九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

小説 俺のスポーツ賛歌(1)   文科系

2024年03月07日 11時08分03秒 | 文芸作品
 長らくお休みで済みませんでした。今日から、2日連続で、19年に書いた中編小説を転載させて頂きます。よろしくお願いします。20年近く続いたこのブログをまだまだ続けたいから。


 照明を最小限にしたそのレストランは急上昇中の名古屋駅前地域でも指折りの店と分かった。テーブル一つずつが回りから隔てられた作りで、〈近辺の重役室から抜け出した財界人辺りが商売の探りを入れる会食などに格好の場所だな〉、それとなく見回していた。駅前ツインビルの一角に、六歳違いでまだ現役の弟が久し振りに二人で飲むために予約を入れた店なのである。東京から月一の本社重役会に彼が来名した秋の夕暮れのことだ。
 水を運んできたウェイターに彼が語りかける声が響いた。「このビルの社長さんは、僕の同僚だった友達でしてねー」。〈「せいぜいサービスしなよ」と告げる必要もあるまいに、いつもスノッブ過ぎて嫌な奴だな〉。こんなふうに、彼と会うと俺の神経が逆なでされることが多いのである。でも、その日の彼において最高のスノッブは次の言葉に尽きる。俺の過去について思わずというか何というか、こんなことを漏らしたのだった。
「兄さん、なんで哲学科なんかに行ったの?」
 そう尋ねた彼の表情が何か皮肉っぽくって、鼻で笑っているように感じたのは、気のせいなんかではない。そう感じたから黙っていたらこんな質問まで続くのである。「兄さんは元々グルメだし、良い酒も好きだし、生き方が矛盾してないか?」。まともにこれに応えたらケンカになると感じたので、こう答えた。「お前には分からんさ。世のため人のためという人間が、グルメじゃいかんということもないだろうし」

 さて、その帰りに弟の言葉を反芻していた。年収二千万を越えたとかが十年も前の話、東海地方有数の会社の重役に理工系から上り詰めている彼から見ると、俺の人生に意味はないのかも知れぬ。「人生、こういう生き方しかないのだよ」と決めつける押しつけがましさはさらに強まっているようだし。高校の文化祭などは全部欠席して家で勉強していて、俺の目が点にさせられた覚えがあったなー。そこでふっと、こんなことも連想した。「オバマのは、税を納めぬ貧乏人のための政治。私は納税者のための政治を行う」、前々回の米大統領選挙での共和党候補者ロムニーの演説の一部だ。つまり、金のない人々を主権者とさえ見ないに近い発想なのである。弟はこれと同じ人生観を持って、こう語っていたのかも知れない。「兄さんは別の道にも行けたのに、何でそんな馬鹿な選択をしたのか?」と。そこには「今は後悔してるんだろ?」というニュアンスさえ含まれていただろう。

 秋の夜道を辿りながらほどなく俺は、自分の三十歳ごろの或る体験を振り返っていた。大学院の一年から非常勤講師をしていた高校で、「劣等生」に対する眼差しが大転換したときのことだ。二十代はほぼ無意識なのだが、こんな風に感じていたようだ。こんな初歩的ことも理解できないって、「どうしようもない」奴らがこんなにも多いもんか! 彼らがどういう人生を送ってもそれは自業自得、本人たちにその気がないんじゃ仕方ない。この感じ方がその頃、コペルニクス的転回を遂げたのである。〈彼らとて好きでこうあるわけではないし、現にみんな一生懸命生きてるじゃないか〉。その時同時に、家族とは既に全く違っていると思った俺の人生観も、一種我が家の周到な教育方針の結果満載であると、遅ればせながら改めて気づいたのである。勿論、その良い面も含めて。そして、弟よりもむしろ俺の方が、我が両親の良い面を受け継いでいるのだろうとも、少し後になって分かった。彼らは、旧制中学校、女学校で能力のある貧乏な生徒を良く面倒みて、俺が成人になってからもずっと世話していたという例さえ、いくつか覚えている。この両親ともが、愛知県の片田舎、貧乏子沢山の家から東京へ、当時の日本に男女二つずつ計四つしかなかった高等師範学校へと上り詰めた人だった。父の方はさらにその上の大学院のような所も卒業している。母と結婚してから、その母が勤めた旧制女学校の稼ぎによってのことだった。こうして二人はつまり、明治政府が築き上げた立身出世主義人材育成・登用制度を大正デモクラシーの時代に国内で最も有効に活用できた「優秀な庶民」だ。だからこそ、同じような境遇の教え子を可愛がったということだろう。仏壇、長幼の序など古い家のしきたりのようなものはほとんどなかったが、「人生の幸せ=高学歴」および「人は皆平等に大切」と、そんな人間観、人生観と、それに基づく子育て力が非常に強い家ができあがっていたようだ。

 この時またふっと、弟のこんな言葉も甦ってきた。
「私の仕事は初め新幹線の進歩、やがてはリニア新幹線を日本に生み出すという夢に、各年齢では常にその最高責任者として関わってきたんだよね!」
 この誇り高い言葉はまー、あの皮肉っぽい笑みからすれば俺に対してはこんな意味なのだろう。「だけど、兄さんの仕事人生は、一体何が残ったの?」。確かに、最初の仕事を二十数年で辞めたのだから、そう言われるのも無理はない。それも、貧乏な民間福祉団体で休日も夜も暇なく働いた末の、精神疲労性の二度の病のためだったのだし。そこでさらに気づいたこと、これに似た病に、お前も罹ったじゃないか? それも若い頃の入院も含めて一度ならず今も……お互い頑張っちゃう家系だもんなー。

 いろんな言葉や思い出を辿りつつここまで来て、俺の思考はさらに深く進んでいく。弟は何でこんな挑戦的な言葉を久々に会った俺に敢えて投げたのだ? 今も病気が出かけて終わりが近づいている自分の仕事人生と、何よりもこれが終わったその先とを自分に納得させる道を懸命に探している真っ最中だからじゃないか。この推察は、妥当なものと思われた。すると、ある場面がふっと浮かんできた。
〈小学校低学年からアイツは電車が好きだった。我が家に近い母さんの職場・市立高等学校の用務員さんの部屋で母さんを待って一緒に帰る途中にある中央線の踏み切り。あそこでよく電車を見てたと母さんが言ってたよなー。彼は少年時代からの夢を、日本最高度の形で実現させたんだ……〉


さて、ここまでは、今から約一〇年ほど前のこと。この弟、というよりも兄弟妹と俺の四人が育った家族から俺だけが「変わった歩み」を始めたと、今になって初めて分かった時というものを振り返ってみよう。その始まりの出来事こそそもそも、「俺のスポーツ」なのである。
 四人兄弟のなかで、兄も弟も高校の時いったん入ったクラブを間もなく止めさせられている。確かそれぞれボート部と卓球部のはずだ。こんなに時間を取るのでは学業に障りがあるからということだった。妹は卓球部をずっと許されたが、女だからということだろう。これも何か両親らしい。両親と言ってもこの場合、主導したのは父だ。母は消極的に父に賛成した。庇ってくれたこともあったから、そう感じた。確かめたわけではないが、まず間違いないだろう。
 高校に入学してバレーボール部に入ったが、すぐに、「辞めろ!」と命令した父との喧嘩が始まった。父の手が出たことも一度や二度ではないといった、修羅場が初めは連日のように続いた。そんな時の母は、俺と父との周辺をただおろおろ、うろうろしていた。こうして結局、二、三年にはキャプテンになるなど、俺はバレーボールを三年間守り通したのである。
「事前にこの程度に身体を動かしておくと、こんなに楽にプレーができる」
「個人練習なども含めてどれだけ激しく動いても、最後に軽く一キロほど走ると、疲れがこれほど取れるものとは。翌日の身体も全く普通になっている!」
 こんな初歩的な知恵も、誰に教えてもらうということもなくふとした自分の試みから発見したもの。これらの知恵が当時の俺にとって価値が高いという意味でどれだけ新鮮なものだったことか。そして、クラブ活動の後自転車で家路についた時、あの汗と夕陽! 今さらにこれらが好きになっている原点であった。この時に培ったスポーツ好きや足どり軽い身体への愛着とともに。

