原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

何を血迷ったか “家族クリスマス会" なぞ開催したぞ

2018年12月23日 | 人間関係
 (写真は、昨日自宅近くのファミレスにて開催した “家族クリスマス会” にて食したズワイガニの甲羅盛。)

 血迷ったのはこの私だ。

 外部のレストランで“家族クリスマス会”など開催したのは、何年ぶりの事だろう。
 いえいえ、娘が高校生頃までは自宅や外部レストラン等々で毎年それを実施したものだが。


 それ以前の問題として、近頃は「クリスマス」感覚が庶民から遠のいているのを実感させられる。
 一昔前(我が子が幼少~小学生頃)には、世間の皆がこぞってクリスマスイルミネーションの飾りつけなどを家中に施したものだ。  我が家とて可愛い娘の要望に従い、派手なイルミネーションを家中至る所に飾り付けた。  そしてクリスマス当日には大きなデコレーションケーキを買って来て、ロウソクを吹き消しつつ「メリークリスマス!」などと柄にもなくはしゃいだりもした。

 娘の大学進学、その後の就職に伴い、自宅でのクリスマスパーティらしきものは自然消滅していった。
 その代わりとして娘と二人でクラシックバレエ「くるみ割り人形」公演を観た帰り等々に、外部のレストランにてクリスマス会らしきものをして、いつものことながら私一人で飲んだくれたものだ。


 さて、今年何故私が「家族クリスマス会」などを企てたのかと言えば。
 まあ要するに“家族サービス”の一環だが、今年はその“家族サービス”の中でも「亭主孝行」を一番に視野に入れた。
 ちょうど昨日から娘が3連休に入り空き時間が取れそうだ。 いつもなら、この時期定例のバレエ公演観賞に娘と二人で出かけるが、今年は私が既に映画版の「くるみ割り人形」を見た。(これがまったく期待外れで、本物の「くるみ割り人形」クラシックバレエ舞台芸術を冒瀆する内容だった事実は、既に公開済だが。

 我が亭主は娘中学2年時に「エジプト・ギリシャ方面家族旅行」へ3人で出かけたのを最後に、我々母娘が企画したイベントに参加していない状況だ。(参考だが、亭主側から何らかのイベントを企画・提案する事は我が家の場合稀で、いつも私が家長としてリーダーシップをとる風習だ。)

 亭主が私が企画した我が家のイベントに参加しないのには理由がある。 こちらとしては“やむなく義務感で”亭主も誘ってやるのだが、どうも女二人の仲に入るのが苦手な様子なのだ。(その気持ちは私も分かる気もするが…)
 しかも亭主の悪い癖は、ドタキャンする事でもある。 どういう訳か最初は「行く」と返事して、必ずや直前になってキャンセルを私に申し出るのだ。 これが実際二度手間で煩わしく、結果として私を怒らせ亭主が身を縮める事と相成る。 これを繰り返しているうちに、亭主は最初から我々母娘の行事には参加しない選択をすることとなった。


 そんな状況が続いていたのだが。
 「今年のクリスマスは、レストランで“クリスマス会”をやろうよ。 ただ、電車を乗って移動する場所のレストランをわざわざ予約するのではなく、近くのファミレスへ気軽に行こう。」との我がアイデアを亭主に話した。

 これが功を奏したようだ。
 「それだったらボクも行く。」との回答だ。 そして昨日行ったのが自宅近くのファミレスだ。

 このファミレス、この地に引っ越して来た以前より存在していた。 私と娘が二人で行った事は数多いのだが。
 亭主が行くのは、まさに昨日が初体験だった。
 いや、これが凄い! と言うのか、娘と二人で行った時期よりも料理内容が進化している嬉しい事態に私自身が直面した。

 何と言っても、料理が美味しい!
 冒頭写真の「ズワイガニの甲羅盛り」を筆頭として、その他オーダーした「フォアグラハンバーグ」「ウニスパゲティ」さらにはデザートの「抹茶プリンパフェ」など、高級料亭を超越する味に仕上がっているではないか!?! (実際問題、高級が“売り”の名門食事処とて表向きの奇をてらっているばかりで肝心要の“味”を外している現実をよく経験する…
 更に過去にこのファミレスに行った時には、(飲兵衛の私としては)「酒」に手薄感があったのだが。  その難題もファミレスとしてはある程度クリア出来ていて、合格点だ!

