原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

20歳年下の「ママ友」

2024年01月14日 | 人間関係
 原左都子本人が高齢者域に達して既に久しく。 
 我が一人娘も一昨年に独り立ちしている現在。

 母子の年齢差をどうこう言われたり、それを話題にする鬱陶しい機会も皆無になっている現状だが。


 先だっていつものように朝日新聞を垣間見ていて。
 近所の「ママ友」が自身より12歳年下である、との話題があった。
 ご本人は40歳で娘を産んだため、周囲の99%が自分よりも年下のママ友であり、その「ママ友」が若くてかわいいらしい。


 この記事を読んで原左都子が思い出したのは、娘の小1時の授業参観の時のことである。 (以前にもこの話題をバックナンバーで書いた気もするが。)
 どうやら、クラスの男の子のお母上がその日「26歳」の誕生日を迎えられたらしい。

 私にとっては まさに、「ギョエーーー!!!」である。😱 

 我が娘を38歳時に“初産”で産んだ私だ。 娘が小1のその時には、私は既に44歳を過ぎていた。
 (いえいえ、そもそも実年齢よりも見た目がずっと若い😜 私であるし。誰よりも長身スリムでスタイルの良さには自信があったし。 黙ってりゃ周囲の母親の皆さんよりもむしろ若見えしたかもしれない。)😶 

 えっ?? ひとり勝手に言ってろって???


 その当時の写真があるのでお見せしてもいいのだが。
 実際この原左都子、 現時点に於いても おそらくどなたも高齢者域に達しているとは気づかないことであろう。
 (現に、11月の郷里旅行の際に初対面だった5番札所・地蔵寺のご住職も私を一見して 「40歳くらいですか??」とおっしゃった。 リップサービスにしては度が過ぎていたが、私が実年齢を語ると心底驚かれていた。)


 実はこの私は、この「若見え現象」が迷惑だったとも言える。 

 とにかく、周囲のママ友(と言えるような付き合いを結果として避けて通りたく、そうしたかったのだ!!)。
 何と言うのか、どう転んでも20歳年下のお母様とは会話が噛み合わない。 それを無理してお付き合いするには、まず自身を捨てて周囲に迎合せねばならない。 そんな無駄な努力が嫌で嫌で仕方なかったのだ!!

 もちろんのこと、娘のためと無理してその努力をした時もあった。
 それが楽しかったことが、皆無…
 なんでこんな「演技」をせねばならないのか!! と、ずっと悩みつつ…


 それが第一義の理由ではなかったが、娘を転校させることとした。
 その頃には娘が既に幼少期を過ぎていたことと。
 転校先の周囲の子ども達の中にも「私立中学受験者」が多かった事実に助けられて、ママ友たちとの付き合いから無罪放免される時期がやってきた!


 その後、娘が私立中高へ進学した後には。
 「ママ友」どーのこーののアホらしい付き合いから無罪放免されて、現在に至っている。


 そんな過去の経験から、原左都子が思うに。

 人間、“若見え”することが決してプラスではないと、今現在も考える立場だ。
 
 何と言うのか、周囲には年相応に見えつつ。

 それ以上の成果を上げながらこの世を渡って生き続けることこそが。

 人間としての「真の成熟」ではなかろうか?
 

今年7月に1万円札の肖像が交代するらしい

2024年01月13日 | お金
 (冒頭写真は、その交代に先立ち40年近く1万円札の顔として親しまれた福沢諭吉の功績に光を当てようと、故郷の大分県中津市で1万円札の裁断くず6億円分を使った「開運の中津城模型」の写真を。 朝日新聞記事より転載したもの。)


 1万円札と言えば私が懐かしいのは、やはり「聖徳太子」である。
 そうか、それが福沢諭吉に変ってからもう40年近くの年月が流れているんだなあ。

 参考のため、令和6年に発行される新しい1万円札の肖像は「渋沢栄一」氏であるらしい。 (私的には、さほどの思い入れがないなあ…。)



 本日、朝日新聞紙面でこのニュースを見て。
 そう言えば、私も旧札のコレクションが少しある事を思い出した。

 以下に列挙しよう。

          
 これが懐かしい人は多いのではなかろうか?
 「板垣退助」がモデルの100円札だが。 
 いつ頃 これが廃止されて100円玉のコインに変ったのかが思い出せない程に、遠い昔のこととなっている。 
 私の人生に於いては、板垣退助100円札を使用した時期の方がコインよりも長い気がするのだが、どうだろう??

