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知る事は幸福度を高める

蒋介石国民党支配の50年代台湾

2024-11-30 10:24:08 | 中国・台湾

 蒋介石国民党は1950年以降、地方公職選挙を導入して、台湾人エリートの地方政治への参加を可能とし、中央政治における外省人支配との二重構造とした。青年層対策では1952年10月、蒋介石の長子蒋経国中国青年反共救国団を設立し、青少年に軍事訓練や娯楽を提供するとともに、これを組織化、政治的教化をし、反政府化を予防した。

 1950年代には、外省人知識人らによる雑誌『自由中国』が、国民党公認の反共自由主義から国民党の独裁を批判する傾向を強め、1959~60年には蒋介石の憲法改正、総統三選の動きを社説で批判、また、「中国民主党」結成を図った。

 この動きに対し、1960年9月、国民党は同誌編集長を逮捕・投獄し、同誌を廃刊とし、少数のリベラル知識人による民主化運動を圧殺した。

 この結果、中国大陸で共産党との内戦に敗退した国民党は、台湾での体制改革基盤強化に成功し、権威主義支配を再建した。

 これを可能にした背景には、神聖天皇主権大日本帝国政府が1905年から45年の敗戦まで植民地として支配するために作り上げた、すべての土地・住民を把握する体制がすでに存在していた事があり、国民党はこれを基盤として強固な支配を確立したのである。

(2022年11月25日投稿)

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国民党政権が台湾で生き延びられた外的要因と米政府の中国・日本戦略

2024-11-30 10:19:56 | 中国・台湾

 中国大陸における国共(国民党と共産党)内戦で共産党軍に敗退し台湾へ後退移転した蒋介石国民党政権がその後生き延びる事ができた外的要因は、朝鮮戦争の勃発(1950年6月25日)東西冷戦の激化であった。

 蒋介石国民党政権中華民国では、1946年7月以降、国民党と毛沢東共産党の内戦が全面化した。1948年から49年には、国民党軍は相次いで共産党軍に敗退し、危機的状況となった。そのため蒋介石は台湾を国民党政権の最後の根拠地と定め、国民党中央軍及び党、政関係者の大陸からの撤退と台湾での権力基盤強化に力を注いだ。1949年12月7日には大陸で敗れた中華民国政府は正式に台湾台北へ移転し、政府とともに大陸から兵士、公務員、教員など100万人近い人々が当時人口700万人ほどであった台湾へ逃れてきた。

 米国政府の動きは、1949年8月国務省『中国白書』を発表し、国民党政権の腐敗や無能を嘲笑した。また、1950年1月5日にはトルーマン大統領台湾海峡不介入の声明を発表し、蒋介石国民党を見放した感があった。

 そして、その間の1949年10月以降、共産党軍が台湾解放作戦敢行の準備をすすめ、国民党政権の命運は極まった状況があったが、この状況を転換させた要因が、1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発と冷戦の激化であった。

 1950年6月27日、トルーマン米国大統領米国第7艦隊を台湾海峡へ派遣し、共産党軍の台湾攻撃を抑止し、また、国民党政権と軍への援助を再開したのである。そのため、共産党軍は台湾解放作戦を取りやめ、軍を東北や朝鮮へ向かわせる事になったのである。

 そして、米国政府は台湾(蒋介石中華民国政府)が国際連合の中国代表権常任理事国の地位を維持する事を支持するとともに、吉田茂日本政府に対しては、毛沢東中華人民共和国政府(1949年10月1日建国)ではなく、蒋介石政府平和条約を締結するよう圧力をかけ、吉田茂首相は1952年4月28日日華平和条約を締結した。

 この結果、蒋介石台湾中華民国政府は日本政府との関係を正常化できたが、戦争賠償権を放棄させられている。

 上記のように、蒋介石台湾中華民国国民党政権は冷戦の展開米国政府の支持により、その後しばらくの間、存続を維持する事が可能となったのである。

 一方、米国政府反共産主義政策として中華人民共和国政府封じ込める上で台湾の軍事的地政的価値を重視し利用するために、1950年から67年の間に、総額約24億ドルの巨額な軍事援助を行った。1951年以後には、軍事顧問を派遣し、最盛期の1955年には2347人の顧問を各部隊に配属し指導した。

(2022年9月9日投稿)

 

 

 

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いわゆる「台湾出兵」は台湾占領と琉球処分強行の領土拡張(侵略)政策

