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安倍「戦後70年談話」のあいまいさは歴史修正主義そのもの、人権を保障するための「未来への知恵・教訓」は得られない

2025-03-31 11:16:35 | 安倍政治

 2015年8月14日夜、安倍首相戦後70年談話が発表された。記者会見の冒頭発言や談話の冒頭部分、談話読み上げ後の発言で、何度も強調した言葉に「歴史(の教訓)から未来への知恵を学ばなければならない」とあるが、談話の言葉からは「教訓」も「知恵」も学べない。なぜなら、「学ぶ」という事は、物事を判断しそれに対して何らかの態度を示したり行動をするための糧情報とする事ができなければならないからだ。最初の部分では、明治維新から敗戦までの歴史であるが、いくつかの誰もが割とよく知っている歴史用語が使用されているが、故意に韓国(朝鮮や大韓帝国)や中国(清や中華民国)などアジアの国々との歴史を抜き落としているし、また歴史用語は並べただけなので、具体的に何が問題であったのかが理解できないし、なぜ「力の行使」によって解決する事になったのか、なぜ「国内のシステムはその歯止めたりえなかったのか」を明確にしなければ、未来を誤らないための「教訓」も「知恵」も学びようがない。読み方によっては欧米諸国が日本を戦争へ向かわせたようにも解釈できるし、必然的に侵略戦争ではないという解釈もでき得る。教科書のダイジェスト版にもならないし、誤った歴史認識を広めてしまう。教科書の文章の方がまだマシである。しかし、それが安自公倍政権の狙いであると考えられる事を押さえておかなければならない。

 この談話を出す意味は、時の首相が政府を代表して、現在は安倍首相が政府を代表して、時の日本政府がとった政策に対する認識を、国民に対して、世界に対して表明するという事のはずであるがそのような文章になっていない。今回は明治維新からの内容にしているが、日本政府のアジアへの侵略が「やむを得ないもの」と理解してもらうためなのか、西欧列強も「同じ事をしているではないか」と言いたいためなのか。また、「アジアで最初の立憲政治を打ち立てて独立を守り抜きました」とあるが、「アジアで最初」という事を誇りたいためか。それよりも、神聖天皇主権大日本帝国政府ドイツ風憲法を制定するために、「自由民権運動」を警察軍隊という政府がもつ権力よる弾圧で潰滅粉砕したという経過が存在した事を明確にしなければならない。

 また、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた」というのは、「日露戦争に勝利した」と言いたいのと「アジアやアフリカの人々のために良い事をした」と言いたいのであろうか。しかし、それは歴史の真実を捻じ曲げた誤った認識である。日露戦争中には韓国の意思を無視して軍事的威圧のもとに韓国侵略「韓国併合」への準備を着々と進めていく。また、第1次世界大戦中には中国侵略「21カ条の要求」を突きつけていく。

韓国併合への道

 1904年2月8日に仁川・旅順のロシア艦隊を奇襲攻撃、10日に宣戦布告後の23日、韓国の「中立声明」を無視し、「日韓議定書」を押し付けた。第1条には「……東洋平和を確立するため、大韓帝国政府は大日本帝国政府を確信し施設の改善に関しその忠告を容れる事」とあり、国際法上からは「忠告」は「命令」と同じで、これによって韓国は事実上日本に従属する事になった。つまり、韓国が自主権の一部を放棄し、重要な国務に対し干渉する権利を日本に認めるとともに、国防を全面的に日本に依存する事とした。調印の際、韓国の強硬に反対する大臣は辞任させて調印した。同年5月の「対韓施設綱領」では、 ➀防備を全うする事、②外政を監督する事、③財政を監督する事、④交通機関を掌握する事、⑤通信機関を掌握する事、⑥拓殖を図る事、の6項目を打ち出した。この綱領は併合までに実現させた。同年8月には第1次日韓協約を結ばせ、「韓国は日本政府推薦の財政・外交顧問を任用する事。重要な外交案件は事前に日本政府と協議する事、とした。

