礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

国民古典全書第49巻『秋成・綾足名作集』は未刊

2021-04-20 06:04:41 | コラムと名言

◎国民古典全書第49巻『秋成・綾足名作集』は未刊

 昨日の話の続きである。日本古典全書『上田秋成集』(朝日新聞社、一九五七)の校註・解説を担当した重友毅(一八九九~一九七八)は、「『上田秋成集』の校註を引受けたのはまだ戦時中のことだつた」と述べていた。
 ということは、「日本古典全書」の企画は、戦時中に遡るということなのだろうか。これについては、そうだとも言えるし、そうでないとも言える。
「日本古典全書」が企画されたのは戦後だが、戦時中に、「国民古典全書」というものが、同じ朝日新聞社によって企画され、その第一巻は、一九四五年(昭和二〇)一月に、発刊されている。この「国民古典全書」が、「日本古典全書」の基礎となったことは明白である。ただし、その収録内容には、かなりの違いがある。
 いずれにしても、重友毅は、すでに「国民古典全書」の段階で、「上田秋成集」の校註を依頼され、引き受けていたのだろう。
「国民古典全書」全五十二巻の内容は、一度、このブログで紹介したことがあるが(2018・10・6)、以下に、再度、掲げてみる。

 国民古典全書 第一期刊行/全五十二巻(*を附せる巻より遂次刊行の予定)
首巻(一)  *詔勅集 
首巻(二)   御製集
  上 古 篇
第一巻    *古事記・祝詞・宣命
第二・三巻  *日本書紀 上・下
第四巻     風土記・高橋氏文・古語拾遺
第五巻     古代歌謡集
第六・七巻  *万葉集 上・下
第八巻     古今集・金葉集・新古今集
第九巻     漢詩集
第十巻     仏教集(一)
第十一巻    物語文学集
第十二巻    日記文学集
第十三巻    随筆文学集
第十四・五・
六巻      源氏物語 上・中・下
第十七・八巻  今昔物語 上・下
第十九巻    大鏡・増鏡
  中 世 篇
第二十巻   *山家集・金槐集・新葉集・李花集
第二十一巻   中世歌学集 
第二十二巻   中世歌謡集
第二十三巻   説話文学集
第二十四巻   平家物語
第二十五巻   神皇正統記・愚管抄・吉野拾遺
第二十六
・七巻    *太平記 上・下
第二十八巻   仏教集(二)
第二十九巻   謡曲集
第三十巻    芸術論集(一)世阿弥・禅竹・演劇論
第三十一巻   芸術論集(二)書道論・画論・茶道論等
  近 世 篇
第三十二巻  *神道要集 
第三十三巻  *国学集(一)本居宣長集
第三十四巻  *国学集(二)平田篤胤集   
第三十五巻   朱子学集
第三十六巻   陽明学集
第三十七巻   心学集
第三十八巻  *武士道集
第三十九巻  *水戸学集
第四十巻    経済論集
第四十一巻   近世和歌集(一)
第四十二巻   近世和歌集(二)
第四十三巻   近世歌論集
第四十四巻   俳諧集(一)芭蕉集
第四十五巻   俳諧集(二)蕪村中心
第四十六巻   西鶴名作集
第四十七巻   近松名作集
第四十八巻   浄瑠璃名作集
第四十九巻   秋成・綾足名作集
第五十巻   *幕末志士集

 以上は、日本文学報国会編纂『古事記・祝詞・宣命』(国民古典全書第一巻、朝日新聞社、一九四五年一月)の附録「国民古典全書通信 第一号」にあった内容紹介から、タイトルだけを紹介したものである。
 この第四十九巻に、『秋成・綾足名作集』が入っている。その解説ないし校註担当者は次のように予定されていた。

                           佐藤 春夫
第四十九巻   秋 成・綾 足名作集    武蔵高校教授  重友 毅
                    早大助教授  暉峻 康隆
                   佐賀高校教授  杉浦正一郎 

 収録予定作品、校註の分担などは不明である。なお、「綾足」というのは、江戸中期の文人・建部綾足(たてべ・あやたり)のことである。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2021・4・20(10位に極めて珍しいものが入っています)

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『春雨物語』について(重友毅)

2021-04-19 00:50:43 | コラムと名言

◎『春雨物語』について(重友毅) 