2024-11-30 10:18:37 | 中国・台湾

 神聖天皇主権大日本帝国政府(当時実権は大久保利通が掌握)による、教科書的に表現すれば1874年5月の「台湾出兵」の目的は、大日本帝国政府が国境を画定するための軍事行動である。「台湾」全体を「占領」し、大日本帝国政府の領土とするためであり、併せて「琉球王国」の清国との両属関係を断ち切り、大日本帝国政府の完全な領土とする「琉球処分強行」ためであった。しかし、「台湾占領」は、清国の抗議や、英国の反対にあいこの時点で達成できず、1895年、日清戦争後の下関条約でついに清国に割譲させた。

 【経過】

○1871年、廃藩置県実施、薩摩藩は鹿児島県となり、琉球王国は鹿児島県の管轄

○1871年10月、琉球王国への上納を終え、宮古島へ帰る役人たち約70名が那覇港を出港。途中暴風にあい台湾東南岸牡丹社へ漂着し、54名が台湾の先住民族(パイワン族)に略奪殺害された。原因不明。

○生き残った者12人は清国の役人により1872年正月、福建省福州へ送られ、6月には琉球王国へ送還された。琉球王国の漂着民が台湾の先住民族に襲われる例は、1790年、1810年にも見られ、この事件と同様に生存者は琉球へ送還されている。

○1872年7月、琉球王国政府から鹿児島県庁へ報告。大山綱良鹿児島県参事は、「台湾先住民を討つべし」と大日本帝国政府へ報告。

○1872年9月、琉球藩設置。外交権接収、清国への朝貢禁止、琉球国王を藩王とし華族に列す。

 ➀琉球藩の事務は鹿児島県を離れ、琉球王国が締結した外国との諸条約も含めて外務省の管轄に移す(琉球の外交権停止

 ➁大日本帝国海軍が琉球列島を測量。

 ③久米島・宮古島・石垣島・西表島・与那国島に「日の丸」を立てる。

 清国は認めず琉球王国も抵抗。琉球王国の帰属争いは継続。国際問題化。

井上馨大蔵大輔の「琉球国」に関する建議……正院あてに提出

「〈百度維新〉を迎えた今、琉球の『あいまいな位置』を一掃し、『皇国の規模御拡張の御措置』をとるべ   き事を主張し、その方法として、武力による制圧は避け、琉球の『酋長』にその『不臣の責』を問い、これまでの歴史や『順逆の大義』を説いて、版籍を収めさせ、『内地一執の制度』を施行する、というもの。」

○1873年、大日本帝国政府は「台湾占領計画」を立て、宮古島島民の「台湾遭難事件」の責任の所在を求めて清国と交渉。清国は、台湾全島は清国の領土であるが、先住民族は中国の教えが及ばない「化外の民」である、と述べ責任を回避。

○1874年2月6日、大日本帝国政府は「台湾占領」と「琉球処分強行」の前提をつくるため、「台湾の先住民族地域は清国の領土ではない。主権者のいない地域である。大日本帝国政府の属民が殺害された仕返しをするのは政府の義務である」という事を根拠に台湾出兵を決定。

米英スペインなどの諸外国は大日本帝国政府の台湾への侵略戦争を警戒し、苦情申し出と局外中立を宣言。米国を当てにしていた大久保利通は計画中止を命令したが、西郷従道司令官は命令を拒否して出兵を強行。三菱汽船会社が軍事輸送を担当。

○1874年5月、西郷従道軍約3600名(鹿児島県士族300人を含む)は長崎を出発し、台湾南部に上陸し、パイワン族の住む牡丹社及び南部に住む先住民族を攻撃。戦闘は1カ月足らずで終了(その後も占領し続け撤兵は74年12月)。戦死者12名。マラリアなどで561名が病死。

※1874年5月、琉球藩を内務省の直轄地とし、井上の建議のような皇権拡張方針一貫して強行。琉清関係の廃絶と天皇のもとの中央集権国家機構の枠内に琉球を包含する「藩治職制」を強制。

○大日本帝国政府の「台湾占領」の目的は、清国の抗議、英国の反対にあい挫折。

○1874年10月、英国公使の仲介。清国は宮古島遭難民に対し10万両、大日本帝国陸軍が台湾で建設した道路や家屋の買収費として40万両、計50万両(約67万円)を支払う事で決着。大日本帝国政府は台湾を清国領土であることを認め、清国は琉球藩を日本領土である事を認める形となった。しかし、同年、琉球藩は清国になお進貢使を派遣。

○1875年5月、大日本帝国政府は内務官僚松田道之を琉球藩に派遣し、清国への進貢や冊封の廃止、藩王の上京鎮台分営の設置などを命じたが抵抗。琉球は米英清各国公使に救済を訴える。

