原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

3高の時代が通り過ぎて…

2008年06月10日 | 人間関係
 一昔前の結婚相手選択の条件として“3高“という言葉があった。この“3高”とは高学歴、高収入、高身長を指す。当時の女性が結婚相手として好む男性の条件を表した言葉である。

 私は晩婚なのだが、私が結婚した頃がちょうどこの“3高”時代であった。その頃から、医師や弁護士、会計士等社会的ステイタスが高いとされる男性、片や女性側は“お嬢様”とされる種族を集めたハイグレード結婚紹介所やお見合いパーティが流行り始めていた。(記事のストーリー展開上、自分でも不本意ながらあえて差別的用語を使用している点、何卒ご容赦下さい。) 私よりもひと回り程若い女性達が、社会的ステイタスのある“3高”男性を結婚相手としてゲットするべく躍起になっていた時代である。


 ところで、世間が言うところの「高学歴」とは通常、大卒以上を指すものと捉えられる。
 私自身は大学院修士課程を修了しているので、一応高学歴の部類に入ると言っていいであろう。
 この「高学歴」が私にとって何らかの効用があった(ある)のであろうか?? 今それを振り返ってみると、私にとってこの高学歴が確かに功を奏した出来事がひとつあるのだ。

 その出来事とは、結婚である。
 実は私は見合い結婚である。 見合い結婚というのは昔から、まず第一次選考は書類審査だ。この書類審査を通過すると第二次選考は面談となる。親や仲介人が入る数者面談の形態がとられることもあれば、本人同士の二者面談の場合もある。近年は本人同士の二者面談の形態が多いようである。この第二次選考を通過すると先は比較的明るい。最終選考は実地審査である。結婚というゴールに向け、本人同士でシミュレーションを行う期間が設けられる。すなわち、当人同士のお付き合いである。この最終関門を無事突破すればいよいよ婚約の成立だ。婚約期間中に特別のトラブルやマイナス面での新発見等がなければ成婚と相成る訳だが、これは恋愛結婚とて同様である。

 見合い結婚は、第一次選考の“書類審査”があるのがその一番の特徴である。この書類審査において、双方があらかじめ詳細な経歴や身上等のバックグラウンドを確認する事が可能であるところが、お見合い結婚の最大のメリットなのだ。 
 大抵のお見合いの場合、双方の釣り合いを取るのに最重要視されるのが生育家庭環境と学歴である。男性の収入に関しては、第一次選考以前にその条件が満たされているのがお見合いの場合常識である。収入や資産のない男性がお見合いに望んでも、まず第一次審査でアウトとなろう。(恋愛結婚の場合、それでも結婚に至る例も珍しくないが。)
 一昔前のお見合いにおいては、男性よりも女性の方がすべての条件において少しランクが下というのが常識的であり、私のお見合い話もその例外ではなかった。ただし、私の場合当時比較的高収入であったため、収入面で私より下回る相手も多かったのだが。学歴に関して言えばこれは面白いほど高学歴(修士修了以上)の男性のお見合い話が来るわ来るわである。その時代既に高齢高学歴未婚男性は意外と存在していたのだ。

 私は、何が何でも高学歴にこだわっていたという訳ではない。ただ、当時私は修士課程を修了して間もない頃で学問づいていたのだ。学問や科学の世界について語り合うことに生きがいを感じていて、自然とそういう面で話が合う相手を志向していた。話が通じるということは価値観も共通しているため、共同生活もうまくいくのではないかと考えていたのだ。そういう相手と確実に巡り合いたいがために、自分が高学歴であることを利用し見合い結婚を選んだという事実は認める。

 
 男女を問わず結婚年齢が急激に高齢化している時代である。近年は「3高」などという言葉を耳にすることはなくなった。だが、高収入、高身長に関しては、おそらく今の時代もそれを好む女性は多いのではなかろうか??
 一方で、高学歴についてはどうであろう。時代が少しは進化し、社会全体が学歴にこだわらない風潮になってきている様子だ。職場においても、学歴よりも実力の時代に少しずつ移り変わりつつある。結婚に関しても同様であろうか?