 05年9月のポーツマス講和条約に先立ち、日本は韓国の植民地化に米英の同意を得るため、米国とは同年7月に桂・タフト協定を結び、米国が日本の韓国における支配権を認めるかわりに、日本は米国のフィリピンへの支配権を認める事を、英国とは同年8月に第2次日英同盟協約で、日本は英国のインド支配の安全を助ける義務を負うかわりに、英国は日本が韓国を保護する事を認める事を確認した。日本は日露戦争をきっかけに、米英の「極東の憲兵」になる事により、韓国の植民地化を実行した。同年11月には伊藤博文が韓国皇帝高宗に「この保護条約の原案は我が方で練りにねったものであるから……御承認のない時は現在よりもっと悪い状態になるであろう」と脅し、ソウル市内には日本軍が駐留し、駐留軍司令官を伴って閣議に出席し、大臣一人一人に締結の賛否を聞くという状況の下で第2次日韓協約(保護条約)を結ばせ(総理大臣大蔵大臣は「絶対に否なり」とこたえ、外務大臣は黙秘したが承諾とされ、ほかの4大臣はしぶしぶ同意した)、韓国の対外関係は日本の外務省が処理(外交権の接収)、ソウルに統監府を設置し初代統監には伊藤博文が就いた。

 保護条約締結後、反対した総理大臣は職を追われ、抗議自殺をする廷臣も出た。

1907年、韓国皇帝高宗は、オランダ・ハーグで開催されていた第2回万国平和会議秘密使節を送り、日本の非道を訴えたが失敗。伊藤は保護条約違反として高宗を退位させ、純宗をたて、第3次日韓協約を結ばせ、内政権を接収韓国軍隊を解散した。09年7月には日本政府は韓国を廃滅する方針を閣議決定。10年8月、日本の全憲兵・警察の厳戒の中で、第3代統監寺内正毅と韓国総理李完用との間で韓国併合条約締結。韓国を朝鮮と改称。朝鮮総督府を置き、寺内正毅が初代総督。総督は天皇に直属し、朝鮮での軍隊をも統率し、立法・司法・行政の一切の権力を握った。この権力で日本政府は朝鮮人民を支配し、すべての権利を奪い、植民地とし、その後のアジア大陸侵略の拠点とした。条約の前文には「相互の幸福を増進し、東洋の平和を永久に確保せん事を欲し……」とあり、第1条には、「韓国皇帝は……譲与す」。第2条には「……譲与を受諾す」とあり、韓国皇帝からの要望であるような表現であるが、これは日本政府の強要である事を隠蔽するものである。併合について日本国内では8月29日、官報で国民に発表。諸新聞は一斉に併合を祝した。東京市内は軒並みに日の丸が掲げられ、祝杯をあげた人々が記念の花電車に喜々として乗り込む姿があちこちで見られた。

21カ条の要求

 第1次世界大戦の勃発は大日本帝国政府にとって「大正新時代の天佑」といわれた。元老井上馨は、大隈重信首相に手紙で「今回欧州の大戦争は、日本の国運を発展させる大正の新時代の天佑なので、日本国は直ちに挙国一致の団結によって、この天の助けを利用しなければならない」と伝えた。1914年8月7日、英国は日本に対して、東シナ海で英国商船を攻撃するドイツ武装商船の捜索撃破を要請。大日本帝国政府閣議を開き、加藤高明外相が「日本は日英同盟の義務によって参戦せねばならぬ立場にはない(東亜及びインドにおける領土権又は特殊権益が直接侵害されない限り、日本は参戦の義務を負うものではなかった)。ただ一つは英国からの依頼に基づく同盟の情誼と、一つは大日本帝国がこの機会にドイツの根拠地を東洋から一掃して、国際上に一段と地位を高める利益と、この二点から参戦するのが良策」と説明し全面参戦決定。欧米列強の隙を衝いて、中国を大日本帝国政府の独占的な支配下に置く事が目的。英国は依頼を取り消したが大日本帝国政府は受け入れず、23日ドイツに宣戦布告

 中国は「中立宣言」をしていた。開戦と同時に神聖天皇主権大日本帝国政府は、満蒙問題の一挙解決と、中国本土における利権獲得の準備に着手。同年1月18日、21カ条の要求袁世凱大総統に突き付けた。第1号要求では「偏に極東における全局の平和を維持し且両国の間に存する友好善隣の関係を益々強固にする事を希望し」とある。大日本帝国政府は外国の干渉を恐れて秘密保持一括交渉を要求したが公然化。大日本帝国政府の軍事力での威圧に対して袁世凱主権侵害の条項(第5号要求は交渉に応じられないと抵抗したため、大日本帝国政府は5月7日、第5号要求を保留としてその他の受諾を要求する最後通牒を突き付けた(回答期限9日午後6時)。大日本帝国政府は海軍艦隊を増派してアモイ、ウースン、タークーに終結させ、山東半島や南満州には陸軍部隊を増派して回答を待った。5月9日、袁政府はやむなく受諾、同月25日、諸条約・交換公文に調印。中国人民は5月7日と9日を「国恥記念日」とし抗議運動を展開。