兄弟でただ一人一浪の後、文学部に入った大学でも、一年の夏にはバレーボールクラブのレギュラーになった。浪人時代も母校のマラソン大会に出て全学二位になったほどに基礎体力を維持した上で、大学の入学式前から春休み中のクラブ合宿に飛び入り参加をして入学式も欠席という意気込みで始めたクラブなのである。そのレギュラー初陣がまた忘れられないもの。夏休みに静岡大学で行われた中部地方国立大学大会で優勝したのだった。その年、愛知の大学バレーボール・リーグ一部中位に属していた結構強いチームだった。県大会常連のような学業成績優秀校のエースなどが集まるこの大学のレギュラー獲得は当時の俺にとって大きな誇りにもなったし、同時に家からの『自立』のさらに大きな一歩を踏み出すものになった。俺の高校クラブが地区大会一回戦勝ち抜けもできない弱さだったから、この誇りはことさらに大きかった。
 ところが、このクラブを一年の秋には辞めてしまった。当時の俺の意識としては、二つの原因で辞めた。一つは、哲学科の大学院へ行きたくなったこと。今ひとつは、体育会系の人間には、友達にしたい人がいないと見抜いた積もりになっていたことである。当時の俺はどう言うか、人生を求めていた。自分の家に規定された貝殻が小さいとしか感じられないようになった宿借りが、次の大きな殻を求めて歩き始めるように。そして、その大きな要求に、スポーツやスポーツ仲間が助けになるとは思えなかったのである。当時の奇妙な表現だけれど、感情や行動におけるほどにスポーツを大切なものとは、頭の中では捉えていなかったということだ。すごく好きだったし、行動上の熱中度も周囲の他の誰にも負けていないという自信さえ発散していたはずだが、当時の意識ではそれを俺にとって数少ない「面白いこと」の一つと捉えていたに過ぎなかった。

 哲学科の大学院に入ったころ、二人の主任教授のうちの一人がその時の授業テーマの説明としてこんなスポーツ論を語ってくれたことがあった。
「西欧と日本とでは、スポーツについての考え方は全く違います。ロダンの『考える人』。あの筋骨隆々たる姿は、なにも立派な軍人が、あるいは陸上十種競技の名選手が、たまたま何かを考えているという姿ではないのです。そもそも人間が何かを深く感じ、考えるということそのものが、あーいうたくましい筋骨を一点に集中してこそ成されていくという、ルネサンス以来の西欧流『考える人』の理想型というものなんです。対するに日本では、深く感じ、考える人ってどんな人でしょう。芥川龍之介みたいな人を連想する諸君も多いのではないでしょうか。貧弱な身体だからこそ文を良くするというような人。このように、日本では文武は分けられていて、文が武よりも上と、そんな感じ方がずっと多く存在し続けてきました。この頃こそ文武両道とよく語られるようですが」
 なるほどと思った以上に、一種ショックを受けた。この小柄ながら均整が取れた老哲学科主任教授が、大学時代にやり投げの全日本クラス名選手だったとも聞いていたことも重なっていた。
〈文武両道は本来なら比例するという相関関係にあるということだろう。それを言行一致して追求してきた人々がいる。それが西欧知識人の一般教養にもなっている。こういう本気の背後には、こんなスポーツ哲学もあるのだ!〉
自分のスポーツ大好きに大きな意味が一つ、初めて生まれてきた瞬間だった。だが、実際にこの哲学の意味、価値を身体で現し、感じられていくのは、まだまだ後の話になっていく。


(あと1回続きます)
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随筆  楽しい相続物   文科系

2024年02月17日 08時50分26秒 | 文芸作品
  このごろの僕は、日に何度も庭全体が見える廊下、大きいガラス窓の所に立つ。一月中旬過ぎから咲き始めた二本の梅を観るためだ。この花が今年は、急な寒さで咲き渋って、香りも含めて長く楽しめるのである。
 向かって左真横の白いのは、2メート四方ほど、花の厚さ一メートル弱と、横に広がっている。正面の紅梅は五メートル近く、中の立ち枝を剪定した茶筅型。この両方が、2月16日の今日、正に満開。先っぽまでやっと花開き始めたピンクの枝の間を、メジロとミツバチがいつも飛び回っている。さっきは、ジョウビタキの雄が見えたが、今は姿を消している。
 古代日本は、「花」と言えば梅のことと聞いた。楚々とした白い梅が、日本人好みなのだろう。古今集のころから桜が「花」になって今に至っているようだが、早咲きの河津桜というのもあって、我が家の紅梅はあの色に近い。それが、厚ぼったく花塊になるのではなく、すくっと高く伸びた枝に一重の五弁がひとつづつ数珠つなぎになって枝先まで並び、中国人好みという華やかさである。 

 この地は、名古屋市中区の区境界線近く、大都会のど真ん中。昨日久しぶりに入ってもらった初顔の若い庭師さんと花を見ていた僕との間で、こんな会話があったのを思い出す。
「正に満開、これだけで酒が飲めますねー。ちゃんと手入れされた良い庭ですよ。最近のイギリス自然風というのかな。この前写真で見たウエールズのも、こんなふうだった」
「亡くなった母の好みで花木の多い庭ですし、この梅が咲いてからは特に日に何度も花見してます。僕は洋酒ですが、あそこに摘み残っている柚で作った柚大根をつまみながら。もっとも、奥さんが梅酒を作ってくれるのですが、一昨年辺りからブランディー梅酒に替えまして、これがまた美味いんです。」
「柚大根って、僕も大好きです。あれは、美味いもんですよねー。すると、この庭からの酒とつまみで、この梅の花見・・・いー老後ですね。」
「僕もそう思います。白い方は親が遺してくれたもの、両親にどれだけ感謝しても、し足りない。もっとも、この辺りの2代目,3代目は、相続後に皆売って出て行ってしまうから、もう庭も珍しいんですよ」
「そうですよねー、庭だけでざっと40坪、相続税だけでも、大変なもんでしょう。」
「実は、この29日に、敷地内東隣のあの貸家に20年住まわれた店子さんが引っ越しされるその後に、子どもがいない息子夫婦が越してくるんです。僕らがいる家の方は二世帯住めるようになっていて、やがて娘家族が来ることになってます。二人とも関東の学校卒でしたが、名古屋に就職してくれた。後の相続税対策ですが、一定の金額を用意しなけりゃ、ここもなくなるんで、次男の僕は墓なんかいらんけど、この梅、庭は残ってほしい。」
「今の話、これもまた今時いー老後ですよ」
「僕らも、初め連れ合いの母と、次にここで僕らの両親と同居しましたから、それを見て育ったから、3世代同居って、結構楽しい、そう思ってるんじゃないですか。」