 谷川健一の崇徳上皇論を読んでいるうちに、『雨月物語』の「白峯(しらみね)」が読みたくなった。『雨月物語』は、ずいぶん昔に通読したはずだが、「白峯」の内容は、まったく覚えていない。面白くないとみて、読みとばしたのかもしれない。
 改めて読んでみたところ、たいへん面白かった。崇徳上皇の陵を訪ねた西行法師が、上皇の霊と白熱の議論を展開するという話である。この際、上皇の霊は、激しい「情念」を前面に出して西行を威圧する。これに対して西行は、あくまでも冷静に、また理性的に反論してゆく。日本の文学には、あまり例を見ない「思想的」な小説だと思った。
『雨月物語』の作者である上田秋成は、のちに本居宣長との間で、「日の神論争」と呼ばれる白熱の論争をおこなうことになる。この論争の際、おそらく秋成は、かつて書いた「白峯」のことを思い出したであろう。このとき、「崇徳上皇の霊」に相当する役回りを演じたのは本居宣長であり、「西行法師」に相当する役回りを演じたのは上田秋成であった。なお、「日の神論争」の様子は、本居宣長の『珂刈葭(かがいか)』によって知ることができる。
 さて、今回、私は、『雨月物語』の「白峯」を、日本古典全書の『上田秋成集』(朝日新聞社、一九五七)で読んだ。校註は重友毅(しげとも・き)である。同書の巻頭には、三九ページにわたって、校註者による懇切な「解説」がある。
 このほか、この本には、「附録」として四ページの紙片がはさまっている。ここにある重友毅の文章が、実によい。以下に、引用してみる。

 『春雨物語』について  重友 毅
 『上田秋成集』の校註を引受けたのはまだ戦時中のことだつたから、それがかうして出来上るまでに十年あまりの歳月が経つたことになる。われながら怠慢であつたといはなければならない。もつともその間に、数冊の単行本を出してゐるから、全く無為に過ごしたといふわけでもない。しかしそれらの仕事の度ごとに、この校註はいつも後廻しにされて来たのであつた。
 その後廻しも、実はこの書のなかに当然収まるはずの『春雨物語』が未完本の形でしか知られてゐず、その補足が容易なことでは望めさうもない事情にあつたことと関係がある。前に『秋成』(続日本古典読本)〔日本評論社、一九四三〕といふ同類の校注書を出してゐるだけに、出来ればこの機会に、いくぶんでその補ひをしたいといふ希望があつた。それは当時としては夢想に近いものでもあつたが、そんなことで筆が進まずぐづぐづしてゐるうちに、意外にもその完本が、それも次々に諸方から発見せられることになつた。いつてみれば怠慢の招き寄せた僥倖で、わたくしはこれに勢ひを得て『雨月物語』『藤簍冊子〈ツヅラブミ〉』(抄)『春雨物語〈ハルサメモノガタリ〉』と、秋成の正統的作品のひととほりを年代順に配列して、これに略註を加へることが出来た。
 仕上げて見ると、結果はわたくし自身にとつても便利なものが出来たやうな気がする。もつとも『春雨』の本文、特に新しく発見された部分については、なほ多くの問題が残つてゐるが、おほよその輪廓だけは明かになつたわけだから、これを『雨月』からひとつづきのものとして眺めわたして来ると、一段と秋成の真骨頂ともいふべきものがはつきりして来るのではないかと思はれる。
 『春雨』の、特に新しく発見された諸短篇を蹈まへての研究は、まだ始まつたばかりといふよりは、むしろこれからだといつていいと思ふ。それをわたくしもこれから腰を入れてやつてみたいと思ふが、実をいふとあらたに知つた短篇もさう意外なものではなく、やつぱりさうだつたかと思はせるものばかりだつたといつていい。しかし「二世の縁」「捨石丸」「樊噲」はそれぞれの意味で面白く、殊に「樊噲」は前半だけしか知られなかつた当時でも興味深く、今後半が加はつてみると、予想に違はぬ結末は取りながらも、その段取りにはいふべからざる妙味がある。
 またその全貌がわかつてみると、『春雨』はこれまでのやうに『雨月』の従位に置かれるべきものではなく、むしろ秋成作品のなかでは主位に立つべきものと考へられる。物語の名をもちながら物語の型にとらはれず、あたかも近代作品を思はせるものをさへまじへてゐる。これはかれが作家としてよりも、学者としての立脚地に自覚と信念を深めた最晩年の筆に成ることとも関係があらう。
 とにかく『春雨』は、秋成の意外な面貌を示すものではないにしても、『雨月』だけでは突き止めにくいさまざまの課題に答へてくれるものをもつてゐる点で、われわれの研究意欲を唆つてやまないものがある。