 今回は亭主が喜んでくれたことで、我が「亭主孝行」責任は果たせただろう。

 いや、実際自宅の近くにある程度満足できる“美味しい食事処”があることとはラッキーだ。

 亭主が少し酔っ払った勢いで「新年会もここで3人でやろう!」とはしゃいでくれたのが、“ファミレス家族クリスマス会”を企画実行した私に取っては一番の収穫だったといえよう。
 

私も“生涯未婚”だった確率は高い…

2018年12月20日 | 時事論評
 今朝見たネット情報によると。

 我が国に於ける現在の生涯未婚率は、男性23%・女性14%で過去最高らしい。


 引き続き当該ネット情報より、その実態を要約引用しよう。

 生涯未婚率とは、日本の人口に対し「50歳まで一度も結婚したことがない人」の割合のこと。 50歳時点で未婚の人は「将来的にも結婚する予定がない」可能性が高く、生涯独身でいる人がどのくらいいるかを示す統計指標になっている。 生涯未婚率は、5年に1度実施される国勢調査の結果から割り出しているもの。2016年9月に公表された動向基本調査によると「いずれは結婚したい」と考える未婚者(18~34歳)の割合は男性85.7%、女性は89.3%とのことで、決して低い数値ではない。
 今の50代は、昭和時代に20~30代を過ごしてきた。 今ほど日本人の生き方が多様化していなかった当時は、上記よりさらに結婚を望む人の割合は高かったであろうと想像できる。 それから20年以上が経ち、男性のおよそ4人に1人、女性のおよそ7人に1人が未婚でいることには、どんな背景(理由)があるのだろう。
 今の50代は、20代にバブルを経験している。 彼らは好景気のなか社会人となり、若いうちに多額のボーナスを手にしたり、分不相応に派手な遊びを覚えてきた。 そのせいか、50代となった今でも派手なものを好み、男女とも若くて元気な人が多い印象。 そこに、現代の「生き方の多様化」が加わった今の50代は、「いつまでも現役」な生き方を選んでいるように見受けられる。 未婚の独身者も同様だが、離婚経験のある独身者においては、「もう一度結婚しよう」と婚活にいそしんだり、50代で3回目の再婚したりとパワフルな人が多いのも特徴。
 ただ1つ気になるのは、現代の未婚独身者に多い「結婚はしないけど、恋愛はしたい」という思想。 彼らはまだ健康で収入もあり、独りの生活に不自由していないからこそ、若い頃と同様に恋愛できると考えているのかもしれない。 特に男性は「若い女性と恋愛したい」という望みを持ちがちだが、歳を重ねるほど世代間ギャップが生じ、難しくなる。 50代の独身男性が増加しても、彼らが好む女性が若い世代となれば、同じ50代の独身女性にとって、マッチングの可能性が増えるとはいえない。
 現実問題、独身者の絶対数は歳とともに減少する。
 恋愛の楽しさは、安らぎと刺激がもたらします。 経験値が増えていけば、その分刺激となるような“初めての経験”は減ってしまう。 年齢に比例して経験は増えていくので、若い世代のような恋愛では物足りなくなるのも必然で、それは大人になったからこそ。 少なくとも「恋人が欲しい」「恋愛したい」気持ちを持ち続けているならば、その先に“結婚”という選択肢をなくさないほうがいいと考える。
 恋愛も結婚も年齢制限はない。 むしろ結婚をあえて避けず、「縁があれば」くらいに捉えておいたほうが出会いの幅は広がる。 出会いを増やしたい大人世代は、生涯のパートナーを探すことも視野に入れ、婚活市場に参入することがベストな手段ではないだろうか。
 そもそも1950年代まで、日本における結婚はお見合いのほうが主流だった。 恋愛結婚がお見合い結婚より多くなったのは、1960年代から。 2010年以降(18~35歳対象)のお見合い比率は、5.5%まで減少している。
 結婚はしなければいけないものではない。 昔とは違い、ライフプランにおける選択肢の1つだろう。 ただ、しないよりはしたほうが人生が豊かになるのも確か。 「やってみてダメなら離婚すればいい」というアドバイスはかなり乱暴ですが、「一度くらい経験してみよう」と柔軟に捉えてみてもいいのではないだろうか。 共に生きるパートナーの存在は、大人になればなるほど“かけがえのないもの”になっていきます。 今は結婚のスタイルも多様化している。 大人になった今こそ、ライトな恋愛遍歴を重ねるよりも、それ(結婚生活)はずっと有意義なものになるはずです。
 (以上、ネット情報より要約引用したもの。)


