礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

スクナヒコナの神は、火虫の皮を着物にしていた

2022-09-25 00:04:41 | コラムと名言

◎スクナヒコナの神は、火虫の皮を着物にしていた

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。本日は、その九回目。本日、紹介するところも、「第三 古事記の由来と内容」の一部である。

 それからもう一つ。是は皆様御存知でありますが、一寸法師と云ふのがありますが、あの一寸法師と云ふのは古事記の中に出て来る所の少名毘古那神〈スクナヒコナノカミ〉、古事記を読んで御覧になりましても少名毘古那神と云ふのはどんな神様かと云ふと火虫〈ヒムシ〉の皮を着物にして着て居る。火虫と申しますと今日の蛾であります。皆様がたが夜になるとよく田圃〈タンボ〉の間に誘蛾燈〈ユウガトウ〉を沢山点けて居るのを御覧になるでせう。あの蛾が即ち火虫であります。火虫の皮をはいで着物にして居たと云ふ方でります。さうして見れば結局一寸法師である。日本書紀を見れば少名毘古那神は大国主神〈オオクニヌシノカミ〉の手の面に乗つたと云ふ話がある。そこで大変小さな神様だなと言つたら何を言ふかと言つて鼻の先に飛んで噛み附いたと云ふ話がある。あの一寸法師の話を見れば少名毘古那神の話が妙なものに変形したに違ひないと見える。処が御伽噺〈オトギバナシ〉の古いものを見ますと、或る者が其の一寸法師の後をつけて何処へ行くかと思つて行つたら五條の天神〈テンシン〉の社へ入つたと書いてある。京都の五條の天神と申しますのは菅原道真でない、少名毘古那神を祭つた社です。そこへ一寸法師が入つたと云ふことが御伽噺に書いてある。以上のやうなことを考へて見ると我が国に伝つて居る物語とか、説話とか申しますものは西洋人が考へて居るやうな、或は印度のお釈迦の本生〈ホンショウ〉物語とか云ふやうなものとは性質が違ふ物語です。〈七一~七二ページ〉

「京都の五條の天神」とは、京都市下京区にある五條天神宮(ごじょうてんしんぐう)を指す。「天神」は、天つ神(あまつかみ)に由来し、「てんしん」と読む。ちなみに、菅原道真の神号「天神」は「てんじん」と読む。

*このブログの人気記事 2022・9・25(9位の清水幾太郎は久しぶり)

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伊勢では、家の中へ小さい蟹が入ってきます

2022-09-24 00:06:12 | コラムと名言

◎伊勢では、家の中へ小さい蟹が入ってきます

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。本日は、その八回目。本日、紹介するところも、「第三 古事記の由来と内容」の一部である。

