原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

12月に買って来たガーベラの花が枯れた後、葉っぱが立派に育っています!!

2024年01月22日 | 自己実現
 (冒頭写真は、昨年12月に自宅近くのJAあおばにて購入して来たガーベラの鉢植え。 御覧のように、ガーベラの花が枯れた後、葉っぱが勢いよく育っています!!)


          
 こちらは、昨年12月に自宅近くのLAあおばにて購入して来た直後期の、ガーベラの花。


 この花が1月中旬頃にすべて枯れた後、この鉢植えを廃棄せんとしていたところ。

  
 なんと! ガーベラの葉っぱが勢いよく伸びているではありませんか!!😲 😃         


 まさに、植物の生命力の強さに感動させられます。


 上記の如く、ガーベラの花自体は1月中旬頃まで咲いた後にすべて枯れたのですが。

 元々あった葉っぱに加えて新芽として出て来た葉っぱ共々が、まるで花の再来を思わせるがごとく大きく育ち始めたのです!

 その葉っぱの成長ぶりが素晴らしく、日々水やりを続行していると、次から次へと葉っぱの新芽が出て来るではありませんか!!

           

 これらの葉っぱや新たな葉っぱの新芽がどこまで伸びるのかが、現在の楽しみであります!


 それにしても 生命体の営みとは力強いものがあることを、この小さな鉢植えにて実感させてもらっている今日この頃です。
 

「ママ」との呼び名に、この私も大いなるアレルギーがあった(今尚ある)。

2024年01月21日 | 人間関係
 私がこの世に生れ出たのは、「もはや戦後ではない」と叫ばれた時代背景の頃であり。
 また、私は過疎地ド田舎出身の立場にして。

 当時、母親の事を「ママ」と呼ぶ子供は私の周囲には皆無だった。


 時代が大きく流れ。
 私が初めて娘を出産した頃、私は既に40台に近づく年齢だった。
 いや、年齢とはかかわりなく。

 はやり私は 産んだ我が子から「ママ」と呼ばれることに関して、アレルギーと言えるほどの絶対的な抵抗感があった。😨 
 そこで我が家では、私に対して「おかあさん」の呼び方を娘に強制したのだが…
 実際にそれを娘が私に言ってくれたのは、幼稚園入園前頃までだったような記憶がある。


 その代わりに。 我が娘は 私に素敵な“愛称”をプレゼントしてくれた!!

 それは「パッカ」なのだが。

 その由来を説明しよう。
 娘が2歳時に、私は運悪く「頭部皮膚癌」を患った。 (いや、運悪くではなく、この原因となった事象を私は自分なりに解析・把握できていた。 それは、医学業務にて「無菌操作」が必要だったのだが、当時の紫外線管理が未だ至ってずさんな時代で、特に係長の立場だった私は日々大量の紫外線を浴びていたのだ。 原因はそれ!と断定した私だが、とにかく原因は何であれ、その頭部皮膚癌の手術跡の直径6cm程の一生涯に渡り抱えて生きる運命を背負った。
 この頭部の直径6cmの傷跡を如何にカバーしているのかを説明すると。 普段の外出時等々には必ずやウィッグを被ることとしている。
 40歳時からそれを被り始めて以降、現在に至るまでに私が作ったオーダーウィッグや、購入した市販品ウィッグの総数を計算してみると、約30個。 金額にすれば数百万円に及ぶ。
 そうであれ、今の時代はウィッグが十分に市民権を得ている事実に大いに助けられている。
 「これ、ウィッグなんですよ~~!♪♪」と私が自慢すると、「あーら、お洒落さんね!!」で済まされる実に良き時代である!♪♪



 話題を、我が娘の幼少期に戻そう。

 そんな訳で我が40歳時より、外出時には必ずウィッグ着用が常識となっている私だが。
 家では そんなもの被る訳もなくいつも頭をさらしていると。 可愛い2歳の我が子が素晴らしい愛称を私にプレゼントしてくれたのだ!
 
 それぞ「カッパ」!!

 ちょうど、NHKの子供向け番組内で「カッパなにさま、カッパさま」との楽曲が流行っていた頃で、娘がそれに合わせて「おかあさんは、カッパ!♪♪」と歌ってくれるではないか!!