 一旦、私事及び私見に入ろう。

 私の場合は30代に経済バブル期を迎えたが、“華の独身時代”を謳歌して来た人種だ。
 まさに上記ネット情報に書かれている通り、 バブル景気の中多額の収入を手中にしつつ(私の場合は)“分相応”に派手な遊びを楽しんだ身だ。
 ボディコンスーツ・ロン毛ソバージュの派手ないでたちの私は、自分でも面白おかしい程にモテまくり、夜な夜な男どもと高級酒場を飲み渡り、結婚の「け」の字すら無縁の日々をエンジョイしたものだ。 (いえいえ職業人としての私は至って真面目で、それに集中・専念していましたよ~~。)

 そんな我が脳裏に「結婚」との概念が過ったのは、実際お見合いにて成婚に至った半年程前の事だったと振り返る。
 その時とて、決してそれを焦っていた訳ではあり得ない。 むしろ“子供はいらない”派だった私は、一生独身を貫く覚悟の方がずっと勝っていた。 まあとにかく、幸運にも良き人に巡り合えれば結婚しよう程度だったものだ。
 そんな時に巡り合ったのが現在の亭主だ。 嫁ぎ先家族(特に義母)に関しても精査した上で成婚に至っている。(これに関しては当エッセイ集前回のバックナンバーでも述べたばかりだが。) その間、わずか半年足らず。 実際我が感想としては、「結婚」とは突然降りかかってくるものとしか言いようが無い。

 ではもしも、その時私が見合いにて亭主(及びその一族)に巡り合っていなかったとして、その後如何なる人生観の下に暮らしたのだろう。
 この課題に関しては、普段から時折我が脳裏に思い描くのだが。
 おそらく私はその後も一職業人として社会で活躍していたものと想像する。 そしておそらく私は比較的優秀な(??)人材としてこの世を渡り、現在に至っているのではなかろうか…、などと自分に都合よく解釈したりもする。
 実際問題、一生独身にて職業を全うしている女性の存在とは今に至って尚羨ましい限りだ。

 ただし私が一生独身を貫く条件に於いて、身勝手ながらも私を陰で支えてくれる“男性”の存在無くして成り立たないとの命題は常にあった。 
 30代後半当時には、生涯それに恵まれるだろうと(今思えば)“空虚な自信”があったものだ。
 この自信に関しては、上記ネット情報が“バッサリと”斬り捨ててくれている。 (年齢と共に、そんな妄想は妄想でしかないと…) 実際そうなのだろう、と私も今現在同意する。


 最後に私論でまとめよう。

 “子供は要らない”と独身時代は本気で思っていた私だが…。
 今の我が結婚生活を振り返るならば、我が娘の存在こそが絶対絶大であることに日々感謝している。

 私の場合は“曲がりなりにも”(娘に対する侮辱発言であることを重々詫びるが)超難産にて子供を産み、その直後よりサリバンとして娘の教育・指導に二人三脚で精進したこの25年の年月こそが、元々愚かな私を“職業人”である以上の「人格者」として育て上げてくれた感覚がある。

 全ての事象に於いて、他人にとり他者の人生とは参考にならない事は歴然だろうが。
 結婚して“(多少不具合を抱える)我が子を産んだ”ことこそが、この私にとっては何物にも替え難い感動を日々呼び起こしてくれている実感が今確かにある!


