今年も、沖縄(人)にとって4月28日「屈辱の日」を迎えた。メディアにおいては、「沖縄」に関する特集を組み伝えている。朝日新聞では、「復帰50年」を大タイトルとして様々な記事を掲載している。その中には『沖縄「アメリカ世」の27年』という記事があり、昭和天皇自身と日本国政府が、沖縄人の意志や願いを受け止めず無視して、アメリカ合衆国政府軍による占領支配を乞い願い、軍事基地として長期間使用してもらうために提供した、沖縄(人)が置かれた生活の様子を伝えている。しかし、その内容は朝日新聞の方針に沿って伝えているため、その方針に沿わない内容は伝えていない。
ここでは、取り上げられていないが、これこそ重要で知るべき内容であると考えるその一部を紹介したい。
〇1903年、神聖天皇主権大日本帝国政府内務省は、第5回内国勧業博覧会(大阪市天王寺)入口で沖縄人女性(他にアイヌ人、台湾人、マレー人、ジャワ人、インド人、朝鮮人なども)を民族服姿で見世物として陳列した「学術人類館事件」が起こった。沖縄県民らが抗議行動を起こしたので中止した。植民地主義の支配者意識を背景にした企画であった。
〇戦前戦後、沖縄県からは多くの出稼ぎ(ソテツ地獄と呼ぶ窮乏などが原因)が、特に大阪府や神奈川県へやってきた。その大阪市内の「求人貼り紙」には「職工募集 ただし朝鮮人、琉球人お断り」と書かれているのが一般的であった。
〇本土では「琉球」という言葉は差別語、侮蔑語として使われていた。
〇戦前、船長などの資格取得試験では面接試験で落とされていた。そのため、本土人の養子となって取得していた。
〇本土では、貸間貸家も「琉球人お断り」で拒否され、多くがバラック住まい。居住差別。
〇就職差別で、鉄くず回収、豚の飼育を仕事とする人もいた。
〇就職できた勤務先の社内アルバムで、顔写真とともに本籍を「沖縄県」と記載されるのが嫌で、本籍を移した人もいる。
〇沖縄出身のインテリ層の人々は、「本土に同化しないと差別の対象になる」ため、自己主張を避ける傾向にあった。
〇戦前戦後、政府は、沖縄人の音楽や芸能を蔑視抑圧したため、沖縄人は本土人の前では「隠すべき」ものとする考え方をもった。
〇沖縄県は戦前、支払い能力以上の課税をされ、政府から半植民地的な扱いを受けた。本土の類似の県よりも高い国税納付額を負担させられた。
〇神聖天皇主権大日本帝国政府の国策であった海外移民の数では、外務省の1899~1937年累計で第1位の広島県に次ぎ、第2位が沖縄県であった。また、ハワイでは本土からの移民による差別が特に激しかった。
〇神聖天皇主権大日本帝国政府の創氏改名政策は朝鮮人台湾人だけの問題ではなく、沖縄人(アイヌ人も)に対しても行った。政府は徴兵制や皇民化教育などの政策などにより沖縄独自の方言や宗教や文化伝統を否定抑圧し標準語の徹底と本土人への同化を強制した。姓に関しても本土人風に読み変えるべき姓として84種の姓が発表され、沖縄人は、本土人による就職・結婚・居住などあらゆる面での差別に耐え生き抜くため、「本土人(日本人)以上に本土人(日本人)らしく」なるために姓の読み変えをせざるを得なかった。例えば「安里」という姓は、沖縄では「あさと」と読んだが、本土では「やすざと」と読み変えた。「金城」は沖縄では「かなぐしく」「きんじょう」と読むが、本土では「かねしろ」と。「平良」は沖縄では「ひらら」と読むが、本土では「たいら」と読み変えた。全く別の姓に変えた家もあった。
〇神聖天皇主権大日本帝国政府は、天皇に対する崇敬心を起こさせるために、沖縄古来の民間信仰を国家神道に組み込んだ。琉球8社の中心であった波之上宮を官幣小社とし、県当局は「国家安全、忠君愛国の士気を養う印」として天照皇大神宮の大麻を県民に頒布する許可を与えた。一方、古来の御嶽や拝所は村社として整理統合し、拝殿や鳥居を建立した。
〇1945年12月17日、改正衆議院議員選挙法が成立したが、日本政府は、本土の朝鮮人・台湾人の選挙権を停止したのと同じように、沖縄人の選挙権も停止した。そのため、日本政府は、1946年の第90帝国議会で現行憲法を審議したが、沖縄県選出の議員はいなかったのであり、平和主義、基本的人権の尊重、国民主権を原則とする現行憲法は、沖縄人を除外した形で成立した。そして、沖縄人は日本への復帰が実現するまで憲法の適用を除外された。
(2022年4月30日投稿)