 
          
 こちらは、新渡戸稲造肖像の「旧5000円札」だが。 これが使用された時期が短かったような記憶があるのだが、単に私の思い違いか?? (参考だが、現在の5000円札の肖像は、樋口一葉氏だ。)


          
 こちらは、2000年から2003年の短期間のみ発行された2000円札。
 この紙幣を、私は5枚保存してあるが。
 今後 2000円札が新たに発行されるとの予定は一切ないようだが。 だからといってこの2000円札の価値が上がるという訳でもないらしい。😔 😰 


 引き続き紹介するのは。
 現在高齢者介護施設に暮らしている義母から預かっている「記念通貨」だ。

 
         
 これは平成5年に発行された、皇太子殿下御成婚記念プルーフ貨幣セット 。
 額面価格は左が¥5,000-、右が¥500- 。
 義母から預かって以来、本日初めて中身を見たとの訳だ。


         
 こちらも同じく、義母から預かっている 「御在位60年(一体どなたの??)記念硬貨」。
 昭和61年発行のようなので、昭和天皇在位60年記念硬貨だろう。
 額面価格は「壱万円」也。



         

 こちらも、どなたかの在位記念硬貨のようだが。
 額面は100円だが、漢字が読み取りにくい。


 
 新たに発行される1万円札の肖像は渋沢栄一氏らしいが。
 繰り返すが、原左都子としてはさほどの思い入れは無い。

 ずっと「聖徳太子」でよかったかも???
 (実際問題、あの頃の1万円札の重みは凄かった!! 今となっては、その価値が急落しているなあ…)

 などと、ゲンナリしたりもする…
 

「ひらめくなんてことはなく、絞り出すように作って数をこなす」

2024年01月11日 | 自己実現
 冒頭表題は、2023.01.07付朝日新聞 文化面「天才観測」より引用した。



 原左都子自身の話から始めよう。

 既に(前期)高齢者域に達している私だが。
 ここのところ、「原左都子エッセイ集」の執筆をお休みする日が増えてきている。
 この現象とは、まさに我が高齢化を素直に受け入れている行動とも言える。
 当該エッセイ集を公開後、16年以上の年月が経過している。 
 以前ならば、何が何でも一日一本のエッセイを執筆して公開したい! なる我が願望とそれを叶えるエネルギーが内面からいくらでも湧き出ていたものだが。

 これが正直言って、どうあがいてもエッセイテーマが思い浮かばない日が徐々に増えている感覚だ。

 そんな時に私がやる代替策とは、バックナンバーの紹介(再掲載)だ。
 ラッキーにも(と言っては変だなあ)。 
 そうではなく、この原左都子も若い頃(とは言えども当エッセイ集開設時には既に50代前半期だったのだが)😝 は、いくらでもエッセイテーマが内面から湧き出て来たものだが。
 やはり加齢とは厄介なものだ。 今となっては、エッセイテーマが自然と湧き出る日が少なくなってきている…
 そんな我が身の加齢法則の実態を受け入れるべきとの方針に、自然と変化していると説明できよう。



 さて、話題を変えよう。

 本日見た2024.01.07付朝日新聞「文化」面の “天才観測”コーナーに音楽家のつんく♂さんの談話が取り上げられていた。
 以下に、その一部を引用しよう。

 僕も天才ではありません。 (中略)
 ひらめくなんてことはなく絞り出すように作って数をこなすことで、コツをつかんでヒットを出せました。 
 プロデューサーの立場としては、才能を発掘して育てる側になる。そこではまた違った見方になる。 (途中大幅略)
 大事にしたのは納得感。 人気と実力があっても「最近伸びてないな~」という子は少し下げて、「今回のツアーで調子を上げたいな~」という子を前に。