 ここで、玄関のベルが鳴ったので、出てみると、中一の女孫・ハーちゃんが「あー寒い」と言いながら、赤くなった手を見せてくれる。この曇り空の夕方近くに、自宅から一キロ以上の道を歩いて来たのだ。
「あーっ、あんなモクセイならすぐに登れるね?」
 庭師さんの居る廊下に出て、枝を払いすぎたように見えるその木の元へ歩いて行った。そして、黒い置き石の辺りに散らばった紅梅の花びらの上を、そうっとそうっと、一歩、一歩。

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随筆 「寂しいでしょう?」   文科系

2024年02月07日 14時33分26秒 | 文芸作品
 ネットで今の日本の少子化問題を検索していたら、僕にとっては面白過ぎるある論文にであった。読み終わって「今や、これは、もう、珍論と言っても良いな」とつぶやいていた。「男一人の収入でやっていけるのが『理想』だけど、その理想が満たされそうもないので、結婚が遅れたり、一人のままだったりする」という内容だ。珍論と思ったのは、こういうこと、「そういう給料を出せ」と語るなら大賛成だが、どうも違うようだ。「そういう専業主婦を望まない女性の多さ」がお気に召さぬらしい。それで、どういうお方がこれを書いたかと調べてみた。財務省の若手官僚のようだ。それも独身男らしい。「なるほど……。だが、えらそうに……」
 さて、ここで唐突だったが、突然自分の昔を思い出した。僕の家が完全共働きであって、その三男一女の次男である僕の少年時代には、ご近所から散々こんな言葉を投げられて育ってきたと。「寂しいでしょう?」。こういう同情の声をかけてきたのはすべて女性、特に中年女性であった。対する僕はきょとんとして、「昼間に母が居ないと、寂しい? 会う女性ごとにそう質問する。どうして? 子どもには楽しいことなどいっぱいなのに」
 就職してちょっとすると、こんな言葉も聞いた。「育児においては、母の掌こそ至高のもの。さもなければ、愛着障害などが起こる」
 そう、ちょっと昔の日本は、この財務官僚の結婚観に実質合致したような女性ばかりだったのである。それも、偏った先入観、感性を元にした結婚観ばかりの。というのは、現在八三歳の僕自身が両親の共働き家庭に育ち、自分自身もそういう家庭を経て、そこで培われた諸能力、感性のゆえに現在の色んな幸せがあると振り返っているからだ。「共働きの忙しさを、自分の能力アップに結びつけられた男の幸せ」を日々味わっていると言って良い。
「育児においては、母の掌こそ至高のもの。さもなければ、愛着障害などが起こる」、こういう感性、理念が日本に長く幅を利かせ、それが共働き、保育所、学童保育所をどれだけ遅らせてきたか。今の日本の少子化は、この感性、理念の産物とさえ言える。こういう感性の政治家が「寂しいでしょう?」の専業主婦を伴侶として来た習慣からこそ、今日の少子化日本が産まれたのではないか。明治生まれの僕の両親の完全共働きは傑物の母に支えられていた。昭和前半生まれの我が夫婦のそれは、僕の「改造」に支えられてきたと思う。他方、僕の弟は「寂しかった」と今でも語っていて、先の財務官僚流「理想」を実現したし、娘の夫は、「能力アップ」が必要な場面で娘に責任転嫁の論争の末のパワハラ、モラハラから別居中、離婚調停中だから、万人に当てはまるような易しい道ではないのかも知れぬ。ちなみに我が母は、三男一女を国公立大学に入れたのだから、立派な教育ママでもあったのである。そして、そう言う母に育てられてきたからこそ、僕は自分を改造できたのかも知れぬ。
「共働きの子は寂しいでしょう?」、「育児の要諦は、母親の掌」、こんな言葉は今イスラム諸国でこそ、叫ばれているかも知れぬ。女性を家庭に閉じ込め続ける人生観、思想でもあるからだ。ちなみに、韓国の少子化は日本より遙かにきついが、そんな儒教的家族主義(習慣)が日本よりも遙かに強いからだとみて来た。持ち家を確保できない若者は、結婚資格が下がる国と言われている。
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随筆、年寄りの楽しみ   文科系

2024年01月19日 17時41分18秒 | 文芸作品
 リビングでさっきからギターを弾いているが、ちっとも上手く行かない。明後日教室の「ギター宴会」があって、その準備なのだが。指を複雑に細かく動かす装飾音符に雑音が入って、強弱などがバラバラ。例えば、何度弾いても必要な切れも出せないのである。〈先生と二人の二重奏だけにしとくか?〉、こんな諦めも頭をかすめる。もうすぐ八三歳……、みんな七〇歳代で教室を止めていくぞ、ましてや俺は、癌の為に膀胱を全摘、生活も変わって身心ともどんどん衰えている。なども思い出すところだ。疲れてしまって、ギターを置き、南の庭に面した大きなガラスの窓際に行って外を眺める。庭を観る行為が最近どんどん増えているのだ。
 ヒヨドリ、メジロ、時にジョウビタキや土鳩、シジュウカラの群れとか、季節にはカワラヒワも。名古屋中心部に近い大都会の庭だが、鳥が見えない時がないのである。ヒヨドリは取り残した金柑などを食べに来るのだし、メジロは、今ならサザンカや椿、ちらほら咲き始めた梅の蜜を吸いに来る。「ここは年寄りだけの家だね!」とは、昔近所を連れ合いと散歩して、他人の家を勝手に評した言葉だが、今や我が家の庭がぴったりそうなっている。一メートル立法ほど、ちょっと実が残った柚の株の間からは、去年秋から頭を出したススキが何本か残ったままだし、二メートルを越える金柑の枝振りはまるで小山だ。そして、横枝を払って背が馬鹿高く見える金木犀は、枝葉が込みすぎて醜い。これなら、土鳩も安心して巣を作れるだろう。どう観ても猫が登れそうもないからだ。それでも庭は慰めになり、このごろ日に何度眺めに来ることか。
 それにしても、明後日はギター宴会、せめて恥ずかしくはない程度にと、また椅子に戻る。と言っても、手術後弱った身心では、あと二日の練習成果ももう見えているのである。来週には所属同人誌の例会もあって、それまでに書かねばならない作品がまた、全然進まない。
 さて、楽しくやることがどんどん少なくなっていくこんな日々でも、新たな楽しみは見つかっていく。庭もそうだが、観賞の楽しみが残っている。美食、美酒、美飲がどんどん大きくなってきた。今はこれらにお金を使っているが、今の僕には、特にお茶の比重が大きい。親友から頂いた二種の中国茶、一つは白牡丹、二つ目は肉桂烏龍と名が付いているが、いずれも中国は福建省「天福銘茶」と言う会社直送の名品で、飽きなく飲めて、いつまでも美味い。前者は、初め甘い香りがあって、後は爽やかにどんどん飲める。後者は、ごく微かな肉桂の香りのあとはがっちりとしたキームンティーの発酵の味で、これがまた飽きが来ない。ちなみに、中国の皇帝は専門の茶人を侍らせて、こういうものばかり飲んでいたのだろうという、そんな贅沢だと自ら嘯いている。日本茶は出し方も味もほぼ同じと言って良いだろうが、中国茶は種類も多く、煎れ方によってとても大きく変化する。例えば肉桂烏龍なら「初め九五度で、第一泡一五秒、第二泡八秒、第三が二〇秒」という調子だ。これが白牡丹になると各、二〇、一〇、一五秒で、七煎まで飲めると書いてある。これを少し変化させれば、色んな味を何煎までも楽しめるのである。
「親友が今の難しい僕にこんな楽しみ、生き甲斐をくれた」というこの親友がまた、ギター教室の同じ年齢、兄弟弟子である。この彼にも、良いギター音を聞かせたいのだけれど。ちなみに、このギター宴会には、もう一つの美飲、ラム・サカパのセンテナリオ、二三年物を持っていくつもりでいる。添える肴は、和牛の腿で作った赤ワイン煮、この準備もすでに整っている。
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随筆紹介 明日は  文科系

