★藤野⇒岡⇒寺尾⇒ネット虫と転送されたメールです。怒りなしには読めませんでした。日本のマスコミには遠い事なのでしょうか? (ネット虫)
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1月19日付け英国のガーディアン紙に、「粉塵と死の只中で;戦争の恐怖を証言する一家族の物語」と題して、この一族を襲った悲劇が、より詳細かつ具体的に掲載されています。
http://www.guardian.co.uk/world/2009/jan/20/gaza-israel-samouni-family
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☆以下記事
ヒルミー・サムーニーは昨日、妻と5ヶ月になる息子とかつてともに過ごし
> た寝室の床にひざまづき、厚く降り積もった灰とガラスの破片のあいだを指
> でかき分けながら、ともに生きていた家族の形見を探していた。「指輪を見
> つけた。ほかにもまだ見つかるかもしれない」
>
> 妻のマハーと息子のムハンマドが殺されたのは、ガザに対する22日間におよ
> ぶイスラエルの戦争が2週目に入ったときだった。数十人の親族とともに家
> の近くに避難していたところにイスラエル軍による砲撃を受けたのだ。ガザ
> 市南部のゼイトゥーン地区で1月5日、月曜の朝、一家族の48名もの人間が
> 亡くなった。
>
> この戦争でガザの市民を襲ったもろもろの恐怖のなかで、おそらくサムー
> ニー家の運命はもっとも深刻なものであったかもしれない。サムーニー家は
> 農家で、親族たちがひとつ地域の隣近所に集まって、ブロックを積み上げた
> 簡素な家々に暮らしていた。
>
> この狭い地域で、10もの家々が破壊され、それらは昨日、砂のなかの瓦礫
> の山に変わり果てていた。ヒルミー・サムーニーの2階建ての家は、まだか
> ろうじて倒壊を免れている数少ない建物のひとつだ。とはいえ、巨大な戦車
> の砲弾が寝室の壁を貫いて、黒焦げになった壁には大きな穴が口を空けてい
> た。侵攻のあいだ、家はイスラエル兵に占拠された。兵士たちは家具を破壊
> し、そこらじゅうに射撃姿勢をとるための土嚢を積み上げた。
>
> 兵士たちは、独特な堆積物を置き土産に残していった;弾丸の包装、ヘブラ
> イ語が書かれた缶詰のピーナッツ、「高品質ボディ・ウォーマー」の入った
> ビニール袋、そして何十ものオリーブ色のゴミ袋。空の袋もあるが、満杯で
> 悪臭を放っているものもある。部隊の携帯便所だったのだ。
>
> だが、もっとも衝撃的なのが、1階の壁に彼らが書きなぐっていった落書き
> である。ヘブライ語もあるが、多くは稚拙な英語だ。「アラブ人は死ね」
> 「皆殺しだ」「和平ではなく戦争だ」・・・・・・そして、墓碑銘を思わせ
> る走り書きもあった「アラブ人1948-2009年」。
>
> ダビデの星もいくつかあった。その一つの傍らには「ガザ、俺たちはここに
> いるぞ」と書かれていた。
>
> ヒルミーの弟、サラーフ(30歳)も同じ建物の別の部屋に住んでいた。彼も
> また、ひっぱり出せるかぎりのものをひっぱり出していた。そのなかには、
> 彼の父がかつて発効してもらったイスラエルの労働許可証もあった。「彼ら
> は父に許可証を与え、それからイスラエルからやって来て、そして父を殺し
> た」とサラーフは言った。この攻撃で、彼は両親のタラールとラフマ、そし
> て2歳になる娘アッザを失った。
>
> この戦争のあいだ、イスラエルはジャーナリストがガザに入るのを禁じてい
> た。だが、昨日、瓦礫となった自宅の外でサラーフと彼の隣人たちが述べた
> ことは、攻撃のあと何日かのあいだに目撃者たちが述べたことを確証してい
> る。彼らの陳述によって、国連はゼイトゥーンにおける殺害をこの戦争の
> もっとも深刻な出来事の一つと表現し、赤十字もこれを「衝撃的な出来事」
> と呼んで、同団体としては珍しく、公的に非難したのだった。
>
> 10以上もの遺体が日曜、瓦礫の中から引き上げられ、さらに昨日、もう一体
> が引き上げられて、サムーニー家の死者の数は、ガザ緊急医療サービスの所