 男女を問わず、結婚にはこだわらず一生独身を通す人々も急増しているようだ。一面で少子化問題という社会的な課題も孕んではいるが、「3高」は元より、結婚自体がどうでもよい時代に既に突入しているのかもしれない。
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まやかし美女に騙されるな

2008年06月08日 | 医学・医療・介護
 最近、新聞広告でよくみかけるのだが、「これで43歳」「これで51歳」「これで62歳」……。  顔をファンデーションで塗りたくり、ウィッグ等でヘアスタイルをばっちり決めた女性達が笑顔を振りまいている広告である。皆さんもおそらく既にご覧になったことがあるであろう。
 美容サプリメントの広告なのだが、あれを見て、本当に「すごいな~!」「若いな~!」「美しい!」と思っている人がいるのであろうか??? こんな演出がみえみえの広告に騙されて、高価なサプリメントを購入してしまう女性達は多いのであろうか???


 女は化け物だ。化粧、ヘアスタイル、洋服等の外的要因でオールマイティに変身可能である。(もちろん男性も) 
 特に、近年の化粧品やウィッグ、はたまた体型補正下着等の品質向上ぶりはすさまじい。それ程高価な商品でなくとも、その“ボロ隠し”効果の程は私も日々使用していて実感している。

 一方、近年の写真撮影や印刷分野の技術革新にも目を見張るものがある。
 メーキャップアーチスト、ヘアアーチストにスタイリスト、コーディネーター、カメラマンに影像技術者…そんな各分野のプロフェッショナルさえ揃えば、この程度の広告の写真製作など今の時代お茶の子さいさいである。どんな“醜いアヒルの子”ならぬ“醜い婆さん”とて、一瞬にしてまやかしのスーパーレディに大変身が可能なのだ。

 この私も若かりし頃から外見にはこだわっている方で、外出する時には必ず化粧にヘアスタイル、洋服のトータルコーディネートをバッチリ決めて出かける。その道のプロではないのでもちろん自己満足の世界の範囲内での話なのだが、これが決まり損なっていると一日中気分が悪くて落ち着かない。
 そういう風に自分を演出することに慣れている私であるが故に、人間なんていくらでも変身可能なことを十分承知している。加えて、最近携帯で自分の写真をよく映すのだが(自分の外見を客観的に捉えるために写真によるチェックは有効である。)、こちらの方も陰影の付け方等撮り方によっていくらでも若く見えるように撮ることは可能だ。
 そんなことを百も承知している私は、まかり間違ってもこの手の広告に騙されることはない。

 もちろん商品購入は個人の自由である。だが、後で「騙された!」と騒ぎ立てる前に、現実を受け入た上でより美しくあるための個々人の日々の努力こそが優先されるべきであろう。


 当ブログのバックナンバーでも既述(健康・医療カテゴリー「人間て若返らなきゃいけないの?」を参照下さい。)しているが、私には必要以上に若返ろうという思想は元々ない。私の美に関するポリシーは、常に自分の個性を活かしつつ如何に自分が満足できる美に近づくかというところにあるのだ。
 なぜならば、人間は年相応に見えることが結局は一番幸せであることを実感しつつ生きてきているからである。

 実は、私は元々童顔であったり現在の体型(165cm、47㎏)を長年維持し続けていること、そして服装の若好み等により、普段は年齢より相当若く見られてしまう。それがうれしいと思えるのは一瞬の感覚に過ぎず、若く見られ過ぎるが故に損失を被ることの方が日常生活上よほど多いのだ。20代の頃高校生に間違えられて深夜の新宿で警官に補導されかかったこともあれば、30代後半で教員に転職した時には生徒は新卒新任教員だと思っていた。つい最近も子どもと一緒に歩いていてヤンママだと思われたし…。(ミニスカなんかでチャラチャラ歩いているからだけど、これはちょっとうれしかったかな。)

