書初めとか、大きなポスターの文字とか、
じっくり時間をかけて字を書いていると、だんだんその文字が見慣れない物のように思えてくる現象が、ゲシュタルト崩壊。
この「ゲシュタルト崩壊」という言葉を知るまでは、
私はどこかおかしいんじゃないか、と思っていたけど、よくあることらしいので安心した。
社会人になりたての頃、地方のテレビ局で働いていて、
テレビ画面に映る文字や絵を作成したり、手描きするのが仕事だった。
今じゃもう、手描きのフリップなんか使っているところはないんだろうけれど、当時はそういう時代だった。
しっかりとレタリングぽく文字を描くとき、よくゲシュタルト崩壊になった。
たとえば「縁」という漢字を書いているうちに、
漢字のパーツがバラバラになっていって
正しく書けたはずの字を見ても、「こんな字だったっけ?」と確信が持てない。
これが、最近頻繁に起きている。
日本語で、誕生日のメッセージを書くとき、手帳にスケジュールを書き込むとき、手紙を書くときに崩壊は起こる。
優しい、の「優」
御無沙汰の「御」
寂しいの「寂」
書き方がわからないのではなく、書けているのに確信がもてない。
立ち止まって眺めれば眺めるほど、混乱は深まる。
スマホで確認して、それで正しいとわかっても尚、見慣れない感がぬぐえない
。
本を読まない日はなく、ブログだって書いている。
それでも、自分の手で文字を書かなければ、読めるが書けない文字が増える一方だ。
日記をつけてみるのがいいのだろうが、飽きっぽい私にできるはずもなし。
昨日、プライスカードを書いていた同僚が、
「ねえ、これで合ってる?」
と言って、「Glasses」と書いたカードを私に見せた。
「合ってると思うけど、母国語でしょうが」
「いや、そうなんだけど、なんか見慣れないような感じがしてきてさぁ」
英語でも崩壊は起こるものらしい。
当番の「当」の字ですら、じっくり眺めていたら、
なんだか知らない文字のように見えてきてしまう。
どこまで崩壊していくのか、恐ろしい気がしているのである。
なんだか知らない文字のように見えてきてしまう。
どこまで崩壊していくのか、恐ろしい気がしているのである。