沖縄戦(1945年3月26日米軍慶良間諸島上陸に始まる)は、「本土決戦」を準備するための時間稼ぎとして位置付けられた戦いであり、住民を巻き込んだ出血持久戦術をとった、いわゆる「捨て石」作戦であった。
その「本土決戦」の準備の主眼は、大本営を長野県松代へ移転する事を意味していた。
沖縄戦は1945年6月22日(23日とも)に司令官牛島中将と長勇参謀長が自決し、日本軍の組織的な戦闘は終結したが、その時期の松代大本営工事(1944年11月~45年8月)の進捗状況と、司令官牛島満中将と陸軍中枢との間の情報のやりとりからその事がわかる。
松代では、6月中旬には陸軍中枢の要人の訪問が続く。6月10日には田中静壱・東部軍司令官、同月16日には阿南惟幾・陸軍大臣などで、彼らは松代大本営が使用可能である事を確認し概ね満足している。阿南陸相は、同行した平林盛人・長野師管区司令官に、「平林君、この大本営や御座所を使用なさる事なく終われば結構だが、その時は、私どもはかく迄準備しましたと一度陛下の行幸をお願いする事ですね」(平林盛人『わが回顧録』)と語っている。
そしてその後の6月21日、阿南惟幾・陸軍大臣と梅津美治郎・参謀総長が連名で、沖縄守備軍牛島満司令官に決別電報を送っている。「貴軍の忠誠により、本土決戦の準備は完了した」と。
昭和天皇が大本営を松代へ移転する事をどのように考えていたについては、木戸幸一内大臣の日記(7月31日)によれば、「先日、内大臣の話した伊勢大神宮の事は誠に重大な事と思い、種々考えて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移しして御守りするのが一番よいと思う。しかしこれを何時御移しするかは人心に与える影響をも考え、余程慎重を要すると思う。自分の考えでは、度々御移しするのも如何かと思う故、信州の方へ御移しする事の心組で考えてはどうかと思う。此辺、宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰いたい。万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思う。……」(木戸日記研究会『木戸幸一日記』下巻 東京大学出版会)との記録がある。
ちなみに、松代大本営建設工事の労働者の主力は朝鮮人で、国内のダムなどの工事現場で働いていた人々で、不足を補うためには植民地朝鮮から「強制動員」した。
また、朝鮮人労働者相手の「労務慰安所」として、松代町内の児沢聡氏宅を接収し、20歳前後の朝鮮人女性4名を「慰安婦」として働かせていた。児沢氏は、「警察が来て、娯楽室を貸してくれって。はじめは朝鮮人の娯楽場を作るって言ったが、次の日に詳しく聞いたら、朝鮮人の労務者が入ってくるから、付近の婦女子にいたずらをすると困るから、慰安婦を連れてきて料理屋兼ねた娯楽所にするから貸してほしいと言った。それ聞いたらなお嫌になって、貸すのやだって言ったら、児沢さん、こんなにお願いしても、国策に協力できないかって言われたから仕方なく貸した。あの当時、国策に協力できねって事は、国賊だった」との証言を残している。
もし、1945年11月以降(米軍によるオリンピック作戦…南九州上陸)、本土決戦が実際に行われていたら、沖縄戦が日本全土に拡大し再現する事になっていたであろう。
(2020年6月23日投稿)