 私が伊勢へ参りまして、今居ります所が市内で、大部海に遠い所ですけれど私の居ります前の小さい溝のやうな川は潮の満干の多い所でありまして、時々満潮で水が一杯になることがあります。そんな処ですから家の中へ小さい蟹がどんどん入つて来ます。初めて参りました時分には驚きましたが、殆ど蟹と一緒に生活して居る位で、寝て居る所も何処へでも入つて来る。其中〈ソノウチ〉に、中に入つて来る原因は、子供が御飯粒〈ゴハンツブ〉をこばすその御飯粒をさがすことが最大の目的であるといふことがわかりました。御飯粒がありますと蟹は一生懸命取つて参ります。その有様を考へて見ると、御伽噺〈オトギバナシ〉の中に蟹がにぎり飯を喰べると云ふ所があリますが、是は本当の御飯粒を沢山かためるとにぎり飯になる。唯〈タダ〉話を大仰〈オオギョウ〉にしただけのものである。それから猿と蟹との話をそこでまあ覚えたことですが、猿と云ふものは蟹を見ると云ふと非常に驚いて狂人みたいに騒ぐのであります。非常に猿と蟹とは仲が悪い。どうもさう云ふやうな日本人の昔の生活が此の猿と蟹との話を起して来た原因だらうと、斯う云ふ風に考へるとどうも古代の我々の先祖の生活が私共は今目の前に見えるやうに思ふ。是などは何にも大したことはない話でありまずが、あの文正草子〈ブンショウゾウシ〉と云ふ御伽噺がある、是は鹿島の大宮司の家に奉公して居つた文太と云ふものが独立して塩焼になつて大金持になつた話であります。その文正草子と云ふのは昔正月に御目出度うと言つて皆んなが読んだものださうです。所で鹿島の大宮司の子孫として今も鹿島何某と云ふ人があります。その人は今札幌神社の禰宜〈ネギ〉をして居られる。其の鹿島の総本家になる鹿島氏に私が聞いたことがあります。塩焼文太と云ふ者と鹿島大宮司家とは必ず関係があるに相違ない。此の話は唯の拵へ話〈コシラエバナシ〉ではないと私は思ふ。断じて是は拵へ話ではないと思ふが、あなたの鹿島家とは関係ないのですか」と聞いた時に、其の鹿島氏がいはれるには「ありますとも、今でも私の家には関係があります」といふことであつた。その話を聞くと、昔から引きつゞいて今でも茨城県の何某と私は名前も聞いて居りますが、其の家から正月に塩を一俵づゝ持つて御年賀に来る。処が塩が専売になつてから塩を持つて来ることが出来から、塩代と称してお金を一円づゝ持つて来る。「是ば今でも持つて来ます」と、斯う言つて居られます。斯う云ふことを考へで見ましたら、我が国に於ける此の昔話と云ふものには、皆んな何等かの根拠があると云ふことには間違ひない。〈六九~七一ページ〉

 山田孝雄には、男女あわせて九人の子どもがいた。伊勢市に住んでころも、年少の子どもたちを育てていたのであろう。食卓からゴハン粒がこぼれることも多かったと推測される。なお、山田孝雄の長男は、国語学者の山田忠雄(一九一六~一九九六)、次女は、俳人の山田みづえ(一九二六~二〇一三)である。

*このブログの人気記事 2022・9・24(8・9・10位に珍しいものが入っています)

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帝皇の日継と云ふのは一言葉で言へば皇統譜です

2022-09-23 00:42:13 | コラムと名言

◎帝皇の日継と云ふのは一言葉で言へば皇統譜です

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。本日は、その七回目。本日、紹介するところは、「第三 古事記の由来と内容」の一部である。

 それから古事記を歴史だと云ふ人がありますが、歴史と云ふのは古事記の様なものを云ふのだちいふことならばそれは歴史といふことになるでせう。けれども我々の考へて居る歴史と云ふものはさう云ふものでない。結局古事記は歴史でもない。何だと云ふと斯う云ふより仕方がないのです。古事記の序文に書いてある通りに帝皇〈テイオウ〉の日継〈ヒツギ〉及び先代の旧辞〈クジ〉、斯う云ふものになつてしまふ。然らば帝皇の日継と云ふものは何であるか、斯う申しますと云ふと、是は今手取り早く私は現代の制度で申します。皇室典範の中に皇統譜と云ふ言葉がある。皇統譜と云ふものを規定してあります。大正十五年〔一九二六〕に皇統譜令と云ふものが出まして皇統譜に関する皇室令が出ました。さうして其の皇統譜令の中に皇統譜の大綱が、又皇統譜の施行規則に皇統譜の書式が出て居ります。此の書式を見ますと云ふと古事記を其の侭持つて来た様なものになつて居ります。是は天皇様の所の例を読んで見ますと云ふと、天皇様の御一代は此の皇統譜としての記載例が決つて居る。天皇の御名、父、母、それから何年何月何日午前何時何分、何の所に於て誕生す、何年何月何日命名す、何年何月何日立太子の礼を行はる。それから其の後に何年何月何日践祚〈センソ〉す、何年何月何日何と改元す、何年何月何日即位の礼を行はる、何年何月何日大嘗祭を行はる、何年何月何日成年式を行はる、何年何月何日何々の内親王と大婚の礼を行はる。何年何月何日皇太子にお立ちになる。それから是は摂政が出来た場合の事ですが何年何月何日摂政になる、何年何月何日摂政をやめる、何年何月何日崩す、これは御崩れ〈オカクレ〉になつた場合です、何年何月何日午前何時何分の所に於て崩御す、何年何月何日何天皇と追号す、何年何月何日大喪儀を行ふ、何年何月何日何の所に葬る、何年何月何日の陵と定められる、斯う云ふことが書いてあります。是が皇統譜の書き方であります。是が現在の規則です。大体此の通りの事が古事記に書いてある。帝皇の日継と云ふのは一言葉で言へば皇統譜です。だから現代の知識を動員したら分ると云ふのがそれです。皆様が皇統譜令の附録を御覧になつて古事記の記事を分解して照し合せて戴きますと、その皇統譜の中に綺麗に入つてしまつて大したものは残りはしませぬ。其の残つたものは何であるかと云ふと、それは先代の旧辞であります。〈六三~六五ページ〉