 そうは言えども。
 
 50過ぎて独身を貫いておられる皆さんにも、それぞれの人生模様がある事だろう。

 もしも結婚したいのならば、それに向かって努力するべきだし。
 そうではなくてご自身の独身生活を堪能したいのならば、それを続行すればよい話だ。

 そういう意味では、統計上の「生涯未婚率」の発表など、安倍政権の身勝手な“少子化政策”以外には何らの役にも立たず、単なる娯楽情報に過ぎないだろう。

今年も “私らしく” あれたかな??

2018年12月18日 | 自己実現
 今年の師走も後2週間足らずともなると、この種のエッセイを閲覧下さる方々が増えるのであろう。
 昨日・本日と連続で、本文の下段「Popuar Entries」に 2018.01.01公開バックナンバー「今年も“私らしく”行こう!」がエントリーしている。


 早速以下に、当エッセイを要約引用させていただこう。

 新年早々、冒頭から“出来合いおせち”の話題にて失礼致します。
 何分“料理嫌い”で名を馳せている原左都子故に、新年にはずっと“出来合いおせち”の世話になり続けている。
 亭主と結婚当初期には元旦は必ずや毎年亭主の実家を訪問し、義母が丹精込めて作ったおせちをいただいたものだ。 更には義母は我が家の分までその手作りおせちを三段重で用意しておいてくれ、それを自宅に持ち帰り残りの正月を過ごすとの厚遇を受けてきている。
 我が娘7歳頃から義母の高齢化に伴いその手間が苦痛になったとの事で、その後は毎年新年には外部個室料亭を予約して、原家一族が集結し新年会が執り行われて来た。
 その一族新年会をずっと牛耳っていた実質原家の“親分”だった義理姉が、5年程前に63歳の若さにて膵臓癌にて他界した後、原家一族新年会が自然消滅し現在に至っている。
 いやはやこの“料理嫌い”の私が、一族間で厚遇され続けてきた嫁である事には間違いない。
 新年会で一番飲んだくれていたのは嫁の私だし、誰一人としてそれを責める親族がいないどころか。 私が呑兵衛であることを承知している親族皆が「〇子さん(私の事)もっと飲もう!」と快く酒を継ぎ足してくれたものだ。 
 (自分に都合よく解釈するならば、“料理嫌い”以外の分野では“よく出来た嫁”として一族の信頼を勝ち取っていたが故だ。)
 そんなこんなで私にとっての新年とは家族の世話だけしていれば済まされる立場故に、美味しいものを食べて飲んで寛げる時でもある。
 要するに、いつも“私らしさ”を失わず自分のポリシーに基づき一生懸命生きていれば、たとえ致命的欠点(私の場合は“料理嫌い”がそれに当たる)があろうが、それが致命傷とはならないとの結論が導けそうだ。
 “料理嫌い”の話題はここまでにして。
 今年の目標を何と掲げようかと先程まで無い知恵を絞っていたのだが。
 これでよし! だ。
     今年も、“私らしく” 行こう!  
 (以上、「原左都子エッセイ集」」バックナンバーより要約引用したもの。)


 私見に入るが。

 へえ、そうだったんだ。 
 私って今年の目標を定めていたんだ。 それが「“私らしく”行こう!」だったのだと、今更ながら驚かされる。

 ただ私の場合、上京後は常に“私らしく”生きている人種であるため、今更ながらその目標を立てずとて自然体でいるだけで “私らしく”過ごせる気もする。
 何分40近くまで独身一人暮らしを貫いた立場だし、根っからの「集団嫌い」も幸いし “私らしく”ある事など超得意技であるとも言えよう。

 一番の転機は、やはり晩婚時だったかもしれない。
 ただこれに関しても、敢えて「見合い結婚」を選択・実行したのが功を奏したようだ。 結婚相手のみならず、嫁ぎ先家族の面談も滞りなく実施した挙句に成婚に至っている。
 特に一番の要人物であろう義母に関しては、その人物像をしかと見届けた。
 一方、あちら(義母)の希望としても、息子の嫁には“お嬢さん”は要らない、しっかりと息子を操れる女性が理想像、ついでに息子と学歴が釣り合うべく「大学院」修了の職業女性ならば尚良し! だったようだ。
 その義母の眼鏡に十分叶った私が、結婚後も嫁ぎ先から邪険に扱われる訳がなかった。
 