2023年11月30日 15時19分49秒 | 文芸作品
随筆紹介 明日は  S.Yさんの作品
 
このところ気がつくと俯いて考え事をしていることが増えた。
思い詰めているわけではないが、母親のことを思うと気持ちが沈んでしまう。
二カ月前、母は脳梗塞で倒れてから七年間暮らした老人ホームを退去した。家具や衣類など一時的にホームから実家に運ばれたが、その荷物の大半は私が持ち込んだもの。
兄夫婦から引き取りに来ないと全て処分すると言われて、慌てて実家へ行った。驚いたことにものすごい量。軽トラックいっぱい分ほどある。嫂は母の衣類や趣味の本や編み物などの手芸品など、早く処分したいようだ。どんどんゴミ袋に入れている。いくつもゴミ袋が増えていく。
「ちょっと待って。母さんはまだ生きてるんだから、着れそうなもの少しは残しておいて」
「でも、病院に入っているから衣類はもういらないはず。第一、半身不随で着ることができないでしょ」とけんもほろろ。ここが娘と嫁の違いか……
私だってわかってはいるが、そう簡単には割り切れないし、捨てられない。
母は「成長の家」という団体に入っており、その教本や資料があった。母にとっては大切なものだ。眼鏡や腕時計など、母の身の回りのものなど、とりあえず私が持ち帰る袋に入れていく。ホームで暮らしていたときの写真、本やノートなども。
兄たちはついでに今までの母の部屋も片付けたいのか、座布団や家具なども処分場へ運ぶトラックに積んでいる。
私と夫は引き取ったものを車に積み込み、この日、母との面会の予約が取れている病院へと急いだ。今度の病院は県外に変わって、私たちの住まいからは遠くなるばかり。
母は私たちを見ると満面の笑みになった。私はベッドの背もたれを起こして、窓のカーテンを開けた。眩しそうに外の景色に見入っている母。耳が遠いので、耳元で私も夫も大きな声で話しかける。何か面白かったのか母が声をあげて笑った。ちょうどその時、男性の看護師が入ってきた。母を見て呆然と立ちつくしている。「えっ! こんな表情が? 笑っているなんて……」信じられないといった顔だ。どうやら九十九歳の呆けた寝たきり婆さんだと思っていた様子。そういえば同室の人は皆寝たきりで反応もない人たちだった。脳梗塞で言語障害になり話せなくなったが、「母は、こちらの言うことは全てわかりますよ」と看護師には伝えた。一応、リハビリテーション病院にはなっているが、果たして高齢の母がリハビリをやってもらえているのか疑問は残る。面会時間は二十分とやはり短い。

帰宅して母の荷物を空いている部屋に運び入れた。整理すれば持ち帰ったタンスや整理棚に収められるだろうかと考えていると、分厚い紺色の本が目についた。パラパラとめくると、見慣れた母の字。なんと日記帳だ。七年前にホームに入った日から倒れた日まで毎日書いてある。メモのようなものを書いていたのは知っていたが、こんなにちゃんと日常を綴っていたなんて驚きだ。といってもホームでの変わり映えのない毎日。お天気のことやその日の気持ちが簡単に記されている日もある。だが一日も欠かさずに、これにはただただ驚く。
娘の私から手紙が届いた。荷物が届いた。面会に来てくれた。食事に一緒に出掛けた。いつも心にかけてくれて嬉しい。ありがたいと感謝の言葉が多いのにも驚いた。
私には厳しくて、きつかった母がそんなふうに感じてくれていたなんて。もう涙で読めなくなってくる。義妹や姪っ子もよく母に会いに行ってくれていた。バナナやプリン、カステラを貰った。折り紙や毛糸を貰った。どんなものがいいかなあ、今度はひ孫に帽子を編もうと思う。などと書かれている。
私も七十路になり、自身も終活を考え始めている。が、なかなか実行はできていない。まだ呆けないし、体も動くと思い込んでいるから進まないのだが、唯一、中学生ごろから半世紀以上付けていた日記帳だけは一昨年、全部処分した。こんなものを他人の目に触れさせたくないという思いからだった。
だが母の日記帳は捨てられない。母から来た手紙の束も捨てられない。今日は言葉が出ないが、そのうち、リハビリを続けるうちに少しでも話せるようになるのでは。話せない母本人が一番辛いだろうが、私もこのまま母と話せずにお別れになるなんてイヤだ。
明日は? 明日こそは少しは話せるのではと祈っている。
九月十五日 金曜日 晴れ もう今月も半分過ぎた。明日 娘が面会に来るそうな、
これが日記の最後の書きかけの一行。このあとに倒れたようだ。

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随筆紹介  おじさんナイン   文科系

2023年11月27日 20時25分25秒 | 文芸作品
おじさんナイン  k.kさんの作品です

 秋晴れの日曜日、グランドにおじさんナインが集まる。町内会のソフトボールチームは試合がなくても朝八時から十時まで毎週日曜日の練習がある。
 夫も近所の人に誘われて三十代で入会。会社と家の往復だった夫に町内のチームから繋がりが広がった。仕事も大工、左官、板金、塗装、庭師など家が一軒建てられる心強い仲間が揃っている。
廊下の床がぶかぶかしてきて抜けそうになった時には大工さんに「いつでもいいから時間があった時に頼むよ」とお願いすると、少ししてから床を張り直してくれた。外壁塗装工事も「そろそろ塗り直した方がいいよ」とアドバイスがあった。仲間だから、安心して任せられる。良心的でいろいろ助けられた。
あれから四十年、世代交代で仲間も歳を重ねた。夫も往年の強打者のイメージだったが、腰痛や体力の衰えには逆らえない。すっかりなりを潜め、ユニフォームを返上して、自称応援団長になっているが、毎週の練習だけは欠かさない。
 外野の木陰で守備をして、仲間から「おーい、日陰から出てこーい」と言われても負けずに「ここまで飛ばせーっ!」とやり返す。声の大きさだけは負けていない。
 主力戦力は四十~六十代。肩や膝の故障、家庭の用事、仕事など。戦力には不安を抱えているチームだが、勝ち負けよりも毎週日曜日の練習で和気あいあいと休日を楽しむことがモットーのようだ。
 他の町内のチームは試合の時だけ集まるのだが、このチームは毎週日曜日の練習で結束力が強み。フライを落とすとグローブが悪いと買い替えたり、空振りをすればバットを新調したりと、それぞれ工夫している。 
練習後のノンアルコールビールでの反省会を楽しむために汗を流すのが目的。反省会だけに参加するOBもいる。膝の調子が悪くなって徒歩で十分ほどなのに、タクシーで来ていた。だが、仲間に会いたくてリハビリを頑張り、杖代わりにポールウオーキングのストックを両手に歩いて来れるようになった。色々な仕事の人と話をすることや、息子くらいの若い世代の話題も刺激を受けるらしい。
 一年間ともに汗を流した仲間と美酒を味わう忘年会の季節も近づいている。年を重ねた野球小僧は、スパイクを履き野球帽を被り、日曜日の朝グランドへ今日も出かける。
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随筆紹介 俺の膵臓癌レベル4   文科系