 ※第5号要求

「中国政府の政府・財政・軍事顧問として日本人を置く事、……中国警察を日華合弁にするか、日本人顧問をおく事、中国軍隊の一定量の兵器を日本から輸入するか、日華合弁兵器廠からの供給を仰ぐ事、など中国全体にわたる諸要求……」

 そのほかにも台湾出兵(侵略)日清戦争による台湾の割譲江華島事件に始まる朝鮮への侵略など多くの東アジア諸国に対する侵略行為が行われた事についての言及がないというのは、その事については大日本帝国政府は「正当な事」と解釈しているという事なのであろうか。「談話」は安倍首相の歴史認識を示しているという事であろう。つまり歴史修正主義という考えの持ち主で、狙いはこれまでの歴史的事実を自分に都合良く解釈しなおしてつなぎ合わせ、日本国民の歴史認識を又歴史教科書を作り変えてしまおうとしているという事なのだろう。安倍氏のお友達の「つくる会」系の育鵬社出版の教科書が今年大阪市でも採択されたが、さらに全国的に普及させるために採択増加運動をしているようだ。この採択ルールには非常に不信感を抱いているがここでは触れない。

 「歴史から学ぶ」という事は、誰が(誰と)いつどこで誰と(誰に対して、誰から)何をどのようにした(された)のかという点について真実を知り、そこから知り得た事実を、現在を生きより良い未来を築くための「教訓」「知恵」として生かす事なのである。

 安倍首相のいう「歴史から学ぶ」の意味がこの談話の内容かと思うとやはり、首相の地位に立つ資格はないと言わざるを得ない。また、国民に向かって物申す資格もないと言わざるを得ない。早く退陣してもらいたい。国民や世界の人々は、戦争によって人生を家族を生活を社会を歪められ壊され苦難を強いられてきた、「もっと解決救済が急がれる切実で具体的な事実」に対し、政権の認識を明確に表明する事を望んでいた。発表に至るまでに国民はもちろん世界の人々の気持ちを振り回してきたのだから。

 満州事変は1931年9月18日、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖付近で、関東軍板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐らが立案・実行)が満鉄の線路を爆破し、中国軍の仕業であるとして軍事行動を起こした事に始まる。(1932年1月8日、昭和天皇は関東軍の軍事行動を讃える勅語を発表)。第2次若槻内閣不拡大方針を声明したが、関東軍は戦線を拡大。次の犬養内閣は、中国との直接交渉を目指し、軍部の独走や欧米との摩擦を最小限に抑えようとしたが、32年3月1日には軍部は「満州国」建国を宣言。承認を渋っていた犬養首相は海軍将校右翼グループによるテロにより32年5月15日射殺された(5・15事件)。その時のメディアはすべて関東軍の行動を称賛した。そして、犬養射殺から1ヶ月後、衆議院満場一致満州国承認を可決した。32年2月、中国の訴えを受けていた国際連盟の「リットン調査団」が来日したが、報告書が出る前の32年9月には「日満議定書」を交わし、大日本帝国政府は満州国を承認。33年5月31日には関東軍代表と中国国民政府軍代表とが「塘沽停戦協定」を締結し、中国に満州侵略の既成事実を認めさせ、満州国を中国本土から事実上分離、34年3月1日には清国最後の皇帝であった溥儀皇帝とする満州帝国を成立させた。

 ※関東州の租借権、南満州鉄道(長春~旅順)とそれに付属する権利は、日露戦後のポーツマス条約で、清国(中国)政府の承認が必要とされていたが、日本政府は清国の抵抗を押し切り「満州に関する日清条約」(北京条約)を締結し強奪した。

 ※昭和天皇の関東軍の軍事行動を讃える勅語

「先に満州において事変の勃発するや自衛の必要上関東軍の将兵は果断神速寡よく衆を制し速やかにこれを芟討、爾来艱苦をしのぎ祁寒に堪え各地に蜂起せる匪賊を掃蕩しよく警備の任をまっとうし或は嫩江チチハル地方に或は遼西錦州地方に氷雪を衝き勇戦力闘以てその禍根を抜きて皇軍の威武を中外に宣揚せり深くその忠烈を嘉す、汝将兵ますます堅忍自重以て東洋平和の基礎を確立しが信倚に応えん事を期せよ」(関東軍よ、よくやった、即刻の判断に基づいてためらう事もなく敵をやっつけて、わが皇軍の強さを世界中に見せつけたのも喜ばしい事だ)