 その結果が、上記バックナンバーに記した通りの嫁ぎ先一族よりの厚遇だったという事だ。
 今一度、その様子を以下に反復するならば。
 いやはやこの“料理嫌い”の私が、一族間で厚遇され続けてきた嫁である事には間違いない。 新年会で一番飲んだくれていたのは嫁の私だし、誰一人としてそれを責める親族がいないどころか。 私が呑兵衛であることを承知している親族皆が「〇子さん(私の事)もっと飲もう!」と快く酒を継ぎ足してくれたものだ。(義父も義理姉も既に“亡き人”だが…。) 
 ついでに最初に出会った時には可愛らしい高校生だった義理姉の息子も、40代になった今尚私の事を“〇子さん”と呼んで親しんでくれている。
 自分に都合よく解釈するならば、“料理嫌い”以外の分野では“よく出来た嫁”として一族の信頼を勝ち取っていたが故だろう。 
 要するに、いつも“私らしさ”を失わず自分のポリシーに基づき一生懸命生きていれば、たとえ致命的欠点(嫁の立場の私の場合は“料理嫌い”がそれに当たるだろう)があろうが、それが致命傷とはならないとの結論が導けそうだ。


 現在高齢者施設に暮らす義母は、認知症と耳の聞こえの悪さに苛まれている。
 それでも私の顔を見る都度、いつも満面に笑顔を浮かべつつ「〇子さんのお陰です。」を繰り返してくれる。 私自身に都合よく解釈するならば、我が義母に対する介護保証人責任もつつがなくこなしている嫁の私に、現在は“虚ろな脳内状態”であろうが、義母は本気で感謝してくれているのだろう。

 とにもかくにも婚姻後の女性とは我が身を優先して、婚姻先の家族と上手く渡っていく能力が一番に期待されるのは必然だ。 特に正月の時期とはその能力発揮のまたとない機会かもしれない。


 最後に表題に掲げた「今年も“私らしく”あれたかな?」に話を戻すならば。
 自己判定としては、“私らしく”あれた! と結論付けたい。

 ただねえ。 他者よりの評価はどうなのか??
 いやいや私の場合、他者評価に依存しないポリシーを貫きたい人間である事を思い起こすならば。
 本年も目標達成!! と結論付けるべきだね。

“片想い”して、何が悪い?!

2018年12月16日 | 恋愛・男女関係
 結論から先に言うならば。
 誰が氏かに“片想い”した人物がたとえ既婚者であろうが、「内心の自由」は法律でも保障されている。

 ただお相手の迷惑を考慮して、“ストーカー行為” だけは絶対に避けるべきだ。

 
 さて週末恒例の、朝日新聞2018.12.15付 “悩みのるつぼ” より、30代女性による「パート先の上司に恋♡」と題する相談内容を以下に要約引用しよう。

 30代女性、3人の母であり、4世代家族の嫁、自営業の手伝いもしている。 最近某会社でパートを始めた。 会社勤めは人生初めての事で何もかも新鮮で楽しくて仕方がない。 会社ではちゃんと仕事をすれば褒められることが嬉しくて、仕事にのめり込んだ。 
 そんな日々の中で、ある会社役員男性の存在を強く意識するようになった。 彼は妻子持ちだが、頭の先から足の先までお洒落でクールで知的で仕事が出来る。 ゆっくり話す機会は無いが、1秒でも目が合って挨拶できれば足が震える程うれしい。 家事をしている間も、翌日彼に会える事のためだけに全ての準備をしているような毎日だ。
 3人の子供は宝物だし、夫も優しく、一生この人と生きていくのだとの思いに嘘はない。 でも、彼に会うその一瞬のために化粧品を揃え、新しい服と靴を買った。 恋をしていると認めざるを得ない。 
 主婦が恋して悪いか!と開き直りたいのだが、この年で何をしているんだとも思う。 この恋をどう捉えたら、自分らしく生きられるか。
 (以上、“悩みのるつぼ” より30代女性の相談内容を要約引用したもの。)