 この文章を読んで、まだ『春雨物語』を読んでいなかったことに気づいた。この歳になっても、読まなければならない本、読んでみたい本が、次々と見つかる。
 なお、文章の冒頭で重友は、「『上田秋成集』の校註を引受けたのはまだ戦時中のことだつた」と言っている。その言葉の意味するところについては、次回。

*このブログの人気記事 2021・4・19(1位と9位に珍しいものが入っています)

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長賊御征罰は求めても得がたき好機会(福沢諭吉)

2021-04-18 00:00:16 | コラムと名言

◎長賊御征罰は求めても得がたき好機会(福沢諭吉)

 本山幸彦氏の論文「書翰にみる福沢諭吉」(『教育科学セミナリー』第二六巻、一九九四年一二月)を紹介している。
 本日は、その三回目(最後)で、「2 維新期、啓蒙期の福沢書翰」の最後のところを紹介する。前回、紹介したところのあとを、一ページ強、割愛している。

【中略】
 幕府に関する『自伝』の記述と、幕末期福沢の幕府への想いが、極端なまでに相違するのは、次にしめす第2次長州征伐をめぐる福沢の幕府への建議であろう。 
 第2次長州征伐がはじまると、中津藩も幕府に出兵を命じられ、藩は江戸留学中の青年藩士に出征のために帰藩を命じたのである。このときの福沢の行動が『自伝』にはこう記されている。
 《夫れから長州藩が穏かでない。朝敵と銘が付いて、ソコで将軍御親発となり、又幕府から九州の諸大名にも長州に向て兵を出せと云ふ命令が下って、豊前中津藩からも兵を出す。就ては江戸に留学して居る学生、小幡篤次郎を始め十人も居ました。ソレを出兵の御用だから帰れと云て呼還しに来た其時にも、私は不承知だ。此若い者が戦争に出るとは誠に危ない話で、流丸に中っても死んで仕舞はなければならぬ。こんな分らない戦争に鉄砲を担がせると云ふならば、領分中の百姓に担がせても同じ事だ。此大事な留学生に帰て鉄砲を担げなんて、ソンな不似合な事をするには及ばぬ。仮令ひ弾丸に中らないでも、足に踏抜きしても損だ、構ふことはないと病気と云て断って仕舞へ、一人も還さない、ソレが罷り間違へば藩から放逐丈けの話だ、長州征伐と云ふ事の理非曲直はどうでも宜しい。兎に角に学者学生の関係すべき事でないから決して帰らせないと頑張った云々。》(19) 
 ここには福沢の素顔ともいうべき身分差別の意識がはっきりしめされている。『自伝』では珍らしい記述である。福沢は武士である学生の身を案じるあまり、学生の代りに「領分中の百姓に担がせても同じ事」と叫んでいるのである。学生の生命は大切だが、百姓の生命はどうでもいいと考えているのだろうか。
 それはそれとして、 『自伝』が語るように、 福沢が学生達に帰藩命令を拒否させたのは、おそらく事実だろう。しかし、長州征伐のことを「こんな分らない戦争」だとか、「長州征伐と云ふ事の理非曲直はどうでも宜しい」とか、本当に当時の福沢が考えていたであろうか。それはあきらかにウソである。慶応2(1866)年7月、福沢が幕府に建議した「長州再征に関する建白書」(20)が、『自伝』のウソを暴露する。
 建白は外国との條約締結以来、尊王攘夷の妄説が世に拡がり、国内が混乱し幕府の心労はさぞ大変にちがいないという意味の書き出しではじまる。ついで「其説(尊王攘夷)の趣意は、天子を尊候にても無之〈コレナク〉、外国人を打払候にても無之、唯活計なき浮浪の輩〈ヤカラ〉衣食を求め候と、又一には野心を抱候諸大名上の御手を離れ度と申〈モウス〉姦計の口実にいたし候迄の義」で、これら大名たちのなかで、「第一着に事を始め反賊の名を取候者は長州」だとつづく。 
 この反賊を討伐するのが征長である。「彌以〈イヨイヨモッテ〉此度〈コノタビ〉御征罰相成候義は千古の一快事、此御一挙を以て乍恐〈オソレナガラ〉御家の御中興も日を期し可相待〈アイマツベキ〉義、誠に以難有仕合〈アリガタキシアワセ〉に奉存候。……此度長賊御征罰の義は天下の為め不幸の大幸、求ても難得〈エガタキ〉好機会に御座候」と、福沢は一挙に長州を征服し、余勢をかつて他の大名をも制圧し、「京師をも御取鎮〈オトリシズメ〉に相成」、幕府は外交の全権を握り、「全日本国中の者片言も口出し不致様仕度〈イタサヌヨウシタキ〉義に奉存候」と、幕府絶対権力の確立を、この長州征伐に期待しているのである。 
 この建白の何処に、「こんな分らない戦争」、「理非曲直はどうでも宜しい」などと考えた痕跡がみられようか。 
 ほんの少しの事例をあげたにすぎないが、『自伝』の記述と幕末期の福沢の思想と行動とのちがいが、恰も実像と虚像のように相反していることか理解されるであろう。恐らく明治の「聖代」に天下の指導者を以て任ずる福沢が、昔は尊攘派を抑え、幕府をもり立てようとした忠実な幕臣だったとはいいにくかったのであろうか。こうした実像と虚像のギャップの意味を考えること、このギャップを念頭において福沢の研究を進めることが、福沢の再評価には必要なのではあるまいか。