> 長、ムアーウィア・ハサネイン医師によれば、全部で48名になった。日
> 々、さらなる遺体が回収されており、3週間にわたるイスラエルの戦争によ
> る死者の数は今や1360名に達している。イスラエル側の死者は13名だ。
>
> 戦争中、イスラエルによる空からの攻撃が始まって1週間がたち、2回目の日
> 曜が訪れると、ガザの地上侵攻に先立って、大砲による激しい砲撃の波が
> 襲った。その晩、サラーフ・サムーニーは家族16名とともに、1階に避難し
> た。翌朝、1月4日日曜の朝までに、近所に住む親族たちがさらに避難して
> 来て、その数は50名近くになっていた。
>
> サラーフは言う、「彼らは2階に砲弾を発射し、2階が燃え始めました。私
> たちは救急車と消防車を呼びましたが、だれひとり、私たちのもとにたどり
> 着くことができませんでした」間もなくイスラエル兵の一団が近づいてき
> た。「彼らはやってくると扉を叩き、全員、家から出て行けと言いました」
> 彼らは舗装していない道を数メートル歩いて、ワーエル・サムーニーの大き
> な1階建ての家に入った。
>
> そこに彼らはその日、とどまった。一団は男、女、子どもあわせて100名
> あまり。食糧もなければ、水もほとんどなかった。彼らの家々の周りの野外
> ではパレスチナ人の戦闘員が作戦を展開していたのかもしれないが、目撃者
> たち全員がゆるぎなく主張しているところによれば、ワーエル・サムーニー
> の家に集まった者たちは全員、民間人であり、みな同じ一族の者たちだった。
>
> 月曜の朝、サラーフをはじめ男たち4人が煮炊きするための薪を持ってくる
> ため外に出た。「彼らは私たちに対して砲弾を直撃してきたのです」サラー
> フは言う。4人のうち2人が即死、あとの2人も怪我を負った。サラーフは
> 額と背中と両脚を砲弾の破片でやられた。彼によればその何秒後かにさらに
> 2発の砲弾が家を見舞い、そこにいた何十人もが殺された。
>
> サラーフと70人あまりもの人々の一団は家から逃げ出し、兵士たちに向
> かって、女子どもがいるのだと叫んだ。彼らは幹線道路に走り出て、1キロ
> ほど走り続け、ようやく救急車が彼らにたどり着いた。だが、ほかの者たち
> は取り残された。
>
> ワーエル・サムーニーの父、ファーリス(59歳)は、一団が避難していた
> 家の隣に住んでいた。トタンで葺いただけの1階建ての家だったため、彼の
> 家族も隣の家に避難していた。だが、彼は自宅にとどまった。撃たれるので
> はないかという恐怖で家を離れることができなかったのだ。しかし、火曜日
> に、生き残った者たちが彼に水を持って来てくれと叫んだ。彼は急いで短い
> 距離を走り、彼らに合流した。
>
> 「遺体が床に並んでいた。怪我人もいた。みな、互いに助け合っていた」と
> ファーリスは言う。ファーリスは死者のなかに妻のリズカ(50)、義理の
> 娘アナーン、そして孫のホダー(16)の姿を認める。
>
> 翌水曜の午後ようやく、生き延びた者たちは救出される。赤十字が到着し彼
> らを病院に搬送したのだ。イスラエル軍は、ゼイトゥーンで何が起きたか調
> 査中だという。部隊が住民に、一軒の家に集まれと命令したことはないと軍
> は繰り返し否定し、民間人を意図的に攻撃目標にしたこともないと言う。
>
> 一族のほかの者たちも別の形で、しかし、同じようにぞっとする運命に見舞
> われた。ファラジュ・サムーニー(22)はヒルミーとサラーフの家の隣に
> 家族とともに住んでいた。この家族も土曜の晩、激しい砲撃から避難するた
> め、18名ほどの一団で一つ部屋に身を寄せて、その夜を過ごした。日曜の
> 朝、イスラエル兵がやって来た。「家の持ち主は出てこいと彼らは叫びまし
> た。父が扉を開けて出て行くと、彼らはその場で父を撃ったのです」ファラ
> ジュは言った。
>
> 彼の父アティヤ(45歳)の体は、前のめりに地面に倒れた。兵士たちは部
> 屋のなかにむけてさらに発砲し、4歳になるファラジュの腹違いの弟アフマ
> ドとその母が殺された。アフマドが座っていた小さな部屋の壁には、昨日も
