上野の山へ「快慶・定慶のみほとけ」展を見に出かけた。上野の駅に降りると、平塚よりも寒い。期待していた、紅葉(こうよう)にはほど遠かった。紅葉するのだろうか?という感じだ。キリスト教徒がみほとけを観るのは難しい。まず、仏さまの前で十字を切りたくなる。違う、ちがう、ここは違うとなる。それでも、みほとけのお顔を拝見したときは教会と心の平穏は同じだ。
子供のころは、上野は動物園に来たなぁ と思い出す。友達が「私たちは昭和でなくて、平成に生きた感じね」と言った。人生の大事な部分は「平成」にあったという。なんともいえないなぁ。どちらも大変だったような気がする。もと夫は6歳年下だったので、昭和の生き方は違っていた。まだ、戦後の遺産がある時代だった私に比べて、彼のほうはもう世のなかが落ち着いていたらしい。団塊世代のあとであおりうけた私と違い、受験やらややゆるくなっていた。そんな二人が仕事を始めた(塾経営)平成は決して平坦な時代ではなかった。でも、生きぬいた。
今の若い人たちのようにあっけらかんと 生きられなかったなぁ と思う。暗いほうがよかったのだ。新しい元号になる。いい人生になる気がする。今、考えることはのんびり元気でいることだけ。競うことも「かくあらねばならぬ」もない。泥棒がはいったかのように散らかった部屋でも、よそのうちのようにきれいな部屋でもいいし、セブンのお弁当で済ます日でも手のこんだ料理をする日でもどちらでもいい。そんなこと、元気で生きていられればいいんだ と思う。