 特に職業人として若く見られ過ぎることの損失は顕著であった。私が職業人として活躍していた時代は元々女性であること自体が不利であったのだが、まして年功序列の時代のため「若い女性」というのは職場において一番地位が低いのだ。外見が若く見えるが故に、私の実年齢を知らない人達から大袈裟に表現するとずっと侮られてきたように思う。(もちろん、仕事の実力でカバーしましたけどね。)
 高齢で子どもを産んだ後もそうだ。同年代の子どもを持つお母様方は私よりずっと若い世代の方々だ。ところが皆さんは同年代だと思って下さる。これは損失という訳ではないのだが、話がかみあわずお付き合いにはストレスが溜まることが多かった。 やはり、人間とは実年齢通りに見られるのが一番自然体でいられるように思う。


 自分の外見に結構こだわっている私が言うのもなんだが、人間にとって外見とは付属品に過ぎない。もちろん見た目も美しいに越したことはないのだが、やはり内面の充実があってこそ外見がより輝くというものだ。
 年齢を重ねる毎に、人間性や生き様が外見を形作ってくるものでもある。苦労が多く心労が重なると確かに白髪や皺が増え、顔色や表情も冴えなくなる。それも人間としての年輪のひとつであり肯定的に捉えるべきだとも思うが…。

 とにかく、美しさイコール若さでは決してないと私は考える。ファンデーションの化けの皮を剥がしたてみたら、そこには醜さしか残らないような薄っぺらな人生だけは歩みたくないものだ。今後共、自分のポリシーに基づき内面、外面共々美しく年齢を重ねていきたいものである。
   
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笑わない時代と社会

2008年06月07日 | その他オピニオン
 人が笑わない時代になった。街を出歩いても、人の表情はけだるく無機質だ。


 いきなり私事であるが、私の結婚式の時のポートレート写真は類を見ない程特異的である。
 花嫁単独写真から全体集合写真まで結婚式場でのプロのカメラマンによる数枚のポートレート写真を保存してあるのだが、そのすべてにおいて花嫁である私が歯をむき出して笑っているのだ。 
 結婚写真というと、花嫁たるものすまし顔かせいぜい少し微笑んでいる程度なのが常識というものである。
 なのになぜ、私の花嫁ポートレート写真のすべてが歯をむき出して笑っているかと言うと、それがカメラマンの好みだったからである。
 最初は花嫁(すなわち私)一人の写真から撮影し始めた。撮影が始まった時点では私はすまし顔を決め込んでいたのであるが、カメラマン氏と会話しながらの撮影に打ち解けた私がケラケラ笑い始めたのだ。(私、結構笑い上戸です。)
 そうしたところ、そのカメラマン氏が私の笑顔がいいとおっしゃって下さり、その笑顔(というよりも大笑い顔)をシャッターチャンスに狙いを定めてしまったのだ。 なぜ私の笑顔がいいかと言うと、私には生まれ持っての“えくぼ”があるのだが、それをカメラマン氏が妙に気に入ってしまった様子なのである。
 そうとは言え、一応結婚写真であるからには一生記念に残るものである。撮影されつつ、そんなに大笑いの写真ばかりでも…、と我に返り、やはりすましてみたり少し微笑んでみたりするのだが、そのカメラマン氏は相変わらず「もっと笑って!」の連呼である。新郎新婦写真になっても、全体の集合写真になっても「花嫁さん、笑って!」の連呼は続き、私はすべての写真において歯をむき出すことになったという訳だ。

 この私の花嫁写真はどう考えても特異的であろうが、一昔前までは写真を取る時の決まり文句は「はい、チーズ!」であった。カメラの前で皆笑顔を作ったものだ。
 
 ところが今の時代、例えばタレントの宣材写真等においても笑顔の写真は少ない。
 一昔前“ぶりっ子アイドル”がもてはやされた時代には、タレントはとにかく不自然な作り笑顔で媚を売っていたものだ。
 近年のタレントの宣材写真といえば、男女にかかわりなく決して笑わず、睨みつけたり、ポッカリ口を開いてみたり…。 どうもこれは“作りお色気”作戦の世界のようだ。おそらく時代が笑顔よりも表面的なお色気を好むのであろう。ところが残念ながら、私の目にはこの“作りお色気”はちっとも色気がなく滑稽にしか映らない。両者の共通項は“不自然さ”なのであるが、所詮不自然ならばむしろ“作り笑顔”の方がまだしも可愛げがあるのになあ、などと私は思ってしまう。 笑顔も色気も内面から自然ににじみ出るものが本当は一番美しい。