> 血の跡があった。
>
> 部隊は彼らに床に横たわるよう命令した。しかし、隣の部屋が燃え始め、苦
> い煙が立ち込めてきたので、彼らは、外に出してくれるよう叫び始めた。
> 「私たちは叫び続けました、赤ん坊も子どもたちも」ファラジュは言う。よ
> うやく兵士たちが彼らを外に出し、彼らは通りを走って、ワーエル・サムー
> ニーの家に集まっている人々の傍らを通り過ぎ、幹線道路に達し、事なきを
> 得た。
>
> ファラジュが戻ってきたときには、自宅は完全に破壊され、捻じ曲がった鉄
> 筋とコンクリートの山になっていた。屋外の小さなグリルの上に、日曜の朝
> 食に彼らが調理していた8つのナスが黒こげになって残っていた。彼が父の
> 遺体を埋葬することが出来たのはようやく日曜になってからだった。そのと
> き、最後の、あってはならないことが起こった。ガザの墓地は今や満杯で、
> イスラエルによる長期にわたる封鎖でコンクリートも欠乏しているため、彼
> は一族の古い墓をあばいて、ほかの遺体とともに父の遺体をそのなかに収め
> たのだった。
>
> 「どうして平和など望める? 彼らは民間人、子どもさえ殺しているという
> のに」ファラジュは言った。「今は停戦を支持する。わたしたちには何の力
> もない。停戦がなければ死者さえ葬れない」
>
> ガザの人間たちのなかには、自分たちがこの紛争に引きずり込まれたのは、
> この小さな領土を統治するイスラーム主義運動のせいだといって、私的にハ
> マースに対する怒りをうちあける者もいる。だが、それよりはるかに多い、
> 大多数の者たちがイスラエルに対する苦い怒りと、破壊と殺人を止めること
> ができなかったアラブ世界およびその他国際社会の無気力に対する憤懣につ
> いて語っている。
>
> 「みなに咎がある」イブラーヒーム・サムーニー(45)は言う。彼は、妻
> と息子4人をゼイトゥーンの殺戮で失った。「みなに私たちのことを見ても
> らわねば、そして、ここで何が起きたのかも。私たちは抵抗戦士ではない。
> ごく普通の人間だのに・・・」
>
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1月19日付け英国のガーディアン紙に、「粉塵と死の只中で;戦争の恐怖を証言する一家族の物語」と題して、この一族を襲った悲劇が、より詳細かつ具体的に掲載されています。
http://www.guardian.co.uk/world/2009/jan/20/gaza-israel-samouni-family
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☆以下記事
ヒルミー・サムーニーは昨日、妻と5ヶ月になる息子とかつてともに過ごし
> た寝室の床にひざまづき、厚く降り積もった灰とガラスの破片のあいだを指
> でかき分けながら、ともに生きていた家族の形見を探していた。「指輪を見
> つけた。ほかにもまだ見つかるかもしれない」
>
> 妻のマハーと息子のムハンマドが殺されたのは、ガザに対する22日間におよ
> ぶイスラエルの戦争が2週目に入ったときだった。数十人の親族とともに家
> の近くに避難していたところにイスラエル軍による砲撃を受けたのだ。ガザ
> 市南部のゼイトゥーン地区で1月5日、月曜の朝、一家族の48名もの人間が
> 亡くなった。
>
> この戦争でガザの市民を襲ったもろもろの恐怖のなかで、おそらくサムー
> ニー家の運命はもっとも深刻なものであったかもしれない。サムーニー家は
> 農家で、親族たちがひとつ地域の隣近所に集まって、ブロックを積み上げた
> 簡素な家々に暮らしていた。
>
> この狭い地域で、10もの家々が破壊され、それらは昨日、砂のなかの瓦礫
> の山に変わり果てていた。ヒルミー・サムーニーの2階建ての家は、まだか
> ろうじて倒壊を免れている数少ない建物のひとつだ。とはいえ、巨大な戦車
> の砲弾が寝室の壁を貫いて、黒焦げになった壁には大きな穴が口を空けてい
> た。侵攻のあいだ、家はイスラエル兵に占拠された。兵士たちは家具を破壊