 (以下略すが、以上朝日新聞記事より一部を引用したもの。)


 以上、今現在はハワイにて暮らしていらっしゃるらしい つんく♂氏の朝日新聞内の談話を紹介した。



 原左都子の私見に入ろう。

 上記のつんく♂氏の朝日新聞会見の中の、まさに表題に掲げた「ひらめくなんてことはなく絞り出すんですように作って数をこなす」
 なる表現に、現在の原左都子のエッセイ執筆が重なる思いだ。 

 ただ、私はつんく♂氏よりも、かなり多くの年齢を重ねてきている。
 しかも、元々我が本業は「執筆業」ではなかった。(あっ、そうそう。医学関連会社に勤務した時期に一冊の医学書を執筆‣発刊しているし、医学論文をある程度この世に発表しているため、その分野では経験を積んできていると言えるが。)

 そう記載して来て思ったが。
 この私の日々のエッセイ執筆エネルギー根源とは、それらの過去の活動実績によるものかもしれない。
 特に、勤務先企業の一任務としての医学書(全200頁)業務は、確かに我が現在の日々エッセイ執筆の根源となったかもしれない。

 あの業務を今思い起すに、今現在公開している「原左都子エッセイ集」執筆の自由さ加減が何ともラクだし、実に有難い!!


 その現実を思い起せば、現在のその現実のありがたさが身に染みるという事だ。

 まあそれでも、エッセイ執筆が負担に感じる日には小休止するとの結論なのだろうが…
 

認知症者の頭の中で繰り返す堂々巡り…

2024年01月09日 | 人間関係
 本日午後から、我が亭主は義母が暮らす高齢者介護施設へ出掛けている。


 元旦の事だった。

 その義母から亭主宛に電話が入った。
 もう既に、元旦の挨拶をしようなる“社交辞令的対応”は一切不能になっている義母である。
 義母からの電話の内容とはいつも、「〇〇で困っているから助けてくれ」等の直言に相場が決まっている。
 
 嫁の私の声が聞き取れないとの事で、義母が私宛に電話を寄越すことは少し前から無くなっていて心底命拾いしているのだが… 😝 

 それにしても、息子である亭主への義母の依存心は物凄いものがある。 
 困り事があると、なんでもかんでも亭主に電話を寄越してくる。
 私など、施設担当者もその話し相手を少しはしてやってくれないのか?? と思ったりもするのだが…
 とにかく義母の認知症状が重いのと施設担当者が多忙なのとの両面の理由があり、その種の対応は家族に降りかかって来る。😱 

 
 さて、今回の義母の困りごとの内容を話そう。

 もう2年程前から義母がずっと亭主に訴えてくることがあるのだが。
 それに関する義母からの一番最初の電話内容を記すと。
 「義母の自宅(現在は不動産賃貸物件として運用中)の近くの内科医のA先生から私宛に電話が掛かって来て、御自身が経営している高齢者施設へ入居して欲しいと言う。 私も現在の施設に不都合が沢山あるため、A先生経営のその施設へ入り直したい。 そうすれば、内科医でもあるA先生にいつも体調を見てもらえて一石二鳥。 直ぐにでもそうしたい。」

 最初にこの電話があった際に、亭主と話し合った。
 「まさか、A先生ご本人から義母に直接電話があるはずもない。 ただ何処かの高齢者施設の営業マンが義母宛に入居の勧誘をしたのかもしれない。 その人の苗字が偶然A先生と同じで、認知症の義母が希望的観測でその電話をA先生から頂いたと信じ込んでいるとのことではないだろうか?」 
 とにかくしばらく義母の様子を静観することにした。

 それでも、義母からは再三再四同様の電話が掛かって来る。「A先生が私に病院に来て欲しいと言って下さるから、一度連れて行って欲しい。」

 堪忍袋の緒が切れかかった亭主が、やむを得ずA先生の病院へ電話をすることにした。 
 そして帰って来た、病院からの回答とは。
 きっぱりと、「こちらは、義母様とは一切かかわりがございません。」だった。