(19) 『福翁自伝』。167頁。 
(20) 『福沢諭吉全集』。20巻。7頁

 本山幸彦氏は、ここで「長州再征に関する建白書」のうちの、最も本質的な部分を抜き出している。すなわち、当時の福沢は、「長州再征」を機に、幕府(開明派)による「幕府絶対権力の確立」を目指す立場に立っていたのである。
 ここで再度、この当時の福沢諭吉を、「保守」的と捉えるべきなのか、それとも「革新」的と捉えるべきなのかを考えてみよう。ここでは、「京師をも御取鎮に相成」と述べている点に注意したい。ここで福沢は、「皇室」、ないし、それを担ごうとする勢力の制圧を提言しているのである。
 どこまでも幕府を支持しているという意味では、福沢は、明らかに「保守」の側に立っている。しかし、幕府(開明派)による「幕府絶対権力の確立」(皇室の制圧を含む)を目指しているという意味では、きわめてラジカルな「改革」の側に立っていると言ってよい。
 本山論文の紹介は、ここまでとし、このあと私は、「長州再征に関する建白書」の全文を引用した上で、その検討に入りたいと思う。しかし、明日は、いったん、話題を変える。

*このブログの人気記事 2021・4・18

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福沢諭吉には強い政治的野心があった

2021-04-17 02:46:35 | コラムと名言

◎福沢諭吉には強い政治的野心があった

 本山幸彦氏の論文「書翰にみる福沢諭吉」(『教育科学セミナリー』第二六巻、一九九四年一二月)を紹介している。本日は、その二回目で、「2 維新期、啓蒙期の福沢書翰」の初めのところを紹介する。

