京から家に戻った。我が家ながらきれいになっている。もしものことがあるかもしれない、と出かけるときはある程度きれいにしていく。でも、朝食を食べた二人の食卓の食器などは食器棚に入れずにそのままにしておいた。なにもかもきれいにするのではなく、生きていたときの生活に匂いを残したかった。ああ、こんな風に暮らしていたのだなぁと。だれが後始末をしてくれるにしろ。
そんな思いで出かけたのが終活の眠る場所を決める(見てくる)こと。その前の日に湖北に紅葉と仏さまを見に行った。昨日のぶろぐでも書いたように、土の香りのする逞しい紅葉と仏さまだった。マイナーな所ではあったが、最低4ヶ国語は聞こえた。京都に比べればはるかに空いているが、あらゆる世代の人が来ている。拝顔した十一面観音立像は、平安初期の桧一本彫の逞しいものだ。唇にほのかな紅が残るのがやさしさもだしている。地元の人たちが守ってきた仏たちには力がある。私の中で、終活に向けてなにか別の力が湧いてきた。
宿泊するホテルに戻る電車の中で見た琵琶湖に沈む真っ赤な太陽。電車が琵琶湖の近くを走る長浜は特にうつくしかった。あの真っ赤な紅葉や真っ赤な大きな太陽を見たら、余命を宣告されたひとですら、生きる希望が持てるのではないだろうか。そういうときに点てるお茶に必要な器は、土の感触のあるがっちりしたものではないだろうか。私はなにか急にそんなことを感じた。いわゆるお茶の道から外れても、そこに魂の込められるものが欲しくなった。
最期が決まれば、あとはそこから逆算するだけ、という言葉はその通りかもしれない。なにがそこへ私を導いたかはわからない。「なぜ」という問いはない。もし導いたあるとした想像力のある知性に富む人かもしれない。