 ※メディアの関東軍に対する称賛 『東京日日新聞1931年10月27日』

「満州・蒙古(モンゴル)における日本の特殊権益は“日本民族の血と汗の結晶”」と擁護・宣伝し、戦争熱を煽り、軍事行動を支持した。」

 ※リットン報告書(1932年10月1日に日中両国に通達された。)

「日本軍の武力行使は自衛のためでなく侵略行為であり、不戦条約に違反し、中国の主権を侵している。満州国が住民の自発的な運動によるものとは認められない。日本軍が賊と称している者も、大部分が祖国防衛のための行動である」と認定。「単なる現状回復ではなく日中間に新しい条約を締結させ、満州における日本の本来の権益を確保させる事や、満州には中国の主権の範囲内で広範な自治を認める自治政府をつくり、その政府に日本人を含む外国人顧問を任命する方向で解決を図るべきだ」と報告。

 ※日本の国際連盟脱退

「連盟は1932年11月21日から報告書の審議に入り解決策の試案を作成したが、その審議中に関東軍は満州国の領土をさらに拡大するために熱河省に侵略した。33年2月の臨時総会で、日本の満州国承認の撤回や日本軍の満鉄付属地内への撤兵などの勧告案を42対1の賛成多数で採択した(反対は日本、タイは棄権)。日本全権松岡洋祐はこれを拒否し、会場から退場。1933年3月27日に連盟脱退を通告(1935年5月発効)。同日、天皇は脱退に関する詔書を発布した。36年のワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約失効で、日本の国際的孤立は決定的となった。」

 安倍首相談話の中段の部分では、その主語が「我が国は」、「私たちは」となっているが、先にも述べたが、首相談話としてはおかしいし、間違っている。彼は無理矢理に国民を自分と同じ立場に抱き込むために故意に使用していると考えられるが、不愉快である。我々は、国民と安倍政権とは別の物である事を明確にしておかなければならない。侵略戦争は神聖天皇主権大日本帝国政府が加害者として行った事であり、国民は被害者でありながら加害者にされてしまったのである。政府(政権)と国民の責任の程度と内容は異なる。彼の論法は敗戦処理内閣である東久邇宮内閣の「一億総ざんげ」論法をとっている。国民はその論法を認める事はできない。

 米国、豪州、欧州諸国に対し、「支援」と「善意」と「寛容」という言葉を何度も使用しているが、これは、意図的に「へりくだり」、上記の国々人々を持ち上げていい気分にさせる話法であるが、狙いは、言いたい事も言いにくくさせる効果を狙ったものであり、国内外の批判を封じ、彼と同じ立場へ抱き込む論法である。これは偽善者、詐欺師常套手段である。そして、その国々へのお返しとして、「積極的平和主義」なる考えで行動することなのだと自己の政策をアピールしているのである。しかし、中国・韓国に対しては暗に批判し孤立させて、日本に歩み寄らせようとするとともに、安倍政権に批判的な日本国民の政権批判を弱めさせる効果を狙っているのである。捕虜問題の和解と植民地支配の和解とはまったく異なったものであるにもかかわらず同じように扱おうとしており、加害者としてとるべき誠意ある対応を放擲している。

しかし、自由も平等も人権も民主主義も保障されていないうえに、何もできていない(原爆被害補償、空襲被害補償、従軍慰安婦問題、核兵器廃絶など)のに、また、まったく矛盾した事をしている(国旗国歌の強制、靖国神社への参拝、米国の核の傘の抑止力、原発再稼働、安保法制改訂、集団的自衛権行使、教育基本法改訂、教科書検定基準改訂、憲法改訂など)のに、耳触りのよい言葉でアピールするのは、狡猾な偽善者、欺瞞的で非情な人間の手法である。それも国民を自分勝手に仲間に抱き込んだ表現で。

 自分自身の「お詫び」「侵略」「反省」の言葉がないのは、冒頭の植民地支配についての認識にうかがえる「他の国もやっていたのに日本だけが悪いのか」という歴史修正主義の認識であるから、必要ないと考え意図的に使用しないのだと思う。戦後生まれの者は謝罪をする必要がないと若者にアピールしているけれど、若者に謝罪の意識を持たれると軍事行動である「集団的自衛権」は行使できないからである。しかし、戦後を生きる日本人は多かれ少なかれ、戦中に得た富の分配を受け継承にあずかっているのです。逆にアジアの国々は日本の侵略戦争によって多くの富を失い順調に発展できなかったのです。敗戦後、日本は損害賠償を放棄してもらったから。

