太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

おべっかさん

2015-09-21 07:33:37 | 人生で出会った人々
小学校の3,4年の頃、仲がよかった友達に、おべっかさんがいる。

「おべっか」が、こびへつらうという意味であることを知ったのは、ずっと後のことで

苗字が「おかべ」だったので、それをひっくり返しただけだった。

おべっかの意味を知ってから、悪いことをしたと反省した。



おべっかさんは、当時人気アイドル歌手の 朝丘めぐみ に瓜ふたつの

とても可愛い子だった。

夏休みは、毎日のようにおべっかさんが誘いに来て自由プールに行った。

ある夏の日、「飲んではいけない」と言われていた赤玉ポートワインを

家が留守なのをいいことに取り出して、少し飲んでみた。

ジュースのように甘くて美味しいそれを、コップ3分の1ぐらい飲んだだろうか。

そこにおべっかさんが迎えに来て、プールに行ったのだが、頭がぐるぐるして

景色もまわっているように見えてきた。


「顔が茹でたタコみたいになってるよ!」


おべっかさんがそう言って、私を家まで送ってくれなかったら、

私は自由プールで酔っ払って浮かぶ、という新聞記事になったやもしれぬ。



私はおべっかさんの家に遊びに行くのが好きだった。


おべっかさんの家は、車のとおりに面した角にあり、

フェンスからは青々とした芝生が見え、お母さんがピアノの教師だったから

よくピアノの音が聞こえてきた。

門の脇にはきんもくせいの木があって、天窓がある玄関はいつも明るかった。

玄関を入って廊下を右に折れると、右手にキッチンがあり、

そのまま進むとお父さんの書斎があって、廊下を左に曲がると居間があった。

直角に曲がった廊下からは庭が見えて、その廊下の突き当たりのドアをあけると、

おべっかさんの部屋があった。


横長の部屋の真ん中を、形の揃った背の高い引き出しで区切って、

引き出しの向こう側は、お兄さんが使っていた。



おべっかさんは、よく引き出しの中を片付けていた。

何段かの引き出しの中は、ブティックのように美しくたたまれた洋服がおさまっており、

おべっかさんは、丁寧に洋服をたたむと、その上に重ねて、

するすると引き出しを閉めて、

「これでよし」

と言うのだった。

私はそれをカーペットの上に正座して、じーっと眺めていた。


お父さんの書斎は、お母さんが留守のときだけ入れる秘密の場所で、

おべっかさんはそこから、ちょっとエッチな本を取り出して見せてくれた。

今思うと、それは外国の漫画家が描いたもので、たいしてエッチでもなかったのだけれど、

ふたりでどきどきしながら見た。




おべっかさんの家は、なにもかも我が家とは違っていた。

核家族で、男きょうだいがいて、お母さんはいつも家にいてのんびりして見えたし、

すべてが洋風で、優雅だった。

我が家は祖父母もいて、父の会社の若い人が食事をしに来ていたから、いつも大所帯で

母は超多忙、ピアノはレッスンの直前に付け焼刃で練習する程度で、

優雅なピアノの音色のかわりに、祖母が好きな大相撲がテレビから流れており、

片づけが苦手な母の遺伝子か、私も気持ちとは裏腹に引き出しの中がすぐに

ごっちゃりとしてしまう。

猫の額ほどの庭にあるきんもくせいの木を眺めて

おべっかさんの家にあるのと同じ木なのに、なにがこう違うんだろうと思った。



私にとって、少女マンガに出てくるようなおべっかさんの暮らしは憧れであった。



高学年になってクラスが変わると、だんだんおべっかさんとは疎遠になった。

二十代前半の頃だろうか、1度だけ街中でばったり出会ったことがある。

私もおべっかさんも母親と一緒だった。

朝丘めぐみにあれだけ似ていたのだから、さぞや朝丘めぐみになっているだろうと思いきや、

大人になったおべっかさんは、浅丘めぐみよりもきれいになっていた。


その数年後、ご両親が相次いで亡くなって、

角にあった洋風の家も、いつか知らない人たちが住んでいた。

おべっかさんは今どこでどんな人生を送っているのだろう。

「これでよし」

と言って、きれいな引き出しを作り続けているだろうか。




私はこんなにいろんなことを覚えているのに、

ただひとつ、おべっかさんが私をどう呼んでいたのかが思い出せないのだ。

私をヒークン、と呼ぶ子もいたし、違う名で呼ぶ子もいた。

おべっかさんの声も、笑顔もありありと思い出すけれど、

私の名を呼ぶときの、その音声だけが消えていて、

大事ななにかを置き忘れてしまったような気がするのである。












にほんブログ村 海外生活ブログ 海外移住へにほんブログ村