○1876年、大日本帝国政府は琉球藩の裁判権・警察権を接収。

○1877年4月、琉球藩は受諾拒否し、王族の幸地朝常をリーダーに久米村の人間も集め、密使として清国福建省福州琉球館へ遣わした。清国は大日本帝国政府へ正式に抗議。清国公使から寺島宗則外務卿へ「隣国どうしの交際のならいに背き、弱小の国を欺くなど決してあってはならない」と。

○1879年4月4日、大日本帝国政府は再び松田道之を、警官160名、熊本鎮台から300余名の軍隊とともに派遣し、首里城武力で占領。琉球藩を廃し沖縄県を設置琉球処分)。450年間の琉球王国滅亡。藩王尚泰の上京、邸宅及び公債20万円給与、侯爵授与(1885年)、首里玉陵に埋葬。

○琉球王国滅亡の知らせは清国福州にも伝えられた。琉球館に派遣されていた琉球密使(脱清人)は北京や天津へ嘆願を直訴。幸地朝常は天津で李鴻章に嘆願。しかし、李鴻章は欧米列強と対抗するうえで、日本との関係を重視したため認めず。

※神聖天皇主権大日本帝国政府は、欧米的な近代国際法の論理台湾の先住民族を侵略し、琉球処分を強行した。その論理は、国境を明確にする事にあり、国境が明確でない土地は先に手を付けた国の領土(無住地先占)であるというもの。琉球各地に「日の丸」を掲揚した事や、神聖天皇主権大日本帝国政府が侵略した台湾の先住民族の族長たちに服属の証として「日の丸」を配布した事に見られる。

(2023年12月6日投稿)

 

 

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台湾嘉義農林学校卒業生・呉連義の人生を、神聖天皇主権大日本帝国政府と戦後自民党日本政府がいかに蹂躙翻弄したか

2024-11-30 09:56:14 | 中国・台湾

 神聖天皇主権大日本帝国政府のアジア侵略政策戦後の日本国政府の政策対応がいかに人権を蹂躙し人生を翻弄したものであったかを、台湾の嘉義農林学校出身の呉連義の人生を通して、知り、現行憲法前文に定めている「政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こる事のないようにする決意」を現安倍自公政権下においてこそ、より固くするために、大切な事実であると考え紹介したい。

 彼の存在については、1991年6月に、日本のテレビ取材班がベトナム北部ニンビン省の彼の家を取材する事により公けに知られる事となった。

 呉連義は、日清戦争の結果、中国が日本に割譲し日本の植民地となっていた台湾で、1924年に生まれ、育った。

 その後、国策会社・台湾拓殖に勤め、戦時中「綿作戦士」としてベトナムに赴任した。農民に綿花や黄麻を栽培させる仕事である。戦争末期には現地で日本軍に徴用され、軍需米の監視などに当たった。

 

 ベトナムに赴任した時は「新井良雄」という名前を使わされた。ベトミン時代は「カウ」と呼ばれた。その後はベトナム風に「ゴ・リエン・ギア」と名乗った。「自分が何国人だか分からなくなる時があった」と語っていた。

 1944年、台湾拓殖の社員として台湾を出航した。米軍の潜水艦に追われ、船は予定を変えてシンガポールに着いた。そこから陸路でハノイに向かった。着いたのは出航から2カ月が過ぎた5月5日、21歳の誕生日だった。

 「新井良雄」という日本名を名乗らされる事になり、北部タインホア省農業試験場で地元の農民に綿花や黄麻などを栽培させた。

 仏印(仏領インドシナ、ベトナムなど)処理の後は台湾拓殖の子会社のクロム工場で日本人職員の警護に当たった。その後、日本軍に徴用され、商社の事務所で砂糖取引を装いながら、南部からくる軍需米の輸送船の監視などに当たった。平服に短銃を忍ばせ、赤いボタンが任務の目印だった。民間人でありながら情報班として日本軍の一線で働いた。 

 日本軍が進駐していた仏印には、台湾から多くの若者が日本人として渡った。日本の外務省資料によると、1945年10月にベトナムで引き揚げのために集まった人は4029人で、うち1400人が台湾と朝鮮出身者だった。

 ベトナムは45年春から夏にかけて、ひどい飢餓に見舞われた。呉によると、やせ衰えて道端に横たわる人々は、下痢で地面を黄色く染め、ハエで真っ黒になって息絶えていった。死んだ母親のしなびた乳首をくわえた赤ん坊が、息のあるまま母と一緒に穴に投げ捨てられたという。そして、日本軍は飢えた人を助けるどころか、軍需米をため込んでいたという。そして、「私もその手先だったのが恥ずかしい」と語っていた。 