 これが大いに気に入った私は自らの愛称を「カッパ」と決めたところ、未だ幼い我が娘が「ぱっか」「ぱっか」と私の事を呼び始めた! (幼い子供とは、文字を逆さまにする習性がある。)
 これぞ、我が愛称だ!!と再度決定した私は、その後娘との会話時には いつも「ぱっかがねえ…ナンタラカンタラ」と自称し始めて以降現在に至ってまで娘との二者関係に於いて、「パッカ」の愛称が活きている!!


 娘が独り立ちして以降は、さすがに私の事を「パッカ」とは呼んでくれていないかなあ…

 何だか寂しい思いすらする母の私だが。😰 

 とにかく、私的に究極気持ち悪い「ママ」となど呼ばれる事態は絶対的に避け通したかったパッカ(私の事だが…)としては。


 そう言えば、娘からもらった今年の年賀状には「パッカ」の文字があった!!
 やっぱり私は、現在尚娘に「パッカ時代」と同然に可愛がられているんだ! と何だか安心したものです!!

 こんな風に母娘関係をいつまでも紡げるのも、母親の立場として幸せってことでしょう!?!!!
 

「増えすぎた人間関係の整理」と対極にある我が生き様…

2024年01月20日 | 人間関係
 昨日、私は近くの大規模公園へいつものようにランニングに出かけた。

 我がランニング中に、声掛けをして下さる私より少し年上らしきご婦人が存在する事に関して、バックナンバーにて複数回記述したことがあるが。


 昨日初めて、その“声掛け女性”が少なくとも2名以上存在する事実に気付いた。😲 

 とにかくランニング中とは(特に私の場合は)ド素人ランナーにつき身体機能が優れておらず距離が増すごとに息が苦しくなり、せいぜい手を振ってお礼をする程度で、とてもじゃないが声掛けして下さっても会話をすることは叶わない。

 走る前や走り終わって後ある程度時間が経過していれば、当然ながら会話可能なのだが。 大抵の場合、走っている時に声掛けをして下さる機会が多い。


 昨日も、私が走っている途中に手を振って下さる女性(やはり私より少し年上らしき人物)が出現した。
 その女性を一見して思ったのは、「この人、いつもの人と違う」😲 だった。(どう考えても、ド素人ランナーの私へ若き世代のからの応援を望むべくもないだろう。)
 ところが一見してその女性が、応援して下さって既に何年か経過している女性ではないことは明白だった。
 身長が高いし、ヘアスタイルがまるで異なっている。
 (あれ、この方の応援は初めてかな? いや、以前もこの辺で我がランニング中に手を振って下さる女性がいた。 もしかしたら、この女性も以前より私を見かけたら何度か応援して下さっていたのかもしれない。)

 立ち止まってお礼を言えば、その実態が判明するだろうが。
 こちらとしても決して“人気取り”でヘラヘラ走っている訳ではなく、ド素人ランナーにして一応の目標意識の下にランニングに取り組んでいる。 特に左膝複雑骨折が未だに完治していない現状に於いて、今現在はその完全回復を目指して私としては必死状態だ。

 それにしても、律儀(原左都子は昔から人間関係に於いては律儀です!)な私としては、やはりただで応援していただくのは心苦しい。 何らかの形で、いつかはお礼を申し上げたいものだ。



 そんな折に、本日付け朝日新聞別刷り「be」内で「増えすぎた人間関係を断捨離」と題する記事を見つけた。 少しだけ、以下に引用しよう。

 私(この記事の筆者・臨床心理士らしい)も飲み会は大好きだが、社交時間も健康を害したり、やるべきことをこなす時間を圧迫したりするのなら考えもの。 今年こそ、不用意に増えすぎた人間関係を上手に整理したい。 (中略) 不本意な相手でも、会うとついつい相手の言う事を聞いてしまい、人間関係の断捨離がなかなか進まない。 (途中大幅略)
 なるべくなら相手を傷付けなくないし、恨みも買いたくない。
 ここでおすすめは、相手の期待に応えているように見せかけて、上手に期待を裏切ることだ。「会話がかみあっていない感じ」や「ちゃんと話を聞いていない感じ」が出せるとよい。 (途中大幅略)
 人生の大切な時間を、不本意な人間関係に費やしてはいけない。

 (以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)


 上記の朝日新聞記事を引用しつつ思ったが。
 当該記事を綴った臨床心理士先生は、おそらく原左都子よりもずーーーーっとお若い世代の方なのであろう。 (この記事には挿絵があるが、その絵から察しても老齢域の方ではなさそうだ。)