 ここでは、「帝皇の日継」とあるが、「帝皇日継」と書いて「ていおうのひつぎ」と読ませるのが、一般的なようである。
 また、「何年何月何日崩す」というところがあるが、これは原文のまま。ここは「何年何月何日崩ず」、または「何年何月何日崩御す」とあるべきだったと思う。弥

*このブログの人気記事 2022・9・23(8位になぜか清水文弥)

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坊さんには生活の苦労を知らぬ人が多い(山田孝雄)

2022-09-22 01:59:40 | コラムと名言

◎坊さんには生活の苦労を知らぬ人が多い(山田孝雄)

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。本日は、その六回目。本日、紹介するところも、「第二 古典の研究」の一部である。

 もう一つ我々が事実の正当なる認識をやりますには人情と云ふことを考へて見なければいけない。生きた人間であるとすればどうなるか、之を忘れて居る教育が少なからずあるやうであります。生きた人間を以て考へる、人情を以て考へると云ふと、我々がむつかしいと思つて居る事柄でも、容易く考へられることもあり、又何だか分つて分らぬと思つて居る事柄が、成る程さうだと思はれることがある。一例を申しますと、萬葉集一の巻にあります有名な歌でありますが、あの畝傍山〈ウネビヤマ〉、天香山〈アマノカグヤマ〉、耳成山〈ミミナシヤマ〉の三つの山の間にあつた藤原宮、即ち持統天皇様の有名な藤原宮、あの藤原宮の御井〈ミイ〉の歌といふものがあります。其の御井の歌を読んで見ると分ります通りに、周囲の畝傍山が斯うだ、香具山は斯うだ、耳成山は斯うだ、吉野山は斯うだと言つて山のことばかり詠んである。さうして一番終ひに御井の清水と云つて井戸のことが一言葉しか載つて居らぬ。そこで契沖〈ケイチュウ〉の悪口を言ふと済まぬのでありますけれども、契沖は其の御并の歌に付て非常に疑ひをなして居る。此の歌は題を以て考へて見ると井戸を詠んだ歌であると云ふのに周囲の山だの、宮城が立派だの、そんなことばかり言つて一番お終ひに井戸のことを一言葉しか言つて居らないのは妙だと言つて批評して届りますけれども、是は契沖は坊さんで自分で苦しんで御飯を食べたことがないから生活の苦労を知らぬ。何故と云ふと坊さんといふものは自ら苦労して生活を営んだことが無い。人から只貰つて喰つて居るからです。人間としての本当の生活をして居らぬ。米が高くても何でもない、人が持つて来て呉れる。だから坊主には生活の苦労を知らぬ人が少く無い。実際の話です。人情と云ふものは人間の生きて行く時の苦しみを体験しなくては分らぬものです。それを知らぬのです。だから坊主の言ふことは皆様方それだけの割引をして御考へにならなければいけない。是は本当です。実際であります。私は僧侶出の人を色々知つて居りますが、人情を知らぬ人が少く無い。人が苦心惨憺して世話をしてゐるのにそれは己れがえらいのだから当り前だと思つて居る。世話〔世間〕の苦労をしたことが無いから真の意味の思ひ遣りが無い。それ故に人の苦労を察するといふことが足らぬ。これは自分で生活に苦労した経験が無いからです。あゝ云ふことは非常に宜しくない。大体考へて御覧なさい。人間と云ふものは何に依つて生活をするかと言へば、一番大事なことは水に依ることである。水なくして人間は一晩でも其の土地に留まることは出来ない。野宿をして御覧なさい。山へ行つて野宿を致します時に先づ水があるかないか、水のある所でなければ野宿が出来ない。さう考へて見れば是だけの偉大なる宮城をどうして営まれたかと言へば此の於の御井の清水が基になつたのである。此の藤原の御井と云ふ水に依つて此の偉大なる所の藤原の都が出来たのだと、斯う云ふ偉大なる歌だと我々は思つて居るのに契沖は井戸のことを一言しか言はないと言つて居る。是は人情を知らないからである。〈四七~四八ページ〉

