(冒頭写真は、美術家O氏制作 「線香立て」。)
昨日夜公開した我がエッセイ集にて、以下の記述をした。
「アンリ・マティス」シリーズにて取り上げた“裸婦像のヘア”に頂戴したコメント回答者であられる某美術家氏より、メールが到着していた!
何年ぶりのことだろう。
大変失礼ながら、“ご生存”すら危うんでいた美術家氏よりの再びのコメントに、私は大感激させられた。
明日以降ご本人に連絡を取り、もしも我がエッセイ集にての公開を受諾していただいた暁には。
再び、某美術家氏による「裸婦像のヘア」に関する貴重なコメントを紹介しよう!
何と申せば良いのか。
ブログ付き合いの“旧友”から連絡を頂戴するのは、まさにブロガー冥利に尽きる!、ということでは無かろうか。😭
何年ぶりのことだろう。
大変失礼ながら、“ご生存”すら危うんでいた美術家氏よりの再びのコメントに、私は大感激させられた。
明日以降ご本人に連絡を取り、もしも我がエッセイ集にての公開を受諾していただいた暁には。
再び、某美術家氏による「裸婦像のヘア」に関する貴重なコメントを紹介しよう!
何と申せば良いのか。
ブログ付き合いの“旧友”から連絡を頂戴するのは、まさにブロガー冥利に尽きる!、ということでは無かろうか。😭
(以上、昨夜公開した本エッセイより最後部分の一部を引用したもの。)
実はその後、未だ当該美術家氏(O氏とするが)へメール返答をしていない。
と言うよりも、“別案”を思いついたのだ!
「原左都子エッセイ集」2008.04.29付バックナンバーにて、「移ろいゆく抽象の世界」と題して。
O氏の美術家としての制作ポリシーに対し、原左都子なりの“感覚”(あくまでも“感覚”範疇だが)を綴り公開している。
それを12年以上経過した今、私自身が振り返りたく思い、以下に再掲載させていただこう。
先だって、某美術家の個展に足を運ばせていただいた。
現在、抽象画を中心に描いている美術家でいらっしゃるのだが、今回の個展では紬織の独特の風合いや色合いを活かして画布に用いる等、和と洋の融合を試みられた作品や、また具象と抽象が交錯したようなCGによる作品等を拝見した。
この美術家氏は、ブログを通してネットでもCG作品を公開していらっしゃる。氏はこのネットでの作品公開においてユニークな試みをされている。
そのCG作品創作のひとつの特徴は、氏がめざす完成形に至るまでの過程形とでも表現させていただいてよいのか、ひとつのテーマにつき、まさに“移ろいゆく抽象の世界”の幾枚もの作品を発表されているという点である。しかも、これがいよいよ完成形かと思いきや、さらに移ろいゆきどんどん別世界へといざなう展開もあるのだ。
さらに氏のユニークな取り組みのもう一点は、ネット上の対話による創作活動である。ネットで公開した作品に対し、ネットでの観賞者より様々な感想が入る。その鑑賞者の感想が氏にとってさらなる創作のイメージとなり、抽象の世界はどんどん移ろいゆくのである。
私は美術に関してはズブの素人ながら、図々しくも何度か氏の作品に関する感想コメントを入れさせていただいた。そうしたところこんなド素人の感想をも、次なる展開のイメージとして作品に取り入れて下さったことがあるのだ。
私は素人考えながら、どちらかというと具象画よりも抽象画を好む。まずは作品を購入する場合に、抽象画の方が場を選ばないというのか素人にも部屋に合わせやすいように思えるからだ。 それに抽象画というのは観賞側の感覚次第で如何なる解釈も可能であり、押し付けがましくない点が好みである。もちろん具象画とて様々な解釈が可能なのではあろうが、抽象画の方がよりフリーな想像の世界へ旅立てるように感じる。
話は変わるが、この個展の美術家氏より美術の世界における“具象と抽象”のお話を伺ったのだが、その時どういう訳か私の脳裏にはプラトンが「洞窟の比喩」の中で説いた“可視的世界”と“可知的世界”が浮かんだ。
プラトンの「イデア論」に関しては当ブログの学問・研究カテゴリーの記事で既に取り上げているので参照いただきたいのだが、以下に「洞窟の比喩」について私なりの解釈で簡単に説明してみる。
洞窟の中に光が差し込む入り口とは反対側の奥の暗い壁に向かって人間が存在している。人間の背後には火が燃えていて奥の壁にはその火の輝きで操り人形の影絵が投影されている。人間はこの影絵を見て暮らしている。ここは“可視的世界”である。洞窟の入り口の外には明るい“可知的世界”が広がっている。しかし、人間は背後で燃えている火が眩しくて後ろを向きたがらない。 このように、通常の人間とは常にeikasiaの状態に陥っている存在である。(eikasiaとは、実物に対するその影、という意味である。)
私達は何かの影を見たら、その影の元にあるものがこの影を投げていると考える。だが、確信はない。それで、私達は振り向いてその影の正体を確認する。プラトンは、自然界のすべての現象は永遠普遍のひな型(イデア)のただの影だと考えた。残念なことにほとんどの人々はその影の人生に満足しきっている。一部のソフィスティケイトされた人にしかこのイデアは見えない。プラトンはそう語っている。
