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旭日旗に無頓着な東京パラ大会組織委とIPC会長:旭日旗はハーケンクロイツと同じ侵略のシンボルだったのであり公開使用を禁止すべきだ

2019-09-15 08:39:20 | 国旗・国歌

 2020年東京オリパラ競技大会組織委員会は、旭日旗を崇敬している。また、国際パラ委員会(IPC)のパーソンズ会長も旭日旗についての知識が乏しい。

 2019年9月11日、韓国・文化体育観光省が、東京五輪パラで、旭日旗を競技場に持ち込む事などを禁止するよう求める書簡を、IOCに送付したと発表した。書簡で同省は旭日旗を「日本の侵略を受けた韓国や中国、東南アジアなどアジアの国々に苦痛を生じさせる明白な政治的な象徴」と指摘している。それに対し、国際パラ委員会(IPC)のパーソンズ会長は12日、「スポーツと政治を混同するつもりはない。大会とは無関係だ」と述べたという。

 しかし、旭日旗は戦後一貫して、日本国の法律で定められた国旗ではない。その上でその旭日旗はナチスドイツの国旗ハーケンクロイツと同様に、アジア太平洋戦争、第2次世界大戦の時期に、神聖天皇主権大日本帝国とナチスドイツ国それぞれの国が軍事的侵略行動のシンボルとして使用したものである。もちろん、侵略の被害を受けた諸国の国民にとってはその残虐性のゆえに、負の印象を受けるものでしかない。

 ハーケンクロイツは、1920年にナチス党のシンボルとなり、1935年には ヒトラーの下でドイツ国旗とされたものである。しかし敗戦後、ドイツ国はそれを廃止し、黒赤金の三色旗に改めた。以後ドイツはもちろんヨーロッパでは、ハーケンクロイツを公開の場で展示・使用する事は、民衆扇動罪で処罰しており、所持する事も禁止している。ついでながら、国歌についても改めた。

 しかし、日本国では、敗戦後も国旗について法律で定めていないにもかかわらず、自民党政府が、敗戦までと同じ日の丸を、何の反省もせず国旗であるかのように、国民に押し付け、1999年8月には、国旗国歌法を制定し、日の丸を改めて初めて国旗と定めた。しかし、旭日旗についての法律は今日においても存在しない。だから旭日旗については敗戦から今日まで、自民党政府は非合法海上自衛隊などにおいては使用させてきたという事である。

 またそのため、旭日旗について(日の丸についても同じであるが)の姿勢は、かつて神聖天皇主権大日本帝国政府が国民を動員し侵略戦争を起こし残虐な悪行を、したい放題行ったアジア諸国の国民の心を思いやる謝罪の意識を、敗戦後の日本政府、また安倍自公政府はもちろん、比較的多くの国民も有していないという事であり、ドイツ国とはまったく異なる誤った道を歩んできたという事である。だから、2013年のサッカー東アジア杯におけるような事件(日本の応援団が韓国の首都の真ん中で大型旭日旗で応援した)も引き起こしたのである。そして、それに対して、安倍自公政権菅官房長官や下村文科相までが韓国を非難罵倒したために紛糾したのである。

 ついでながら、こんな的外れの気遣いをしていた事があるという事を紹介しておこう。それは、2016年に国土地理院地図記号で、昔から使ってきた寺院を示す「卍」をやめ、別のものに変更する事を検討した事があった。理由は、「卍」記号が外国人にナチスドイツ国の国旗「ハーケンクロイツ」を連想させて、不快な思いをさせないかと心配したのである。しかし、変更に批判が出て、結局、変更は見送られたのである。

 

 

 

  

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大阪市立小学校全校朝礼で愛国の歌姫が「神武天皇の歌」:この校長を処分せず、「君が代」不斉唱不起立の教師は処分する市教委と大阪市長(維新の会)に憲法尊重擁護義務や人権尊重意識は皆無。

