冒頭から、ネット上で見つけた情報を引用しよう。
60歳以上の3人に1人「親しい友人いない」 内閣府
2021年6月11日 15時00分
60歳以上のおよそ3人に1人が、「家族以外に親しい友人がいない」と答えているとの調査結果が11日、内閣府が発表した今年の「高齢社会白書」に盛り込まれた。 高齢者の孤立が深刻な課題になっている。
調査は60歳以上の生活などについて、1980年度から5年ごとに実施している。今回は昨年12月~今年1月に行われ、男女1367人の回答を集計した。
家族以外の人で相談や世話をしあう親しい友人がいるかを尋ねたところ、いないと答えたのは31・3%で、5年前の前回調査(25・9%)から5・4ポイント増えた。同時に調査したアメリカ、ドイツ、スウェーデンはいずれも約10%だった。日本では調査を開始した1980年度から毎回約3割前後の水準という。
内閣府は高齢者が望まない孤独に陥らないよう、新型コロナ下で直接会う機会が難しい場合でも、オンラインを活用しながら地域のイベントに参加する取り組みを推進するという。
(以上、ネット情報より引用したもの。)
このネット情報に関連する話題であるかどうかは不明だが、少し私事を語らせていただこう。
私は2016.02に娘と2人で個人旅行をした際に訪ねたイタリア・ピサにて、70代の日本人女性より“大迷惑”を被っている。
参考だが、ピサ半日観光のみ少人数(4名)のグループ行動を手配しておいた。
その部分の我がエッセイ集バックナンバー内の記載を、以下に引用しよう。
ピサ観光参加者4名のメンバーとは、我々母娘とそのツアーで偶然一緒になった米国ユナイテッド航空のCA女性(フライト業務の合間にピサツアーに参加したようだった。英語ネイティブで日本語はカタコト)、そして70代後半の日本女性だった。
この日本女性が実に厄介で、我々母娘はピサにて大迷惑を被った。
当該70代後半の日本女性、ご亭主が病気にて他界後一人旅を“楽しんでいる”と言うのだが…
コイツに年齢が一番近かった私が懐かれてしまい、旅道中ずっと私相手に亭主が無くなって寂しい…ナンタラカンタラの“くだらな話”をピサにて喋くり倒されてしまい、我がオプショナルが台無しだった… 救いはせめて娘と二人の充実した時間を楽しみたとの意思で、あえて斜塔内の見学を取りやめ、大聖堂その他の見学に切り替えそいつから逃れ静寂を取り戻したものだ。
こんな場で日本高齢女性に意見申し上げたいが、海外一人旅が苦手ならば、必ずや当初からご友人等と団体旅行にでも参加して楽しんで欲しいものであるし。 現地で一期一会で出会った日本人に無遠慮に身勝手に懐くのは是非共勘弁して欲しい!! 実際問題、こちらのスケジュールをボロボロにされてしまうほどの損失だった!😵
こんな場で日本高齢女性に意見申し上げたいが、海外一人旅が苦手ならば、必ずや当初からご友人等と団体旅行にでも参加して楽しんで欲しいものであるし。 現地で一期一会で出会った日本人に無遠慮に身勝手に懐くのは是非共勘弁して欲しい!! 実際問題、こちらのスケジュールをボロボロにされてしまうほどの損失だった!😵
(以上、本エッセイ集バックナンバーより一部を引用したもの。)
このピサで出会った一期一会の70代後半女性だが、この方もおそらくご亭主亡き後に一人として親しい友が得られないのであろう。
ご本人は、「私は主人亡き後は一人で世界中の旅を楽しんでるの。」と豪語されるのだが。 その実態とはいつもいつも団体旅行に依存して、そこで出会った自分の話を聞いてくれる日本人女性をとっ捕まえては、「私は亭主を亡くしたのだけど、こうやって一人で世界中を旅して楽しく生きてるわ。」の独り言を繰り返しているのであろう。
ただ、こういう人ほど帰国後寂しさに苛まれることだろう。
そして仕方が無いからまた、団体ツアーを予約しては出かけているのかもしれない。
そういう私とて、昔から友(女性に限る話であり、男性に拡大してよいならばその数は多かったと言えるかな??😜 )は少ない方だ。
それは25歳過ぎて以降、ずっと独身を貫いていた頃から続く現象だ。
ただ私の場合、我が人生に於いて真の親友だ(だった)と誇れる女性がこの世に3名存在する。 “だった”と表現するのは、そのうち一番親しかった親友は、既に10年前にくも膜下出血で忽然とこの世を去ってしまっている…
親友とは何かというならば。
私にとってのそれは、とにかく“対等に語り合える人材”であることが必須条件であることに間違いない。
そうでない相手を、一生涯“親友”と呼ぶ気はない。
だからこそ、内閣府に物申したいのだが。
地域のイベントに無理やり参加させられてもねえ。
その種の人材に巡り会える可能性が低いのが正直なところなのよ。
無理やり人を集めて仲よくせよ! と強制されるのは、私にとっては人権侵害に近い思いすらある。
今後も私なりに “対等に語り合える人材”を求めて、この世を渡っていきたいものだ。