 国内の戦後補償軍人軍属(戦犯も含む)には手厚い(ご褒美の意味である)が、それ以外の国民には受忍論を押し付けている。戦争に反対した平和を主張した人々、その事によって命を奪われた人々にはまったく目もくれません。名誉回復も行われていません。この事は安倍政権のアジア太平洋戦争に対する認識を示している。戦争を侵略と認めず正当化(聖戦、自衛戦)しているという事である。また、政府として国民には補償はもちろん謝罪さえしていない。国民は天皇に対する当然の奉公であるから。

沖縄米軍(米国)の支配下に譲り渡した事、現在も辺野古新基地建設問題については、どこで歴史認識を明らかにするのか。

 最後に、日本国憲法という言葉がまったく出てこないですね。これも安倍政権が成立をめざす「自民党憲法改正草案」とはまったく別物ですから、当然です。出す気はさらさらなかったという事です。

安倍政権は政権を担当する資格はない。世界をリードする資格もない。

(2015年8月15日投稿)

 

 

 

 

 

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興福寺五重塔修理記事:メディアは興福寺僧が国家神道政策に無抵抗だった頽廃的過去を教訓として伝えるべき

2025-03-28 19:05:13 | 世界遺産

 2020年2月20日の朝日新聞が、世界遺産である奈良・興福寺(730年に光明皇后の発願で建立され、現在の五重塔は室町時代1426年の再建)が21年度から、約120年ぶり(1901年に屋根の吹き替え工事)に国宝の五重塔(高さ約55㍍の京都東寺に次ぐ2番目の高さ)の大規模修理を行う事を報道した。

 この記事の書き方を見て残念に思った事がある。それは、五重塔の修理は、明治維新に神聖天皇主権大日本帝国政府国家神道政策に基づいて宗教統制をするために発した神仏分離令(廃仏毀釈運動)をきっかけに興福寺の僧たちの頽廃的風潮が起こした五重塔売却という危機状況が現実化しなかったからこそ可能となったのだという事実を、国民に伝え国民が今後の教訓にできるうな内容にする事こそ、記事とする意味がある事を知るべきだという事である。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、古代律令国家(神道神権政治)回帰する事を目指し、神道を国教とする祭政一致の政治の整備を進めた。そして、神祇官が、それまで神仏習合状態にあった宗教のあり方に対し、1868年3月神仏分離(廃仏毀釈運動)を命じた。その際、興福寺の僧たちは春日大社の神職にさせられ(実態は自ら進んでなった)興福寺は廃寺同然となった。この時に五重塔は入札をもって払い下げられ、25円で落札(評価の基準は単に金具にあった)されたのである。

 買主商人で、解体するのに大変な手数と費用が必要である事が分かり、金目の金具だけ剥ぎ取ろうとした。しかし、作業の人夫への手当も大変だとわかり、ついに焼いてしまった後金具を拾う事にした。しかし、近隣の民家から類焼の恐れがあると抗議されたため、結局買う事を止めたのである。

 『明治維新・神仏分離史料』には「奈良における神仏分離、ひいては廃仏毀釈は、興福寺において、最も激烈を極めたりき」とある。

その際の興福寺別当(長官)格の大乗院・一乗院両院家の対応について『奈良市史』には「されば排仏の事決せらるるや驚愕甚だしく、四月十三日(1868年)両院家先ず復飾(還俗)を願い出ると、一山衆徒も之に倣って復飾を願い……」との状態であった。

 上記両院に次ぐ権別当(副長官、喜多院)復飾の願いに遊民同様の僧侶、過分の高禄を世襲の事、恐縮……」と自認していた。

 1869年6月24日には、髪を蓄え、俗服を着た元僧侶たちは神職となるために、興福寺東室に集まり、神道を学ぶため国学(『古事記』)の講義を受けた。

 このように興福寺の僧たちは一斉に還俗し、寺を捨てたため、寺(五重塔)も仏像も宝物も政府によって売りに出されたのである。

 また、『明治維新・神仏分離史料』による当時の興福寺には「本寺本山既にあれども無きが如く、法音聞こえず、香烟絶え、強慾無慚の輩は、重宝什器を偸みて、私腹を肥やすに汲々たる有様にて、中に之を監督すべき官吏にして、権威をほしいまま、名画名器を私するもの少なからず、某々知事の如き其のもっとも甚だしかりしものと称せらるる」という状態も見られた。