2019-07-11 00:41:08 | 国旗・国歌

 2019年7月5日の新聞に、大阪市立泉尾北小学校で、先の5月8日に、小田村直昌校長(元銀行員、2012年に公募で民間人校長となる)が「愛国の歌姫」と呼ばれるシンガー・ソングライターの山口采希(「教育勅語」を「大切な宝物」という歌にし、塚本幼稚園で歌ったり、明治天皇の御製と五箇条の御誓文を組み合わせた楽曲を作成し、神社や自衛隊や、戦艦三笠でもライブ活動)を招き、全校朝礼を実施した。彼女は、敗戦まで唱歌とされた神武天皇」(研究では天皇という称号は使用されておらず、実在しない)や「仁徳天皇」(神武と同じく実在は不明)という歌や、「ああ勇ましく日の丸が行くぞ」などという歌詞内容のオリジナル曲「行くぞ!日の丸!」などを児童に聴かせた(7月3日判明)。唱歌「仁徳天皇」の歌詞は、

「玉の宮居は名のみにて あれにぞあれし 大殿に 

三歳の月日 凌ぎつつ 民のかまど にぎはし給ふ 

その大恩めぐみ 雨降りしきる あしたにも

風ふきすさぶ 夕べにも 大御身の上は 忘られて

民のうえのみ 思ほし給ふ その大御心」

というものである。「民のかまど」は皇民化教育を目的とした、教育勅語児童読本(1940年)や修身教科書の定番教材で、「慈悲心」「お恵み」を賛美し皇国臣民に感謝させ「天皇」に命を賭して奉仕する精神を植えつけるものであったが、山口はこれについての話もした上で歌った

 また、山口のオリジナル曲「行くぞ!日の丸!」を歌う前に話した内容が、学校教育の場では常識として絶対に許されるはずがないのであるが、故意の虚偽(おそらく勉強不足の事実誤認ではなく)を、児童に語っていたのである。それは、「今年は、人種差別をなくそうと日本人が世界に向けて声を上げた1919年の人種差別撤廃条約提案(当時台湾や朝鮮を侵略し過酷な植民地支配をしており、虚偽の説明をしている)から100年で、そんな節目の年に改めて、世界中のみんなが違いを認め合って手を取り合い、たくさんの笑顔が咲き誇る事ができるようにという思いで、おじいちゃんおばあちゃん、ご先祖様が引き継いで来られた優しい気持ちを伝えます」というものである。この言い回しは大東亜共栄圏建設を理想とした敗戦までの学校教育教科書(修身を主とする)表現の焼き直しと考えるべきで、山口の語る内容はまったく当時の神聖天皇主権大日本帝国政府の実態とはまったく異なるもので、侵略を隠蔽し、侵略行為を美化する虚偽である。

 しかし、これに対し、校長は小学校HPで「とてもいいお話」「とても素晴らしいゲストでした」と絶賛している。校長自身も山口の歌の前に、新天皇を「神武天皇」から126代目と説明し、「神武天皇」を実在視した訓話を行った。さらに、校長は山口とツーショットの写真を学校HPで公表しているが、その校長が満面の笑みを見せて両手で持っているものは、山口が記念に贈った、敗戦まで神聖天皇主権大日本帝国政府が使用し臣民に使用させた、初代「天皇」を「神武天皇」としその即位を紀元とし、時を数え表す「皇紀2679年」と大書した色紙である。「皇紀」は敗戦後の日本国憲法下では廃され、使用を認めていないものであるにもかかわらず、学校HPに校長が喜色満面で載せているのである。それは常識では厚顔無恥そのもので非常識の極みである。

 このような校長の姿勢に対し、市民団体「子どもたちに渡すな!あぶない教科書 大阪の会」が6月22日、「国民主権にそぐわない内容。公立学校でこのような集会は不適切で、児童や保護者に謝罪すべきだ」と大阪市教育委員会に抗議をした。

