太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

父と、施設

2019-06-14 08:01:19 | 日記
去年の5月、実家の父は家の中で転んで大腿骨を骨折した。
総合病院に1ヶ月いて、そのあとリハビリ専門病院に3ヶ月いた。
問題は、リハビリ病院のあとどうするか。
本人は家に帰りたいというし、そうしてあげたいのは山々だが、
車椅子なしでも歩けるようになったものの、父は自分が骨折したことを忘れており、
ついおおげさな動作をすれば、せっかくくっついた骨がはずれてしまうという。
常に誰かが動作を見張っているなど、家では無理だ。
ましてや、母は自分のことで精一杯。
体の動きが鈍くなる病気は少しずつ進んでいて、料理もできなくなった。
父は何度言い聞かせても、母はまだ何でもできると思っている。
そんな父が家に戻ってきたら・・

せっかちな父は、母をしじゅう急かしている。
それも大声で、子供のように。
耳が遠いので、テレビを大音響でみる。
タバコはいくら言ってもやめないので、もう好きなだけ吸えばいい。
ただ、外で吸うように姉が言うのに、父は家の中で吸う。
2階に住む姉のところに、煙は煙突のように上がっていき
姉の喘息がひどくなる。
姉が空気清浄機を買って、父の座るソファの横におけば
それは物置きになっている。
たまに外で吸うと思えば、玄関の戸をしっかり閉めないので
姉が飼っている猫が外に出てしまい、義兄と姉が大騒ぎで探す。
父が骨折で入院する直前までの
こんなサザエさんちみたいな賑やかな光景が繰り返されるのが目に浮かぶ。
(姉には口が裂けてもサザエさんちみたい、だなんて言えないが)

日本の介護システムは、私が知らない間にずいぶん手厚くなった。
総合病院にもケアマネージャーという人達がいて、親身に相談に乗ってくれるのだそうだ。
姉と妹は、「ケアマネさん」と頻繁に相談して、
父をどうするのが1番いいかを検討した。
家に戻せないとなれば、施設を探すしかない。
姉は何箇所も施設を見学して、こじんまりしたグループホームに決めた。

そこは、実家から徒歩で2分という至近距離にあり、
もとは個人の邸宅だった建物に手を入れて、1階と2階に合計15名ほどの人がいる。
1月に日本に行った時、父に会いに行った。
2階の父の個室には陽がさんさんと降り注ぎ、空も庭の木や花も見える。
三食ともオープンキッチンで手作りされた食事が出て、おやつも出る。
広々としたリビングルームで、父は車椅子に座って新聞を読んでいた。

「おねえちゃんもお母さんも来てくれるし、ごはんは美味しいし、
チョンガー(独身という意味)になったみたいで、こういうのもいいナァ」

父は三人兄弟の長男で、歳の離れた弟たちに学費がかかるため、
大学には行かずに働き、数年後に結婚し、母が一緒に住み始めた。
だから家族と離れて暮らしたことが1度もなかったのだった。

リハビリ病院にいた頃は、しきりに家に帰りたがり、
夜、母に電話をかけてきては、迎えに来いと言って困らせていたから
穏やかな父を見て、私は安心した。
母も、少し前までは、父を家に戻してあげたいと言っていたけれど、
昨日電話で話したとき
「ときどき、お父さんのこと忘れちゃってるワ。今が1番いいかもしれない」
と言って笑っていた。

姉が父を施設にいれると聞いたとき、胸が痛んだ。
実際に目の前のことをやらねばならないのは姉であり、
遠く離れて何もできない私には何も言う資格はないが、
厄介払いをするような気がして、心が苦しくなった。
でも、家族と毎日喧嘩して過ごすのと、1日数10分会って、
家族と優しい時間を過ごすのと、どちらがいいだろう。



 
父は、ホームの職員の一人を私だと思っていて、私の名前で呼ぶそうだ。
姉が行くと、「シロはよく働いてるよ」と言うらしい。
でも私が行けば、私がハワイに住んでいることも、夫のこともわかっている。
父の世界では私と毎日会っているのなら、それでよかったと思う。
86になった父は、もう家で暮らすことはないだろう。
毎朝、瞑想するとき、
両親を光で包み、心からの感謝をおくる。
家に戻してあげなくてごめんね、ではなく、
おとうさんが幸せな気持ちで過ごしますように、と祈る。