 その事実を亭主が義母に告げた直後期は。 
 「そうだったの…」で済まされていたのだが。


 その後、しばらくその件に関しては大人しかった義母だが。
 今年の元旦から、またもや「A先生病」が再発した模様だ。😱 
 その後も日々、「A先生が私に病院へ来て欲しいと言っているから、連れて行って欲しい。」の電話の繰り返しだ。
 しびれを切らした亭主が、本日今一度義母の誤解を解くべく施設へ向かったとの訳だ。


 それにしても、義母のA先生への“片思い”状況の根源は一体何なのかと、この私も不可思議な感覚だ。

 亭主の話によれば、義母が内科医師である近所のA先生にお世話になり始めたのは おそらく義母が60代頃からではないか?と言う。
  その後 内科疾患に関しては、施設へ入居するまでA先生のお世話になり義母のお気に入りだったのであろうが。

 それにしても不思議なのは、義母のA先生に対する“哀愁”が生じたのはここ2~3年の事である事実だ。
 その後の、義母のA先生に対する“哀愁”の程が半端でないのがかなり不可解だ。

 他の事象はすべて忘れ去っているのに。
 義母のA先生に対する執着心の程が半端でない事実に驚かされる。

 亭主が出かける前に、私から提案した。「一度義母をA先生に受診との形で会わせてあげたらどう? 既にA先生も年老いておられるだろうから、義母の諦めがつくかもしれない…」

 それにNOと答えた亭主だが。
 さて、如何なる結果となったのやら…


再々掲載「『できる子』って、誰のこと?」

2024年01月07日 | 教育・学校
 2日程エッセイ執筆を小休止している間に、2019.08.29付バックナンバーが本エッセイ集ランキング50の上位にランクインしていた。


 これ、筆者である私が2024年の今現在読み返しても大いに同感できるため、本日以下に一部を再々掲載させていただこう。
 

 学校の夏休みもそろそろ終わりだ。
 児童・生徒の皆さんは、宿題出来たかな?
 今現在、駆け込みダッシュで宿題を仕上げている子供達も多い事だろう。
 かく言う私だが。
 今だから正直に言うが、我が娘の夏季休暇中の宿題のほぼすべてをこのサリバンの私が仕上げたと言って過言ではない。
 何分、我が娘の指導とは一筋縄にはいかない。 サリバンが優先順位をつけ、優先度が低い課題に関してはそれを私が代行してやらない事には娘の負担が大き過ぎるのだ。 例えば中学受験、大学受験期などは特に、それを最優先に娘に頑張って貰わねば娘の将来が無い。
 夏休みの宿題などとの二の次でよい“余分”な労力を、娘に課す訳にはいかなかったものだ。
 娘の成長度合いを観察しつつ、それに添うようにサリバンの私が頑張ったものだ。
 
 さて、今回は子供の教育関連エッセイだ。
 2011.01.06公開の「『できる子』って、誰のこと?」を、以下に再掲載させていただこう。
 この表題は、(2011年)1月4日付朝日新聞一面トップ記事 「できる子 伸ばせ」 の題名を一見して抱いた“一種の嫌悪感”と共に、原左都子の脳裏に浮かんだ疑問をそのまま表現したものである。
 もう少し詳細に私の“嫌悪感”を説明すると、「できる子」と一言で言っても何ができるのかが問題であるはずだ。 全国紙である朝日新聞たるものが、国民の誤解を生みそうなこんな軽薄な表現の表題を一面トップに掲げて教育を語ってよいものなのか!? と言ったところである。
 これはあくまでも本文記事を読んでいない段階での私の感想なのだが、新年早々教育関連記事を名立たる新聞が一面トップに持ってくること自体にそもそも意表をつかれる思いだ。 まさかとは思うが新政権の文科省が本年の学校教育課題として“「できる子」を伸ばす”ことを第一義に掲げ、それを新年早々国民に吹聴するようメディアに裏で指示でもしているのであろうか?? 
 そう言えば近頃の義務教育においては、既に「ゆとり教育」が見直される方向にあると言われて以降何年か経過している。
 一例として東京都杉並区立和田中学ではもう3年も前の時点で民間企業出身の校長の指揮の下で、公立中学の立場にありながら学校が身勝手に選出した(?)一部の「できる子」とやらを対象に「夜スペ」と銘打って一種の“英才教育”を施し世間の物議を醸したものである。