2023年11月15日 18時20分37秒 | 文芸作品
 俺の膵臓癌レベル4  K.Yさんの作品です 
(ご本人から了承をとって、載せることになりました)

膵臓癌のレベル4と診断されると、終末も半端ではない。私が地球から離れる年月も長くて1年と担当医から言われると、3ヶ月、半年というケースもあるだろう。身近な陶芸仲間も2ヶ月の命だった。肝臓にも転移している。これは最悪。抗癌剤入院の始まる前に、最大限の終末をと考え、着実に実行した。テニスラケットは30本を処分し、軒下の東郷町の陶土はバケツ15杯を処分し、保有の陶芸品は、ゴミ袋に10袋を入れた。残すは衣料品と僅かな書物、資料となった。財産一覧表は改めて整理し、葬儀に必要な現金は引き下ろした。家内にも預金をいくらか振り替えた。明日電動ろくろを陶芸仲間に差し上げる。頭髪はスポーツ刈りにし、脱毛に備えた。

膵臓癌に特有なお腹の張りが日毎に強くなる。みぞおちが張り、痛む。体力はあるが、内臓の老廃化はすざましいのだろう。

膵臓癌レベル4は、癌の最悪で、短命だから、お別れは劇的となる。家内は動転し、娘は毎日泣いている。
陶芸部長は辞退し、文化協会の役員も退き(いずれも、居住自治体のサークル)、大学のクラス会の幹事も無理だと伝える。いつでも死ねる体制が必要となる。伸ばしていた家の不具合も矢継ぎ早に業者に電話をかけ修理していく。トイレの水漏れ、ドアの不具合を直す。洗濯竿の高さを低くなった家内に合わせ、劣化している放水ホースを新品にし、2階にもインターホーンを設置する。電光石火の終末だ。

今日の早朝、共同農園にアオザキがいた。大きな羽を伸ばして去って行った。俺も地球から遠い宇宙に去ろうとしている。
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随筆紹介  胸の内   文科系

2023年10月28日 00時57分45秒 | 文芸作品
随筆紹介 胸の内  S.Yさんの作品です

 ずうっとどれくらいの時が経ったのかも忘れてピアノの音色を聴いていた。ぼんやりとショパンの曲だろうなと感じながら。大きな一枚ガラス窓の外は、パンジーやビオラなど早々と春の花の苗が植えられて風に揺れている。秋の日暮れが近づいていた。
 ここは地方の大きな病院で、だだっ広い受付ロビーの端にクリスタルのグランドピアノが置かれて自動でピアノ曲が奏でられている。私は長いことロビーの椅子に腰掛けたままでいた。
 年老いても元気だった母が、ひと月前にこの病院に搬送されていた。今日は私ひとりで見舞ったあとだった。

 ひと月前。義妹から母が脳梗塞で老人ホームから緊急搬送されたと連絡が来た。
じきに義姉からも連絡が入った。「脳がダメージを受けて、目が見えず、口もきけないし、半身不随で動けない。なんにもわからないし、肺炎も起こしている」会いに行っても無駄だと言わんばかりの義姉の口ぶりにショックを受けた。続いて兄からも電話があり、葬儀の相談と遺影の写真を探しておけという命令であった。だが、辛くてアルバムを開けられない。開いても涙で見えない。
 会いに行っても無駄だと言われたのを無視して、夫と直ぐに病院へ向かった。親族のみ短時間の面会許可が出ている。
 いくつもの点滴の管につながれ、母は目を閉じてベッドに横たわっていた。母の手を取り「私だよ。わかる? わかったら手を握って!」私は自分の名前を何度も言うと、母は強く、ものすごく強く握り返してきた。「えっ! わかるんだね!」夫も同じことをして話しかけ「おばあちゃんは完全にこっちの言うことはわかっているよ」私たちは母の頭は正常だと確信した。私の顔を見て言いたいことがいっぱいあるらしく半身を起こして一生懸命に話す。だが呂律が怪しいので、喚いているようにしか見えないのが哀しい。
 兄夫婦は母が入居していた有料老人ホームを直ちに解約した。同時に家具や衣類、本や日用品など全て実家へ運び込み、ホームで七年間暮らした母の部屋は瞬時に空になったそうだ。というのは、兄からの報告はなく、私が老人施設に電話で問い合わせてわかったことだが、母はこの先何処へいくことになるのだろうか。
 兄たちが「どこまで世話をかけるんだ! いい加減にくたばってくれ」そう母のことを口にしていたのは知っていたが、単なる腹立ちまぎれに言っていたのか、母に対してのふたりの本音がどこまでなのか……。
 しかし母は驚異的に回復してきた。目もしっかり見えるし、文章も読める。肺炎も克服した。頻繁に見舞ってくれる義妹の話では、点滴もすべて外されて流動食も摂れるようになってきたとか。車椅子で院内の言語と歩行のリハビリにも通い始めたという。
 九十九歳という年齢で、ここまでの回復をみせるのは珍しいと病院側にも驚かれていた。ただ、言葉が出ないのが何とももどかしい。あんなにお喋り好きだった母との会話ができないのは私も辛い。
「おばあちゃんがこんなに回復するとは、お義兄さんたちも意外だったでしょうね」弟の嫁の義妹が言う。心やさしい彼女はいつも母を気遣ってくれていた。
「そうだね。葬儀の準備にとりかかっていたぐらいだから、計算が狂ったというところかなあ」、私は兄夫婦の非情さに日頃から反感を抱いている。
 “こうなったら、母さん。兄たちがどう思おうと、行けるとこまで生き抜いてやって!”
 私は心の中で叫んでいた。

 入院してひと月が経過。今日はひとりで母に会いに来ていた。電車やバスを乗り継いで片道二時間近く、ひとりだと遠くて長く感じる。面会はたったの十五分。
これまでの面会は夫か娘、義妹と一緒であった。母は良く笑うようになった。笑い声は脳梗塞で倒れる前と変わらない。ひょっとして以前のように喋り始めるのではと期待してしまうほどに。
 病室に入ると母は目を覚ましていた。私の顔を動く方の左手で何度も撫でる。そして左手の指を動かして何かを訴えてくる。必死なのが伝わる。もどかしいので私は「母さんの言いたいことを書いてみて」とスケッチブックとペンを握らせて手を添えたが、書くことはできなかった。十五分の面会を大幅に過ぎ、四十分ほど母の傍にいた。
 この日は敬老の日のプレゼント用に用意してあったニットのベストを持参した。それをしっかりと母は胸に抱えて、「また来るね」と言う私にバイバイと手を振ってくれた。今日の母は今までとは違っていた。一度も笑わなかった。何を言いたかったのだろう? 私はロビーの椅子に座って考えていた。ピアノ曲のやさしい音色が次第に切なくなってくる。
 母は何を言いたかったのかと自問しながら、私はイヤな想像をしていた。話すことも歩くこともできず、食べるのも今までのようにはいかない。来る日も来る日も、天井を見て寝ているだけ。母は生きているのが辛いのでは? なぜ脳梗塞で倒れた時にそのまま死なせてくれなかったのかと思っているのでは?
 元気なときでさえ、夜眠るとき、もう十分生きたからこのまま朝が来ないで、お迎えが来てほしいと願っていた母。本心はわからないが、そんなことを想像してしまう。
 夕暮れが迫り、バスの乗車時間が来て私は椅子から立ち上がった。ロビーの大きな窓ガラスに私の顔が映った。母と似ていてドキッとした。
「母さん……、神様がくれた寿命だから、もう少しだけ生きてみようよ」そっと呟いてみた。