 さて、このように“笑顔”が敬遠されるようになった時代背景を考察してみよう。
 昔、“女は愛嬌、男は度胸”という言葉があった。差別用語的ニュアンスもあるため現在では使用されなくなっているが、男女を問わず対人関係における出発点として愛嬌の基本である“笑顔”が大きな役割を果たしていたように思う。
 人間は生まれ持って本能的に“笑顔”を好むようだ。“笑顔”には本来的に人間肯定の機能が備わっていると思われる。産まれて数日しかたたない赤ちゃんでも“笑顔”の認識ができ、笑顔で接すると赤ちゃんはご機嫌でつられて笑ったりもする。育児の基本、そして人間関係の出発点が“笑顔”であることには間違いない。

 そのように人間関係の出発点でもある“笑顔”が、なぜ今の時代失われてしまっているのか?
 その根源はやはり人間関係の希薄化現象にあろう。他者との深い心のふれあいを好まず、人は自分の世界に閉じこもろうとする傾向にある。 まずは笑顔から入って語り合い少しずつ人間関係を深めていくという作業を経ずして本来の人間関係の進展は望めないはずなのに、悲しいかな今の時代自分の都合のみの人間関係で手っ取り早く事を済ませようとする人々が増えてしまっている。
 例えばの話、恋愛関係においてもすぐに体の関係に入ろうとする。だから、さしあたって直接的、表面的な色気の方が重要なのだ。 その場合、七面倒臭い笑顔や会話はむしろ煩わしい。へらへら笑顔を見せられても鬱陶しいだけなのであろう。
 そして、自分にとって用のない相手とは挨拶さえも迷惑がる人も今や多い。まさにエゴの閉鎖的な世界である。
 そんな人種が社会に蔓延し、街では皆がけだるい無機質な表情をすることになる。


 いつ何時もへらへらしようと言っている訳ではない。人間関係のエッセンスとして最低限自分のお気に入りの相手には少し意識して笑顔を取り入れてみたら、その結果心が潤い、世の中は少しずつ明るい方向へ動きそうに思うのだが…。 
  
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「問い」を学ぶ

2008年06月05日 | 学問・研究
 学問とは何か?  それは、その字の通り“「問い」を学ぶ”業である。


 先だっての5月30日(金)朝日新聞夕刊「こころ」のページの相談コーナー「悩みのレッスン」において、この“学問”が取り上げられた。

 では、いつものようにまず「悩みのレッスン」の相談者の相談内容から要約してみよう。
 この春浪人生になったが、大学受験に落ちたショックから新たな気持ちで勉強できない自分がいる。周囲も行くから大学に行くことを当たり前だと思い目指してきたが、今は大学に行きたいという強い意志が薄れ、自分がなぜ大学に行きたかったのかわからない。自分がこだわっていた学問って何なのか?少しの興味で学部を選択していいのか?大学へ入る意義など何かヒントが欲しい。

 この相談に対する哲学者、永井均氏の回答を以下に要約する。
 ときどき、高校までの勉強は嫌いだったが大学の勉強は好きだという人がいる。(逆もいるが。)両者には根本的な違いがあるからだ。
 高校までの勉強は、現在までのところ知られている学問の成果を理解して記憶することが中心である。歴史を例にとると、史実とされている内容を記憶し定説となっている因果関係を理解することが学習の中心となる。その史実のバックグラウンドや、なぜ教科書にその史実が取り上げられているのか、また過去にそういう出来事があったからといってそれが何だというのか…、といった最も肝心のところが素通りされている。
 大学に入って初めて、答えではなく「問い」を学ぶことができる。同時に、いま学者達の意見が一致していない最先端の論争状況を知ることができる。その二つはつながっている。面白い。
 面白いのみならず、そのような観点に立ったとき初めて人間とは何であり、何のために生きているのかの問いと、学問の営みとのつながりが理解できる。
 大学には行ってみた方がいいと思う。
 以上が、永井氏の回答の要約である。


