉さん天使の卒園の前日である3月25日付けの読売新聞に掲載してある。佐々木新四段は、もちろんこの棋譜に目を通していただろうし、直接師匠から聞いていたのかもしれない。
プロ棋士なって初めて師匠と共に帰郷し、深浦九段をずっと応援し続けている私たちを前にして「私は地元の方々に支えられてプロ棋士になることが出来ました…」と師匠から送られたエール同様の言葉を挨拶で語ってくれたのだった。

深浦九段は、まだ幼くして日本列島の西の果てから上京し、精進を重ね将棋界のてっぺんまで這い上がった。それは、計り知れなく厳しい道だったことだろう。
それ故か、はたまたその逆か、深浦九段は闘志溢れる棋士である。誰より負けず嫌いの棋士である。師匠は、晴れて四段になった弟子に万感の思いでエールを送ったに違いない。佐々木新四段は、その厳しくも温かい師匠の教えをきちんと受け止めていた。
そのようなことを紹介し、乾杯の音頭を取らせていただいた。

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棋士・深浦康市

2016年04月03日 | 将棋

深浦九段、佐々木新四段他6人でコーヒーを飲みながら時間をつぶした後、頃合いを見てホテルを出た。
佐世保三ヵ町アーケードから四ヶ町アーケードを通り、目的の店まで歩いて15分ほどだ。その間を深浦九段と肩を並べて歩いた。

我が家の次女と三女が小学生の時、たまたま縁があり、佐世保市で「秀楽」という将棋教室を主宰しておられる松山秀樹先生の指導を受けるようになった。それ以来、将棋関係の多くのみなさんたちに親子ともども数々の貴重なご縁を得てきている。特に私は、松山先生によくしていただいた。

深浦九段との想い出は数々ある。
2012年4月1日、佐々町将棋同好会が佐々町農業体験施設で開催した「佐々町将棋祭り」には当時4期ぶりにA級復帰を決められた深浦九段をお招きすることが出来た。準備かれこれ大変だったが、当日は佐々町を中心に県北の将棋ファンにたくさんお集まりいただき、郷土が生んだ偉大な棋士である深浦さんの魅力に触れていただいた。

また、王位奪取記念にハウステンボスで行った祝賀祭では松山先生がドラムス担当、私と有紀さんがギター担当、女房どのとくるみさんがキーボード担当のバンドを結成し「夢をあきらめないで」と「世界に一つだけの花」を演奏したのも嬉しい思い出だ。

しかし、何といっても嬉しい思い出の筆頭は2004年4月7日、当時の深浦康市朝日選手権者が挑戦者に羽生善治名人・竜王を迎えて佐世保・万松楼で行われた第22回朝日オープン選手権5番勝負の第1局だ。

日本将棋連盟の佐世保支部長でもあった松山先生の計らいで、前日の対局室での両者の検分から立ち会わせていただく幸運に恵まれた。
また、前夜祭では有紀さん・くるみさんが両対局者への花束贈呈役を務めるという貴重な体験をさせていただいた。

そして、対局当日朝の対局室での立ち合いの席に着かせていただく光栄にも浴した。立会人の、最近テレビでそのユニークなキャラクターが受けている加藤一二三九段の「始めてください」の声に、両者しばらくの瞑想に入るも、ややあって深浦朝日選手権者の首筋から顎、そして頬のあたりまでがみるみる紅潮するさまを目の当たりにして、棋士・深浦康市の真骨頂を見る思いがしたものだ。

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その時 私は少年のように

2016年04月02日 | 将棋

毎年この時期、深浦九段が帰郷される度、佐世保山県町の居酒屋「木楽屋」に深浦九段に馴染みの者10名前後が集まり、深浦九段を囲む。
酒を酌み交わしながら、1年間の各棋戦での我らが深浦九段の戦いぶりを振り返り、ああでもないこうでもないと語り合う。また、深浦九段の少年時代の話や、少年時代の師匠であった「大宮将棋倶楽部」席主・故川原潤一さんとの想い出話などに花が咲く。深浦九段を応援する地元のファンとしては堪らないひと時である。

深浦九段は現在、将棋界の最高峰であるA級、竜王戦1組に在位するまさにトッププロ中のトッププロの1人である。
これまでのタイトル戦登場が8回、そのうち王位のタイトルを3期獲得している。また、その他の棋戦でも優勝9回を誇る。このような凄い棋士から直接、あの時、あの場面での心境などを事細かく直に聞ける者などそうはいない。私は、深浦さんにお会いするたび、少年のように興奮し胸を躍らせて、トッププロの「あの時」の思いを聞こうと根掘り葉掘り訊ねる。そんな私に深浦さんは、彼の将棋同様、丁寧に一生懸命に応えられる。ああ堪らない。

そのワクワクする席までに1時間半ほど間があった。
大地くんが未だチェックインを済ませていなかったので、それではと大地くんが宿泊する「クインテッサホテル」にみんなも同行し、コーヒーでも飲もうということになった。

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棋士の記憶力

2016年04月01日 | 将棋

例年より少し早めに我らが深浦康市九段が故郷に帰って来られた。今回は、先の奨励会三段リーグで見事に四段昇段を決めた一番弟子の佐々木大地君も一緒だった。

午後4時半頃、女房どのに車で送ってもらい、新装なった佐世保三ヶ町アーケード内のビルに入った中央公民館へ出向くと、深浦九段と佐々木大地新四段の指導対局が行われているところだった。
それも午後5時までの予定で、間もなくバタバタと将棋の盤駒の片付けが始まった。
指導対局を終えた深浦九段がすぐに私を認められ、寄ってきてくださった。互いに久しぶりの再会の挨拶を交わす。

その後、ロビーで深浦九段と佐々木新四段による即席のサイン会が開かれた。
深浦九段の揮毫(きごう)は、いつもの「英断」だ。佐々木四段はどんな言葉を選んだのだろうかと覗くと「大志」と揮毫していた。
ちなみに、我が家では錚々(そうそう)たるプロ棋士に揮毫していただいた数々の色紙が額縁に収められ廊下の壁面を飾っている。ある方にその様をギャラリーみたいですねとお褒めいただいたことがある。それほど、私はプロ棋士を敬愛してやまない。

佐々木新四段が最後の色紙に揮毫し終えたのを見計らい、彼のところへ歩を進め「佐々木くん、四段昇段おめでとう!」と握手を求め、「おじさん(私)のこと覚えている?」と訊ねてみた。
何せ彼が小学1年生、2年生の頃に「小学生名人戦」の県大会会場で出会った時以来だ。しかも、彼にとっては対戦相手の父親なんて、どうでもいい存在だ。記憶に留まっているはずがない。
ところがだ、案に相違して彼は、対戦相手のくるみさんだけでなく、その父親の私のことまでちゃんと覚えていた。

故米長邦雄永世棋聖にまつわる話の1つに「兄たちは頭が悪いから東大へ行ったが、自分は頭がい良いから将棋指しになった」という有名なエピソードがあるが、なるほど将棋指しの記憶力は半端無い。

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