昨日2022.05.21付朝日新聞記事によると。
関西の某私立大学が、大学案内のパンフレットに「美女美男図鑑」のコーナーを設け、現役の美男美女(??)学生を紹介しているらしい。
これに関して大学本部は、「受験生に大学生活への憧れを抱いてもらうため」の企画と説明しているのに対し。
「学生の容姿を前面に出す広報は不適切だ」などといった批判が、大学内外から上げっているという。
(以上、朝日新聞記事よりごく一部を引用したもの。)
一旦、原左都子の私見に入るが。
この種の発行物を学生の意思で実施する分には、勝手に好きにすれば? 程度で済みそうだが。
それにしても、低レベル感は否めない。
そうではなくこれを大学本部が大学案内パンフレット内に掲載したとすると。
「世も末」感と共に、学問の府であるべく大学がどこまで底辺を彷徨えば済むと考えての行動か!? と呆れ果てるしかない。😱
話題を変えよう。
最近、「ルッキズム」なる言語を耳にする機会がある。
それに関するネット情報を発見したので、以下に一部のみ紹介する。
◆美醜をめぐる3つの作品
長く女子アナの登竜門とされてきたミスコン(ミスキャンパスコンテスト)を中止する大学が出てきたり、女芸人のブスいじりが敬遠されたりと、人の見た目を画一的な基準で評価する「ルッキズム(=外見至上主義)」が議論される機会が増えている。就職差別など、差別につながるルッキズムは批判されてしかるべきだが、一方で美を求める人はいるし、また、ルッキズムの捉え方には個人差や文化差なども関わってくるから、事は単純ではない。
そんななか、ルッキズムを扱った書籍も増え、ルッキズムや美醜問題を考える契機となっている。 (中略)
そしてこの11月に出版され、好調な売れ行きを見せているのが『少女マンガのブサイク女子考』(左右社)。著者は大学講師でライターのトミヤマユキコさん。マンガ研究者であるトミヤマさんがブサイク女子を主人公とした少女マンガ26作を厳選し、「美人は得でブサイクは損」といった分かりやすい二項対立を乗り越えていく、ブサイク女子の恋愛模様や生き様を紹介・分析した。「本書はマンガ批評の本として書かれているけれど、フィクションの力を借りつつ、美醜について考えるための本にもしたい」と、トミヤマさんは「まえがき」に書いている。
◆「カワイイはつくれる」の危うさ
では具体的に、ブサイク女子たちは「美人は得でブサイクは損」の二項対立をどのように乗り越えていくのか。
たとえば「カワイイはつくれる!」を実践するブサイク女子たちがいる。美は天然でなくていい。化粧、ファッション、整形……技術と金によってカワイイをつくり、恋をし、自信を付けていく女子たちだ。一見、ポジティブで前向きな選択に感じられるが、“影”の部分もあるとトミヤマさんは指摘する。
「『カワイイはつくれる』という言葉は、『つくれるのにつくらないのは怠惰ではないか』に容易にひっくり返る。主体的にメイクテクを身につけたり、整形をするのならいいと思います。そうではなくて、周りの目が気になるからとか、怠惰だと思われるからとか、外からの圧力によって見た目を変えると、悲しい結末が待ち受けているように思う。自分が綺麗になりたいと思っているのか、綺麗にならなければいけないと思わされているのか。ここをよく考えなければいけないと、少女マンガは教えてくれます」 (中略)
本を手にとり、語り合うことで、ルッキズムについても自分自身についても、新たな思考回路が開くはずだ。
(以下略すが、以上ネット情報のごく一部を引用したもの。)
上記引用文は、特に若い世代の女子に関して論じたものであろう。
確かに、今現在発刊されている雑誌等々を垣間見るに、女子たちが「可愛さ」を売り物にすることに悲壮と言える程に躍起になっている印象を受ける。
それらを見るにつけ、いじわるおばさんの私など「たまには勉強もして、若いうちに学業力も身に付けろよ」とアドバイスしたくなるのだけど。
あるいは、それ程までに厚化粧したり整形しないとこの世を渡っていけないものかなあ? との呆れ感覚を抱かされたりもする。
お洒落は大事!と考えるのは高齢のおばさんである私も同様だけど。
悲壮感すら漂う程に“身繕い”している間があるなら、その時間を学力アップに使った方が、未来に向けての自己確立がずっと容易になることを教えてあげたい気もする。
話題を、冒頭の関西の某私立大学本部が発刊した「美男美女図鑑」に戻そう。
この現象に対して、社会学者で東大名誉教授の上野千鶴子氏は、以下のように論評しておられる。 「ルッキズムに加担 時代に逆行」と題するその論評を、以下に要約引用しよう。
性差別への意識の高まりとともにルッキズムが問題になり、大学のミスコンが廃止されるなどしている。
そんなご時世に、大学自ら公然とルッキズムに加担するような振る舞いをすることは時代の流れに逆行する。
社会変革とは「本音の変化」ではなく「建前の変化」を意味する。 人間の差別感情をなくす「本音の変化」ができなくても、少なくとも公的な場面で差別的な言動をアウトとすることが「建前の変化」。 性差別でも同じ。 大学とは、そのことが重要だと教える教育機関だ。
(以上、朝日新聞記事に対する上野千鶴子氏の反論を取り上げたもの。)
まさに、上野先生がおっしゃる通りだ。
大学自らが、公的な場面で差別的言動(美男美女図鑑発刊のことだが)を実施してどうする!?? と私も呆れつつ言いたい。
それを実施することで学生数を増やしたところで。(いや、おそらく増えないと考察するが。)
今後の貴大学の発展に繋がるとは到底思えない。
学問の府たるもの。
表題に掲げた通り、「外見“だけ”が取り柄の人間なんて全然つまらない」ことを学生に教え、若き学生達に未来を見つめつつ学問に励ませるのが、大学としての存在使命ではなかろうか。