この表題は、2022.05.18付朝日新聞「折々のことば」より引用した。
この言葉、いつ頃聞いただろうか?
とにかく子供の頃から大の集団嫌いだった我が身として、この言葉には実に助けられる思いだった。
おそらくこの言葉を初めて聞いた時には、私は既に大人になって集団生活の場から離れていたことだろう。
「みんなちがって みんないい」。
この言葉は、金子みすゞ氏の童謡から派生しているようだが。
この機会に教員経験もあるこの私が、この言葉に関して少し論評してみよう。
その前に、「もはや戦後ではない」と叫ばれた昭和の時代にこの世に生を受けた我が小中校時代など。
まさに教育現場とは、「集団主義」がまかり通っている時代背景だった。
とにかく、「みんなで仲よくしよう!」これぞ当時の教育スローガンだったと記憶している。
「仲間に入らない子がいたら仲間に入れてあげよう!」
実際、ちょっと待って欲しかった。 一人でやりたいことがあるからそれに集中しているのに、無理やり誘われてしたくもないことに加わらねばならない、その虚無・無駄感覚…
これが楽しめる訳もない。😫
ただし、小学校高学年頃からの反抗期以降には自己を取り戻せた気がする。
周囲も大人になりつつあって、一人で物事に没頭している私を放っておいてくれるようになった。
(一人で何をやっていたかと言うと、小6当時は「小説」や「詩」の執筆に没頭して一人で励んでいた。 お気に入りの綺麗なノートを買い込んで、随分と沢山の作品を書いたものだ。 その趣味は中学2年頃まで続いただろうか。 その習性が、現在のエッセイ執筆に繋がっていると言えるかもしれない。
その他、中学時代にはブラスバンド部にてのフルート奏者としても頑張っていたが、これは集団活動とはいえども個人練習が基本となるため、特段気にならなかった。)
私は30代半ば頃から、高校教師を数年間経験している。
そもそも高校教育現場だったし、小中とは異なりさほどの「集団主義」強要がしつこくない事実に助けられた。
時代背景的にも、個人主義が少しずつまかり通ってきた頃だっただろうか?
それでも過去の自身が生徒だった頃の経験から、生徒を前にして「皆さん」発言はなるべく慎むようにした。 (この教員が発する「皆さん」発言を、生徒時代に忌み嫌っていた私だ。 皆さんて誰なんだ?? との反抗心が燃え滾っていた。 と言いつつ何分真面目な生徒なもので、教員の「皆さんばなし」を一番理解したのはこの私だったことだろう。)😓
そろそろ話題を、表題に戻そう。
「みんな違ってみんないい」と言うが、どこまで一緒でどこから違っていいのか?
原左都子の回答を示すと。
それさえも、個々人で違っていいはずだ。
少なくとも集団に迎合する必要など全く無い。
個々人の意思が確固としているならば、その意思に従って行動を起こせばよいことだし。 もしもそれで軋轢が発生するならば、その時点で話し合いを持ち接点を探れば済むだろう。
世の中には、必ずや自身の同意者(“同響者”というべきか)が存在するものだ。
ちがっていると思っていた相手でも、話し合い(と言えば大袈裟だが、何かの拍子に接点が見つかり親しくなると)それが一生涯の付き合いに繋がる事とてあるものだ。
この私など、今尚親しい関係の人とはそうやって仲を紡いできたような気がする。
最後に、朝日新聞2022.05.18 「折々の言葉」鷲田清一氏による、表題の続きの文面を引用させていただこう。
自由・平等とか環境保護とか、誰もが尊重し、誰もあえて反対しないことがある。 多様性もそのひとつ。 でも言葉に浮かされて、その意味するところをしっかり突き詰めないでいると、大勢の人たちが別のとことがいいと言い出した時、あっさりそちらに流れていく。
詩人の4コマ詩「いろいろ」(「月刊ココア共和国」5月号)から。
原左都子も、鷲田清一氏のご記述に全く同感である。