 敗戦農業試験場で知った。引き揚げの準備のため集まるよう、クロム工場にも伝える事になった。呉が日本人の主任を載せて行くはずだった。しかし、異動してきたばかりの台湾出身の同僚が最後の機会なので工場を見たいというので交代した。出かけた二人は帰らなかった。工場からの帰りにベトミンに襲われ、二人とも殺されたという。

 ベトナム北部には、日本軍の武装解除のため、中国国民党軍が進駐した。日本軍に協力した台湾出身者の中には処刑される者もいた。北部タインホア省の農業試験場で働いていた呉は、中国国民党軍を恐れて逃げ回った。

  日本敗戦後、ハノイに集まった人たちは、台湾出身者は食べるのにも苦労し、台湾同郷会を作って助け合った。ハノイにいた台湾出身者たちの名簿「台湾同郷会・会員名冊」によれば、1946年3月には、20代の青年ばかり約300人が名を連ねる。

 引き揚げの機会を失った呉は、その後、知り合いの雑貨屋のおやじに出合った。事情を聴いたおやじは、ベトミンで働かないかと呉を誘った。おやじはベトミンの一員だった。呉はハノイから約100㌔南のニンビン省で、ベトミン軍に軍事教練や柔道を教える事になった。呉は共産党系のベトミンに関わった事が、その後半世紀もベトナム北部にとどまるきっかけとなった。

 ベトナムでは1945年9月、ベトミンを率いるホー・チ・ミンが独立を宣言していた。しかし、1946年になると、植民地支配の復活を狙うフランス軍が、国民党軍と入れ替わって北部にも上陸してきた。ベトミンは抗仏戦争を展開した。

 呉は1946年、ベトミンから共産党のニンビン省委員会に移った。当時、党は解散宣言をしていたが、組織は残っていたようだ。その委員会に1948年、新しい書記が着任した。呉は党員ではなかったが、書記は太い声で、呉の事を同志と呼んだ。書記の名前はド・ムオイ。後の共産党書記長である。

 1954年春、ベトナム北部のニンビン省で暮らしていた呉に、引き揚げのために集まれとの連絡が役所からあった。抗仏戦争が大詰めの頃で、ベトミンの支配地域に残る日本人が帰国できるよう、日越両国の民間団体が話し合って実現した引き揚げだった。

 呉はこの3年前に、マラリアで身体を壊して、共産党の省委員会を辞めた。その後、ベトナム人と結婚し、野菜を作ったりして暮らしていた。

 引き揚げる前に、政治学習を受けさせられた。中国国境に近い集合場所に行くと、90人余りがいて、5人が台湾出身者だった。日本の国内情勢や日米安保条約の意味など、ベトナムの共産勢力による学習は半年間続いた。11月、いよいよ引き上げる事になった。ところが、出発の間際になって、台湾出身とわかると、日本人だけが対象だと拒否された。引き揚げのための靴や工員服を支給されて、歓声を上げる日本人を、5人の台湾出身者は呆然と眺めていた。

 引き揚げの通知は59年にもあった。しかし、また台湾出身者は拒否された。南北ベトナムは1976年、正式に統一した。

 引き揚げの機会を失っていた呉は、農村の生活に溶け込むより仕方がなかった。北ベトナムでは55年から土地改革が始まり、農業集団化が進められた。呉も合作社(集団農場)に所属する事になった。配給は月に一人モミ6㌔。山に入って荒れ地の開拓もした。その時は800㌘の米で半月間食いつないだ。飯盒に、拾い集めたイモとタピオカを詰め、その上に米粒をそっと撒いて炊いた。

 ドイモイ(刷新)政策が始まってからは自分の収入のために働けるようになった。ベトナムの農村ではごく当たり前の自転車で物を運んで収入を得る生活を続けた。竹の棒で補強した古い自転車に、モミ袋を5つ積む。重さは130㌔にもなる。それを一日かけて指示された場所に運ぶ。5、6千ドンにしかならない。それでも仕事が欲しい。呉は倉庫の前で夜を明かして、荷を待った。

 

 1991年6月、荷物運びの仕事を終えて、呉が汗まみれで帰宅すると、人だかりができていた。日本のテレビ取材班が、ベトナム北部ニンビン省の呉の家を取材に訪れた。呉には連絡が届いておらず、突然の事だった。