 萬葉集の「御井の歌」から、僧・契沖の悪口になり、さらに坊主の悪口になる。水の話に転じ、野宿の話になり、御井の歌の話に戻る。脈絡がないような、あるような雑談調だが、これが、山田博士の講話の持ち味だったのか。契沖(一六四〇~一七〇一)は、真言宗の僧侶で、国学者・歌人。

*このブログの人気記事 2022・9・22(9・10位に極めて珍しいものが入っています)

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君たちは学問がありすぎて常識を働かさない

2022-09-21 01:37:27 | コラムと名言

◎君たちは学問がありすぎて常識を働かさない

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)の紹介に戻る。本日は、その五回目。本日、紹介するところは、四回目と同じく、「第二 古典の研究」の一部である。

 ……其の位の機転が利かないと云ふと古典の研究は出来ない。又古い書物の研究も出来ない。今迄の学校の先生は本は本、生活は生活と別にしておいでになるから、ものになつて居ないと云ふのが相当多かつたと私は見て居る。実は私も中学の教師もしたし、小学の教師もしたが、さう云ふ意味に於て私は前科者です。人の悪口を云つて居るのでない。自分はさう云ふことをやつて来た。今日に於てそれを悔い改めて居る訳です。以上は古典が昔話でないと云ふ意味で申すのでありますから、まして平安朝位の歌は昨今の話と云つてもよい。それを蝉丸などと云ふと千年程前の昔の人だと云ふことばかりを考へておいでになるから、話がむつかしくなつてしまふ。兎に角〈トニカク〉現代の有らゆる知識の動員が必要です。有らゆる知識の動員をやつて来れば、分りにくいことでも幾等か分つて来るのであります。是も少し脱線気味でありますが、或る時考古学者が斯う云ふことを言つて居た。昔の土器の裏に沢山の同心円を渦巻のやうに押して居る。大きな円、小さな円、蛇の目のやうに、幾つも幾つも土器の裏に円を押して居る。極く親しくして居るその友人が私に向つて、「山田君、昔の人は偉いものだ、ぶん廻し〔コンパス〕も何にもなくして斯んなに旨いこと幾つも円をちやんと画くことが出来る。大したものだ。偉いものだなあ」といふのです。私は「そんなこどは何でも無いことだ。君の家の薮へ行つて太い竹細い竹をいろいろまぜて十本程切つて来る。それをポンポンと押すと何でもないことでは無いか。君等は自分の学問の力に負けて居る。自分達のやるやうなことしか古人はやらぬと思つて居る。昔の人はそんなものでばない。大体君達は学問があり過ぎて常識をはたらかさぬからいかぬ。細い竹なら小さいし、太いものなら大きいものが出来る。それは」と申しました。吾々が常識を動員して来て其の昔の色々な事柄を解釈すると云ふのは斯う云ふ事柄なのであります。是は何も古典ばかりではないのである。どんな場合に於ても是だけの用意がなければいけない。〈四五~四六ページ〉

 山田孝雄は、独学によって独自の国語学・文法論を打ち立てた碩学である。富山尋常中学校を中退したあと、小学校、中学校の教員検定試験に合格し、小学校、中学校の教壇に立ったこともある。そういう苦労人・独学者が吐いた「君達は学問があり過ぎて常識をはたらかさぬからいかぬ」という言葉には、なかなかの重みがある。

*このブログの人気記事 2022・9・21(9・10位に珍しいものが入っています)

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