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掌編小説紹介  寄り添う   文科系

2023年10月24日 12時20分45秒 | 文芸作品
   寄り添う  S・Hさんの作品です

 ある日、私はM区役所の市民課の窓口で受け付けの仕事をしていた。それはもうじき正午になるという少し倦怠感の出る時刻であった。
「上を呼べ。お前では話にならん」
 窓口に来た市民のたわいもない質問からどんどん話が険悪になり、最終的にはこの役所の応対が気に食わないと窓口の向こう側から怒声がいきなり浴びせられた。
 当時私は新卒で働きだしてかれこれ三か月になったところで、そのお客に対して今まで職場で得た知識を総動員して丁寧に対応したつもりであった。私の案内が拙かったのか、あるいは私があまりにも若すぎて軽く見たのかとにかくお客はますますいきり立った。
 気のせいか、その怒声の中に微かな酒臭いいやな臭いを感じた。「上を呼べ」は窓口担当者の公務員には一番困ることであった。上というのは課長かまたは区役所の最高責任者、所長のことだからである。そんな偉い人が窓口に来るわけがない。このような場合、役人は上司を呼ばずにその場を手短かに収める話術を要求される。そもそもお客をそのように怒らせる時点で役人としての資質はゼロと判断される。短い役所勤めの間にそういうことを知っていた。
 このようにお客とのトラブルになった際には誰も助けに来てはくれない。この二人のトラブルは、職場の同僚にとっては吉本のお笑いを見る思いでじっと耳を澄ましている。お手並み拝見である。役所というところはそういう所である。
 私は背後に同僚や先輩の視線を感じながら額や脇の下に汗をいっぱいかいて、どうにか話を収めた。既に正午をとうに回っていた。
 その日の勤務明けの時間であった、私の隣の部署の課長がポンと私の肩をたたいた。
「どうだ、今から私の知っている店でいっぱいやらんかね?」
 でっぷりと太っていて目が澄んでいる。いつも親し気なほほえみを浮かべている、しかし私から見たら中年のおじさんである。隣の部署だし仕事の話もあまりしたこともなかったが、そのすがすがしい仕事ぶりに私は好感を持っていた。
 役所からしばらく歩いて、その課長の行きつけの飲み屋に入った。私はこの課長は本日の私の失態に付いて何か話してくれるのかと思った。小皿に入った酒のつまみを突っつきながら課長が何度もお猪口を私に傾けた。が、たわいのない世間話に終始した。内心私は怪訝に思った。
「一つ歌ってみるか」
 課長はマイクを持つと「北国の春」を歌い出した。酔いもあるのか気持ちよく歌い出した。その時突然私の両の頬に涙が伝わった。その日の緊張や、やせ我慢がその涙と共に消えてゆくのを感じた。
 あれからもう半世紀経つ。あの課長はその後どうなったか知らない。

 或る時、私は「グリーフの会」に参加した。伴侶や近親者を亡くした遺族同士が集まり、その悲しみや淋しさをしみじみと語る会である。
「どなたからでも、お好きなように話してください。ただし話したくない方はパスしてもかまいませんよ。お話される方の心に寄り添い、何故と質問などしなくてただただひたすらに黙って耳を傾けましょう」
 進行する者がそう言って一同が代わりばんこに語るのである。
 その時、ふとあの半世紀前の課長のマイクをにぎった爽やかな表情が私の心に浮かんだ。
 その人の心情に寄り添う。その司会者の言葉が五十年前のあの光景を引き出したのだ。
 人は本当に悲しい時、励ましの言葉はかえって空疎に聞こえる。ただただ黙ってじっとその人を見守る、じっと温かく見守る。それが本当の愛情ではないだろうか。
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随筆紹介  二個のマドレーヌ   文科系

2023年10月06日 08時45分12秒 | 文芸作品
随筆紹介 二個のマドレーヌ K.Kさんの作品(僕らの同人誌より)                                 

 車で一時間の息子家族へ毎週煮物を持って何年経つのだろう。始めは共働きで子ども達も幼く、少しでも役に立てたらと届けていた。日曜日の朝九時ころ着き、散歩をしたりしてその間に親は家事を済ませていた。上の子は大人の言うことを素直に聞いたが、下の子はこだわりが強く、納得できないと座り込み動かなかった。手を焼いたことを思い出した。
 あれから十年、孫達も小学五年と中学生になった。この頃は子守も要らなくなり、煮物を置いたらすぐに帰るようにしている。家族の予定を邪魔しないように。
 ある日、いつものように向かうと「マドレーヌ作ったの、おじいちゃんの分と二個ね」。はにかんだ笑顔で、小学五年の下の孫が大切そうに持ちながらくれた。バターの香りに引き込まれる。本を見て作ったらしく、ページを指差しながら、「バターをめっちゃ!入れたのわかる?」嬉しそうに言った。
 口数も少なく引っ込み思案のイメージだったが、今日は話が止まらない。意外な一面を見つけた。こういう孫の姿、知らなかったなあ。
 家に持ち帰り夫が目を大きく広げとびっきりの笑顔でマドレーヌを食べる姿を写真でメールした。「これは美味い」のコメントを添えて。「そんなに美味しかった? ルンルン」ニコニコマークの返信があった。
 翌週は「チョコマフィンだよ、お砂糖が入ってないチョコだけの甘さ」お父さんも「コーヒーに合う」と言っていたとか。今回は自信ありの顔で笑みを浮かべた。甘い物大好きな夫は持ち帰ったマフィンを満面の笑みでぺろり。写真を送ると「おじいちゃんは食べる時いつも笑っているね」、「だって、本当に美味しいからニコニコ顔になるんだよ」、孫とメールのやり取りを楽しんでいる。

 毎週煮物を運ぶのは私だけ。夫はお正月のお年玉の時くらいしか会わない。孫達の話をしても「そうか」と気の無い返事でろくに話も聞いてくれなかった。だが、手作りのお菓子を食べてメールの交換で「離れているが会っている気がするなあ」、しみじみという。
 もう煮物を持って行かなくてもいいかと迷っていたが、お菓子のお裾分けで思いもよらずいい風向きに変わった。分からないものだ。来週の新作は何だろうかと早くも楽しみにしている。

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随筆紹介  店仕舞い   文科系

2023年09月24日 15時51分21秒 | 文芸作品

 随筆紹介  店仕舞い   S.Yさんの作品です

 

 行きつけの美容室が今月末に閉店するという。飽き性の私が珍しく十年以上も通っていた店であった。当時は男性スタッフが多かったが、この七年ほどは私の担当は、四十代前半のベテランの女性で、技術もトークも上手くて美人、なにより明るくて笑顔が良かった。ここで働く総勢二十名以上のスタッフが全員辞職とは、晴天の霹靂だったと想像がつく。