 この点での市教委の問題点は、市民団体から抗議を受けるまで市教委は気づいていない形となっているという事である。また、小学校校長は、教育委員会に報告していない形となっているという事でもある。しかし、真実は市教委も校長も互いに十分な意思疎通を図ったうえで今回の全校朝礼を実施したのであり、それを何の問題もない正当な教育内容であるとしていたのである。なぜなら、校長はこれまでユーチューブなどにおいても自己の思想信条や価値観について堂々とその正当性を主張しており、また、これまでの政策実行の姿勢を見れば、市教委や市長も同類である事が明白であり、知らないという事はあり得ないと考えられるからである。それは憲法に反した極めて独善的で偏向したものである。あり得ないが、もしも互いに知らなかったと言うならば、それはそれで職務怠慢という事を免れない事であり、いずれにしても処分の対象と見なすべきである。

 話を戻しそう。市民団体から抗議を受けた後、市教委は校長からの聞き取り調査をしたうえで、「神話など不確かな内容を取り扱う際は多面的な捉え方をするよう留意すべきだった伝えた」とメディアの取材にコメントした。しかし、これは市教委が、この全校朝礼における、校長の訓話や山口の話しの内容や歌った歌の内容や意味などを、憲法に照らして「真の問題点は何か」という判断をあえて避けており(能力を有していないのではなく)、そして問題処理対応のポイントを外し、「処分」に値する行為であるとも見做していないという事である。教育行政を担い教員処分の権限を有する立場のある者として、主権者市民を代表して子どもたちの人権と子どもたちのために教育内容を保障しなければならないにもかかわらず、その法的認識能力や人権尊重意識に欠けた極めて偏向した価値観に基づく対応をとっていると言って良く、その立場にある者としてその能力資質が相応しくないと言って良い。だから、憲法を尊重する主権者市民としては、子どもたちが今後、彼らにより人権を侵害され不利益を被らないように、直ちに罷免を要求すべきであるし、辞任するよう要求すべきである。

 また、市教委から上記の指導を受けた校長は、「押しつけるようにはやっていない」と答えたという。この点での問題は、全校朝礼の形式で実施したという事が、正に「強制」にあたるという事を自覚できていない(故意に認めないのであるが)事である。また、全校朝礼を始める前には、校長としては当然の事として生徒全員に「君が代」を歌わせ、あわせて「校歌」や「大阪市歌」を歌わせてご満悦なのである。この事はすべての行事において教員に命じて実施させているのである。このような事を「繰り返」えさせる事によって、敗戦までの国民学校教育のように、児童に皇国民としての錬成を行っているのである。基本的人権を保障している日本国憲法の下で。校長は独善的体質を持ち、人権尊重教育や科学的歴史教育やそれに基づく意見主張を、自己の価値観を正当化するのに都合よく歪曲して理解し、自己の価値観に対し反対し否定する意見主張に、常識を逆転させて「偏向」レッテルを貼り犯罪者に陥れるこの悪質な犯罪者的人格は、児童の人権と教育内容を憲法に則って保障すべき校長としての資格をまったく有していないというべきである。このような校長に対して、「処分」を考える気配も見せない任命責任を有する市教委及び市長ともども同類として共犯と見做して「退場」させるべきである。

 さらに問題として安倍自公政権を追求しなければならない事がある。それは校長が市教委に、今回の件について、「文科省が4月に出した『令和への代替わりに際し祝意を表する意義について児童に理解させる事が適当』との通知に則って実施した」と説明したからである。校長や市教委や市長については上記の処置が妥当であるが、安倍自公政権の文科省(文科相)が、このような一片の通知を出して、市教委や校長が教員に命じて、子どもに対して、有無を言わさず(子どもの権利条約にも保障され、日本政府も批准している人権を認めず )従わせたという事であるが、そんな事が許されて良いのだろうかという事である。憲法を尊重する主権者国民は、許されるとはいわないだろう。という事はこの事件が起きた元凶は「安倍自公政権」であるという事である。

(2019年7月11日投稿)

 

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森喜朗発言は憲法違反、傲慢無礼を許すな。背景に「憲法改正草案」実現の環境作り

2016-07-09 23:21:22 | 国旗・国歌

 森発言「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」(国歌独唱時の選手団の様子を振り返って) 