 一旦、私見に入ろう。

 まあ何とも真面目で純真で可愛らしい30代の主婦だこと!
 いいんじゃないですか? 上司である男性に恋しても。 冒頭にて述べた通り、“内心の自由”は法律でも保障されているよ。


 引き続き、社会学者 上野千鶴子氏による「主婦が『片想い』して悪い理由は何もない」と題する回答を以下に要約引用しよう。
 (参考だが、今回の上野氏のご回答は我が意と100%重複した理想回答と私は高評価する。)

 わお、恋をしているんですか。 ドキドキときめきを感じているんですねえ。 パート先でクールな男性に出会い、毎日に張り合いが出ているんですね。
 とは言え、ご自身の状況を正確に認識しましょう。
 あなたと彼は「出会って」すらいない。 あなたが彼を一方的に見初めただけ。 これを「片想い」と言う。 「恋」とはお互いのコミュニケーションがあって初めて成り立つもの。
 「片想い」はいくらやってもタダ。 主婦が「片想い」して悪い理由は何も無い。 好きなだけ味わって下さい。 
 で、これからどうなさりたいんです? 声を掛け、デートに誘い、一歩踏み込みたいのですか? つきまとってストーカーまがいになりますか? 忘れてならないのは、会社役員の上司にとっては、あなたはただの「パートのおばさん」ということ。 実際に相手があなたに手を出して来たら、セクハラかもしれませんよ。 それ程に彼が「クールで知的で」尊敬できる上司なら、そんなにリスクの多い関係は職場では結ばないものだ。 
 あなたの視界に入っている世間は狭すぎる。 「片想い」のよいところは、無断で対象を変えても、誰からも文句を言われないこと。 「あの人カッコイイわねえ」とパート仲間のオバサンたちと噂の種に楽しんで下さい。
 もし「心ここにあらず」状態なら、人生後半戦、あなた自身が変化を求めているのかもしれない。 そちらの方が危機が深い。
 (以上、“悩みのるつぼ” 上野千鶴子氏ご回答より一部を要約引用したもの。)


 再び私見に入ろう。

 この相談者の30代主婦女性の相談は、上に記した通り一見“可愛らしく”もある。
 ただ、何故こんな相談を敢えて新聞投稿せねばならないかとの主婦の深層心理を探った場合、その「片想い」感情がもやは自己コントロール範疇を超えてしまっているのだろう。
 上野氏回答通り、もしかしたら“危機への崩落”を招かないとも限らない心理的怖さを主婦は内在しているのかもしれない。

 ここで私事を語っても埒が明かない事は承知だが。
 30代後半期まで独身を貫いた私など、30代こそが最高の恋愛三昧期でもあった。 いや実際30代とは真の恋愛適齢期と表現するべきか、“腸に染み渡る”ような濃厚な恋愛を心身が欲して受け入れる時期ではなかろうか? 
 そんな30代を3人の子どもにご亭主、4世代の家族と自営業に尽くして来た世間知らずの相談者主婦が、「片想い」とは言えども、職場上司のクールな男性に“イチコロ”になってしまっている現状とは必然的である気もする。


 最後に、私論でまとめよう。

 そうとは言えども、やはり上野氏の回答通りであろう。
 ここで道を踏み外した後の相談者自身の人生に思いを及ぼすべきとのアドバイスに、私も同感だ。 

 と偉そうに言ったとて、相談者主婦の切ない思いも分かるよ。

 30代ならず高齢期に差し掛かっている私の目にも、魅力的な男性とは存在するものなのよ。
 いえいえさすがに高齢域に差し掛かると 「クール」がどーしたこーしたは二の次でいいんだけど…
 私の場合は自分自身が歩んだ道程が専門分野だったせいか、「専門力ある男性」には目が無いなあ。
 しかも人格者であられ、他者に優しい男性って、ほんと素敵だよな~~~。
 (単なる独り言ですので、どなたもお気になさいませんように。)

今年も年賀状を作成しました。

2018年12月15日 | 人間関係
 (写真は、昨日作成した友人⦅主に旧友⦆用の2019年年賀状。)