> し、そこらじゅうに射撃姿勢をとるための土嚢を積み上げた。
>
> 兵士たちは、独特な堆積物を置き土産に残していった;弾丸の包装、ヘブラ
> イ語が書かれた缶詰のピーナッツ、「高品質ボディ・ウォーマー」の入った
> ビニール袋、そして何十ものオリーブ色のゴミ袋。空の袋もあるが、満杯で
> 悪臭を放っているものもある。部隊の携帯便所だったのだ。
>
> だが、もっとも衝撃的なのが、1階の壁に彼らが書きなぐっていった落書き
> である。ヘブライ語もあるが、多くは稚拙な英語だ。「アラブ人は死ね」
> 「皆殺しだ」「和平ではなく戦争だ」・・・・・・そして、墓碑銘を思わせ
> る走り書きもあった「アラブ人1948-2009年」。
>
> ダビデの星もいくつかあった。その一つの傍らには「ガザ、俺たちはここに
> いるぞ」と書かれていた。
>
> ヒルミーの弟、サラーフ(30歳)も同じ建物の別の部屋に住んでいた。彼も
> また、ひっぱり出せるかぎりのものをひっぱり出していた。そのなかには、
> 彼の父がかつて発効してもらったイスラエルの労働許可証もあった。「彼ら
> は父に許可証を与え、それからイスラエルからやって来て、そして父を殺し
> た」とサラーフは言った。この攻撃で、彼は両親のタラールとラフマ、そし
> て2歳になる娘アッザを失った。
>
> この戦争のあいだ、イスラエルはジャーナリストがガザに入るのを禁じてい
> た。だが、昨日、瓦礫となった自宅の外でサラーフと彼の隣人たちが述べた
> ことは、攻撃のあと何日かのあいだに目撃者たちが述べたことを確証してい
> る。彼らの陳述によって、国連はゼイトゥーンにおける殺害をこの戦争の
> もっとも深刻な出来事の一つと表現し、赤十字もこれを「衝撃的な出来事」
> と呼んで、同団体としては珍しく、公的に非難したのだった。
>
> 10以上もの遺体が日曜、瓦礫の中から引き上げられ、さらに昨日、もう一体
> が引き上げられて、サムーニー家の死者の数は、ガザ緊急医療サービスの所
> 長、ムアーウィア・ハサネイン医師によれば、全部で48名になった。日
> 々、さらなる遺体が回収されており、3週間にわたるイスラエルの戦争によ
> る死者の数は今や1360名に達している。イスラエル側の死者は13名だ。
>
> 戦争中、イスラエルによる空からの攻撃が始まって1週間がたち、2回目の日
> 曜が訪れると、ガザの地上侵攻に先立って、大砲による激しい砲撃の波が
> 襲った。その晩、サラーフ・サムーニーは家族16名とともに、1階に避難し
> た。翌朝、1月4日日曜の朝までに、近所に住む親族たちがさらに避難して
> 来て、その数は50名近くになっていた。
>
> サラーフは言う、「彼らは2階に砲弾を発射し、2階が燃え始めました。私
> たちは救急車と消防車を呼びましたが、だれひとり、私たちのもとにたどり
> 着くことができませんでした」間もなくイスラエル兵の一団が近づいてき
> た。「彼らはやってくると扉を叩き、全員、家から出て行けと言いました」
> 彼らは舗装していない道を数メートル歩いて、ワーエル・サムーニーの大き
> な1階建ての家に入った。
>
> そこに彼らはその日、とどまった。一団は男、女、子どもあわせて100名
> あまり。食糧もなければ、水もほとんどなかった。彼らの家々の周りの野外
> ではパレスチナ人の戦闘員が作戦を展開していたのかもしれないが、目撃者
> たち全員がゆるぎなく主張しているところによれば、ワーエル・サムーニー
> の家に集まった者たちは全員、民間人であり、みな同じ一族の者たちだった。
>
> 月曜の朝、サラーフをはじめ男たち4人が煮炊きするための薪を持ってくる
> ため外に出た。「彼らは私たちに対して砲弾を直撃してきたのです」サラー
> フは言う。4人のうち2人が即死、あとの2人も怪我を負った。サラーフは
> 額と背中と両脚を砲弾の破片でやられた。彼によればその何秒後かにさらに
> 2発の砲弾が家を見舞い、そこにいた何十人もが殺された。
>
> サラーフと70人あまりもの人々の一団は家から逃げ出し、兵士たちに向
> かって、女子どもがいるのだと叫んだ。彼らは幹線道路に走り出て、1キロ
