太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

蕎麦屋の葛藤

2012-03-17 19:13:36 | 日記
詳細は全然覚えていないけれど、目が覚めたあとにどんよりと気まずさだけが残る夢を見た。

この感覚、蕎麦屋の葛藤と似てる。



日本にいた時、美味しい蕎麦屋があった。

カウンター席に7人ぐらい、4人掛けのテーブルが3つという小さな店で、カウンター席も隣りの人と肩が触れ合うほどの狭さ。

どこに座っても、荷物を置く場所もないありさまだった。

それでも美味しいので、いつも混んでいた。

週末の昼時には、大抵「合席」になる。



「お合席になりますけどいいですか?」

紬風の前掛けをした女性の店員さんが、一応こちらの意向を聞くふりをしながらも、答えを待っていられないぐらい忙しいんだけど!というオーラを漂わせつつ、既にテーブルの椅子を引いて待っており

否とは言わせない雰囲気がビシビシと伝わってきて、小心者の私は何となく座ってしまう。


普段、二人連れで食べ物屋の4人掛けに座るときは、向かい合って座る。

合席が前提の場合は、横に並んで座ることになる。先客が向かい側にいることもあるし、私達が先に並んでいることもあるのだが、

私はこの「合席」が非常に苦手だ。



たかだか幅が60センチぐらいしかないテーブルを挟んで、互いの話し声など丸聞こえもいいところだ。

自然、声を落としてボソボソと話をすることになるし、会話の内容も選んでしまう。

注文したものが出てくるまでの間が、異様に長く感じる。

向かい側にいる二人連れが、いやでも目に入り、いやでも会話が聞こえる。

そうすると、「トレーナーなのに、あのキンキラの時計は似合わないな」とか、「夫婦って顔が似てくるってほんとうだな」とか、

「入学祝のお返しに佃煮詰め合わせって、どうだろう?」とか、「奥さん、すましているけど、喧嘩したらキツそうだな」とか、

考えたくない、詮索したくないのに、私の中のワイドショー的な部分が黙っていられないのだ。



そしてそれは向こうも似たようなものだと思うから、

私はいったいどんなふうに思われているのだろうかと、マニキュアをサボった爪が気になったり、あっちのセーターにすればよかったと思ったり。



頭の中は、ワイドショーがぐるぐる渦巻いているのに、表面は、向かい側に誰もいないかのように振舞うのだから、本当に疲れる。

「おっと、今3秒ぐらい奥さんのほうの顔を見てしまった、長すぎ長すぎ」

と視線をわざとらしくそらす。かといって全く見ないのも不自然かもと思い、すーっと流すように見たりする。

これに加え、どちらかが食事中で、もう一方は待っている、という状態になると、自分がどちらになるにせよ、もうその疲労感たるやハンパではない。



こんな具合で、せっかくのお蕎麦の味も堪能できないまま、ものすごく疲れて店を出る。



電車に駆け込もうとして必死の形相で走ってきたのに失敗した人や、自分がそういう人である場合も、同じような気まずい空気が生まれる。

目撃者だったときは、

「私はあなたが電車に乗り損ねたことなんか見ていないし、見ていたとしても全然なんとも思っていませんよ」という雰囲気を出しつつ、関係ない方向を見たりする。

乗り損ねた人だったときは、

「べつに乗り損ねたってわけじゃなくて、運動不足だから走りたかったのよ。全然恥ずかしいとか思ってないしね」という雰囲気を出しつつ、何事もなかったように振舞う。

それでいて、互いにすごく意識しているのだ。



私が思うほど、人は私を見ていやしないし、私が気にするほど、人はなんとも思わないものだ、とは思う。

それでも、広い駅のコンコースをすたすたと歩いていて、見当違いの方向であることや、完全に迷ってしまったことに気づいた時、

向きを変えて引き返すキッカケ作りのために、立ち止まって、用もないのに携帯電話を取り出してみたりする自分が、滑稽を通り越して、気の毒にも思えてくる。

自意識過剰だよ、ええかっこしぃだよ、ともう一人の私がフツフツと笑う。





他人に対しての、無関心と関心の駆け引きとバランスは、いつも私を悩ませる。












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