美術の世界における“具象と抽象”。人の好みは様々であろう。私には残念ながら美術の心得もセンスもなく、ただただ観賞させていただいて楽しむしか能がない人間なのであるが。その創造の世界は人を魅了し、別世界へといざなってくれる。すばらしい作品に出会えると、まさに“イデア”が見えたような気さえする。
美術、音楽、etc… 芸術とは実にすばらしい人間の業である。
現在、抽象画を中心に描いている美術家でいらっしゃるのだが、今回の個展では紬織の独特の風合いや色合いを活かして画布に用いる等、和と洋の融合を試みられた作品や、また具象と抽象が交錯したようなCGによる作品等を拝見した。
この美術家氏は、ブログを通してネットでもCG作品を公開していらっしゃる。氏はこのネットでの作品公開においてユニークな試みをされている。
そのCG作品創作のひとつの特徴は、氏がめざす完成形に至るまでの過程形とでも表現させていただいてよいのか、ひとつのテーマにつき、まさに“移ろいゆく抽象の世界”の幾枚もの作品を発表されているという点である。しかも、これがいよいよ完成形かと思いきや、さらに移ろいゆきどんどん別世界へといざなう展開もあるのだ。
さらに氏のユニークな取り組みのもう一点は、ネット上の対話による創作活動である。ネットで公開した作品に対し、ネットでの観賞者より様々な感想が入る。その鑑賞者の感想が氏にとってさらなる創作のイメージとなり、抽象の世界はどんどん移ろいゆくのである。
私は美術に関してはズブの素人ながら、図々しくも何度か氏の作品に関する感想コメントを入れさせていただいた。そうしたところこんなド素人の感想をも、次なる展開のイメージとして作品に取り入れて下さったことがあるのだ。
私は素人考えながら、どちらかというと具象画よりも抽象画を好む。まずは作品を購入する場合に、抽象画の方が場を選ばないというのか素人にも部屋に合わせやすいように思えるからだ。 それに抽象画というのは観賞側の感覚次第で如何なる解釈も可能であり、押し付けがましくない点が好みである。もちろん具象画とて様々な解釈が可能なのではあろうが、抽象画の方がよりフリーな想像の世界へ旅立てるように感じる。
話は変わるが、この個展の美術家氏より美術の世界における“具象と抽象”のお話を伺ったのだが、その時どういう訳か私の脳裏にはプラトンが「洞窟の比喩」の中で説いた“可視的世界”と“可知的世界”が浮かんだ。
プラトンの「イデア論」に関しては当ブログの学問・研究カテゴリーの記事で既に取り上げているので参照いただきたいのだが、以下に「洞窟の比喩」について私なりの解釈で簡単に説明してみる。
洞窟の中に光が差し込む入り口とは反対側の奥の暗い壁に向かって人間が存在している。人間の背後には火が燃えていて奥の壁にはその火の輝きで操り人形の影絵が投影されている。人間はこの影絵を見て暮らしている。ここは“可視的世界”である。洞窟の入り口の外には明るい“可知的世界”が広がっている。しかし、人間は背後で燃えている火が眩しくて後ろを向きたがらない。 このように、通常の人間とは常にeikasiaの状態に陥っている存在である。(eikasiaとは、実物に対するその影、という意味である。)
私達は何かの影を見たら、その影の元にあるものがこの影を投げていると考える。だが、確信はない。それで、私達は振り向いてその影の正体を確認する。プラトンは、自然界のすべての現象は永遠普遍のひな型(イデア)のただの影だと考えた。残念なことにほとんどの人々はその影の人生に満足しきっている。一部のソフィスティケイトされた人にしかこのイデアは見えない。プラトンはそう語っている。
美術の世界における“具象と抽象”。人の好みは様々であろう。私には残念ながら美術の心得もセンスもなく、ただただ観賞させていただいて楽しむしか能がない人間なのであるが。その創造の世界は人を魅了し、別世界へといざなってくれる。すばらしい作品に出会えると、まさに“イデア”が見えたような気さえする。
美術、音楽、etc… 芸術とは実にすばらしい人間の業である。
(以上、本エッセイ集2008.04.公開バックナンバーより引用したもの。)
当時、O氏の個展を訪れる都度、私は氏よりご自身の作品のプレゼントを頂戴している。
冒頭写真は、その一つである「線香立て」。
こちらは、CG作品 「無題」。 この作品に関して、“私が題を付けましょうか!”などと言いつつふざけたのを、“そうしよう!”と同意して下さった気さくなO氏でいらっしゃる。 (結果として、我が案は斬新すぎて却下となったが…)
こちらは、O氏直営ギャラリーの展示物のひとつだった「湯飲み」。
O氏はとにかく“制作意欲旺盛”な方で、直営ギャラリーには所狭しともの凄い数の制作美術品が展示されていた。
O氏のご厚意に甘え、大変図々しくもこれらの美術品を私は“ただ”で頂いて帰った。😵
いえいえ現在尚、我が家の“宝物”としてリビングルームに展示してあります!