 学問に励む意義等については、本ブログのバックナンバーでも何度か取り上げてきている(学問・研究カテゴリー「学問は虚無からの脱出」等を参照下さい。)が、私論も上記の永井氏とまったく同様である。

 高校までの学習とはその分野の如何にかかわらず既存の事実の理解、記憶作業に過ぎない。言わば受身の学習でありそれ故につまらなさも伴っているため、嫌いな人が多いのではなかろうか。もちろん、その既存の事実に興味を持って学習に励み知識を積み重ねていくことは人間にとっての成長につながるし、こういう作業が得意な人々も存在するであろう。

 片や、大学での学問とは、まさに「問い」を学ぶ業である。
 ただ、残念ながら学問のこの本来の意味さえ知らずして大学を卒業していく学生も多いのかもしれない。なぜならば、学問に取り組む前提として高校までの学習による知識が欠かせないのにそれが元々満たされていなかったり、大学側に学問を伝授していく教育力がなかったりする現状だからである。これについても既に本ブログの教育・学校カテゴリーバックナンバー「大学全入時代への懸念」で取り上げたが、大学入学者の学習能力不足が著しいため、名立たる大学においても中高の復習をしているという事例が少なくない実態らしく、悲しいかなこれでは大学本来の「問い」を学ぶ学問からは程遠い。


 私事になるが、この私も決して最初から学問好きだった訳ではない。私が学問に目覚めたきっかけは、社会人になってから民間企業で医学分野の業務に携わっていた時に「免疫学」に触れて以来だ。私の場合、医学分野の国家資格も取得しており基礎知識を有していたことが幸いして、当時の最新の「免疫学」にはまってしまったのだ。私が従事していた免疫学分野の関連研究の最新情報(まさに学者達のホットな論争状況)を入手したくて、会社の出張費で全国を飛び回り免疫学関連の学会に出席したり、文献を読みあさったりしたものだ。(学問・研究カテゴリーのバックナンバー「self or not self」を参照下さい。)
 それがきっかけで「問い」を学ぶことの面白さに目覚めた私は、更なる学問を志し、30歳を過ぎてから再び新たな学問を志すことになったといういきさつである。

 永井氏が述べられている通り、学問とは面白いだけではない。学問に勤しむことにより、人間とは何であり、何のために生きているのかという人間本来の「問い」にも直面できる。どのような分野の学問であれそれに触れることにより、必ずや人間はさらに人間らしく生きられるような実感もある。

 上記の私自身の「免疫学」の例のように、決して大学だけが学問を修める場であるという訳ではないが、せっかく一度大学での学問を志したのならば、大学や教官による当たり外れは覚悟の上で、是非行くことを私もお勧めしたい。
  
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商売っ気を出そう!

2008年06月03日 | その他オピニオン
 近頃買い物に行くと、この店「売る気あるんだろうか?」と呆れる場面によく出くわす。

 店に入って店員が暇を持て余しているように見えても「いらっしゃいませ!」の一言もなかったり、レジで会計をしようとしたら店員が面倒臭そうだったり、はたまた大手スーパーで買い物をしていると商品棚に商品を陳列しているパートのおばさん(?)に“忙しいんだからそこどいてよ”と言われんばかりに邪魔者扱いされたり、商品を手にとって見ているとその傍らで店員が無言でたたみ直したり…、例を挙げるときりがない。