 1 『福翁自伝』の真偽
 『自伝』の福沢は、中津藩士としても、後に幕臣になってからも、「世間で云ふ功名心は腹の底から洗ったやうに何もなかった」(4) と、立身出世の欲望や政治的野心が全くない無欲恬淡な人間として描かれている。長崎や大阪での修学中はいうまでもなく、安政 5(1858)年、中津藩洋学教師として江戸に呼び出されてからも、「藩の政庁に対しては誠に淡白で、長い歳月の間只の一度も建白なんと云ふことをしたことはない」、しかも、こうした態度は幕臣になってからも変らなかったと福沢はいうのである。(5)
 《扨〈サテ〉江戸に来て居る中に幕府に雇はれて、後にはいよいよ幕府の家来になって仕舞へと云ふので、高百五十俵、正味百俵ばかりの米を貰って一寸【ちょいと】旗本のやうな者になって居たことがある。けれども是れ亦、藩に居るときと同様、幕臣になって功名手柄をしやうと云ふやうな野心はないから、随て自分の身分が何であろうとも気に留めたことがない。》(6)
 あるいは、尊攘対佐幕の政争が激化してきた幕末政局のなかにあっても、福沢は「幕府の門閥制度鎖国主義が腹の底から嫌だから佐幕の気がない。左ればとて勤王家の挙動を見れば、幕府に較べてお釣りの出る程の鎖国攘夷、固よりコンナ連中に加勢しやうと思ひも寄らず、唯ジット中立独立と説を極めて居た」(7) と回想している。では、歴史上の福沢も果してこの通りだったのか。
 万延元(1860)年、幕府が遣米使節団護衛のためと称して咸臨丸をアメリカに派遣したとき、福沢は何とかこの船で渡米したいと考え、かねて出入していた江戸蘭学の総師桂川甫周〈かつらがわ・ほしゅう〉にたのみ、桂川家の親籍にあたる咸臨丸艦長木村摂津守の従僕という身分をえ渡米に成功していた。この福沢の行為は、たんに外国をみて見聞をひろめたいという知的関心だけによるものだったとは思えない。事実、帰国後の福沢は、幕府外国方に雇いとして採用されているのである。福沢の立身出世志向は、外交文書の翻訳を介して政治の方面にも拡がっていく。
 福沢の政治志向が『自伝』の自画像を裏切って強くなったのは、文久元(1861)年12月から1年間、幕府遣欧使節の一員として欧州に滞在したことが大きい。このとき、使節を派遣した久世広周〈クゼ・ヒロチカ〉、安藤信正ら、公武合体派の幕閣は、関国、開明政策を実施し、その参考のために、使節団の団員に欧州探索を命じていた。幕命により福沢も国制、軍制、税制の調査に当ったが、それはこの幕閣の改革路線に直結するものであった。(8)
 この任務の遂行により、福沢はさらに政治意識を高め、文久2 (1862)年4月11日、ロンドンから国許の家老島津祐太郎に政治意見を具申するようになる。その意見は、中津藩も他の諸藩に負けず、「大変革の御処置有之度、私儀も微力の所及は勉強仕、亡父兄の名を不損様仕度丹心に御座候」(9) と、新知識を武器に藩政の改革に参加したいと決意を表明し、その方法については、「い才〔委細〕の義は帰府の上建白も可仕候得共、先づ当今の急務は富国強兵に御座候。富国強兵の本は人物を養育すること専務に存候」(10)と、藩士教育の緊急なることを説いていた。 
 帰国後の元治元(1864)年10月、木村摂津守の推挙で福沢は幕府直参となり、外国奉行翻訳方に出仕、扶持米〈フチマイ〉百俵を受ける身分となる。しかし、これも福沢自ら積極的に就職運動をした形跡がある。福沢は帰国の翌文久3(1863)年より、せっせと木村家を訪問しているが、文久3年21回、直参になった元治元(1864)年26回、慶応元(1865)年 1回、2年14回、3年7回というのがその回数である。その度に福沢は黒鯛、鰡(鯔【ボラ】の誤りか)、椎茸、あるいは郷土の名産などを手土産に持参していた。(11)

(4) 〔昆野和七校訂〕『福翁自伝〔復元版〕』(角川文庫)。1953年1月。角川書店。168頁。 
(5) 同上。164頁。 
(6) 同上。168頁。 
(7) 同上。271頁。 
(8) 長尾正憲著『福沢屋諭吉の研究』。1988年7月。思文閣出版。142頁
(9) 慶応義塾大学編『福沢諭吉全集』17巻。1961年11月。岩波書店。8頁。 
(10) 同上。8頁。
(11) ひろたまさき『福沢諭吉』。70頁

『福翁自伝』において福沢諭吉は、「立身出世の欲望や政治的野心が全くない無欲恬淡な人間」として、みずからを描かれている。しかしこれは、事実に反する、と本山幸彦氏は指摘する。
 本山氏によれば、「立身出世の欲望」を持っていた福沢は、木村摂津守喜毅(きむら・せっつのかみ・よしたけ)など、幕府有力者に接近してゆくなかで、強い「政治的野心」を抱くようになったという。
 さて、この当時の福沢諭吉を、「保守」的と捉えるべきなのか、それとも「革新」的と捉えるべきなのか。幕府外国方の「雇い」となり、「外国奉行翻訳方」となった福沢は、幕府のために忠勤を励んだ。その意味では、彼は「保守」の側に立ったと言える。しかし、福沢に求められた役割は、幕閣の「改革路線」のために尽力することであった。その意味では、「革新」の側に立ったことになろう。

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本山幸彦氏の論文「書翰にみる福沢諭吉」(1994)

2021-04-16 01:46:45 | コラムと名言

◎本山幸彦氏の論文「書翰にみる福沢諭吉」(1994)

