つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

8月18日(木)のつぶやき

2016-08-19 02:15:06 | 報道/ニュース
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パート2:象徴天皇の「伝統」とは昭和天皇の「新日本建設に関する詔書(人間宣言)」

2016-08-18 12:35:23 | 皇室

 「改訂版:象徴天皇の「伝統」とは昭和天皇の「新日本建設に関する詔書(人間宣言)」」の最後の部分に、この「詔書」を発表してから30年後の1975年の記者会見で、昭和天皇が、現行憲法第1条「象徴天皇」についてどのように考えているかについて発言した内容を紹介したが、それは、

「第1条ですね。あの条文は日本の国体の精神にあった(合った?)事でありますから、そう法律的にやかましい事をいうよりも、私はいいと思っています。……国体というものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によって万世一系を保っていたのであります。……その原因というものは、皇室もまた国民を赤子(わが子)と考えられて、非常に国民を大事にされた。その代々の天皇の思召しというものが、今日をなしたと私は信じています。」というものであった。

 現行天皇は、この昭和天皇の言葉を間違いなく継承していると考えてよいと思う。そのため、国民は、その「国体」というものがどんなものであるのか?を確認しておく事は非常に重要である考える。

 「国体」とは、ほかでもなく「国家神道の教義」に示されているものなのである。神祇院編の『神社本義』(1944年6月)が明確に定義しているのでそれを紹介しよう。それは、

「大日本帝国は、畏くも皇祖天照大神の肇め給うた国であって、その神裔にあらせられる万世一系の天皇が、皇祖の神勅のまにまに、悠遠の古より無窮にしろしめし給う。これ万邦無比の我が国体である。(中略)我が国にあっては、歴代の天皇は常に皇祖と御一体にあらせられ、現御神として神ながら御代しろしめし、宏大無辺の聖徳を垂れさせ給い、国民はこの仁慈の皇恩に浴して、億兆一心、聖旨を奉体し祖志を継ぎ、代々天皇にまつろい奉って、忠孝の美徳を発揮し、かくて君民一致の比類なき一大家族国家を形成し、無窮に絶えることなき国家の生命が、生々発展し続けている。これ我が国体の精華である。この万世変わる事なき尊厳無比なる国体に基づき、太古に肇まり無窮に通じ、中外に施して悖る事なき道こそは、惟神の大道である。しかして惟神の大道が、もっとも荘厳にして尊貴なる姿として現れたものに神社がある。伊勢の神宮を始め奉り、各地に鎮まります神社は、尊厳なる我が国体を顕現し、永久に皇国を鎮護せられているのである。」というものである。

 さて、現行天皇の「お言葉」に話をもどそう。その中に、「天皇の務めとして何よりもまず国民の安寧と幸せを祈る事を大切に考えてきた」とか、象徴的行為として行った全国に及ぶ旅は、「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを人々への深い信頼と敬愛をもってなし得た」という「文言」があるが、この中の「天皇の務めとしての祈り」という「文言」が何を意味しているかを見逃してはいけない。

 この「祈り」というものは、国民の我々が、「胸に手を当てて祈る」とかいうものとは全く異なるものであるという事である。

 これこそ、かつて「国家神道(皇室神道による神社神道の再編成)」といわれた宗教への「祈り」である事を理解しておかなければならない。

 皇居内に造られている「宮中三殿」(賢所、皇霊殿、神殿)で、なかでも一段高く大きく造られている「天照大神」を祀る「賢所」において、その「祈り」は行われてきたのである。

 また、「国民体育大会」、略して「国体」の開催の際に主催地にある「護国神社」へ参り、「祈る」という形でも続けられてきた事を意味しているのである。

 つまり、戦後廃止された「国家神道」(明治政府によって記紀神話を真実として扱い作られた宗教)は脈々と生き続けているだけでなく、政教一致の「国家神道」を反省して、憲法に定められた「政教分離原則」にも違反してきたという事なのである。

 「国家神道」は、他の宗教の自由な発展を阻害し変質させ、宗教に非ざる行為に手を染める歴史を刻ませる事になっただけでなく、日本国民の歴史をも作り変え、伝統的な本来の文化も破壊またはゆがんだものにしてしまったのである。

  

 

 

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朝日新聞はスポーツ新聞になったのか?

2016-08-18 01:37:32 | メディア

 連日、一面にオリンピックの記事が載っている。また、紙面の大半がオリンピックや高校野球などスポーツ記事で埋め尽くされている。それも記事の内容がスポーツを通して「国威発揚」を煽っているように思える。

 そしてまた、企業の宣伝記事で埋め尽くされている。読者の多くは、この状況に非常に憤慨している。上記のような記事よりも、国内外国に関して、知りたい情報がもっとあるのである。朝日新聞はその事を理解しているのか。その事のために購読料を使うべきではないのか。

 外国では、オリンピックに関して、それほど紙面を割いていない事を考えれば、異常としか思えないし、国民意識を操作しているとしか考えられない。

 読者はこのような記事に購読料を支払っているわけではない。

(2016年8月18日投稿)

 

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8月16日(火)のつぶやき

2016-08-17 02:18:14 | 報道/ニュース
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改定版:象徴天皇の「伝統」とは昭和天皇の「新日本建設に関する詔書(人間宣言)」

2016-08-16 22:59:34 | 皇室

 現在、「先を生きる者」は「後に続く者」に「歴史の真実」を伝える「責任」があるという事を改めて自覚する事が求められており、その伝える力量も試されている。

 2016年8月8日の「天皇のお言葉」の中に、「象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、……。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、……、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。」という文言があるが、この中の「伝統」とは、昭和天皇が1946年1月1日に国民に発表した「新日本建設に関する詔書」に大筋は示されているのである。昭和天皇は、この「詔書」に「新日本建設の方針」を示しているのである。