 毎年12月のこの時期になると「年賀状、どうしよう?」なる鬱陶しい課題が頭をもたげる。

 昨年も一昨年も同様だった。
 その我が心理を綴り公開した、2017.12.21 公開の「年賀状作成、今年こそ『もう辞めよう』と思いつつ…」の一部を以下に再掲載させて頂こう。

 結局、今年も作成して昨日投函した。
 ただ、これ程投函が遅くなったのは今までにない事だ。
 本気で「今年から虚礼廃止しよう!」との決意が強かった故である。 (中略) 
 そもそも毎年届く年賀状とは、私の場合、もう交流が無くなって2,3十年の年月が経過する人物がほとんどだ。 今更ながらそれらの人物と再会せねばならない用も無ければ、その気もないし、申し訳ないが再会してプラスになるとも思えない。(そこまで言うと、我が人格が疑われそうだが。) 
 いえいえ、もちろん再会したい人物もいる。 ただそれらの人物達とは、何も年賀状という形式をとらずとて電話・メール等々他にも連絡手段は保存してあり、こちらの意思次第でいつでも連絡可能な相手だ。
 ということは、年賀状を廃止しても何らの不都合が無い事との結論に至るではないか! 
 そうこう考え、亭主の年賀状作成のみ優先してパソコンで実施した後、しばらくの間、我が心理は自分の年賀状作成は廃止の方向に傾いていた。 
 何故、今年も年賀状を出そうかと方向転換したのかと言えば。 おそらく皆さんも同様のお気持ちであろうが。  要するに毎年年頭に “年賀状” が届けられる。 これらに対し、年明けに逐一返信年賀状を出す手間を勘案した場合、年内にまとめて作成して投函しておいた方が効率的である事実に間違いない!
 結局、特に年賀状がパソコン作成に移ろいだ現在に於いては、「年賀状文化」とはこの理論により成り立っていることに気付かされる。 (以下略)
 (以上、「原左都子エッセイ集」昨年12月に公開したバックナンバーより一部を再掲載したもの。)


 話題を、冒頭の昨日作成した我が年賀状に移そう。

 一見してお分かりだろうが、私の年賀状とは毎年私の写真満載の“自己PR(自慢)”ものでしかあり得ない。
 (参考だが我が年賀状は毎年2種類作成していて、上記写真版は「友人(ほとんどが旧友だが)用」。 もう一種類は郷里親族用のオーソドックスな絵柄ものを準備している。)
 
 この種の“写真入り年賀状”を毛嫌いする人種が多数であろう事を重々承知した上で、「嫌うなら嫌ってくれ!」との思いを敢えて前面に出した年賀状である。

 この“効果”の程が高いのだ。 
 要するに私側とすれば上記バックナンバー記載通り、「もう年賀状など取り止めたい!」との意思が強靭だ。 この“嫌われる”年賀状を作成して投函する事により、その相手が我が予想通り年々自然淘汰されていくのが面白い。

 そして嬉しい事には、残された20名程は必ずや次年の年賀状に、前年の我が写真年賀状に関する有り難き感想等々のお言葉をいただけるのだ。(もちろん社交辞令だろうけどね!)

 そんな中でも一番嬉しいのは、私の年賀状写真に触発されて自らも新たな目標を設定した、なる内容だ。
 ただ確かに我が過疎地郷里でずっと暮らしている旧友などは、我が年賀状写真を一見しただけでも“驚愕”するであろうことは想像が付きそうだ…

 何はともあれ、私が作成した写真版年賀状は、来年新春には我が旧友達に届けられることだろう。
 もう金輪際こんな年賀状を届けて欲しくない方々、及び我が年賀状に義理付き合いされていた方々は、年賀状のやりとりを取り止めて頂いてこちらは何らの不都合もない。

 ただ今回エッセイの最後に、我が結論を述べるならば。
 私にとって自分の写真入り年賀状を作成する事実こそが我が年間活動を振り返る手段であり(あくまでも娯楽分野に於いてに他ならないが)、自らが立てた計画を実行に移せた、この1年の自己実現成果を総括出来る手段でもあるのよ。