1872年9月には、一山の土塀・諸門などがことごとく破壊された。

1882年政府は、廃仏毀釈を止め、古社寺を保存するため「古社寺保存金制度」を実施した。1889年には、広大な興福寺跡に奈良県立公園が設立された。

1909年には、大乗院庭園跡の丘陵上に奈良ホテルが建てられた。

 神聖天皇主権大日本帝国政府が推進した文明開化政策は、実利主義に立った。その社会改造は破壊的であった。歴史的伝統的なものを排斥して、古い物と見なせば、深くその価値を考えず破壊した。美術も建築も破壊又は骨董屋に並び、風俗、習慣、嗜好さえも文明開化の名の下に政治権力で強引に変えさせた。

消滅寸前にそれを免れ今日に残るものの例を挙げると、彦根城、姫路白鷺城、吉野山の桜、鎌倉大仏、名古屋城、能楽などがある。

メディアは、ある事を記事にする場合、何を目的とすべきかを熟考すべきである。

(2020年2月23日投稿)

 

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ポピュリズムで議席を伸ばす政党とそれに操られる国民

2025-03-27 23:10:07 | 日本人

 ポピュリズムとは、「大衆迎合主義」の政治といわれ、「大衆の人気に基づいた(大衆の機嫌を取る)政治」という意味である。すでに敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国政府において、「それ」は行われていた。日露戦争後の「日比谷焼き打ち事件」(1905年9月)に始まり、日米アジア太平洋戦争戦争(1941年開始)へ進めて行った政治が「それ」であった。

 「ポピュリズム」とは、「普通の人々」と「エリート」、「善玉と悪玉」、「味方」と「」の二元論を前提に、リーダーが「普通の人々」の一員である事を強調すると同時に、「普通の人々」の側に立ち、彼らをリードし、「敵」に向って闘いを挑む「ヒーロー」の役割を演じる、「劇場型」政治スタイルである(大嶽秀夫『日本型ポピュリズム』)という。

 又、大衆に甘い期待を抱かせ、かつ長期的展望を無視して、短期的な利益提供を撒き散らす政治(大嶽秀夫『小泉純一郎 ポピュリズムの研究』)ともいう。

 様々な選挙において、少しでも多くの議席政権を獲得するために、公共事業の誘致や様々な補助金給付金の新設や増額、減税には熱心に人気取りに取り組む一方で、国民に嫌われないように支持されにくい「増税」や「将来の国全体のあり方」などについては、公約政策ではごまかしたり提示しようとしない「政権」「政治家」や「政党」の政治姿勢を意味している。例えば、自由民主党はこれまでを見ればもちろんそうであるが、国民民主党日本維新の会などもそうである。そこには、国全体の将来のあるべき姿に関しての「責任感」は毛頭うかがえない。だから、国民は憲法で主権者であると定められている事を改めて自覚し、国全体に責任を持つ政治を行うべき主権者として、ポピュリズムに惑わされない「賢明さ」をそなえ、無責任なポピュリズムを払拭する政治体制をつくる事を目標とすべきである。

(2025年3月3日投稿)

 

 

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憲法全面改正に手段選ばず見解も翻す歴史歪曲も。その③現憲法成立と天皇の暗躍

2025-03-26 23:40:05 | 憲法

  「大日本帝国憲法」の改正手続きにより第90回帝国議会で審議された「日本国憲法原案」は、1946年10月29日、内容は一部修正されて吉田茂内閣の下で成立した。その一部修正とは「芦田(均)修正」とも呼ばれたもので、「戦争放棄」を定めた第9条第2項に「前項の目的を達するため」という字句を追加した事をさす。(他の追加には第25条「生存権」もある。)この表現はのちに、「前項の目的(国際紛争の解決)」以外(自衛)のための戦力保持は憲法違反ではないという論拠となる。

 吉田茂は日本国憲法についてどのように考えていたのか。岸信介は『岸信介の回想』で述べているが、吉田茂は「俺も今の憲法は気に食わないけれど、あれを呑むよりほかなかったのだから、君らはそれを研究して改正しなきゃいかん」と述べたと。この言葉から、吉田茂は改憲論者であったという事がわかる。