> ほど走り続け、ようやく救急車が彼らにたどり着いた。だが、ほかの者たち
> は取り残された。
>
> ワーエル・サムーニーの父、ファーリス(59歳)は、一団が避難していた
> 家の隣に住んでいた。トタンで葺いただけの1階建ての家だったため、彼の
> 家族も隣の家に避難していた。だが、彼は自宅にとどまった。撃たれるので
> はないかという恐怖で家を離れることができなかったのだ。しかし、火曜日
> に、生き残った者たちが彼に水を持って来てくれと叫んだ。彼は急いで短い
> 距離を走り、彼らに合流した。
>
> 「遺体が床に並んでいた。怪我人もいた。みな、互いに助け合っていた」と
> ファーリスは言う。ファーリスは死者のなかに妻のリズカ(50)、義理の
> 娘アナーン、そして孫のホダー(16)の姿を認める。
>
> 翌水曜の午後ようやく、生き延びた者たちは救出される。赤十字が到着し彼
> らを病院に搬送したのだ。イスラエル軍は、ゼイトゥーンで何が起きたか調
> 査中だという。部隊が住民に、一軒の家に集まれと命令したことはないと軍
> は繰り返し否定し、民間人を意図的に攻撃目標にしたこともないと言う。
>
> 一族のほかの者たちも別の形で、しかし、同じようにぞっとする運命に見舞
> われた。ファラジュ・サムーニー(22)はヒルミーとサラーフの家の隣に
> 家族とともに住んでいた。この家族も土曜の晩、激しい砲撃から避難するた
> め、18名ほどの一団で一つ部屋に身を寄せて、その夜を過ごした。日曜の
> 朝、イスラエル兵がやって来た。「家の持ち主は出てこいと彼らは叫びまし
> た。父が扉を開けて出て行くと、彼らはその場で父を撃ったのです」ファラ
> ジュは言った。
>
> 彼の父アティヤ(45歳)の体は、前のめりに地面に倒れた。兵士たちは部
> 屋のなかにむけてさらに発砲し、4歳になるファラジュの腹違いの弟アフマ
> ドとその母が殺された。アフマドが座っていた小さな部屋の壁には、昨日も
> 血の跡があった。
>
> 部隊は彼らに床に横たわるよう命令した。しかし、隣の部屋が燃え始め、苦
> い煙が立ち込めてきたので、彼らは、外に出してくれるよう叫び始めた。
> 「私たちは叫び続けました、赤ん坊も子どもたちも」ファラジュは言う。よ
> うやく兵士たちが彼らを外に出し、彼らは通りを走って、ワーエル・サムー
> ニーの家に集まっている人々の傍らを通り過ぎ、幹線道路に達し、事なきを
> 得た。
>
> ファラジュが戻ってきたときには、自宅は完全に破壊され、捻じ曲がった鉄
> 筋とコンクリートの山になっていた。屋外の小さなグリルの上に、日曜の朝
> 食に彼らが調理していた8つのナスが黒こげになって残っていた。彼が父の
> 遺体を埋葬することが出来たのはようやく日曜になってからだった。そのと
> き、最後の、あってはならないことが起こった。ガザの墓地は今や満杯で、
> イスラエルによる長期にわたる封鎖でコンクリートも欠乏しているため、彼
> は一族の古い墓をあばいて、ほかの遺体とともに父の遺体をそのなかに収め
> たのだった。
>
> 「どうして平和など望める? 彼らは民間人、子どもさえ殺しているという
> のに」ファラジュは言った。「今は停戦を支持する。わたしたちには何の力
> もない。停戦がなければ死者さえ葬れない」
>
> ガザの人間たちのなかには、自分たちがこの紛争に引きずり込まれたのは、
> この小さな領土を統治するイスラーム主義運動のせいだといって、私的にハ
> マースに対する怒りをうちあける者もいる。だが、それよりはるかに多い、
> 大多数の者たちがイスラエルに対する苦い怒りと、破壊と殺人を止めること
> ができなかったアラブ世界およびその他国際社会の無気力に対する憤懣につ
> いて語っている。
>
> 「みなに咎がある」イブラーヒーム・サムーニー(45)は言う。彼は、妻
> と息子4人をゼイトゥーンの殺戮で失った。「みなに私たちのことを見ても
> らわねば、そして、ここで何が起きたのかも。私たちは抵抗戦士ではない。
> ごく普通の人間だのに・・・」
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