 それにしてもこの地方にいくつもの店舗を持つこの店は、たいそう流行っていた。客層も三十代から四十代が多く、私のような年配者もけっこういた。店内にはヘッドスパ室、ネイル室、託児室まであって充実していた。スタッフ同士の雰囲気も良かった。

「なんで閉店するの? 順風満帆って感じだったのに」私には閉店の意味が理解できない。この辺りは美容室の激戦区と言われるほど多くて、その中でも勝ち残ってきていたのに。

「経営者は店の若返りを目的としているのですよ。今のままでは目新しい客を呼び込めないので。店の内外を全て改装して、店名も変え、スタッフも総入れ替えしたいそうです」私担当の彼女は悔しそうに言った。私を含めた彼女の常連客は多い。彼女は次の美容室の採用が決まって、そこへ私の今度の予約を入れてくれた。

経営者は、スタッフ各自の客はどんどん連れて行ってくれと言っているらしい。なんか腹立つ。もう来ないでほしいということか。年取った客は要らないということか。若者を育成するのはいいだろう。でも、ベテランを首にしたり、今までの客をないがしろにしたり、若者だってそのうち歳をとるのだよ。それに今や、高齢化社会まっしぐらだよ。

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随筆紹介  川辺の宿   文科系

2023年08月23日 09時36分11秒 | 文芸作品
随筆  川辺の宿   S.Yさんの作品です

 夫の母は我儘な女性だった。全てにおいて自己中心的で、私はずいぶんと振り回された。
 夫は常々、母親を我儘にしたのは父親だと言っていた。父親が母親の言うままに甘やかし、母親を増長させたのだと言い切っていた。
 それで思い出した。私の生家の祖父母も同じように祖父が祖母にとても優しかった。ゆえに祖母は我儘であった。生家は農家であったが、祖父は身体があまり丈夫ではなく農業を継がずに不動産業を営んでいた。土地の売買で、登記所や役所に出向いたり、家ではいつも図面をひいていた。来客も多かった。
 時代もあったのか、不動産業は順調で三人の叔母たちの嫁ぎ先にも土地を世話したりと、おかげで叔母たちも皆、スーパーマーケットや会社経営と裕福な暮らしぶりだった。
 祖父はどこへ行くにも専属のタクシーを使い、なぜか孫の私をよく連れ歩いた。七十年近くも昔のことだ。孫を仕事関係の場所に連れて行くのを世間は大目に見ていたのだろう。 
 私はいろいろな場所で祖父の仕事が終わるのを待っていた。帰りはいつも町の食堂で好きなものを食べさせてくれた。行きつけの和菓子屋で饅頭やお菓子も買ってくれた。なかでも一番記憶しているのは、木曽川の川岸にある料理旅館で待っていたことだ。老舗の風情のあるたたずまいの旅館で、何度も連れていかれるうちに仲居さんたちとも仲良くなり、よく遊んでもらった。私が小学校へあがるころまで続いた。
 祖父は祖母だけでなく、嫁である母にも優しかった。大所帯の農家の嫁は常に忙しくて体もきつい。そんな母を気遣って、炊飯器に洗濯機、冷蔵庫などをいち早く買い与えていた。まだまだ家電製品が出回っていない時代、テレビやステレオまでどこからか仕入れていた。

 先日、生家へ行った折、あの川辺の料理旅館の近くを車で通った。旅館は建て替えられて、そう大きくはないが近代的な観光ホテルになっていた。屋号は同じだ。
 懐かしさに浸っていたとき、突然に、まるで降って湧いたかのように衝撃が走った。
 祖父はあの旅館に仕事で行っていたのではなかったのでは?…… そういえば仲居さんたちと遊びながら、子ども心にもなにかいつもの祖父ではない気がしていた。
 祖父は女の人と会っていたのだ。確信はないが、今にして思うと、そうだったのかと思い当たる気もする。祖父は祖母の我儘な癇癪持ちを持て余していたようだった。だから、別の女性がいたのかもしれない。この時代、叔父たちにもお妾さんらしき人がいたりして、そう珍しいことではなかった。でも、あの優しくてかっこいい紳士的な祖父までもが……。
 いまごろそんなことに気づくとは。いや、でも、やはり真実はわからない。
 祖父は私が中三の夏休み、家族や親族に囲まれて自宅で静かに亡くなった。

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随筆  育ジイの楽しみ   文科系

2023年08月22日 06時33分06秒 | 文芸作品
「ジイ、いらっしゃーい、さあどうぞ、どうぞ!」とみんなからの声。で、意識して遅れてきた彼は、ビールを駆けつけ二杯。卓上でいかにも美味そうなローストビーフが目に付き、即箸を運ぶ。半レア色切り口を、こんもりとかかった茶色のタマネギソースが柔らかな味ですっきりと食べさせて、美味かったこと! このテーブルのお相手は娘のマサを入れて四人の四〇代女性で、会場はマサの自宅、この皆にとって毎夏この家恒例のパーティーなのだ。ここには現在、他に六歳から十三歳までの子どもが十一人。今は三階の遊戯室、子ども部屋と、一部がこのリビング・ダイニングとに別れているが、先ほどまでは彼らの夕食でさぞ賑やかだったことだろう。というわけで彼は、その時間を避けて、後のパーティー目指して少々遅れてやって来たというわけだ。毎年恒例で十年近く続いているこの会の始まりのころを彼の8年前の随筆で紹介すれば、こんな光景からということになる。

「三~四歳ほどが主体と思われる子どもが十人ほどと、父親四人。その内の一人はベンチに座って、赤ん坊にお茶を飲ませている。街中のちょっとした公園、五月のある日曜日昼のこの光景を74歳の僕は今、全体が見渡せるベンチから眺めている。さっきから何度も微笑みが浮かび、心が温かくなっていた。僕の孫娘、ハーちゃんの保育園同級生とそのお父さんたちなのである。・・・お母さんたちはといえば、今日はイタリアンランチの昼食会で、ミシュランの星が付いたあるトラットーリアに出かけている。今頃はきっと、お喋りも大詰めでさぞ盛り上がっていることだろう。お父さんの何人かと僕が子守を引き受けたから成立した企画であって、こと更にイクメンなどと連呼される今の日本だが、こんな光景は昔からあるところにはあったと僕自身が経験してきて………」

 と、この頃から続いた母と子のパーティーがこれだ。保育園時代の親子有志の同窓会と言えて、当時から園行事などにもずっと参加してきた彼はいつしか、子ども全員のお爺さんみたいな積もりになっていた。今年中学生になったばかりの同級生五人の子どもらとも、保育園行事「山の家キャンプ」など含めていろいろ遊び、世話もしてきたのだ。今一番大柄で一六〇センチは越えようかというナナちゃんが脇に見えると、こんな事を思い出す。山の家から大人は彼一人で山中へと探検散歩に出かけた時、「ジイっ、ナナちゃんがおしっこだって」、というわけであわてて森の大木を探し出して、その木陰に鼻紙を渡す。もうちょっと大きくなった時には、大木から長くぶら下がった蔦の先に輪っかを作って、伸ばした片脚を突っ込んで蔦にしがみつきながらのロング・ブランコ。あれは皆がどれだけ楽しんだことか、何回も何回も挑戦していた……。
 さて、会もたけなわに入ったころ、遅れてユッピの母さんがやっと駆けつけた。また新しいごちそうが持ち込まれて、すぐに乾杯に入る。マサの声で、「今日のジイから差し入れは、シャンパンのモエ・エ・シャーンドン・ブリュットでーすっ!」。
 拍手と歓声があがる。彼が事前に届けておいた品なのだが、この会がいつまでも、どれだけでも続くようにとの気持ちを毎年現してきた今年の品なのだ。