 天皇は日本国憲法をどのように思っていたのであろうか。1975年の外国人記者団との会見では「(日本人の)戦前と戦後の(価値観は)変化があるとは思っていません」「第1条ですね。あの条文は日本の国体の精神にあった(合った?)事でありますから、そういう法律的にやかましい事をいうよりも、私はいいと思っています」「今話したように、国体というものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によって万世一系を保っていたのであります。その原因というものは、皇室もまた国民を赤子と考えられて、非常に国民を大事にされた。その代々の天皇の思召しというものが、今日をなしたと私は信じています」「(戦前と戦後の役割を比較して)精神的には何らの変化もなかったと思っています」と述べている。つまり、天皇は戦前と戦後の価値観に変化はなく連続したものとして認識しており、第1条の意味は、「国民」は「無責任」の「象徴」である「天皇」を「象徴」として「統合」されているという事を意味しているという事になる。

 1945年12月17日に公布された「改正衆議院議員選挙法」について、天皇や支配層(米国もか?)の意識を知るうえで重要な点を付け加えておこう。女性参政権が付与された事はよく知られているが、植民地支配を受けていた朝鮮人、台湾人の選挙権及び被選挙権が停止されたのである。1925年の普通選挙実施以降この改正まで、日本内地に在住する外国人は、国政・地方のレベルを問わず参政権を有していた。ハングル投票も可能であったのだが。この「選挙法」に見える方針は、米国との共同作業であった憲法制定の段階でも日本側は押し通した。GHQ憲法草案には「外国人は法の平等な保護を受ける」という条文が存在したがそれを削除したのである。日本国憲法第14条には現在「法の下の平等」がうたわれているが、そこから意図的に削除したのである。この件は憲法施行の1947年5月3日の前日(5月2日)に天皇の最後の勅令として「外国人登録令」を出す事により、明確に憲法の権利保障の対象から除外するのである。「日本国籍」を有しているが「外国人」であると見なしたのである。さらに、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効により、国籍選択の自由も認めず日本国籍をはく奪し、「外国人登録法」により、「指紋押捺」と「外国人登録証明書」の常時携帯を義務付けた。それ以降日本政府(自民党)の主導により日本社会は「国籍条項」に基づいて外国人に対する差別を正当化する。

 また、米軍の占領軍政下にあった「沖縄県」も「改正選挙法」の施行について日本政府は「例外扱い」とした。そのため、日本国憲法を審議した1946年の国会には沖縄県選出の議員はおらず、日本国憲法は沖縄県民を除外して成立したのである。そして、「日米安全保障条約」締結にあたっても同様に扱ったのである。

 また、「安全保障条約」締結については、締結にいたる裏側で「天皇」の暗躍があった。1947年5月3日に「日本国憲法」が施行された4か月後の1947年9月(天皇の暗躍は憲法違反であるにもかかわらず)、宮内庁御用掛の寺崎英成氏をマッカーサーの政治顧問シーボルトの下へ訪問させ、沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えさせたそれは、

「天皇は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望している。そのような占領は、米国に役立ち、また、日本に保護を与える事になる。天皇は、そのような措置は、ロシア社会主義)の脅威ばかりでなく、占領終結後に、右翼および左翼勢力が増大して、ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような事件を起こす事をも恐れている日本国民の間で広く賛同を得るだろう(憲法第9条により軍隊をもたないため、実は天皇制を護持しようとする天皇自身の強い希望)と思っている。さらに、沖縄(及び必要とされる他の島々)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借(25年ないし50年あるいはそれ以上)という擬制に基づくべきであると考えている。この占領方法は、米国が琉球諸島に対して永続的野心を持たない事を日本国民に納得させ、またこれにより他の諸国、特にソ連と中国が同様な権利を要求するのを阻止するだろう。手続きについては、「軍事基地権」の取得は、連合国の対日平和条約(サンフランシスコ講和条約にあたる)の一部をなすよりも、むしろ、米国と日本の2国間条約(日米安全保障条約に結実)によるべきである。前者の方法は、押し付けられた講和という感じがあまりにも強すぎて、将来、日本国民の同情的な理解を危うくする可能性がある」というものであった。

(2016年2月11日投稿)

※昭和天皇は戦後の日米両政府の望むべき姿について自ら構想し働きかけ、利害の一致した米国政府とともに、「天皇制護持(象徴天皇制)と軍隊放棄(憲法第9条)」と「日米安全保障条約締結」と「沖縄を犠牲にした米軍事基地化」を実現していったのである。昭和天皇は優しく親しみ安く善人そうな見かけとは異なり、本質は恐るべき冷酷非情で狡猾無比の策士「人非人」であった。現天皇も推して知るべしである。天皇家とはそういう人間の集団なのである。民主主義を大切にする国民はこのような「憲法に規定されない」特殊な価値観を持つ存在をこのままにして置かず、普通の人間の生活ができるようにすべきである。この事によって国民の思考や判断も「思考停止」状態に陥る事無く、すっきりとした科学的論理的なものとなり、曖昧模糊とした日本社会の価値観の混乱も解消されるはずである。