 最後に、原左都子の現在の“人間関係観”を語ろう。

 参考だが、今年の年賀状は全部で20枚程頂戴した。
 これらの方々との交友は友人等との対等関係のみでなく、恩師や職場の先輩等々の方が数多い。(私の場合、2度大学の門をくぐったりしている関係で、今尚恩師先生とのお付き合いも続行している。)

 要するに、友人よりもそのような関係の人生経験の方が長い訳であるが故に。
 上記に紹介した若き世代らしき臨床心理士先生とは、また異なる人間関係を紡いできたといえるであろう。

 それ故に、私の場合は“人間関係が増えすぎて困惑する”との苦悩を抱えることなく現在まで生き延びてきている人種であるのかもしれない。

 それが幸いして今現在の我が人間関係に於ける混乱とは。
 冒頭に紹介した、ランニング中に応援頂いている女性陣が一人なのか複数おられるのか、などとの取るに足りない混乱のみなのだが。

 いずれにせよ、ランニング中の応援はド素人ランナーの私にとりましてもランニング続行の力強い味方となりますので。 
 今後共近くの大規模公園で“ヘボく走る私”をお見掛け下さったならば、どうかいつも通りの応援をお待ちしております!!😃 


世は受験シーズンだが 私は30歳時にチャレンジした2度目の大学受験の事をよく覚えている

2024年01月18日 | 教育・学校
 当時の私は、医学専門職員として大手企業にて係長(主任)の立場で医学業務に励んでいた頃だ。

 2度目の大学受験を志した特別のきっかけが何だったのかに関しては、今となっては鮮明に憶えていないのだが…
 とにかく医学を含め、学業にもっと専門的に励みたい!なる純粋な願望が我が体内から湧き出ていた頃である。 

 当時の我が主たる医学業務は、一冊の医学書の単独執筆だったのだが。 決してそれが苦痛だった訳では決してなく。 それどころか、そんな望みもしない仕事が我が身に舞い込んで来たラッキーを大いに喜びつつの、日々の精力的な執筆作業だった。 (結果としては、自他共に高評価満足いく医学書が出来上がり、発刊に漕ぎつけた。)


 その執筆と同時進行で、私はプライベートタイムには大学受験勉強に励んでいた。 (この事実を知っていた人は、社内に2,3人のみだっただろうか?) とにかく極秘で会社が休みの日や夜間には、その受験勉強に励んだものだ。)

 その大学とは、首都圏に位置する某老舗の公立大学なのだが。
 その公立大学が秋に「特別選抜入試試験」を実施するとの情報を得たのは、前年の事だった。 その受験対象とは、「帰国子女」「外国人」「社会人」等々だったと記憶しているが。 この私は「社会人選抜」にて受験票を提出した。
 この「社会人選抜」が一番競争率が高く、20倍以上だったと記憶している。
 それでも私には競争率とは関係なくこれに打ち勝てる自信があったと言えよう。 と言うのも就職後も仕事の性質上、専門分野はもちろんのこと。 医学論文を書く等々「論述」や「英語」に触れる機会が数多く、特段の努力をせずしてこの特別選抜を突破できるような気がしていたのだ!
 
 さて、秋になり実際の特別選抜受験に挑んだ時に感じたのだが。
 (これ、合格したかもしれない…) その我が思いが現実となった!!
 特に 複数の教授陣による面接試験の際に、英語担当教授から「貴方の英語力が素晴らしいのですが、何か特別な教育を受けましたか?」なる質問が出た際に私は既に特別選抜合格!を認識した。 一応、「いえ、何らの特別英語教育は受けていません」と応えつつ。


 そうこうして、私は翌春には無事に2度目の大学の門をくぐることとなる。

 それに先立ち、我が勤務先である医学企業の幹部どもが私の送別会を開いて下さった際に。
 副社長(この方元某都市銀行頭取経験者であられ、我が社には副社長の立場で招かれていた。)も何故か出席して下さっていて、私相手に説諭するには。
 「貴方は我が社を辞めて2度目の大学へ進学すると言うが、一体何を学ぶんだ??」  私応えて、「経営学(後に「経営法学」に鞍替えし修士課程まで進学し「経営法学修士」を取得した。)です。」
 それに副社長返して、「何を馬鹿なことを言っているんだ! 経営学など私が教えてやるから、貴方は我が社で医学を続けなさい!!」
 (何度も、当ブログ内でこの出来事を復唱して申し訳ないのですが、この副社長の発言は、それ程までに原左都子の人生に於いて最高の“贈る言葉”でした!!!)