 ある時、腕時計(一応ブランドもの)のベルト部分の接着が取れてきたのでベルト交換も視野に入れ時計屋へ行った。
 とりあえず私は尋ねた。「すみません。このベルトが取れかかっているんですが、接着し直していただくということは可能ですか?」 店主と思しき人物から返ってきた回答は「そんなのできないよ。ベルト替えなきゃダメだよ。」客として取り付く島がまったくない。
 相手は商売をしているはずなのに客に対して何でそんなに否定的なのか。少し柔らかく「修理はできませんが、ベルト交換はいかがでしょうか?」と何で言えないのか。そう受け応えした方が幾ばくかの収益につながると私は思うのだが…。
 「わかりました。」と一言だけ言い残し商売っ気のかけらもない店を去り、他店へ向かった。
 今度は親切だ。まず時計をじっくり見てくれて「この時計の場合ベルトはお取り寄せになりますが、もしお客様がこのメーカーのベルトでなくてもよろしければ今すぐベルト交換できますが。」  「はい、それで結構です。」と、私。
 そうして時計に合うベルトを何点か丹念に探してくれ、その中で私が一番気に入ったベルトにその場で付け替えてくれた。その腕時計は今でもバリバリの現役で活躍中である。

 またある時、糸を買いに手芸店へ行った。 私は、手芸の趣味はなくド素人である。
 自分で目的の品を求めて店内を探せばよかったのだろうが、店員が暇そうだったのでいきなり尋ねた。「すみません。普通の糸が欲しいのですが。」
 確かに私のこの“普通の糸”の表現はちっとも的を射ていないであろう。それは認めるが、何分素人なのでこういう表現しか思いつかないのだ。
 すると店員が少しイライラしつつ返ってきた答えは「普通の糸って何ですか!」だからそれをこっちが聞きたいんだってば…。
 「どういうことに使用されるのですか?」と何で聞き返せないのだろうか?
 しょうがないので、素人の私が説明した。「ボタンをつけ直したり、ほつれた箇所を手で縫い直したりする糸です。」 それを聞いたか聞かないか呆れ顔の店員はそっけなく「ボタン付け糸ならこっちです。」と言い残してその場を去った。 たかが糸ひとつなので不本意ながらその店で買って帰った。

 いい例の話もしよう。
 つい先日、ブティックで夏物ワンピースを買った。私はデザイン、柄とも気に入り試着してみてもサイズもバッチリ合うので買うことに決め、会計のためレジへ持って行った。私の場合、洋服は自分の年齢より相当若好みなのであるが、レジでは自分の年齢を考慮すると多少気後れする。 このブティックは小規模で店長と思しき若い女性ひとりが切り盛りしているのだが、その女性店長は会計をしつつ「これ、すごく柄がいいでしょ!」と私を盛り立ててくれるのだ。なかなか商売っ気があってこれは気分がいい。このワンピース、私のお気に入りの一枚になりそうだ。またこのブティックに買いに来よう! (顧客なんて実に単純なものよ、商売人さん。)


 いずれにしても、上記のような小売店舗の商売っ気のなさは今の時代の人間関係の希薄さに源を発しているように私は考察する。
 人間関係が円滑に機能していた時代においては、商売も人間同士のコミュニケーション中心に成り立っていたように懐かしく思い出す。私の子ども時代は、親に連れられて買い物に行ってその小売店の店主や店員や他の顧客も交えて一時話し込んだものだ。子ども心に買い物は楽しい娯楽であったような記憶もある。
 都会に移り住んで以降は、大型小売店舗等における顧客に付きまとっての押し売りもどきの過剰サービスが敬遠されてきたのは私にも理解できる。
 ところが過剰サービスの廃止に便乗し過ぎて、商売の基本である顧客の要望に応えることまで排除してしまったのはなぜなのか。大袈裟に言えばこの現象は現在の日本経済の低迷につながっていると言っても過言ではないようにも思う。


 私には小売商売経験はないが、日常の買い物くらいある程度気持ちよくしたいものである。そんな顧客のささやかな要望にさえも応えらない程、小売店舗にとって現在は余裕のない厳しい時代であるのか? 
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