韓国併合条約に関して、1910(明治43)年8月30日付の東京日日新聞が「韓国併合所感 後藤男爵談」の小見出しで以下のような記事を掲載したが、当時、第2次桂太郎内閣の逓信大臣であり、今日の評価では、「生涯通じて露骨な大陸侵略を鼓吹した」とされている後藤新平がどのように感じていたのかを紹介しよう。東京日日新聞は1881年に福地源一郎が社長となってから完全な御用新聞となり、政府系新聞として終始した。
「韓国は愈々大日本国に合併せられ、同国一千万の蒼生(人民)は挙て我が王化の下に服するに至りたるが、此の一事は一面甚だ気の毒にして韓民の心中察するに余りあれども、韓国は遠き昔既に完全なる独立国の実質を失い、其国民は世界の国際舞台に馳駆して対等の待遇を受け得ざるの境遇にありたるのみならず、人民の多くは其の存する生命、財産をすら時に其の危険を防止し得ざる如きに憫然なる状態に在りたるものなるに、今次の合併に因り彼等は遂に世界最近史上最も栄誉ある大日本国の臣民に化し、その生命財産が永遠安全に確保せらるるを得るのみならず世界一等国の臣民たる幸福と名誉に浴するに至れるものなれば、日韓問題の解決はひとり我国の為め之を慶すべきのみならず、余は韓民一千万の前途及び其の子孫の幸福の為に之を祝賀せずんばあらざるなり、然るに昨今の情勢を見るに本邦が前後二千年間努力と丹精を凝らしたる結果、今次終に之を併有するの已むなきに至りたる事情と真精神とは未だ全く韓民の総てに徹底せず今回の併合を以て或は自国の滅亡と観じ、或は日本の併呑と誤解し、間々本邦に対して敵愾心を挟み居る者なきに非ざるの一事は聊か遺憾とせざる能わず、即ち今回の事たる大詔及び当局の声明にもある如く東洋永遠の和平と日韓特殊の関係を願い両国併合を行うの最大利益なるを認め両国民無窮の幸福の為めに之を決行するに至りたる次第にして、云わば弱気を扶け強きを挫く大和民族特有の狭心義気の発現したるものに外ならず、故に其の精神は本邦国民の指導啓発の下に韓民族永遠の幸福を希う誠意赤心に出でたるものにして、何等併呑又は占領の意に出でたるにあらざるは炳として火を睹るが如し、この一事は実に俯仰天地に愧じざる事実にして環視列国の亦等しく諒とする所ならんも、此の機に臨んで本邦の対韓国真精神を重ねて叙述するは必ずしも無用の業にあらざらんか、然れども茲に一言を禁じ能わざるは彼等をして〇〇本邦の真精神を誤解せしむる根本原因奈何に在り、余は今其の答弁を試むべく極めて不適当なる地位に在りと雖も、若し忌憚なく卑見を言わしめば、本邦国民の韓民に対する愛隣の熱度未だ十分ならざるものあるに因らざるか、語に曰く、至誠天を動かすと業に点を動かす、豈に又た人を動かし得ざるの理あらんや、吾れ若し溢るるが如き愛情と熱誠とを以て彼れに臨むあらば、彼れ如何んぞ我が赤誠を感激せざるの理あらんや、故に将来の治韓策は唯だ一の熱誠あるのみ、兄たり先輩たるの天分に顧み誠意赤心を以て誘掖、指導是れ努むるに在るのみ、夫の漫りに強者たり優者たるの地位を濫用して彼等の感情を損じ其の立場に安んぜしめざるが如きは余の断じて取ざる所なり、若し夫れ具体的の施設、方法に至りては当局既に成竹(計画)あり、局外者たる余の贅〇を容るるの余地なけん」
(2023年3月12日投稿)