 確かに私が子どもの頃とは、「できる子」なる言葉が大手を振ってまかり通っていた時代だった。
 「原左都子エッセイ集」開設直後2007年9月のバックナンバー 「横並び教育の所産」 においても既述しているが、私の小学生時代には学校の物事のすべてが「できる子」中心に執り行われていた。
 この場合の「できる子」の意味合いとは至って単純で“お勉強のできる子”という馬鹿さ加減なのだが、要するにたかが小学校レベルでの学習習熟度の高い子ども達が、学校におけるあらゆる活動において重宝されていたのである。 実はこの原左都子も一応「できる子」に分類されていたようで、子供心に多方面で“いい思い”をしてきてた記憶があるのは事実だ。

 ところが当時(“もやは戦後ではない”と言われた昭和30年代頃)の学校教育とは、単に学校現場の(失礼ながら教員たる資質が疑われるような)教員どもが自分が“使い易い”「できる子」に頼りつつ日々の教育を取り仕切るという、至って安直な発想から生じた生徒に対する評価で身勝手に「できる子」を選定しているに過ぎなかったものだ。 それはまた、今後将来に向けて育ち行くすべての子ども達の人権や将来性を否定するべく歪んだ産物に他ならなかったのである。

 その後学校教育も時代が巡りめぐり、結果として経済力も教育力も低迷を続けざるを得ない程に国力が衰退した現在のこの国が、今後の国家発展のために学校教育において 「できる子」 を育成したい気持ちは分からなくもない。 だが決して国政たるもの過去の学校教育における思慮不足の過ちを繰り返さないで欲しいと祈りつつ、朝日新聞記事に目を通した原左都子である。

 そうしたところ、上記(2011年)1月4日付朝日新聞トップ記事を読んだ後に、今回の朝日新聞記事を綴った記者が言わんとしている趣旨は原左都子なりに一応理解できたのである。
 それでも私がこの記事の担当であるならば「できる子 伸ばせ」ではなく、「未来の科学者を育てよう!」 と題したであろう。 その方がよほど世の共感を得たであろうし、学校教育現場で本気で子どもの将来を考慮している人材からの反発を食らわずに済んだのではなかろうか。

 要するに今回の記事は、「国際生物学オリンピック」で日本初の金メダルを受賞した高校生グループを取り上げ、賞賛するのが趣旨の記事なのだ。
 朝日新聞トップ記事及び3面記事の内容の一部をここで紹介しよう。(中略)
 
 (以下3面記事)  数学五輪メダリスト達は進路を聞かれると「東大に行きたい」と言う。 ところがその多くは医学部志望だという。 なぜならば親が数学では食っていかれないと言うからだそうだ。 (中略)  個々の研究室が極めて狭い領域の指導に偏り組織的な教育がなされていない現状だ。 米国ハーバード大学の試みによると、分野を問わず多様性のあるクラス編成をした方が「毎日が刺激的!」と答え活性化する学生が増えることが実証されている。科学分野の研究とは一つの見方やアプローチだけでは行き詰る。異分野の研究者と交じり合い新鮮な視点や手法があってこそ活性化する。

 上記朝日新聞記事要約の前半部分に関しては、尚、異議申し立てしたい原左都子である。
 戦後の日本の義務教育においては決して「底上げ」に重きが置かれてはいなかったと、その時代に児童生徒だった私は言い切れる思いだ。 かと言って「できる子」は学校がそれをうまく利用するだけで決してその才能を伸ばす教育も成されていなかったというのが、厳しい私論であるが日本の昭和の時代の貧弱な教育の実態だったのではなかろうか。(結局は家庭環境が豊かな子どものみが、その家庭力によってある程度の教育を受けられたというだけの話に過ぎないであろう。)
 平成に入って文科省が「ゆとり教育」を全面に打ち出した時には、当時教員を退職し我が子を産んでまもない時期の原左都子にとって、どれ程我が国の教育行政の“進化”に感激したことであろう。 それも束の間、我が国の学校教育の現状は彷徨い続けるばかりである…