 そもそもこの詔書の発表の意図は、まず、マッカーサーが昭和天皇を「戦犯」に訴追しなくてもよい方法として、考えたものだという事。また、天皇自身は政治体制(国体)を敗戦までの「天皇制絶対主義」から「天皇制民主主義(象徴天皇制)」体制へと変更する意志を国民に示す事を目的としたという事なのである。

 まず、この詔書は「人間宣言」といわれるのが普通であるが、そのような定義は改めなければならない。そのように定義してしまった事によって国民が「詔書」の理解を誤ったからである。なぜなら、この詔書にはどこにも「人間である」という言葉は存在しないからである。また、天皇を「現御神」とするのは「架空の観念」である、としたがこの事の重要性は別の所にあり、それは昭和天皇による「人間宣言書き換え事件」(別稿参照)からも知る事ができるように、元々昭和天皇がマッカーサーによって、自身が「神の裔」である事を否定されようとした事に対して、「神の裔」である事を死守するために、「現御神」という言葉を使い、それを「架空の観念」であるとする事で、マッカーサーをごまかし、昭和天皇が「神の裔」である事を否定されるという事態を回避したという事実にこそあるのである。国民にとって、昭和天皇を知るために、この「詔書」のこの事実こそ知っておくべき事なのである。

 さらに問題なのは、「単なる神話と伝説」や「架空なる観念」を信じる事を国民に強制してきた当事者が他でもなく「天皇」であった事にまったく触れず不問にしている事である。そのうえ、それを信じた国民に非があるかのように責任を他人に転嫁しているのである。この事は国民を敗戦まで騙し続けたが戦後においても再び騙したものであり、卑劣極まりない態度である事を見抜かなければならない。

 さて、昭和天皇は「詔書」で、「天皇制民主主義(象徴天皇制)」を目指す根拠として国民に示したものは何かというと、それは明治天皇の発した「五箇条の御誓文」なのである。現行天皇は昭和天皇からそれも重要な「伝統」として継承していると考えられる。「御誓文」は明治新政府(大日本帝国)の建国宣言といえるものであったが、その「詔書」の内容は、

 「顧みれば、明治天皇、明治の初め、国是(政府の方針)として五箇条の御誓文を下し給えり、で始まり、5か条を挙げ、その後に、(明治)天皇の考えは公明正大、また何をか加えん。朕はここに、誓いを新たにして国運を開かんと欲す。すべからくこの御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意をのびやかにし、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もって国民生活の向上を図り、新日本を建設すべし。……」で始まる。

 「御誓文」は昭和天皇の強い意志によって「詔書」の冒頭に入れられたが、そこにはどのような狙いがあるのか。それを国民が知る事は重要である。 

 その理由は、後日(1977年8月22日)、会見で明らかになったが、それは、

「それが実はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそういう事は二の問題であった。

 それを述べるという事は、あの当時においては、どうしても米国その他諸外国の勢力が強いので、それに日本の国民が圧倒されるという心配が強かったから。 

 民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして、五か条の御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないという事を示す必要が大いにあったと思います。……それを目的としてあの宣言を考えたのです。

 そして、日本の誇りを日本の国民が忘れると非常に具合が悪いと思いましたから。

 日本の国民が日本の誇りを忘れないように、ああいう立派な明治大帝のお考えがあったという事を示すために、あれを発表する事を私は希望したのです。」

という事なのである。

さて、皆さんはこの言葉をどのように受け取りますか。

「大日本帝国憲法」は「民主主義」の原則に基づいている?これほどの「欺瞞」は他に例を見ないものである。明治時代から敗戦までの日本の国内的対外的な歴史を見れば、それがいかに間違った認識であるかは明らかである。また意図的に歴史を書き換えようとしているのではないかとさえ思える。

 昭和天皇は、敗戦後改めて上記の「詔書」によって「五か条の御誓文」を掲げたが、敗戦までの日本はもちろん敗戦後を見ても一貫して「民主主義」を尊重する政治は行われてこなかった事は明白である。むしろその逆である。侵略戦争を否認し、人権侵害を否認し、自己の加害責任を否認するだけでなく、過失なき存在として正当化しているとしか思えない。

 それを証明するように、この「詔書」には、過去の侵略戦争に対する反省も、国民への謝罪はもちろん、侵略した国の人々への謝罪もまったく見られないのである。

 ただただ、明治天皇に始まる敗戦までの「天皇制」との「連続性」と敗戦後の「存続」の正当性のみを主張する事を目的とした内容でしかないのである。

 映画監督であった伊丹万作は、「外国なら『夫を返せ』『せがれを返せ』の悲痛な叫びがあっただろう」と「静臥饒舌録」に書いている。

 現行天皇は、昭和天皇のこの「御誓文」の解釈も「継承している」と思われる。そして、「現代に生かし、生き生きとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至った」のではないのか。

 昭和天皇は現行憲法第1条についても国民が驚くような発言(1975年)をしていた事を付け加えておこう。それは、

「第1条ですね。あの条文は日本の国体の精神にあった(合った?)事でありますから、そう法律的にやかましい事をいうよりも、私はいいと思っています。今話したように、国体というものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によって万世一系を保っていたのであります。……その原因というものは、皇室もまた国民を赤子(わが子)と考えられて、非常に国民を大事にされた。その代々の天皇の思召しというものが、今日をなしたと私は信じています。」という内容である。

  

 

 

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