 幼児の頃からずーっと付き合って来た親子って、お互いとても貴重な存在だと捉えてきた。一緒に楽しみ合い、いろいろ学びあって、子等の人生のいろんな転変にもきっと助け合えるにちがいない。そんな老爺心も添えつつ、幾重にも楽しい場所なっている。
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随筆紹介  休耕田    文科系

2023年07月27日 11時05分55秒 | 文芸作品
 休耕田    K.Yさんの作品です

 東北を旅行すると休耕田の多さに驚く。さらに、テニスで東郷町から豊明市に向かうと、その途中にも休耕田が至るところにあり唖然とする。高齢化や労働力不足、農地所有者の非農化、米価の下落、米の需要減で、全国的に休耕田が拡大している。
 私は一か月半前に、近くの共同農園に入れてもらった。二千坪の農地を無償で借りている。税金の関係で農地として活用する条件で。一五年を経過し、一三人で運営していた。少しの個人農園が与えられ、土曜日には共同作業があり、里芋、サツマイモ、ごぼう、カボチャ、トウモロコシを育てている。
 この地の北の外れに休耕田があった。かつての湿田は荒廃し、イグサで覆われ、粘土質で、水はけ悪しと来ている。会長から、畑として開墾するなら個人農園として使っていいと言われた。一区画の十坪を開墾し始めた。
 問題点は繁殖するイグサ、粘土質、湿田の三つ。難問だから耕作放棄地となっている。
 日当たりのいい湿田だったからイグサが繁殖している。畳表に使用されるイグサは丈も、根っこも長く強靭である。これを除去しないと畑にならない。大規模湿田であれば、ユンボでイグサを剥ぎ取り、トラクターで開墾するが、細長いわずか十坪の湿田は手作業となる。共同農園の耕運機は草が絡み使えない。草刈り機は根っこが残る。スコップで掘り起こすしか手はない。そうしろ。大変だよ、とかつて開墾を試みた先輩は言う。
 まず、周囲の溝を掘り起こす。これで外形はイメージできた。次に、湿田の根深いイ草を掘り起こし、いったん外に放り投げる。そのままでは、畑とする土が足らない。イグサの根に絡む土を、こそげ落として、畑としたい場所に戻す。そして、粘土質の土壌の軟化も試みる。日進市農協から無料の籾殻ごみ袋十二袋を頂き、蒔く。粘土質の土壌改良のためのバーク堆肥六袋を入れる。周囲の溝を掘った土の雑草を取り去り、残りの土を入れる。先輩の枯草の堆肥も手押し車で入れる。そしてかさ上げした畑が崩れないように、四方に竹の杭を打ち込み、側面に長い竹で柵を作った。
 開墾した畑の手前には里芋、中央は黒豆を育てている。奥は枝豆の種を蒔いた。開墾には一か月を要した。

 休耕田の畑化は各地で行われているが、難儀している。なぜなら休耕田とするのは、奥地、湿田、低生産性の土地だから、それを畑化するには相当な作業を要し、採算が取れないからだ。
 竹の柵で囲まれた開墾地を見ると愛着が湧いてくる。今日もウグイスが鳴き、土蛙が彼女を呼び、オニヤンマが飛んでいる。
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随筆  セイちゃん  文科系

2023年07月25日 00時08分50秒 | 文芸作品
 夜中の二時ごろだったか、目覚めた彼がベッド右手の下を見ると、やはり……。小学三年生になった男孫・セイちゃんが背中を丸めて寝息を立てている。急に長くなった脚を夏布団から大きくはみ出して。彼が寝る時に敷いておいた薄くて小っちゃな夏布団に予想通りセイちゃんが移って来ている。彼の家に来て「今日は泊まる」とママに電話をしてから、下のリビングに連れあいが敷いた布団で「ゲゲゲの鬼太郎」のDVDをみながら寝ていたはずが、この二階に上がって来て、彼の隣で寝入っているというわけだ。
〈背が急に伸びたんだなー。顔もちょっと大人びてきて、この子は六年生ころには大人の身体になるだろう、そんなタイプだ………〉

 孫なるものについて、昔の彼はこう豪語していた。「よくテレビなどにあるように、孫が我が子よりも可愛いなどと、俺はけっしてならんだろう」。男と女の二人の我が子とは、それだけ懸命に付き合ってきた彼だった。自転車や竹馬、水泳、キャッチボールに走り方まで、そして得意な音楽を活かしたピアノ練習にも長く付き合ってきたのである。それが今度は女と男の二人の孫には、母である娘の要請も多くなって、ほとんどをやってきた。今の彼には子育ての昔よりもずっと時間があるし、娘が彼の特技を知り抜いているから、注文も多くなる。やれ、運動会前の走り方訓練。水泳教室の昇級試験前調整。保育園や学童保育のキャンプにも付いて来いなどなどと。これらがさらに、二年ほど前に娘夫婦が離婚してからは急に増えてきた。このごろ特に付き合わされるのが、キャッチボール。つい先日も玄関のベルが鳴るので出てみたら、微笑みいっぱいのセイちゃんがグローブを持って立っている。最近よくあることだが、何か用事があると新居から一・五キロ程のこの暑い中を歩いてやって来るのだ。こんな熱意には、彼が応えない訳はない。今のセイちゃんが捕れる範囲で緩急高低二百球を投げ、それを投げ返させることになった。数字に強いセイちゃんは、球数にも時間などにも、厳しいのである。これで、今度の学校有志の休日ソフトの会練習日には、急に上手くなった姿を見せられることになった。

 また別の日、彼の家でビー玉転がし落とし用のロゴのお城を二人で作っていた時のこと。姉の中一女子が脇から「そんなの、どこが面白いの?」、野次を入れて来た。対してセイちゃん、「姉ちゃん、僕みたいに上手くできないんだよね! それに、男は男同士だもんねー」。この一瞬彼は緩やかに思い出した。先日セイちゃんがこう言った時のことを。「爺ちゃんは僕の父さんだよね」。その時の彼はちょっと考えて、こう応えたものだ。「セイちゃんの父さんは、ちゃんと居るんだよ。土曜日にはよく、一時間かけて父さんの実家に泊まりに行ってるでしょ?」。セイちゃんはきっと、母を姉にとられたように感じる時が多いのかも知れない。そしてそれは、女同士だから仕方ないとよく思って来た……?  
 そして先の日曜日、彼のギター教室発表会に連れあいと娘家族の四人が凄く少ない聴衆の中で目立っていたその夕方、彼の家に突然の電話、セイちゃんから初めての注文が入った。
「今日、僕の家に泊まってくれる? 明日は休日だからいいでしょ?」
 と、またこの夜も、彼のベッドの下に小っちゃな布団を持ってきて、身体を丸めて寝るのだろう。セイちゃんに大事な友だちができる年頃までしばしのこの幸せ、大事にしたい。
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