 朝日新聞記事の後半部分に関しては、私も大いに同意する。(おそらく、前半部分と3面の後半部分を担当した記者が異なる人物なのであろう。)
 結局は子ども本人が科学に興味を示しているにもかかわらず、世間知らずの親の立場としては「せっかく東大に入るならば偏差値が高い医学部に入った方が世間の聞こえもいいし、あなたも将来高収入を得られるじゃないの」とアドバイスすることになるのだろう。 そこには一切、親としての子どもの適性や夢に関する展望が欠落している。
 そんな中、ハーバード大学の分野を超えた多様性のあるクラス編成の試みは実にすばらしい!と言えよう。

 原左都子なりの結論を述べよう。
 「できる子」とは一体誰なのか?
 それは決して小中高でお勉強が出来て国際教科オリンピックで金メダルを取れるという、表面的な現象に満足する子ではない。
 そうではなく、視野が狭く軽薄な親どもや周囲の下手な干渉にもめげず、自分の意思を貫きつつ自分らしい人生を送れる潜在パワーを育成してきている子なのである。 
           「子ども達よ、がんばれ!!」

 (以上、本エッセイ集2011年1月バックナンバーを再掲載したもの。)


 2019年8月現時点に戻ろう。

 表題に掲げた娘の夏季自由研究レポートを今読んでも面白いため、それに関して少しだけ述べよう。
 共同研究者に母の私の氏名が書かれているが、実際は私一人で仕上げた“自由研究”である。 
 この種の研究課題は、我が過去の医学経験故にお手の物である。 論文作成の方法論を十分心得ているため、スムーズに着手出来たものだ。
 テーマの選定のみは娘と話し合い、当然娘の合意を得た。 過去に二人で観賞したプラネタリウムにヒントを得たものだ。

 何れの研究も同様だが、まずはテーマに関する参考文献収集から着手する。
 当時は既にネット時代へ変遷していたため、それが実に容易だった。 (参考だが、私が修士論文を作成した時代は未だネット時代では無かったがために、図書館へ足繁く通い詰めるはめとなったものだ。)
 サリバンの私一人で仕上げたとは言えども、必ずや娘に正書・熟読させ内容を完璧に理解させる指導は欠かさなかった。 
 この自由研究は提出後学校で高く評価されたようだが、所詮中学校現場の話だ。
 そんな事は二の次としても。

 結論としては、我が子を如何なる分野であれ“できる子”に育て上げるのはやはり最終的には親の責任と私は判断し実行して来た。 
 夏休み中の子供の宿題を手伝う課程とて、その一環になるかもしれないとの結論だが。 

 (以上、「原左都子エッセイ集」2019.08.29公開のバックナンバーの一部を再々掲載させていただきました。)




 話題を、2024.01現在に移そう。

 「サリバン」との言葉が懐かしい。 
 視力・聴力障害を抱えるヘレン・ケラー氏の専属家庭教師を務めたアン・サリバン氏から借用したものだ。 
 現在に至っては、親から離れて立派に一人暮らしを貫いているIT技術者の我が娘だが。 まさに幼少の頃程、発達障害を抱える身にして母親である私の教育指導が欠かせなかったものだ。

 そんな娘が現在30歳を超えている今振り返ってみるに。

 まさに我が娘は我がサリバン指導に従って、大学卒業まで十分過ぎる程の学習努力を絶え間なく続けてくれたものだ。
 元々亭主に似て従順素直な性格に加えて、母親の私の精神面での強靭さも兼ね備えているとの、我が身勝手な娘に対する評価なのだが。😜 


 とにかく我が娘は、「できる子」へったくれの世間の意味不明かつ無責任な評価基準に全く翻弄されることなくひたすら努力を重ねてくれたと。

 娘に対して幼少期は元より小中高とサリバン指導を実施した私は、我が子ながら高評価したい。