安倍首相の真珠湾訪問演説は安倍政権と米国オバマ大統領による日米両政府による今後の世界戦略の意味を、特に日本国民に対してアピールする事を目的としたものである。両者による世界の覇権と経済の主導権を掌握する事の意味と正当性をアピールするものである。
太平洋戦争の戦端となったのは日本政府による米国ハワイ準州オアフ島真珠湾(これより先に英領マレー半島コタバル)への「奇襲攻撃(上陸)」であるが、この奇襲攻撃(上陸)は当時の日本国民にとっても「寝耳に水」の事であり、突然の「奇襲行為」であったが、今回の安倍首相らによる真珠湾訪問演説も「日本国民にとっては奇襲攻撃」であった。この2度の決定は、国会において議論や決定や承認されたものではなく、国民の意志に基づいたものであったとは決して言えないものである。
安倍首相は「演説」で「日本国民を代表して」と言っているが、これは事実ではなく彼の自分勝手で独善的な表現であり、国民にとっては強引な「押しつけ」行為であり、非常に憤慨せざるを得ない許せない事である。
安倍首相の、真珠湾訪問やその「演説」内容は、「日米和解」の「アピール」を目的としているというが、その実態は「真の和解」(国民レベルの和解)ではなく両国政府にとって政治的に都合よく計算されたものであり、オバマ大統領との合意の上(政府間レベルの合意)で、太平洋戦争(特に真珠湾奇襲攻撃について)に対して、「大日本帝国政府が加害者(歴史的事実であるが)であると認める表現をせず(安倍自公政権は本音では米国が加害者であると認識している)」、また、都市無差別爆撃(空襲)や特に原子爆弾投下について「米国政府の責任を追及する主張もせず」、その結果、「日米どちらの側の政府の主張も明らかにしない」表現で「両国政府の行為を共に正当化する」という曖昧な「喧嘩両成敗」で表現し、今後追及をしない「水に流す」という処理を狙ったものである。このような「和解」手法は、これまでの歴史研究の成果と今後の歴史研究を否定し、「歴史の書き変え」(歴史修正主義)に至る危険性を孕んでいる点で認める事はできない。真実を知る事によって教訓を得、政治の主権を行使する国民にとっては認めがたい。このような「曖昧」な表現をとった大きな理由として考えられるのは、昭和天皇の英米国に対する「開戦の詔勅」(侵略戦争ではなく東洋新秩序・永久平和確立、自存自衛のため聖戦)を否定する事は都合が悪いからである。天皇制はこのようなところにも影響を与えているのである。
さらに「演説」で重要な点は、両国政府の「軍人の行為」を「国のために戦った軍人」として「敬意を表」し「称える」という形で「美化」「創作」し、「政府のために命を賭けて戦う」事が国民にとって崇高な精神であると日米両国民(特に日本国民)に訴える内容であった事である。
その事は、「亡くなった軍人たち」「祖国を守る崇高な任務」「兵士たちが、あの日、爆撃が戦艦アリゾナを二つに切り裂いたとき、紅蓮の炎の中で死んでいった」「兵士たちが眠っています」「すべての思いが断たれてしまった。その厳粛な事実」「その御霊よ安らかなれ」「この地で命を落とした人々の御霊に、ここから始まった戦いが奪ったすべての勇者たちの命に、戦争の犠牲となった無辜の民の魂に、哀悼の誠を捧げます」「飯田房太中佐です。……死者の勇気を称え、石碑を建ててくれた。碑には、祖国のため命を捧げた軍人への敬意を込め」「勇者は、勇者を敬う」「戦い合った敵であっても、敬意を表する。憎しみ合った敵であっても理解しようとする」などという表現に表れている。
また、「戦争の惨禍は二度と繰り返してはならない」と誓ったとしているが、その基礎には「人権尊重」こそが重要であるにもかかわらず、その言葉にはまったく触れていないところに「欺瞞」である事をうかがわせる。つまり、「戦争は最大の人権侵害であるからだ」。そして、それとは正反対に、歴史の事実に反した「大うそ」を放言している。それは、「戦後、自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを貫いてまいりました。戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は静かな誇りを感じながら、この不動の方針をこれからも貫いてまいります」という表現である。日本の政府(自民党)は日本国民の民主主義や人権を抑圧しながら(特に沖縄県に対しては強く、戦後の主権回復の際には、天皇の意思によって日本国から切り捨て米国に施政権を貸し与えた。施政権返還後も内国植民地として差別扱いを続けている)、アメリカ政府によるアジア各国の人々の人権を侵害する介入戦争(例えば朝鮮戦争、ヴェトナム戦争)に加担(反共の防波堤として米国政府の戦争に協力する事)してきたというのが事実であるからである。「不戦の誓い」を貫いてきたとか、「平和国家として歩んできた」とか、日本政府安倍自公政府が「誇り」を感じると主張する事は「傲慢」な態度そのものである。さらに、それを「不動の方針」と主張しながら、大日本帝国憲法への回帰をめざす「憲法改悪」を進めたり、2018年に実施しようとしている記念施策「明治150年」が「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ」としている事を見れば、「演説」がいかに矛盾しており、「大うそ」に満ちたものであるかがわかる。
そして、「演説」は、日米安保同盟を新たに「希望の同盟」と表現した。そして、それは「寛容の心」によってもたらしたとしているが、実態はそのようなものではなく、両者それぞれの極めて世界経済戦略上の「打算的な心」によってもたらされたものである。それを安倍自公政府は米国政府との間で、「寛容」という感覚的な言葉を用いて日本国民はもちろん世界の政府と国民を欺き「和解」を「演出」し、「寛容」による「和解」の重要性を「建前」として、米国政府と共に世界に向かって訴える事が任務であるとして、日本の自衛隊(国防軍に改編するであろう)が米国軍隊と「運命を共にする事」を日本国民に納得させるための儀式でもあったのである。また、日本が戦争経済へ向かう事を日本国民に納得させるための儀式でもあったのである。
「演説」では、日米安保同盟は「今までにもまして、世界を覆う幾多の困難にともに立ち向かう同盟」「寛容の心、和解の心を世界は今、今こそ必要としています。……共通の価値のもと、友情と信頼を育てた日米は、今、今こそ寛容の大切さと和解の力を世界に向かって訴え続けていく任務を帯びています」としている。
「自民党憲法改正草案」では第2章は「安全保障」とし第9条2を新設し「国防軍」としている。Q&Aには「国家で軍隊を保持していないのは日本だけであり、独立国家がその独立と平和を保ち、国民の安全を確保するため軍隊を保有する事は現代の世界では常識です」としている。9条2第3項には、「国防軍は、……法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動……を行う事ができる」としているが、今回の真珠湾訪問演説はその先取りである。
安倍自公政権は、国民に対しては「寛容」ではない。なぜなら、「寛容」とは「人権尊重」の精神に基づいていなければ「本物」であるとはいえないからである。安倍政権は、首相を先頭にすべての閣僚に、益々「人権」を軽視否定する言動政策が顕著となっている。安倍内閣閣僚は今までになく、国民を騙して目的を達成するという体質(詐欺体質)を一様に強く持っている。彼らの本音は、民主主義や人権こそ大切で守り発展させなければならないものと考える国民意識とはかけ離れたものだといえよう。つまり、安倍首相の「演説」の言葉を疑いもせず「言葉通り」にそのまま受け取れば騙されてしまうという事である。
(2017年1月4日投稿)