 この副社長からのこれ以上ない素晴らし過ぎる「贈る言葉」を頂戴して。 私は次なるステップである、二度目の大学へと羽ばたいて行った。
 
 そして私は、この2度目の大学・大学院にてもこれまた素晴らしい恩師に巡り会え、無事に「経営法学修士」を取得させていただいている。
 その能力実績も今現在、義母の不動産貸付業確定申告代行等々に十分に活かしつつの我が充実した人生だ。



 最後に、今現在受験を乗り越えている皆さんにアドバイスするならば。

 受験も厳しい現実かもしれないが。
 それを乗り越えた暁に待っている、それぞれの専門分野にてのその後の活躍こそが自分の身を繋ぐ糧となるものだ。


 そうだとして、とにかく大学受験を目指すならばそれに合格してこそ、その後の自身の人生が始まるということだろう。

 とにもかくにも 受験生の皆様の最大限の努力を、陰ながら応援申し上げます!  
 

我が娘は母の私が“サリバン”を引退した頃から自然と「発達障害」を卒業できたように振り返る

2024年01月16日 | 教育・学校
 本日久々に、我が一人娘が持って生まれた「発達障害」について語ることにする。


 そのきっかけは、20234.01.13付朝日新聞内の「発達障害」に関する記述を見たことによるのだが。

 ほんの少しだけ、その記事の内容を以下に転載しよう。

 発達障害は、生まれつき脳の働きにかたよりがある障害で、注意欠如・多動性(ADHD)や自閉スペクトラム症(ASD)、学習障害(LD)などがある。
 落ち着きが無かったり忘れっぽかったり、人とコミュニケーションをとるのが苦手だったり。

 (以下略すが、以上朝日新聞記事より一部を引用したもの。)


 我が一人娘に話題を移そう。

 我が子の場合は発達障害の特徴のうち、「人とコミュニケーションをとるのが苦手」これが突出していた。
 特に幼稚園や小学校入学後にその特質が顕著に出たのだが。
 当時の時代背景としては未だ「発達障害」との言葉自体が社会でさほど知られていない時代だったのだが。
 教育者でもあったサリバン母の私が、我が子の特異性に気付くのが早かったのが幸いして。 娘は3歳時よりその専門教育・研究機関にて専門指導者の下でお世話になることが叶った。
 ただし、これが我が娘にとって良き影響ばかりではなく。 例えば暴力気質の子どもも通っている等々のマイナス面も大きかったりもした。

 我が子の場合、生まれ持っての性質に恵まれていたと言うのか。 とにかく小学校現場で 我が子側から周囲に迷惑を及ぼす事態が皆無だったこともあり、小2時点で発達障害専門研究機関での指導をきっぱりやめる方針をとった。 後は家庭内指導(要するにサリバン母の私による全面指導)に切り替えた。

 その後も、我が子なりの特質はもちろんのこと今後一生抱えていくのだろうが。
 (人間関係に関しては今尚得意とは言えず、いつまで経っても「結婚願望は一切ない!」と言い切る娘ではあるが。)

 とにかく持って生まれた我が子の素直な性質や“頑張り力”が功を奏して、その後は希望大学一発合格、その後の就活も上手くいって。 
 現在30歳になっている我が娘だが、親から離れて一人立ちした後も真面目に律儀によく働き、ある程度の資産を蓄積している様子でもある。

 娘の就職先からも、例えば「この子、使い物にならない!」などの指摘も一切無く、現在もIT技術者としての勤務を日々真面目に努めている様子だ。


 ついでに言うと。

 親馬鹿ながら、我が娘は生まれ持って「美人」の部類だ。
 しかもサリバン時代の母の私の指導(「体型を維持してぶくぶく太るな! 何時もお洒落を必ずせよ!!)を今尚守っているのが素晴らしい!!

 それらの要素が揃えば、特段世間から後ろ指を指されることは無いだろう。


 何と言っても、親から独り立ちして以降の娘の行動が素晴らしい!
 あの子を見ていてつくづく思うのは、「仕事好き」である事だ。 こんなに働き者に育つとは思ってもいなかったサリバン時代の私だが。

 今後も我が娘は仕事生活を自身のモットーとしつつ、遠い過去の「発達障害」時代など屁ともせず、今後も社会生活を全うすることだろう。

 
 (いえ、本音を言えば。 「彼氏を紹介するよ!」などとのサプライズが娘からあったら。 相手がどんな奴であれ、サリバンも嬉しいんだけどね…  などといいつつ それが親ほどの爺さんだったりしたら、世も末かもね… )😱