 今月一一日のコラム「福沢諭吉は保守思想家だったのか」の中で、私は次のように書いた。

 福沢諭吉というのは、一筋縄ではいかない人物であり、生前から今日まで、なかなか評価が定まらない人物である。小川氏は、いったい、福沢諭吉のどういった面を捉えて、彼を「保守思想家」と位置づけたのだろうか。本書を読んだ限りでは、このあたりが理解できなかった。

 ここで「本書」とは、小川榮太郎氏の近著『「保守主義者」宣言』(育鵬社、二〇二一年三月)のことである。
 さて、同日のコラムを書いたあと、私は、みずからの福沢諭吉論である『知られざる福沢諭吉』(平凡社新書、二〇〇六年一一月)を読みなおしてみた。その後に発表した『攘夷と憂国』(批評社、二〇一〇年八月)のうち、福沢諭吉について論じた章にも目を通した。さらに、幕臣たる福沢諭吉が、慶応二年に提出した「長州再征に関する建白書」も、改めて検討してみた。
 その結果、暫定的に得られた結論は、こうである。

 福沢諭吉を「保守思想家」として位置づけるのは適当でない。しかし、幕末期、維新期、明治期における福沢諭吉の挙動および言論活動は、「保守主義とは何か」という問題を考える際、きわめて重要なヒントを提供してくれるに違いない。

「長州再征に関する建白書」は、保存しておいたはずのコピーが見つからなかったので、インターネット上にあるものを利用しようと考えた。しかし、これをインターネット上で閲覧することができなかった。こういう基本的な史料が、インターネット上のどこにもないことに驚いた(青空文庫は「作業中」)。やむなく、『福沢諭吉全集』第二〇巻にあるものを、図書館に行ってコピーしてきた。
 インターネット上で、「長州再征に関する建白書」を探し求めている間に、本山幸彦氏の「書翰にみる福沢諭吉」という論文を見つけた(『教育科学セミナリー』第二六巻、一九九四年一二月)。もちろん、「長州再征に関する建白書」にも言及している。
 これは、注目すべき論文である。しかし私は、『知られざる福沢諭吉』を書いたときも、『攘夷と憂国』を書いたときも、この有益にして優れた論文の存在に気づかず、これを援用することができなかった。
 本日以降、本山氏のこの論文を、何回か分けて紹介してみたい。本日は、「はじめに」の全文を紹介する。註は、引用した箇所にあるものを、その都度、紹介する。

 書 翰 に み る 福 沢 諭 吉  本 山 幸 彦 

  は じ め に 
  1 『福翁自伝』の真偽 
  2 維新期、啓蒙期の福沢書翰 
  3 書翰にみえる福沢諭吉 
  む す び 

は じ め に 
 私は福沢諭吉の書翰約400通をえらび、大学院の演習で院生諸君と詳細に分析してきた。3年間にわたる演習の結果、『福翁自伝』とは違った福沢像がみえてきた。古今の自伝文学の最高傑作の一つだと絶賛されている『福翁自伝』も、その記述のすべてが、福沢諭吉の真実を語っているわけではないのである。書翰のなかには、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず云々」という福沢の名言からは、とても想像できない福沢像が、しばしば顔を出す。
『福翁自伝』のこうした問題性については、『福沢諭吉研究』(1)や『福沢諭吉』(2)の著者ひろたまさき氏も、「功成り名遂げた64才福沢の自伝には、自己満足と自己隠敵をもった後代の意識をみなければならぬ」(3)とのべ、その信憑性に疑問を投げかけている。
 小論は福沢諭吉の書翰と『福翁自伝』とを比較しながら、『自伝』では知りえない、『自伝』とは違った福沢像、いわば福沢という人間の素顔に迫ることを目的としている。そして、『自伝』を基盤としたこれまでの福沢研究とは別の角度から、福沢の人と思想を追及する手がかりをつかみたいのである。 
 こうした目的のもとに、まず、『福翁自伝』 のなかから、幕末期の福沢について語った二、三の「事実」をえらび、それを書翰や建議など当時の記録と比較することによってその真偽を検証し、次に維新期から啓蒙期にいたる『自伝』の記述と書翰を比較検討し、最後に『自伝』との比較が困難な啓蒙期以後の書翰を対象に、福沢の像を描がいてみたい。 

(1)  ひろたまさき著『福沢諭吉研究』。1976年2月。東京大学出版会。
(2) ひろたまさき著『福沢諭吉』(朝日選書)。1976年11月。朝日新聞社。
(3)  『福沢諭吉研究』。7頁。

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