 7月3日、リオ五輪代表選手団の壮行会で、上記の発言を東京五輪・パラ組織委員会会長森喜朗氏が来賓挨拶で述べたという。またそのほかに、「どうしてみんなそろって国歌を歌わないのでしょうか、サッカーの澤穂希さんや、ラグビーの五郎丸歩選手が君が代を歌い、その様子を見て国民が感動した、口をモゴモゴしているだけじゃなくて、声を大きく上げ、表彰台に立ったら、国歌を歌ってください」と述べたともいう。当然、苦情や非難批判が寄せられたのだろう。7日に釈明をした。その内容が「お願いをしたわけで、文句や注文を言ったわけではない」との事だ。

 森氏の発言は選手たちを見下した傲慢さに満ちている。森氏は「国歌」を歌うよう「侮蔑」「威嚇」「威圧」「強制」している。森氏にそんな権限はない。選手たちが憲法で保障されている人権を侵害している。また、釈明では「お願いをした」と言うが、「威嚇」や「強制」「侮蔑」としか受け取れない言葉を使っておいて、人に「お願いした」と言えるのだろうか。またそれ以前の問題として「お願い」できるような事なのか。そして、「文句や注文を言ったわけではない」というが、「文句や注文」そのものではないか。

 この問題は一言でいえば「国旗掲揚・国歌斉唱」問題の一つである。そして、法律では「国旗国歌法」違反、憲法では第11条「基本的人権の享有」、第13条「個人の尊重・幸福追求権」、第18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」、第19条「思想及び良心の自由」、第20条「信教の自由」などを侵害し、第99条「憲法尊重擁護義務」に違反した「憲法違反」の発言である。 

  森氏は釈明によって非難批判の処理ができ、この問題は解決できたと思っているのだろう。しかし、国民は重大発言問題としてとらえこれで終わらせてはならない。発言と釈明に見られる意識が安倍政権自民党には蔓延している事を教えてくれたという事だ。彼がそれを改めて暴露してくれたという事だ。それほど安倍政権自民党は憲法や法律に対して意識的に無視する体質を強く持っているという事だ。人権を軽視無視否定する体質を強く持っているという事だ。国民をひじょうに馬鹿にした体質を持っているという事だ。

 森発言は解決済みにしてはいけない。責任追及を止めてはいけない。森発言の元となった「国家独唱」についても注意を向け疑問を持つべきだろう。それは、なぜ陸上自衛隊によって行われたのかという事、そして中央音楽隊松永美智子陸士長の独唱なのかという事、そして誰がそのように決めたのかという事である。ここには国民にとって恐るべき今日日本の政治情勢が表れているという事である。

 メディアは「発言」や「釈明」の内容については報道しているが、それらについてのコメントを一切していない。ただ本質に触れない些末な発言内容を伝えているだけである。それは、場内アナウンスが「独唱」で、ステージモニターにも「独唱」と表示があったというもので、いわゆる状況説明である。「斉唱」ではなかったから歌わなかったのだ森氏を批判したつもりなのか。「斉唱」で歌わず今回と同じ森発言があったらどう説明するつもりだったのか。おかしな説明だ。メディアは保身のために立場を明確にする事を避けたように思う。スルーしたようだが、国民はこれで済ませてはいけない。国民として大切な事は、森発言は決して突発的偶発的に起きた予想外の出来事ではなく、予定していたものだという認識を持つ事です。どのような政治政策でも何の意図も目的も計算もなく行われる事はないという事です。

 さてそれではどういう意図で発言したのであろうか。この「国旗掲揚・国歌斉唱」問題は、安倍政権下においては前下村文科相が、国立大学に対して実施を強要して大きな問題となったが、現馳文科相も、それを受け継ぎ手を変えてしつこく推し進めようとする意志がひしひしと伝わる動きを見せているのが現状である。そこに起こったのが今回の「森発言」である。森氏はどのような効果を狙って発言したのかという事であるが。

 安倍政権自民党は、敗戦前までの「大日本帝国」(大日本帝国憲法)への回帰を究極の目的としている。そのために敗戦後に、「民主主義」(日本国憲法)の「国家体制」に変身した(安倍政権からすれば変身させられた)日本を今日まであらゆる面においてコツコツと一歩一歩着実に元へ戻してきた。その一つが「国旗掲揚・国歌斉唱」で、日本内外を問わず津々浦々あらゆる場所であらゆる機会に一人の例外も許さず礼儀として浸透させたいのである。森発言はそのための一つの手法として行ったのである。今回は代表選手やそれに関わった人々に対して直接「威嚇」「威圧」「強制」したとともに、この事がメディアなどで見聞した次期代表や国民全体に与える教育効果も計算して行ったのである。 

