(冒頭写真は、我がエッセイ集にて公開した「アンリ・マティス」シリーズ最新版にて冒頭に取り上げたアンリ・マティス氏の絵画。)
このシリーズ内で、私は次の文章を記載した。
以下に復習させていただこう。
ところで今回の美術展での絵画鑑賞において、ド素人の私が気付いたことがある。
この年の瀬に相応しくない話題で恐縮なのだが、それは展示されている作品の中の裸婦像のすべてに“ヘアがない”ことだ。
例えば、下段左から2番目キスリングによる「長椅子の裸婦」など、裸体が輝けるように美しく描かれた作品であるが、ご覧のように“ヘア”がない。
この美術展には裸婦を描いた作品が数多く展示されている。例えば、シャガールの「赤い裸婦」「白い裸婦」、藤田嗣治の「2人の裸婦」「横たわる裸婦」「裸婦像長い髪のユキ」、ナルシスヴィルジル「キューピッドと戯れるヴィーナス」、ルノワール「横たわる裸婦」、カバネル「ヴィーナスの誕生」……
これらのすべてにおいてヘアがない!!
私がこの“裸婦にヘアがない!”事態になぜそれ程興味を抱いたのかについて、ここで正直に話そう。
先だって訪れたインドのお土産として「カーマ・スートラ」の日本語版絵本を購入したのだが、これによると「毛を取り除いて清潔にすると女性は愛するのはますます喜んでいる」(日本語版原文のまま引用)とある。それが印象的だったためだ。
これらの裸婦はどういう状況で描かれたのであろう。単なるモデルなのか、それとも…。 私個人的には“愛”を一身に浴びながら描かれた裸婦を見たい気もするのだ。
そこで私は某男性画家の方に、今回のコレクション展における裸婦像になぜ“ヘア”がないのか、果敢にも尋ねてみた。
私の無謀な質問に対し、ありがたくも頂いた回答は以下の通りである。
クールベ(フランス写実主義の画家、1819~1877)以降はあるべきところに描くようになったが、ヘアとは目立つものだ。色の白い肌に一箇所だけ黒々と描いたのではそこだけ強調し過ぎるようにも思える。 描く側からすれば、ヘアがない方が卑猥感が消えるかも知れないし素敵に描けるかもしれない。せっかく綺麗に仕上げていったヌードもビーナスの丘を黒々と塗りつぶすと味も素っ気もなくなる。かと言って、描かないと…。 北斎の絵のようにヘアを1本ずつ丁寧に書き上げると大変な労力がいるし…、等々で“ヘア”とは難しい存在だ。 存在を保持するために黒々しているのかもしれないな…。
芸術とは素人には計り知れない程、奥深いことを再認識である。
(以上、本エッセイ集バックナンバーより引用したもの。 参考だが、当該バックナンバーは公開して後12年が経過している今現在尚ネット上で少なからず閲覧されているようだ。)
補足説明をすると、上記我が質問に応えて下さった男性画家氏は、当該gooにご自身の美術作品を日々数多く掲載されていた。 当時、私は3、4度都内で開催された氏の個展へ出向かせて頂き、美術に関していろいろと学ばせて頂いたりもした。 現在に至ってはご高齢化と共に、残念ながら氏のgooブログページを拝見することがない…
この年の瀬に相応しくない話題で恐縮なのだが、それは展示されている作品の中の裸婦像のすべてに“ヘアがない”ことだ。
例えば、下段左から2番目キスリングによる「長椅子の裸婦」など、裸体が輝けるように美しく描かれた作品であるが、ご覧のように“ヘア”がない。
この美術展には裸婦を描いた作品が数多く展示されている。例えば、シャガールの「赤い裸婦」「白い裸婦」、藤田嗣治の「2人の裸婦」「横たわる裸婦」「裸婦像長い髪のユキ」、ナルシスヴィルジル「キューピッドと戯れるヴィーナス」、ルノワール「横たわる裸婦」、カバネル「ヴィーナスの誕生」……
これらのすべてにおいてヘアがない!!
私がこの“裸婦にヘアがない!”事態になぜそれ程興味を抱いたのかについて、ここで正直に話そう。
先だって訪れたインドのお土産として「カーマ・スートラ」の日本語版絵本を購入したのだが、これによると「毛を取り除いて清潔にすると女性は愛するのはますます喜んでいる」(日本語版原文のまま引用)とある。それが印象的だったためだ。
これらの裸婦はどういう状況で描かれたのであろう。単なるモデルなのか、それとも…。 私個人的には“愛”を一身に浴びながら描かれた裸婦を見たい気もするのだ。
そこで私は某男性画家の方に、今回のコレクション展における裸婦像になぜ“ヘア”がないのか、果敢にも尋ねてみた。
私の無謀な質問に対し、ありがたくも頂いた回答は以下の通りである。
クールベ(フランス写実主義の画家、1819~1877)以降はあるべきところに描くようになったが、ヘアとは目立つものだ。色の白い肌に一箇所だけ黒々と描いたのではそこだけ強調し過ぎるようにも思える。 描く側からすれば、ヘアがない方が卑猥感が消えるかも知れないし素敵に描けるかもしれない。せっかく綺麗に仕上げていったヌードもビーナスの丘を黒々と塗りつぶすと味も素っ気もなくなる。かと言って、描かないと…。 北斎の絵のようにヘアを1本ずつ丁寧に書き上げると大変な労力がいるし…、等々で“ヘア”とは難しい存在だ。 存在を保持するために黒々しているのかもしれないな…。
芸術とは素人には計り知れない程、奥深いことを再認識である。
(以上、本エッセイ集バックナンバーより引用したもの。 参考だが、当該バックナンバーは公開して後12年が経過している今現在尚ネット上で少なからず閲覧されているようだ。)
補足説明をすると、上記我が質問に応えて下さった男性画家氏は、当該gooにご自身の美術作品を日々数多く掲載されていた。 当時、私は3、4度都内で開催された氏の個展へ出向かせて頂き、美術に関していろいろと学ばせて頂いたりもした。 現在に至ってはご高齢化と共に、残念ながら氏のgooブログページを拝見することがない…
(以上、本エッセイ集バックナンバーより一部を引用させていただいたもの。)
本日は、娘の27回目の誕生日だった。
そのケーキを買ったり、料理嫌いな私なりの夕食を準備して帰宅して。
下手なりに先程娘の誕生祝いを終えて、パソコンを付けたところ。
冒頭の「アンリ・マティス」シリーズにて取り上げた“裸婦像のヘア”に頂戴したコメント回答者であられる某美術家氏よりメールが到着していた!
何年ぶりのことだろう。
大変失礼ながら、“ご生存”すら危うんでいた美術家氏よりの再びのコメントに、私は大感激させられた。
明日以降ご本人に連絡を取り、もしも我がエッセイ集にての公開を受諾していただいた暁には。
再び、某美術家氏による「裸婦像のヘア」に関する貴重なコメントを紹介しよう!
何と申せば良いのか。
ブログ付き合いの“旧友”から連絡を頂戴するのは、まさにブロガー冥利に尽きるのでは無かろうか。😭