 日本人に会ったのは30年ぶりだった。言葉をすっかり忘れていた。地面に絵を描いて、「なべ」「かま」と一言ずつ思い出した。取材されて、閉じ込めていた望郷の思いが、一気に噴き出した。これがきっかけで、呉はハノイの日本人大使館を何度も訪れた。それまでは、日本のスパイと疑われるのではないかと、怖くて行けなかった。

 日本大使館で呉は訴えた。「日本のために働いたんだから、日本政府が責任を持って帰してほしい」日本には割り切れない思いがあった。しかし、日本国籍がないのだから、何もできない」大使館ではそう言われた。

 1993年夏、細川首相日本の戦争責任を認める発言をした事を、日本から送られてきた新聞で知った。変化があるのではないかと期待したが、大使館の返事は同じだった。「日本政府は昔も今も、口先だけだ」と呉は怒る 

 上記の、引き揚げのために集まった、外務省資料にある1400人の台湾や朝鮮の出身者について、大日本帝国政府は敗戦により日本人として扱う事をやめ、引き揚げの対象から外した。そのため、自力で帰国を試みたり、あるいは各地へ散り、消息が分からない人も多い。

 1992年、台湾はハノイに事実上の大使館である台北経済文化事務所を開いた。呉は1993年末に初めてその存在を知り訪ねた。事務所は呉の台湾の戸籍を確認し、台湾の旅券を発給した。名前は呉義連である。

 1994年5月、呉は、大日本帝国の植民地時代には「新高山」と呼ばれた台湾の最高峰「玉山」の登山口にある嘉義市に半世紀ぶりに戻った。台北空港には、親類や知人が出迎えた。呉は、花輪を差し出した姉の呉彩鳳に抱きついて声を上げて泣いた。両親の墓参りをし、市役所で身分証明書を作った。出身学校の嘉義農林で、呉連義の存在を確認する卒業証書を再発行してもらった。

 日本語教育を受けた呉は台湾語ができない。姉や同級生とは日本語で話せるが、甥や姪には通じないので通訳を要した。呉は、台湾に3ヶ月間滞在して迷い続けた。懐かしい故郷で暮らしたい。しかし、言葉や年齢を考えると無理なように思えた。妻子もいるし余生も短い。そして、結局、7月、ベトナムのニンビン省の自宅に戻った。

(2018年11月19日投稿)

 

 

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中国の木版印刷術

2024-03-25 11:05:34 | 中国・台湾

 朝日新聞「日曜に想う」が、中国で発明された「木版印刷」や朱子学の創始者「朱熹」について触れていた。

 中国の歴史では、(960~1127)の時代にその後の世界の社会文化の発展に大きな影響を与える「3大発明」(木版印刷術、火薬の製造法、羅針盤後漢蔡倫が発明したを含めて4大発明とも)が行われた。木版印刷技術唐代に始まり、宋代以後普及した。唐代には主に仏典・暦本・字書などが印刷された。経書(儒教)五代になって出版された。仏典ではの建国者太祖大蔵経(一切経ともいう。経〈釈迦の教え〉・律〈生活規範〉・論〈経の解釈〉からなる「三蔵」の経典とその注釈書・史書などの仏教聖典を集大成した叢書)を成都で刊行させ文化の普及を促す事となった。この印刷術はマルコ・ポーロによりイタリアへ伝えられ、さらにヨーロッパへ広まった。ちなみに、現存するアジア最古の印刷物は日本の奈良法隆寺に伝わり称徳天皇に由来する「百万塔陀羅尼経」であるといわれる。

 火薬の製造法については、北宋仁宗(位1022~63)の頃、硝石・硫黄・木炭を混合した黒色火薬が発明された。火薬が兵器として初めて実戦に使用されたのは唐末10世紀の始めで、宋代になると火薬が次第に発達し、色々な火器が作られた(『武経総要』1044年)。12世紀中頃、南京近くの采石の戦い(1161)で南宋軍がこれを初めて、南下する金軍(第4代海陵王、位1149~61)に対し使用した。モンゴル軍は鎌倉時代の日本で「てつほう」を使用した事が『蒙古襲来絵詞』(元寇1274、1281)に描かれている。ヨーロッパには13世紀頃、イスラム諸国に出征した十字軍により伝えられた。

 羅針盤は、北宋の末11世紀から12世紀にかけて航海に利用(朱彧『萍洲可談』)されるようになり、アラビア商船(イスラム商人)にも使用されヨーロッパに伝えられた。

 最後に、北宋時代より、「纏足」の風習が始まるが、朱熹は「男女の距離」を教える手段として南福建に普及させる事に熱心であった事を付け加えておこう。

(2024年3月25日投稿)

 

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