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随筆紹介  私の八月十五日    文科系

2016年09月26日 13時16分37秒 | 文芸作品
 私の八月十五日    H・Tさんの作品です

 またあの日がやって来た。八月十五日。今年は七十一年目の八月十五日。

 私が女学校に入学したのは、一九四一年の四月。型どおりの女学校生活が始まった。そしてその年の十二月八日、真珠湾攻撃で戦争が始まった。連日の勝利の声。昼間は学校、夜は戦勝祝いの提灯行列と、胸を高鳴らせていた。
 その頃から軍事教練という名の教科が授業の中に入り、軍服姿の教官によるきびしい授業が始まった。もんぺ姿の私達は長い竹の棒を持ち、大声で叫ぶ突撃の訓練を受けた。声が小さいと叩かれ、勢いがないと叱られた。
 これは銃後の小国民の義務と教えられて、疑う事もなく精一杯。こうして私達は軍国少女として育てられた。食べ物も、着る物も、読む本もなかった。でも不満も、不足も言わず、次々と報じられる戦勝に、胸を高鳴らせていた。

 そして二年生の四月から、学徒動員という名で工場へ。飛行機の部品作りを、国のために殉ずるはと、よろこびいっぱいの日を送っていた。学校のこと勉強のことをどう考えていたのか、国のため、天皇の赤子と胸を張って生きていた。
“進め火の玉” “撃ちてし止まん” “尽忠報国” “国体維持でお国は安泰”などなど、神国と信じ、神風を待って生きていた。これが軍国少女の私だった。

 昭和二十年八月、広島と長崎に新型爆弾投下。それも正式発表があったかどうかを知らない私達。この新型爆弾は白い色には反射して助かるといううわさが流れ、母が白いシーツを半分に切って、兄と私に、
「新型爆弾が落ちた時、頭からかぶるように」、何度も何度も言って、渡してくれた。
 良く晴れた、暑い、八月十五日。
 工場の仕事が日曜日返上で続いたので、二日間の休日の二日目。父がどこで聞いたのか、昼頃天皇がラジオで何か話されるから聞くようにと言った。
 次々と村の人がラジオの前に集まった。天皇の声など一度も聞いた事のない私達。天皇の声は玉音という事もこの時教えられた。きっと国のために力をと励まされるであろうと、ラジオの前に正座し、その時を待った。
 やがて雑音の中で君が代が流れ、天皇の玉音ははっきり聞き取れないままに、放送は終わった。集まった人々は、
「どうやら戦争は終わったようだ」
「やっぱりアメリカは手を上げたな」
「いやいや、どっちが勝ったかわからん」
「さぁ…… どうかな?」
 口々に言いながら帰って行った。明くる朝私はいつものように工場へ。あの大きな機械音がしない、静まりかえった工場。
「戦争は終わった。日本は負けた。これからどうなるのだろう。女、子供は、生きていく事ができるだろうか」、みんなが話していた。私達は学校へ帰った。

 そして、教科書を墨で黒く塗り、運動場を耕してさつまいも畑。草取りに精を出して、日々を過ごした。
“撃ちてし止まん” “忠君愛国” “聖戦必勝”は何だったのか。私達にこう教えてくれた教師は一変して、自由な国アメリカを持ち上げたり、ある教師は“耐えて堪えて、時を待て”と言った。何を耐えればいいのか、どんな時を待てばいいのか、言わなかった。
“民主主義” “自由平等” “男女同権”など聞いた事もない言葉が溢れ、とまどいながら、臣民と呼ばれていた私達がいつの間にか国民と呼ばれるようになり、おろおろと生きていた。

 昭和四十一年一月一日。
 天皇が人間宣言を自ら詔書として発表され、わたしはとまどいとおどろきを感じた。人間の意識や考えは急に換わるものではなく、落ち着かなかった。

 そして七十一年の歳月が流れ、私も年を重ねた。平和を喜び、感謝しなければならないのに、私の八月十五日、静かに過ごし、時を送っている。
コメント (3)
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