(2016年2月11日投稿)

 

 

 

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ソ連への和平仲介の依頼工作:近衛文麿特使携行の和平条件要綱に沖縄県民の意志を無視し切り捨て

2025-03-26 23:13:49 | 沖縄

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、敗戦前から和平条件として沖縄県を日本領土から切り捨てる方針を決定していた。それは沖縄県を戦争終結の交渉材料としていたという事である。結果的には目的を達成できなかったが。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、沖縄戦の敗北が明確となり、またドイツが無条件降伏(5月8日)すると、重臣グループの木戸、岡田、東郷、米内は当時の鈴木貫太郎首相を動かし、5月11日から14日にかけて停戦問題を議題とし最高戦争指導会議(首相・外相・陸相・海相・参謀総長・軍令部総長)を開かせた。阿南陸相と梅津参謀総長は本土決戦論をとなえ、米内海相と東郷外相らは和平促進を主張。とりあえず、「ソ仲介対米英和平」を元外相広田弘毅を介して駐日ソヴィエト大使と打診交渉を行う事を決定した。しかし、失敗した。

 しかし、6月8日、木戸はソヴィエトの仲介による和平交渉をあきらめず、具体化するための試案を起草し、6月18日の最高戦争指導会議に提案し、三つの方針を決議させた。それは、①日ソ中立条約の延長(ソ連は4月8日にすでに不延長通告)、②ソヴィエトの好意的中立の取り付け、③ソヴィエトに戦争終結の斡旋を依頼する、である。

 6月22日には最高戦争指導会議で昭和天皇が対ソ工作を指示した。

 7月10日には最高戦争指導会議で近衛元首相を天皇の特使としてソ連派遣を決定した。

 7月12日、天皇が近衛を特使に下命し、東郷外相はモスクワの佐藤尚武大使に対して、無条件降伏方式の緩和によって戦争終結が可能となる事を示唆した申し入れをモロトフソ連外相に行う事と近衛が天皇親書を持ち訪ソする事のソ連側の了解を求めるよう訓電した。

 この近衛特使派遣の際携行する予定で作成されたものが「和平条件の要綱」であった。この作成には近衛と酒井中将が練り上げ直接天皇の御璽をいただくというものであったという。内容は、一、方針には、聖慮を奉戴し、なし得る限り速やかに戦争を終結し、以ってわが国民は勿論世界人類全般を、迅速に戦禍より救出し、御仁慈の精神を内外に徹底せしむる事に全力を傾倒す、とある。また、二、条件としては、まず、国体の護持は絶対にして一歩も譲らざる事とし、国土については、止むを得ざれば固有の領土を以って満足すとし、固有領土の解釈については、沖縄、小笠原、樺太を捨て千島は南半部を保有する程度とする事、として沖縄県を捨て、と明記していた」(『近衛文麿』近衛文麿伝記編纂所)。

 この事はつまり、神聖天皇主権大日本帝国政府は、「固有の領土(本土)」の安全や利益を守る事だけを重要事とし、そのためには必要とあればいつでも沖縄県を切り離して(トカゲの尻尾切り)、政治経済上利用できる材料として沖縄県を扱い犠牲とする事を厭わなかったという事である。日本本土に対しての外部からの脅威や圧力の緩衝地帯として位置づけられていたという事であり、沖縄県民は本土の日本人とは平等待遇ではなくそれ以下の差別的待遇を受けていた事を示している。そして、その位置づけは敗戦後の昭和天皇の意志と吉田茂日本政府が日米安全保障条約を締結し米国政府の施政権下に置くという選択によって、その後も継続したのである。

 さて話をもどして、モスクワの佐藤大使は訓電の内容を7月13日にソ連側に申し入れた。しかし、モロトフ外相はドイツのベルリンへ出発する(ポツダム会談7月17日~8月2日出席)ために多忙という理由で応じなかった。

 そして、7月18日、ソ連側から佐藤大使に、「近衛が何をしに来るのか分からないので回答できない」という返事が伝えられた。

 これに対し、7月25日、佐藤大使が、「近衛の使命は戦争終結のためソ連政府の尽力斡旋を同政府に依頼する事にある」と改めて申し入れたが、その申し入れの交渉が停滞した。そして、

 7月26日、ポツダム宣言が発せられたのである。

(2016年6月3日投稿)

 

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