電信機は米国のペリーが2度目の来航時(1854年1月)に徳川幕府へ贈った物が伝来したのが最初であった。電信事業が本格化したのは1869年10月23日(電信電話記念日)からの東京~横浜間の電信線工事開始からである。大阪では70年8月、川口居留地に「伝信局」(72年に電信局と改称)を開局し、神戸と造幣寮(1871年2月15日開業)とに架設し民間電報も扱い始めた。電信機はブレゲー指字機を経て72年にモールス式となった。
電信事業は軍事上、行政上の必要から急速に発展した。1873年には神戸~大阪~東京間の通信を開始し、1881年頃には全国網をほぼ作り上げた。大阪では高麗橋、心斎橋、梅田すてん所内に川口電信局分局を開局。梅田分局の後身が1883年11月20日に梅田すてん所西隣に開局した西部電信中央局であり、川口電信局に代わって西日本の電信の元締めとした。
西部電信中央局は、赤レンガ造り、2階建て洋館、2階の通信室には機械台が6台、モールス単信印字機の電信機が30台あり回線は21。局員は約60人、月給は通信担当者で15円前後(米1升が7,8銭、家賃が月3,4円)で高給。出勤姿は洋服ならモーニング、山高帽子、皮手袋で、和服なら黒七子の羽織、仙台平の袴、編み上げ靴。歌舞伎役者と間違われたようだ。
1885年、主管庁が工部省から逓信省に移り、86年逓信管理局を大阪に置いた時、大阪電信分局となった。その後7回ほど改称し、1952年、電電公社発足で大阪中央電報局となった。局舎は1893年7月、梅田から中之島・備前岡山藩蔵屋敷跡へ移り、1928年北区堂島西町へ、1965年11月北区玉江町1へと移っている。電報料金は1885年には全国均一制とした。
1894年5月には職員の殉職事件が起こった。18歳の電報集配人が淀屋橋北詰で人力車と衝突し死亡した。事件を新聞が報じると、各地から義援金が相次ぎ、大阪北区の太融寺に顕彰碑が建てられた。
(2024年11月23日投稿)