 それでは彼の発言の源は何か。それは「自民党憲法改正草案」なのである。森は現在すでにそれに込められた精神に基づいて発言しているのである。「草案」の第3条は「国旗及び国歌」で、第2項に「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」としている。一見「強制力」を伴わないように解釈できるが、Q&Aの説明では、「国旗国歌を巡って教育現場で混乱が起きている事を踏まえて置いた」とあり、学校の式典での「掲揚斉唱」に拒否抵抗する教員の処分を正当化する根拠とするという意味であり、また、「我々がいつも『日の丸』と呼んでいる『日章旗』と『君が代』は不変のものであり、具体的に固有名詞で規定しても良いとの意見が大勢を占めた」とあるのは、現在国旗としている『日の丸・君が代』を永久に変更不可能なものと位置づけるという意味であり、「改正草案」第1条の「天皇の元首化」と関係している。また、「国民が尊重すべきである事は当然の事であり、これによって国民に新たな義務が生ずるものとは考えていない」とあるのは、日本国民なら「国旗掲揚・国歌斉唱」するのは義務であり当たり前であるという事を理解しているはずだから、それ以外の新しい義務を強制しない、という意味なのである。それが分からずしないのは「非国民」だという事である。安倍政権は極めて恣意的で強引な解釈を込めている事に注意しておかなければならない。

 この条文を成立させるために、選手団を利用してまず彼ら自身に受け入れさせるとともに、彼らが歌う場面を国民が見る事によって、国民の間にある抵抗感を抑え込み払拭し、受け入れていくような精神的環境を培養するためなのである。国民を精神的に統合するために。敗戦までの「挙国一致」精神を醸成するために。国民精神総動員運動に取り込もうとしているのである。

 ところで、1980年に、米国政府がソ連のアフガニスタン侵略への抵抗・批判の意を込めて、モスクワ五輪参加を中止した。これがきっかけとなり、IOCは1984年大会から、「五輪は個人の競技であり、国家又は地域の間の競技ではない」という五輪本来の精神に立ち返り、憲章から国旗・国歌の文字を消し、各国五輪委員会(NOC)の歌と旗を使用する事にしたが、その精神はどこへ行ってしまったのだろう。2020年の東京五輪は「真逆」である。安倍晋三の招致活動も森喜朗の壮行会発言も、五輪本来の精神に反したものと言える。 

 「国旗・国歌法」には「掲揚・斉唱」を強制する明確な文言はない。また、成立時点の政府答弁では「強制しない、今までと変わる事はない」と説明していた。また現行憲法には「国旗国歌」の規定自体が存在しない。しかし、その政府答弁は効力はなく反故にされ、「掲揚・斉唱」を強制する動きは進んでいる。例えば、大阪府市(維新の党橋下徹)では条例を制定し、斉唱しない教職員に対して法的「強制力」を持つようになり「職務命令違反」として処分の対象としてきたのであり、裁判の判決においても「職務命令」による強制は「合法」とされてきたのである。

 最新の判決では、2016年7月6日、大阪府立高校の元教諭に対して、大阪地裁が、君が代に抵抗を持つ人に起立斉唱させる職務命令は「思想・良心の自由を間接的に制約する面がある。また、式典が妨害されたわけでもない」としたが、「起立斉唱は単なる『儀礼的な所作』で、許される程度の制約だ。公務員としての規律より自らの価値観を優先させた」として「減給が相当」とした。

 また、上記より前の4月18日、東京地裁が、卒業式で君が代斉唱時に起立しなかった事を理由に都立学校が定年後の再雇用を拒否した事に対し、「職務命令より自己の見解を優先させた事が、選考で不利に評価されてもやむを得ない」とした。

(2016年7月9日投稿)

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